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 『また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。『初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。--しかしあなたは実際は富んでいる--またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。(ヨハネの黙示録2810節)』

 まだ若い頃のことです。ソビエット連邦が崩壊する前に、東側諸国に、福音宣教の働きをしていた団体から、送られてきた機関紙に添えられていたと思いますが、薄い一冊の冊子がありました。そこにソ連国内の宗教弾圧のおぞましい記事が掲載されていました。イワンという若い兵士が、キリスト信仰の故に迫害を受けている様子が、写真も添えて記してあったのです。

 自由圏にいて、信仰の自由が保障されている私とは、まるで違う状況下に置かれている、同世代の基督者が、イジメや差別や過酷な仕事を強いられ、その上、度重ねる体罰を受けて、顔がパンパンに腫れ上がり、内出血した身体を、写真で見て驚いたのです。

 そんな不都合な仕打ちを受け続けてきた兵舎の中で、死ぬ直前に、このイワンは、天に引き上げられる経験をするのです。あのパウロが経験したと同じような、幻のうちにか、現実だったか、第三の天に引き上げられたのです。それは、殉教の日の次に、輝ける明日があり、永遠の時があることを、神さまが、イワンに知らせるためだったのでしょう。

 迫害が、まだ大っぴらに行われていた時代、平和な日本で生活していた自分にとって、ソ連国内では、こんなひどいことが起こっていたのに、慄然とさせられたのです。

 教会の主で、キリスト・イエスは、「牢」を恐れずに、『死に至るまで忠実でありなさい!」と勧めています。不正や、不義に対して、自らの信仰を貫くことを、示された時でした。

 『あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちのを与えよう。(ヨハネの黙示録210節)』

 それ以前に、こんな話を聞きました。信仰のゆえに銃殺刑に処さられる人たちが一列に並ばされていたのです。銃が構えられていた時、一人が、その処刑を恐れて、棄教して列を走り出たのです。その時、冠が天から降りてきていたのです。それを見た一人の兵士が、銃を捨てて、空いた列の中に立ったのです。その兵士は処刑されたのですが、天来の冠を被せられ、永遠の命に預かったのです。

 私たちの母教会を始めた方からだったと思いますが、そんな話を聞きした。イエスさまは、『からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。 (マタイ1028節)」と仰っています。

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徴兵や志願

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『アメリカには徴兵制度がありますか?』と言う問いに、America center が次のように答えています。

 『ベトナム戦争後、いったん徴兵は終わりましたが、1980年にカーター大統領の告示により196011日以降に出生し18歳となった男性は登録することが義務づけられました。

Selective Service Systemの変遷

現在は18歳から25歳までのアメリカ国籍を持つ男性はSelective Service Systemに登録し、訓練を受ける義務があります。(5年以下の懲役か25万ドル以下の罰金)
留学生など一部を除き、国籍を持たない男性も対象となります。アメリ国籍を持つ男性は国外に住んでいても登録の対象となります。』

 ヴェトナム戦争の時期に、友人から、『兵士として従軍したら、アメリカの市民権がもらえるんだそうだ!』と言う話を聞きました。アメリカの若者が、兵役逃れで、外国に仕事を得て出かける人があったのに、外国人が、他国に戦争に関わるというのには賛同できませんでしたし、銃を取りたくなかったし、アメリカの市民権も欲しくなかったので、その話には乗りませんでした。

 次女からの chat で、ロシア系の友人がいる孫娘から母親にでしょうか、『お兄ちゃんも戦争に行くの?』と聞かれたと言ってきました。まだ子供だと思っていたのに、社会的な責任を負わなかけれまばならない年齢になったのを知って、アメリカは、これまで数多くの兵士を外国に遣わしてきた歴史のあったのを、今更ながらに思い出した Jiiji です。

 私のアメリカ人の知人で、太平洋戦争に従軍した経験のある方、父の世代の方が、『再び戦争が始まったらどうしますか?』と聞かれて、『祖国のために従軍します!』と即答していました。その理由を、『もし、自分の妻や子が不審者に殺されそうになったのを知ったとします。そこに銃があったら、その銃を手にとって、妻や子を守ります。だから、同じ思いで、祖国の防備のために戦います!』と言われたのです。

 妻と育てていた四人の子に対して、彼らに及ぶ危害について、夫や親として、妻子を守るのは、養育者の務めを負った私の責任だと思って、これまで生きてきました。娘が送ってくれた、今回のウクライナで始まった戦争に、孫を守るために、80歳のお爺さんが、bag に数枚の下着と sandwich を持参 して、戦いのために志願している、路上の様子を写した写真(上掲のものです)が添えられていました。

 『そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。(マタイ2652節)』

 侵略のために、銃を取り、海を渡った過去を持つ私たち日本は、これから起こる戦時の時に、攻撃者の前に、なすすべを知らずに傍観しかできないのでしょうか。それとも妻や子や孫や両親を、銃火から守るために立つべきなのでしょうか。悲しいかな、そう言う事態が目前に起こり得るかも知れません。

 主イエスさまが、おっしゃられたことを知っている私で、基督者でもありますが、苦渋の覚悟で、妻や孫を守るために銃を取る覚悟でいる、これが夫であり、ジイジである私の選択であり、決心なのであります。

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石川県

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 金沢は、加賀百万石、前田利家の所領だった地で、「小京都」と言われる古い日本の面影の残る街だそうです。私はまだ訪ねたことがありませんが、この街の出身で、気にかかる文人がいます。室生犀星です。彼の詩に、「小景異情」があり、その一節が次にようなものです。

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食(かたい)なるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや

 北陸新幹線ができた今では、3時間で行き来できますので、「遠きみやこ」ではなくなったのですが、彼の生まれ故郷の金沢は、決して、犀星にはよい思い出があって、飛んででも帰りたいような街ではなさそうで、この詩は、複雑な思いがあって作られたものであることが分かります。加賀藩の足軽あった父の子でしたが養子に出され、仏門で育てられ、長じて学びのために東京に出て行った人です。

 そう言った背景を負って生きた人は決して少なくないのです。犀星が複雑な、屈曲した思いで見ている金沢は、どんな街なのか、一度は訪ねてみたいと願いつつも、今日に至っております。江戸時代、諸国の大名の中で、最高の石高だったのが前田家、金沢藩でした。江戸、京、大阪につぐ、名古屋と争うほどの街だったからです。

 この「金沢」の地名も、金を産出した背景があっての命名で、金を鍛金(たんきん)して作る、金箔は繊細な作業であって、それが現代に継承されていて、その様子を動画で見たことがあります。どこでだったでしょうか、その金粉の入った珈琲を飲んだことがあります。金には味がなかったのですが、雰囲気はよかったかな、です。

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 前田家は、律令の行政区画の加賀、能登、越後を統治していた、北陸道の雄でした。群雄割拠の世を生き抜くというのは、大変なことだったのですが、とくに利家は、時の指導者の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の元で、武勲をあげたり、上手に世渡りをすることのできた器だったのです。磐石の百万石の藩の基礎を築いた人でした。

 前田家の庭園の「兼六園」は有名で、石川県の観光名跡です。この街は、戦争末期のアメリカ軍の空襲を免れたので、古跡などが残されていて、古い街並みもあるそうです。知人のお嬢さんが、金沢においでで、時々訪ねては、お土産の和菓子を送ってくださいます。

 現在の石川県は、人口が112万人、県都は金沢市、県花は黒百合、県木はアテ(アスナロ、ヒバ)、県鳥はイヌワシです。父の祖先が、鎌倉武士だと言っていましたので、その縁で、この県の小松市に、「安宅(あたか)の関」があり、源義経が、奥州平泉に逃れる時に、そこを通関しているのです。

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 それが物語として残っています。同行の家来の弁慶が、「勧進帳(かんじんちょう)」を読むのですが、関守には、それが偽物であるのが分かりつつも、それを見逃すのです。悲しい義経の物語に花を添え、歌舞伎の演目として有名なのです。

 

(「兼六園」、「勧進帳」です)

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青空と小麦の産地

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 一面に広がる小麦の穀倉地帯に、このウクライナの国が位置しています。聖書に、次のような言葉が記されてあります。

 『主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」創世記1213節)』

 流浪の民と呼ばれ、異邦の人たちには、「向こうの川から渡って来た者」という意味の、「ヘブル人」と呼ばれた民族です。でも、この民の族長の「アブラハム」への約束は、二十一世紀にも生きていて、私は、次の聖書のことばに従って生きています。

 『エルサレムの平和のために祈れ。「おまえを愛する人々が栄えるように。おまえの城壁のうちには、平和があるように。おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。私の兄弟、私の友人のために、さあ、私は言おう。「おまえのうちに平和があるように。」(詩篇1226~8節)』

 今日まで、「エルサレムの平和」を祈ってきました。踏みにじられた街でしたが、この都は、「大王の都」、王の王の都であるからです。この王となるために、イエスさまは、人の子の姿を取られて、この世にお生まれくださったのです。アブラハム、ダビデの末裔としてです。そして、異邦人である日本人の私のためにも、十字架に、私の罪の身代わり死んでくださったことを、25歳で信じさせていただき、半世紀が経ちました。

 やがて、このイエスさまは、エルサレムにおいでくださって、「黄金の門」から入城されます。今は、天の御父の右に座しておられますが、やがてそこを立たれて、エルサレムの王座に着座なさるのです。全天全地の統治者、審判者としてです。それが私の世代で成就して欲しいと願っていますが、そうでなくても、来られます。

 このキリストを生み出した、ヘブル人、イスラエル人、ユダヤ人と呼ばれる民のためにも祈っています。今、ロシアの侵略による攻撃を受けているウクライナ。そのの大統領、ウォロディミル・ゼレンスキー(Volodymyr Zelensky)氏は、アブラハムの家系なのです。

 受けた祝福への感謝のために、踏みにじられたウクライナの大地に、小麦を収穫できる季節が来るのを信じて、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」にご加護を祈ります。

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ウクライナ

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『まことに主よ。あなたは全地の上に、すぐれて高い方。すべての神々をはるかに抜いて、高きにおられます。 (詩篇979節)』

 「ウクライナ」について、「東京都立図書館」は、次のように紹介しています。

 『スラブ語で、辺境・国境地方を意味する「ウクライナ」に由来。4世紀頃から東スラブ人が定住していた地に、9世紀頃にバルト海地方からノルマン人(ルーシ人)が南下してキエフ・ルーシ公国を建国したのがはじまり。かつては、ソ連の一連邦国。国の面積は、約60.4万平方キロメートル(日本の約1.6倍)。人口は、4,241万人(クリミアを除く)(2017 ウクライナ国家統計局)。首都はキエフで、言語はウクライナ語。日本とは国交があり、交流が行われてきています。現大統領はウォロディミル・ゼレンスキー(Volodymyr Zelensky)でユダヤ系です。

 それでも、この日、世界中でなされる「日曜礼拝」が、この国でも守られ、その礼拝の中で、主の名が高らかにあがめられますように。戦火の中で、万軍の主が、この国を守られ、祝福されますように。立てられた首長の上に、祝福の油を注いでください。アドナイイルエ、エホバなる神に信頼し、正しく選択し、決断することができますように。平和が回復し、歴史を支配なさる神が、平和を実現してくださいますように祈ります。

(ウクライナの国家は、「ひまわり」です)

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二の舞

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 昭和初期の日本のしたことを、国際社会は、こんな調査をしています。

 『1932年(昭和72月、満州事変の処理に関して国際連盟派遣した調査委員会。満州事変は中国によって国際連盟提訴された。中国が連盟規約第15条による総会開催を請求したのに対し、これを不利とみた日本は、現地への調査団派遣を提案し、311210日の理事会で派遣が決定された。調査団は、インド・ベンガル州総督などを務めたイギリス人のリットン卿(きょう)V. A. G. R. Lytton団長に、フランスの軍人クローデル将軍H. E. Claudel、アメリカの軍人マッコイ将軍F. R. MacCoyイタリアの外交官アルドロバンジ伯L. M. Aldrovandi、ドイツの植民政策研究家シュネーH. Schnee5人であった。調査団は229日東京着、日本政府、軍部、実業界などの代表者と接触ののち、中国へ向かい、313日上海(シャンハイ)着、のち1か月にわたり上海、南京(ナンキン)、漢口(かんこう/ハンコウ)、北京(ペキン)などを視察し、419日満州へ向かった。6月初旬まで満州で調査し、720日から北京で報告書の作成を開始した。報告書は101日日中両国へ通達され、2公表された。日本は、調査団が東京に着いた翌日の31日に、「満州国」建国を宣言させ、報告書執筆中に「満州国」を承認し、既成事実で調査団に対抗した。しかし、報告書は、柳条湖(りゅうじょうこ)事件を正当な軍事行動とは認めず、「満州国」建国も中国人の自発的な運動ではないとし、満州を中国の主権の範囲としたうえで、地方的自治政府を設け、非武装地帯となすよう提案した。他方、満州における日本の権益も承認しているが、日本政府は報告書に不満の意を表した。332月、日本軍による熱河(ねっか)作戦などが連盟加盟国を刺激し、リットン報告書の採択と「満州国」の不承認を内容とする十九人委員会の報告書が総会で採択されたため、327日、日本は国際連盟を脱退した。[君島和彦]「外務省編『日本外交年表竝主要文書 下」復刻版(1965・原書房)』

 この「リットン調査」の後、日本から全権大使として国際連盟に出席した松岡洋右は、連盟脱退を告げて、議場を去りました。そして、日華事変や太平洋戦争へ繋がっていくのです。昨日のロシアのウクライナ侵攻のニュースを聞いて、このことを思い出して、調べ直してみたのです。

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 ナチスドイツも、ヨーロッパ諸国に軍を進め、いわゆる「第三帝国」建国に野望を剥き出しにした訳です。独裁者は、人気取りにために、逆に人気を失う策を講じて自滅していく運命にあります。私たちに責務は、過去に学んで、同じ轍を踏んで、二の舞をするような、愚かな道を再びたどらないことなのでしょう。

 悪しきものに inspire (霊感されて)しまうのでしょうか、常軌を逸した決定を下して、自国民に塗炭の苦しみを味合わせてしまうのが独裁者なのでしょう。いつでしたか、独裁者の顔写真を掲げた合成写真を見たことがありました。その多くに、 が書き込まれて、自滅、報復、処刑されていました。哀れな結末が見えてると、警告したいものです。

(「昨日のキエフ(AFP)」、「リットン調査団」による検証、チャップリンの「独裁者」です)

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どうなる

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 「理想の国」の建国を目指して、コロンブスの発見したアメリカ大陸に、メイフラワー号が、イギリスのプリマスから船出をしたのが、1620年9月16日でした。この船は、マサチューセッツ州プリマスに、11月21日に着きました。

 この船に乗った人たちが、その理想を書面にしています。いわゆる41人によって署名された、「メイフラワー誓約」と呼ばれるものです。自由を求めてやって来た人々の理想の上に、「アメリカ合衆国」が建国されたのが、1776年7月4日でした。

 イギリスを出港した人で、無事に目的地に着いたのは53人で、航海中病没した人が半分近くいたのです。そんな困難を経て、国が作られて行ったわけです。そんな理想を掲げた国から、戦後、この国から送られた ” LALA物資 ” の脱脂粉乳を、私たちの世代は飲ませて頂きました。

 そればかりではなく、この国からやって来た教育者と医者が建てた学校で学び、この国からやって来た宣教師から学びながら、その事業を受け継ぎました。また子どもたちは、この国で教育を受けました。家内の家族は、終戦後、近くにいたアメリカ人の宣教師家族と親しく交流をし、家内の姉たちは、この国の方と結婚し家庭を持ちました。義母は、やって来た宣教師のみなさんに、《ございます!》の日本語を教えたのです。

 悲しい戦争が、日米の両国間に過去にありましたが、<喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)>で、恨みっこなしで好いのでしょう。中学生の時、国分寺名画座で、アメリカ映画を食い入るように観ました。片方の脳では、国粋的な考えを持とうとしているのに、ずいぶん矛盾した時期を通過していました。

 とくにジェームス・ディーンの出演した映画の三部作(理由なき反抗、エデンの東、ジャイアンツ)は、何度も何度も観直しました。敗戦の貧しい日本と繁栄のアメリカとの落差の大きさに、青年期前期の私は、これも複雑な思いでいたのです。

 これまで出会ったアメリカ人は、みんな親切で愛に溢れていました。過去の経緯など溶けて無くなってしまう様にしてでした。世界中で、難民が出たり、孤児がいたりすると、受け入れ養い育てています。私の次女の義理のお母さんは、未婚の母の産んだ子や、事情のある幼児を、何人も何人も育ててきた人でした。そう言った優しさを、この国の人たちは、一般的に持っているのです。

 この国の大統領選挙は、日本の場合と違うのです。そのためのテレビ討論会が行われていますが、なんども観続けてきましたが、何か後味が悪いのです。互いに、相手をけなし、醜聞を取り上げ、過去の失敗を糾弾するようになってしまい、驚くのです。

 「建国の夢や理想」、その夢を引き継いできたアメリカ国民の代表として、そんなことで好いのかとしきりに思いました。繁栄の富を、海外の必要のために捧げ、医療や教育や善行のために、驚くほどの数の人材を派遣し、多くの宣教師を派遣した国なのに、残念でたまりません。自分が何をするかの政策論争を忘れているのでしょうか。

 日本の武将は、戦場(いくさば)で、自分が誰であるかを名乗り合って、戦ったほどに、潔かったのです。その「潔さ」を微塵も、あの討論で聞く事ができませんでした。あのアメリカはどうしたのでしょうか。あの建国の父たちの夢や理想はどこへ行ったのでしょうか。

 これからのアメリカは、世界のリーダーとして、「良心の実行者」としての責務を果たす事ができるのでしょうか。経済や軍事のリーダーであるよりも、国としての品格のリーダーであって欲しいものだと、願うばかりです。

 ウクライナへの侵攻で兵を、国境付近に集結していたロシアが、ついに国境を越えて軍を進め始めてしまいました。アメリカは、” NOを貫いています。日本が、満州を侵略した時も、ロシアが朝鮮半島の三十六度線を越えようとした時も、北ヴェトナムが、ソ連の援助で、南ベトナムを攻めた時も、イラクがクウエートを侵攻した時も、同じように、アメリカは、「世界の警察」として介入してきました。

 独裁者を許してしまう背景には、秘密警察の恐ろしさがあるのでしょうか。それともウオッカの飲み過ぎで、正しく思考したり、判断したり、決定できなくなってしまったのでしょうか。いつも前線に立つのは、若者たちです。『人類は、過去に学ばない!』、そのままでいるのでしょうか。

 風見鶏(かざみどり)のように、傍観者ではなく、日本も、「義」に立って、正義が行われるようにして欲しいものです。対面や経済よりも大切なものがあるからです。ゴグやマゴグに関わる、旧約聖書に預言が、成就していくのでしょうか。ウクライナの遥か向こうに、1948年5月14日に建国された、「イスラエル共和国」があります。教えてくださった宣教師は、やがてアメリカが国力や影響力を落としていく時、「万軍の主」である神が、神に選ばれた民を、直接助けるようになる、と言っておられました。そんな時代が来ようとしているかも知れません。戦々恐々、どうなるのでしょうか。

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若さ

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 『 年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。(1テモテ412節)』

 ナポレオンは、30代でフランスの指導者になりました。明治維新の原動力になったのも、主に30代の人たちでした。令和の日本の政治の世界では、いまだに六十代は「新人」、「青二才」だと言われます。もちろんそう言うのは、現状を憂えず、維持を願う年長の老人たちからですが。

 アメリカが、アイゼンハウワーの後任を選ぶときに、さまざまな裏のやり取りがありましたが、結果的には、アメリカの政治史上初の43歳のケネディーを、第35代大統領に選ばれました。当時私は、華の高校生でした。他国の大統領でしたが、一番驚いたのは、この方の若さでした。

 同級生が、新大統領の叫んだNew Frontier “ に感銘して、新宿駅前の喫茶店で熱く、その spirit を語ってくれたのです。繁栄のアメリカも例外なく抱えていた、平和と戦争、無知と偏見、貧困と豊かさといった問題に、ケネディーは就任に際して語ったわけです。この新大統領は、西部開拓者の子孫かと思ったら、アイルランドからの移民の商人、実業家の子だったのです。

 今の日本の総理大臣が、「新資本主義」を、よく語っているのですが、資本主義に、新旧があるのを知って、ちょっと戸惑っているのですが。何を意図して、そう言ってるのか、もう少し聞き続け、様子を見て行きたいなと思っております。

 室町幕府の足利尊氏は、33歳で征夷大将軍となっていますし、織田信長は、39歳で天下人となっています。近代の我が国初代の総理大臣の伊藤博文でさえも、43歳で就任しています。

 若く指導者となった方たちの生き方や、したことに賛成できない面も、多々あるのですが、経験だけが人の力ではありませんし、パウロがテモテに、《若さ》を軽く見られないようにと勧めたことには、神の意図がみられます。彼がキリストの教会の牧者とされた時に、パウロが勧めた言葉です。

 歴史を見ますと、若い人が用いられ、一国の危機を救った事例は多くあります。先代の非を改めて、善政を行った逸材がいたことを立証しています。若者が傲慢にならずに、先人への敬いを忘れずに、その知恵に聞いた例も多くあります。聖書に、

 『あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。(レビ1932節)』

とあります。私の若い日々に、年配者がおいででした。よく人生訓を聞かせられ、どう生き、何を選択するかを教えてくれました。そうしてくださった方々のお顔や言葉が思い出されてまいります。今あるのは、そう言った方々からの金言、知恵があったからでしょうか。

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情熱、夢、正義への愛、祖国愛、人間愛、気高さなどが豊かな時期こそ、社会的な責任を負い、果たすために相応しいに違いありません。融通が聞き過ぎて、誰か特定な人や集団の益にのみ思いを向けてしまうことのないのは、年齢的に老いる前の方が柔軟でいいのでしょう。もちろん、老成した者には知恵がありますが、彼らだけが知恵者なのではなく、若くても豊かな知恵を備えた人はおいでだからです。

老若が折り合いながら、補助し合いながらことがなされるのが理想なのかも知れません。高校の頃に一夏、湯河原の海で過ごしたことがありました。その時一緒だった上の兄の同級生で、運動部も同じだった方が、先頃亡くなられたと聞きました。バリバリの sportsman でした。有名な企業に就職し、役員をされた頃、兄の勧めで教会に来始め、信仰者となった方です。そんな年齢になったのだと思わされています。人生短しですね。

(キリスト教クリップアートから「ソロモンの知恵」、吉浜海岸です)

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福井県

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 東尋坊、水上勉、永平寺、同業で友人の故郷ですが、一度も訪ねたことのないのが福井県です。雪深く、真冬の漆黒の日本海は、荒波で、律令の下では、「五畿七道」、「五畿」は大和・山城・摂津・河内・和泉、「七道」は東山道、北陸道、東海道、南海道、西海道、山陰道、山陽道で、福井県は、北陸道の若狭国、越前国と呼ばれた地でした。

 友人のお父さんが、ご自分で育てたお米や山に入って刈り取った松茸を送ってくださり、越前の味を楽しんだこともあります。三国(みくに)や敦賀(つるが)の港町は、「北前船」の寄港地としての役割を担っていたそうです。

 この「北前船」は、北國廻船のことで、江戸期に始まり、物流の先駆的な形で、日本海の港に寄港した商い船でした。物ばかりではなく「文化」も同時に運ばれたようです。荒波を越えていく命懸けの事業は、鉄道網が日本列島に広がっていく明治三十年代まで行われていたのです。

 人口76万で、県都は福井市です。県花は水仙、県木は松、県鳥はつぐみで、県魚は越前蟹、農業を中心とした県でしょうか。この越前蟹も一度も食べたことがありません。県花の水仙ですが、この花は、「雪中花」と呼ばれるのだそうです。作詞が吉岡治、作曲が市川昭介で、この花の歌があります。

風に風に 群れとぶ鴎
波が牙むく 越前岬
ここが故郷 がんばりますと
花はりりしい 雪中花
小さな母の 面影揺れてます

紅を紅を さすこともなく
趣味は楽しく 働くことと
母の言葉が いまでも殘る
雪をかぶった 雪中花

しあわせ薄い 背中を知ってます
いつかいつか 薄日がさして
波もうららな 越前岬
見ててください 出直しますと
花はけなげな 雪中花
優しい母の 笑顔が咲いてます

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 水仙は、地中海を原産地とする花で、「絹の道」で 球根が中国に運ばれ、その球根が海に流れ出て、海流に運ばれて、日本列島の海岸に打ち上げられ、そこで花開いたのだと聞きました。この浪漫が好きなのか、花が好きなのか、巴波川の岸には、もう三週間ほど前に、花を開かせていたのを、じっと眺めていました。

 この花は、敦賀港にも漂着したのでしょう、同じ波に乗って、この港に運ばれた一団の人の群れが、戦時中にありました。リトアニアのマナウスの日本領事館で、領事館代理だった杉原千畝が、「命の visa 」を発給し、中国大陸を上海まで来て、ドイツの支配に服さない国に亡命しようとした多くのユダヤ人が、この敦賀港に上陸しています。

 『雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を横たえる。だれがこれを起こすことができよう。あなたを祝福する者は祝福され、あなたをのろう者はのろわれる。(民数記249節)』

 敦賀市民は、着の身着のままだったユダヤ人のみなさんに、宿や衣料や食料を提供し、銭湯に連れて行き体を洗わせ、元気付けられた彼らは神戸港から、アメリカや南米などの国に逃れて行ったのです。まさに、昭和の「exodus エクソダス/脱出」でした。『この街は、《 Heaven 》のように思えた!」と、ユダヤ難民のみなさんが証言しています。1940〜41年のことでした。まるで水仙が水に運ばれて来た物語に似て、神の特愛の民が、敦賀に来て、安堵の地に逃れて行ったわけです。神の選ばれた民を祝福した敦賀市民は、万物に創造主からの祝福を被ったのでしょう。

 戦争に敗れて、中国大陸から祖国に引き揚げてくる一団が、引き揚げ船が着いたのが同じく京下の「舞鶴」でした。子どもの頃、引き上げて来られた方の消息を問合せ、知らせる放送が、NHKでなされていました。子ども心に、悲しさを覚えたのです。父は、旧満州や朝鮮半島にいましたから、私たちは残留孤児になった可能性だってあったのかも知れません。祖国に帰って来た方たちの喜びは、どれほどだったことでしょうか。

 私たちは、生まれた故郷に帰るのではなく、「魂の故郷」、天に備えら得た故郷に、帰ることができるのです。

 『 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。(ヘブル1116節)』

 それで私のペンネームは、「寄留者」なのです。以前、在華時には、「大陸寄留者」と名乗ったのですが、本物の「ふるさと」に帰るために、一時的に留まっている人として、自分を捉えているのです。生まれたのは《漢字の故郷》、これから帰るのは《ひらがなのふるさと》と区別しております。思い返しますと、いろいろな街や国の街や野を歩いて来たなあ、とおもうのです。
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 さて、ここ福井県には、「県立恐竜博物館」があります。恐竜の化石が発見されたのが、豪雪地である「勝山市」なのです。巨大な動物が生息していて、草食だったと言うのに驚かされます。いつか行って見ることができるでしょうか。
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愛でる

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 『主は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。 地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。神はそれを見て良しとされた。(創世記11112節)』

 毎年、春になると台所の洗い場( sink )の下の扉の中の冷暗所に、水を含ませた tissue paper を置き、その上に朝顔の種を蒔くのです。芽吹かせるためにです。芽が出てくるのを見て、土に植え替え、そして鉢に植え替え、庭やベランダに置きます。これをもう何年も何年も家内が続けてきました。華南の街のアパートのベランダでも、日本から持って行った種を植えたのです。

 まさに「婦唱夫随(ふしょうふずい)」で、green を愛(め)

でる思いが与えられ、ベランダ活用術を心得た私も、調理や食器洗いだけでは、種を蒔いたり、苗を植えたりしています。綺麗に咲くのです。今年も、もうすでに、寒風の中、ベランダでは何種類もの花が鉢の中で咲き、室内では、胡蝶蘭の鉢が四つもあって、もう10輪も咲き始めています。

 これを眺めていて、あんなに綺麗に咲く花に、時々水遣りをするのですが、土と水で、真っ白やビロード色の蘭が咲いてくるのが不思議でならないのです。花を咲かせている「力」は、どこからくるのでしょうか。あの色彩は、何が「作用」しているのでしょうか。わずかな水を吸い上げていくのは、どんな「ポンプ」が、花の根や茎に内臓されているのでしょうか。

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 今住んでいるアパートは、5階建てで、台所や風呂場や洗面所の水は、pomp up したものを水圧を調整しながら、けっこう複雑な設備が上層部にあって、給水機能が維持されています。年に何回か、半日ほどかけて、清掃や整備が行われています。人が設備して、維持管理されていて、その水で先ほども洗面を終わったわけです。

 ところが、窓辺の胡蝶蘭は、ポンプもないし、点検もしないのに、今、10輪ほど咲き始めていて、芽は各枝に10個ほどあって、順次咲かせているのです。花芽でしょうか、花でしょうか、その配列も一定していて、茎の方から先端に向けて、順次咲いて、長く楽しませてくれるのです。 

 根の中に、何の細工もないのに、あんな細い茎を伝わって水分、栄養分を送り続けていくのは、何なのでしょうか。生物学者は、「根圧(または浸透圧とも言うようです)」と言うそうです。何が、その圧を加えているのでしょうか。植物の本能なのでしょうか。その本能は、どういう風に備わったのでしょうか。人は知らないのです。科学では説明できないことです。

 野の草でさえ、創造の御手によってできなかったものはありません。意図され、計画されて造られた一本の木や咲く花を、養い育てる、創造の神がおられ、このお方がなさった以外に考えられません。数ミリの胡蝶蘭の根や茎の中に秩序よく水を送り、養い育てておられるお方が、私をも生かしているのです。また新しい朝が来ようとしています。

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