今も継承され

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 『見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。(イザヤ4319節)』

 もう50年以上も前になってしまいましたが、家内と結婚をして世帯を持って迎えた新年のことでした。友人や知人や恩人や家族親族への新年の挨拶状に、とても豊かな信仰と新鮮な気持ちを込めて、この聖書のみことばを記しました。『見よ。わたしは新しい事をする。』とです。

 これを読んでくださった方の中で、私が奉職させて頂いていた学校の校長先生が、『この聖書のみことばはどこにありますか?』と聞いてこられたのです。私の父と同世代の方でした。お体が不自由で、私の在職中にお目にかかったことは二度ほどでした。この方のお父さまは、札幌の農学校に学ばれた方で、この学校の予備門の「共鳴学校」で校長をしていた新渡戸稲造を慕って、札幌に行き、その教えを受け、札幌農学校を出て、二年ほど教師をされた方でした。

 あのクラークの去られた後に、入学して学ばれた方で、その青年期にクリスチャンなります。ただ残念だったのは、「リビングストン伝」を、共著した親友の有島武郎でした。小説家として大成し、父から譲り受けた農場を使用人たちに解放します。彼は共産主義者マルクスの感化を受けるのです。その感化が、彼の価値観や人生観を狂わしてしまったのです。内村鑑三の弟子の一人として、聖書教室に集っていたのですが棄教してしまうのです。そしてついに、一人の雑誌記者で人妻と軽井沢で情死してしまいます。 

 同級生たちにとっても、それは実に悲しい出来事だったようです。二人とも、内村鑑三から聖書を学んだのです。師であった内村鑑三の悲しみは甚大だったようです。でも森本は、生涯、信仰を貫いたのです。そして、東京で、真の女子教育をしようと学校を始めるのです。

 そのキリスト者のお父さまから聖書を読むことを教えられたのでしょうか、文語訳の聖書で読まれて覚えておいでだったようです。私は聖句の住所を記さなかったのです。それで、その懐かしいみことばを思い出されて、お聞きになられたのか、交わりの手を延べてくださったようです。この校長との出会いで、私は、《信仰の継承》と言うことを考えさせられたのです。

 はるばるアメリカから日本にやって来た一人の教師・クラークが、黒田清隆と一緒に札幌に来て農学校の教頭になります。その一人のキリスト者教師が1年にも満たない在職を通して、多くの青年を主に導き、去られた後も、上級生たちの熱心な証詞によって、下級生が信仰を告白していったのです。そんな中で、有島は棄教しますが、森本はキリスト者として生き抜いていきます。その自分の子にも、信仰の感化を与えたわけです。だれにも同じ様に、信仰の戦いがあるのです。 

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 でも信仰を守り通すことが出来るとするなら、その森本への誘惑が有島よりも弱かったからでしょうか。思想的な情動的な誘惑はだれにもあるのですが。最近暗記したみことばに、

 『・・神は世界の基の置かれる前から、キリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました・・愛をもってあらかじめ定めておられたのです(エペソ1章4~5節)』

とあります。信仰が保たれ堅持されているのは、そう意志して、そうしてくださる父なる神さまによるのです。この選びと予定こそが、私たちの信仰を健全に保ってくれる教えだと信じてやみません。

 まさに、武士が剣や朱子学を捨てて、キリストの福音に触れて、救い主イエスと出会って、生涯を明け渡す信仰者となったのは、明治ご維新後に、この日本でなされた「新しい事」でありました。その業は、熊本でも、松江でも、弘前でも、そして横浜でもなされた「神の御業」でありました。

 私の恩師の夫人(師母)は、信仰の家系には「子」しかいないのだと言われますが、クラークの信仰上の「曾孫(ひまご)」で、健全な信仰の継承者だったのです。そして、今もなお、目を見張るような、神の御業が、この困難との烙印を押された、暴れ川の様な、荒れ野の様な日本の伝道の中で、積まれた祈りがあってでしょうか、新しい世代にも、信仰の継承がなされているのです。

(「北海道大学農学部」と「喫茶店」です)

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