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中国の社会も「流行語」に敏感だと感じたのは、わたしたちが滞華中の2010年に、一つの流行語が脚光を浴びていた時でした。この流行語というのは、その時代を映す鏡で、人々の共感を呼んでしまうと、瞬く間に広まってしまいます。テレビも観ないし、中国紙も読まないのに、私たちの耳にも入ってきたのです。
河北省の河北大学の校内で、構内速度制限が5km/hに定められているのに、高級欧州車が猛スピードで走り抜け、校内でローラーブレードを楽しんでいた女子大生をひき逃げして、運転していた学生が校門から逃走しようとしたのです。事件を知った学生たちに、一般道に出ようとした寸前で、その学生を取り囲んだのです。その学生が、とっさに叫んだのが、『我爸爸是李剛(俺の親父は李剛だ)』でした。
この学生の父親は、公安警察の幹部だったそうです。彼も親の生き方を見て育ったのでしょう、親の権威をかざして、自分の窮地を切り抜けようとしたのです。親の社会的な立場と、子である自分の立場を混同してしまうことが多そうです。
中国では、裕福な親の子を「富二代」とか、官僚が親の子を「官二代」と言ったりするのです。どこの国でも大同小異に違いありません。『俺のオヤジは⚫️⚫️だ!』、そのひき逃げ事件の男の様な「官二代」が、わが物顔に好き勝手をしている様が、鼻持ちならずに、世間から揶揄されて、恥をかくのです。
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父親が、政界や官界や財界で偉かったりする子どもを、私たちは〈親の七光〉と言っていました。子は偉くもないのに、威勢が良いのです。でも〈偉さ〉って何でしょうか。先日、ある牧師さんを訪問しました。この方のお父さまも牧師で、お兄さまも牧師をされて、良い意味での「牧二代」と言っていいでしょうか。
この方は、お父さまの生き方に共感して、ご自分も牧師になりたいとの思いがあって、大きくなっていったのでしょう。それで神学校で学ぼうと思っていたこの方に、お父さまは、『社会にひとまず出て、そこでの経験や学びが大切ではないか!』との勧めことばに従って、中学校の教師をなさった後、神学校に行かれたそうです。
社会を知らない、世間知らずの方が多い中で、人生の酸いも甘いも知った上で、牧会する遠回りの道を選んだのだそうです。人は、どこか人生の段階で「従順」を学ぶ必要があります。子どもの頃には両親に、学校では教師に、会社や職場では上司に学ぶのです。
家内の湿疹が酷かったので、家内の知人の方に聞いた医院に、先日の夕方行きました。内科医で、皮膚科もしているとのことでしたので、一緒に参りました。事務の方は実に丁寧で洗練された応対をしてくださいました。ところが、腕をめくって医師の前に家内が座ると、この方は、まったく目を合わせることも、湿疹の症状見ることも触ることもなく、家内の書いた病気の既往症の欄だけを見ているだけでした。ものの数分後、投薬だけを言って診察が終わりました。患者が心ひそかに聞きたかった『お大事に!』も言わずじまいでした。
この人も、父親の後の「医二代」で、人を学んでいない、人を知らない医師でした。目や表情やことばを用いて、医術を行うという基本が学ばれてない、息子ほどの年齢の医師でした。思いやりのこもった一言が、病んで体も心も重い病者に、生きる力を与えるのを知らないのは残念なことです。診察を終えての投薬や支払いの窓口の応対は、抜群に良かったのです。そっけない医者との mismatch が、かえって面白く感じて、家に帰りました。
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初めの話ですが、その社会では、タクシーの運転手も党の幹部も官憲の役人の給料は、一律、同じなのが建前なのですが、そのような社会の中での「官二代」は、けっこう「医二代」のわが国も同じなのでしょう。それなのに、あの一件は、わずかな額の示談金で済ませてしまったと聞きました。
ご馳走を食べられ、物の溢れた家庭で育った加害者と、貧農の子たちの被害者との間に起こった悲しい出来事には、矛盾がありそうです。でも正しい価値観や生命観を学ばない悲劇の方が危険です。名も財もない親の子たちが沢山います。でも、《乾いたパン》を食べても、ローラーブレードで余暇を楽しみ、感謝して生きた方が、人間としては素敵ではないでしょうか。明らかな良心で生きられるからです。
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