ひろっぱ

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「ひろっぱ」、どこにも、子どもたちが見つけて、遊びの場にし、そう呼んでいた空間がありました。2、30人も集まって、宝島、かくれんぼ、鬼ごっこ、馬乗り、ゴム跳びなどで遊んでいたのを思い出します。林の中や土地を掘って作った穴の地下室に、基地を作ったりもしたでしょうか。

 サンパウロに、Liberdade(リベルダージ)と言う地域に、日本人街がありました。日系人たちが、開拓村での働きを終えて、大都市に出てきた、開拓の苦労を終えて住み始めた地域なのです。そこに地下鉄の駅があり、駅の前の花壇の石に腰掛けた年配者たちが、黙(だんま)りとしているのを、通りすがりに見かけました。南米の移民のみなさんの「ひろっぱ」でしょうか。

 そこで、子や孫の世代になって、ご自分は引退し、苦労を顔に刻んで、黙座しているおじいさんたちでした。そこは、余暇を持て余す世代のみなさんの交わりの場でした。缶蹴りをするでも、ゴム跳びをするでもなく、陽だまりに座り込んで、互いの存在を確かめ合っているだけの風景がありました。

 人には、〈群れる習性〉があるに違いありません。子どもたちことも、嫁たちや孫たちのことも、もう話題に尽きてしまっているのかも知れません。越し方の苦労を語ることも、もうないのでしょう。ただ、同じ日本人で、似た様な過去や境遇で生きてきた共通点だけが見え隠れしていました。

 義兄が元気な頃に、サンパウロから20キロほどの隣街を訪ねたのです。そこで1週間ほど過ごしたのです。車でサンパウロの街に行く用がある義兄の車に同乗して、二度ほど連れていってもらった時のことでした。その義兄の住む街に、露天のMercado(マーケット/市場)があって、義姉のお供をして歩いたこともありました。

 日系移民の知人たちと会うと、軽い会話を交わしておいででした。一人のおばあちゃんが、息子さんとお孫さんと一緒に買い物に来ていました。あんなに寂しい顔つきをしたおばあちゃんを見たことがありませんでした。年寄り仲間が亡くなっていき、孫たちとの間では会話もなく、故郷は遠く、〈孤独〉な息遣いや目つきが、実に寂しそうでした。

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 子どもの頃は、ひろっぱで、田んぼや畑の休耕地、里山や小川で遊んだのでしょう。異国の地には、遊び回った箱庭の様な村の佇まいはないのでしょう。義兄の家の庭の大きな池や家の前には、丸かったでしょうかテーブルがあって、訪ねてくるお客さんと椅子に座って、お茶を飲んだりする場所がありました。

 Festa と呼ばれる、パーティーがよく開かれていました。一度は、義兄の移民仲間の親友が、街一のレストランで、歓迎会を開いてくれたことがあったのです。三人で囲んだ5、6mもあるテーブル満載の料理でした。その友人は、リンゴの栽培と出荷を手広くしていた移民の成功者でした。次回来たら、海辺にある別荘にお連れすると言ってくれました。もう義兄が召されて、その機会がなくなってしまいました。

 招待主は、和歌山からの移民の母の子で、日本で苦労し、移民としても苦労されたは並大抵ではなかったと、同じ様な農業移民の苦労をしてきた義兄が言っていました。人は、寄り集まることでの交わりをして、孤独を癒そうとするのかも知れません。

 そんなことを思い出したのは、「がん哲学外来」を始めた樋野興夫氏の話を聞いたからです。宇都宮でもたれているのは、〈がんcafe〉と呼ばれている集いで、コーヒーを飲みながら、差し入れの cookie の載ったテーブルを囲んで、語り合うのです。

 子育てをしたわが家も、人の出入りが多くて、〈宴会〉にはならないのですが、コンパネの合板に、ステインを塗り重ねた手作りのテーブルには、いつも大勢の人がついていました。今は、床上浸水後に、家具屋さんが引き取った家具をいただいて、六人で囲める、小ソファーを入れると十数人で囲めそうなテーブルが、客間にあります。そこに、人がやって来て、coffee や Earl Gray や狭山茶を飲んだり、食事をしたりの談笑が行われています。

 一人の家内のお姉さんの様な、こちらで出会ったご婦人が、最近、見えなくなったと思っていましたら、亡くなったと聞きました。年上の優しいお兄さんが戦死した話を、そのテーブルでしてくれたことがあり、素敵な語らいの交わりをすることができたご婦人した。人には、こう言った交わりの場、〈ヒロッパ〉が必要なのでしょう。

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