「新約聖書」のヨハネの福音書の最初のことばは、次のように記されて始まります。
『太初(はじめ)に道(ことば)あり、道(ことば)は神と偕(とも)にあり、道(ことば)は即(すなわち)神なり(文語訳)。』
「道(ことば)」は、logos (ロゴス/ギリシャ言語でλόγος )です。中国語訳も「道 dao 」と訳されています。イスラエルに説教者によると、「アラム語(イエスさまが語られた日常会話語)」では [メモラ]と言うそうです。あの『アバ(おとうちゃん!)』も、このアラム語なのです。
何もない無の状態に、初めからおられたのが、「神」であるからです。英語はGod 、ヘブル語は EL (ヤーウェ、エロヒム、アドナイetc.)、韓国語は ハナニム(하느님)、これらは、《唯一神》を意味していると言われます。各々の民族や氏族や部落が、それぞれに持つ様な神、自分たちにだけ良くしてくれる御都合神、ではなく、万人共通の「ただお一人の神」しかおられないに違いありません。
聖書は、そう断言してから、書き始めています。初めに、神がおいでなのです。『微細な物質、原子があって、それが想像を絶する時間の中で、結合したり分離したりして生命体が作られ、生命体が複雑に関わり合って、高等生命になり、私たち人間になっていった。』と言う解説では説明しきれないのに、現代人の多くは、それで納得しようとしています。「創造論」を受け入れられないからです。
神の創造なんて信じられないと言うなら、その進化した生命の存在も、荒唐無稽でなおのこと信じられないのではないでしょうか。今操作している、この iPad ですが、どなたも進化の結果の産物だとは思いません。Apple 社の研究や設計によって、生産された驚くべき電子機器です。こんなに薄く、小さないのに、世界の隅々にまで、電波を通してつながり、様々な情報を発受信しているのを、受け止めて知らせてくれます。
この宇宙や地球や人に、設計者はいなくていいのでしょうか。製造者がいなくて、偶然の積み重ねによって存在しているのでしょうか。息子や娘や孫や兄弟や友人や知人、自分の国やウクライナ戦争や人口問題や食糧問題、環境問題や健康問題などなどのことを考えて、悲しんだり心配したり安堵したりしている「思い」は、人の目には見えませんが、実際にあります。
そうしているわたしに、必ず設計者と創造者がいます。『初めに神が。』と言って書き出す聖書は、すべての原点、出発点が、「神」だと言うのです。いつも思い出すのは、同志社の新島襄が、漢訳聖書の『起初神创造天地。』と言う巻頭言を読んで、『神がいるとするなら、この神が神に違いない!』と信じたと伝えられています。
神はおいでになられます。このお方は、義、聖、愛、忠実、柔和なお方です。聖書を読まれるなら、さらに神のご性質やなさっておられることを知ることができます。わたしが、知ることができたのは、まだほんの一部に過ぎません。
パウロは、『また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。 (エペソ1章19節)』と、知ることにできる神だと言って、知ることを勧めています。
この神さまは、ご自分を啓示されておいでです。何よりも人となられたイエスさまが、神でいらっしゃるのです。もし人が謙るなら、神を認めることができ、神に知られてる自分であることが判るのです。母に聞いていたのですが、神のいますことを信じられたのです。悪さをすると、どこかで見ておられるのではないかと恐れました。良いことをすると、いい気分になるのは、この神さまがくれた心情だと思いました。
イエスさまが、神の子でいらっしゃり、「十字架」でわたしの罪の身代わりに死んでくださった「救い主」だと判った時、すべてのモヤモヤが晴れて、神の愛や厳しさ、忍耐や促し、導きや禁止などを、深く感じられたのです。何よりも、一番判ったのは、この自分が《赦されたこと》でした。それから50年、赦された感謝は日々に新たにされ、さらに倍増するのです。
(獄中で神を賛美するパウロです〈 Christian clip art〉)
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