江戸の息吹が感じられて

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 11月11〜13日の日程で、二年間隔で行われてきた、栃木市恒例の「秋まつり」がありました。だしかいかんをしゅかいじょうに、私たちの住むアパートの前の目抜き通りも出汁の巡行が行われ、各町内の「山車」が出ていました。前回はコロナ禍で中止になりましたので、四年ぶりの開催だったようです。市の広報によりますと、次のような「とちぎ秋まつり」の案内があります。

 『江戸との舟運そして日光例幣使街道の宿場町として栄えた栃木市には商人の心意気が残っています。とちぎ秋まつりは、明治7年(1874)栃木県庁構内で行われた神武祭典を起源とし、明治26年(1893)栃木県最初の商業会議所開設認可に係る祝典では、万町一丁目・二丁目・三丁目、倭町二丁目・三丁目及び泉町の6台の山車が参加し、さらに明治39年(1906)神明宮・招魂社祭典では、室町の山車が参加して現在の祭りの形が出来上がったとされています。昭和12年(1937)の市制施行祭以降は、市の発展の祭礼として曳き出され、今日では、2年に一度、11月に栃木市の象徴である蔵造りの街並みを舞台に、江戸・明治時代に作られた絢爛豪華な江戸型人形山車が華やかに市内を練り歩きます。』

 明治初期には栃木県の県庁所在地でしたので、鳴り物入りで始められた祭礼は、江戸期から下野一帯の商業の中心地であったので、とりわけ豪華で、人々の目を見張ったものだったのでしょう。農家は米の刈り入れを終えて一段落し、商家は歳末商戦に向けて忙しくなっていく狭間で、始められたのでしょう。江戸期に端を発して、子や孫によって受け継がれた「文化」、「交流」の意味でも、大切な時期に、行われてきたのでしょう。

 私たちも、ここに越して来て4年になりますが、大通りが、文字通りに大通りであることが、こんなに人で溢れている様を見て、初めてのように納得し、本当に驚いているのです。かつての「秋まつり」は二十万もの人で溢れていたのだそうです。鉄道が敷設される以前から、近郷近在から、人々が集まってきて、買い物とお祝いの時を持ってきたのでしょう。今日の通りの脇には、出店が軒を連ねて、現代風の若者好みの食べ物が売られています。

 店の中には、友好親善都市である、北海道の滝川市からの出店もあり、北海道名産が並んでいました。『昔の夢よもう一度!』で、県庁所在市の誇りを取り戻したいのでしょうか、市の発展が掲げられています。かつては日光例幣使街道、みつわ通り、銀座通りには、人が溢れていたと言われても、さっぱり想像できませんでしたが、昨日今日の人の波を見ての納得の日であります。

 若い人たち、とくに市内の高校生たちが動員されて、自分たちの街の文化や伝統に目を向け、将来の発展につなげるべく、volunteer(ボランティア)をされていて、素敵でした。ラジオ体操仲間の方が、綺麗な男用の和服を召されていて、見直してしまいました。血気盛んな頃を彷彿とさせてくれ、見違えてしまいました。行き合う人が、久し振りに会ったのでしょうか、友人同士が声を掛け合いながら語り合っていました。間もなく暮れがやってくるのです。

 知り合いのご婦人にお聞きして、九基ほどの山車を覆っている綺麗に刺繍されている布の覆いが注目点とのことで、それを撮影してみました。やはり見事な芸術作品でした。目立ちませんが、江戸や京の華やかさな息吹きを感じさせられるようでした。山車は、岸和田の「だんじり」が勢いよく走るように移動させられているのですが、ここ栃木では、穏やかにそろりと曳かれていました。

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