『二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。(箴言30章7~9節)』
子どもや若い頃に習慣化されたことが、正しく処置されていないと、何かの非日常的な出来事、恐怖体験などと相まって、再犯させてしまうと言う事例を、信州松本のキリスト教会で聞いたことがありました。
と言うのは、「万引きをした女校長」の話が、例話として語られていたのです。退職間近の校長が、警察に捕まったというのです。彼女は、若い頃に数度万引きをしたことがあったのだそうです。見つかりませんでした。教師になり、社会的に責任があった時には誘惑を拒むことができたのですが、退職が間近に迫っていて、不安な精神状態になったのでしょうか、つい手が出てしまったのだそうです。
あの時、現場を見つけられ、罪の処置がなされていたら、その女校長は、同じ万引きで逮捕されるようなことはなったに違いありません。もう亡くなられた作家ですが、井上ひさし氏が、中学生の頃でしょうか、本屋で、「英和辞典」を万引きして、店番をしていたお婆さんに見つかったのだそうです。
このお婆さんは、警察に電話をしなかったのです。その代わり、ひさし少年を裏庭に連れて行き、薪割りをする様に言います。彼が、言われた薪割りを終えると、「700円」の報酬をもらったそうです。本代として「500円」を差し引いてです。それで、欲しかった辞書は、正当に自分のものになったのです。そして、「200円」をいただいて帰ったそうです。
それ以降、その苦い思い出があったので、二度と万引きをすることなく、井上ひさし氏は生きられたそうです。私にも万引きの過去があります。他人事ではなく、私が少年期を過ごした街に、「キヨちゃん」という駄菓子屋がありました。おばさんが後ろを向いた隙に、店に並んでいたものを、万引きしたことがたびたびあったのです。
こすっからかったからでしょうか、見つからずに大人になってしまいました。でもその盗癖は治らず、高校生の時にも、時々やっていたのです。25歳で、やっと救われて、基督者となり、何と学校の教師になってもいた頃、そのキヨちゃんに、謝罪をする様にとの、強い思いに迫られたのです。それで3000円を持って行って、あのキヨちゃんに、子どもの頃の盗みをお詫びして手渡たそうとしました。それに目を丸くして驚いたおばさんは、『いいよ、もうそんな!』と言いましたが、封筒に入れたお金を、キヨちゃんの手にねじ込んで、礼をして急いでその店を出たのです。
神の前で、わたしは罪赦されたのですが、被害を与えや相手には詫びたり、償わななければならないと思ったからでした。父は、ケーキや饅頭やソフトクリームやあんみつなどを買ってきては食べさせてくれていましたから、ひもじかったわけではないのに、悪い癖が身についてしまっていたのです。
今でも一瞬、心の隙に、誘惑がやってくることがあるのです。これって、自分の意思で封じ込むことができないのかも知れません。一度、悪事に手を染めてしまうと、そういった誘惑への思いは、いつでも沸き立ってくるのかも知れません。
箴言の記者は、人は、自らを律し切れないものがあることを言っているのでしょうか。そう魂の監督者に向かって、懇願しているのです。この年齢になって、生ける神の御名を汚さずにで生きていける様に、わたしも懇願している老いの今であります。