盗まず生きよ

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 『二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。(箴言3079節)』

 子どもや若い頃に習慣化されたことが、正しく処置されていないと、何かの非日常的な出来事、恐怖体験などと相まって、再犯させてしまうと言う事例を、信州松本のキリスト教会で聞いたことがありました。

 と言うのは、「万引きをした女校長」の話が、例話として語られていたのです。退職間近の校長が、警察に捕まったというのです。彼女は、若い頃に数度万引きをしたことがあったのだそうです。見つかりませんでした。教師になり、社会的に責任があった時には誘惑を拒むことができたのですが、退職が間近に迫っていて、不安な精神状態になったのでしょうか、つい手が出てしまったのだそうです。

 あの時、現場を見つけられ、罪の処置がなされていたら、その女校長は、同じ万引きで逮捕されるようなことはなったに違いありません。もう亡くなられた作家ですが、井上ひさし氏が、中学生の頃でしょうか、本屋で、「英和辞典」を万引きして、店番をしていたお婆さんに見つかったのだそうです。

 このお婆さんは、警察に電話をしなかったのです。その代わり、ひさし少年を裏庭に連れて行き、薪割りをする様に言います。彼が、言われた薪割りを終えると、「700円」の報酬をもらったそうです。本代として「500円」を差し引いてです。それで、欲しかった辞書は、正当に自分のものになったのです。そして、「200円」をいただいて帰ったそうです。

 それ以降、その苦い思い出があったので、二度と万引きをすることなく、井上ひさし氏は生きられたそうです。私にも万引きの過去があります。他人事ではなく、私が少年期を過ごした街に、「キヨちゃん」という駄菓子屋がありました。おばさんが後ろを向いた隙に、店に並んでいたものを、万引きしたことがたびたびあったのです。

 こすっからかったからでしょうか、見つからずに大人になってしまいました。でもその盗癖は治らず、高校生の時にも、時々やっていたのです。25歳で、やっと救われて、基督者となり、何と学校の教師になってもいた頃、そのキヨちゃんに、謝罪をする様にとの、強い思いに迫られたのです。それで3000円を持って行って、あのキヨちゃんに、子どもの頃の盗みをお詫びして手渡たそうとしました。それに目を丸くして驚いたおばさんは、『いいよ、もうそんな!』と言いましたが、封筒に入れたお金を、キヨちゃんの手にねじ込んで、礼をして急いでその店を出たのです。

 神の前で、わたしは罪赦されたのですが、被害を与えや相手には詫びたり、償わななければならないと思ったからでした。父は、ケーキや饅頭やソフトクリームやあんみつなどを買ってきては食べさせてくれていましたから、ひもじかったわけではないのに、悪い癖が身についてしまっていたのです。

 今でも一瞬、心の隙に、誘惑がやってくることがあるのです。これって、自分の意思で封じ込むことができないのかも知れません。一度、悪事に手を染めてしまうと、そういった誘惑への思いは、いつでも沸き立ってくるのかも知れません。

 箴言の記者は、人は、自らを律し切れないものがあることを言っているのでしょうか。そう魂の監督者に向かって、懇願しているのです。この年齢になって、生ける神の御名を汚さずにで生きていける様に、わたしも懇願している老いの今であります。

巴波の春

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 窓の下を流れる巴波川を眺めていると、時間が time slip してしまった様に、江戸の代に、都賀舟(米俵を五十俵ほど積める浅底の舟)で、渡瀬川の部屋まで下った様子が目に浮かんできそうです。そこで荷を、高瀬舟に、積み替えたのだそうです。

 この江戸に向かう舟には、米、麦、味噌、野菜、木材、薪炭、石灰、獣皮などを乗せたそうです。逆に、江戸からは、日光御用荷物をはじめ、塩・鮮魚類・ろう・油・黒砂糖・干しいわしなどが積まれて来て、部屋の船着場で、荷を載せ替え、「水夫(かこ/船頭)」と呼ばれた人足が、綱を引いて、栃木の河岸まで運び上げたのです。

 川の端には、「綱手道」が残されていて、三尺(1m)ほどの幅の道を、草鞋(わらじ)ばきで、手綱を肩に引き上げたのです。ものすごい重労働に従事する人たちがいたと言うことです。その河岸には、蔵があって、そこに運込まれて、商人たちが売り捌いたのでしょう。買うと、肩に負ったり、牛馬に轢かせた荷車で、各地に運ばれてたのでしょう。

 今住んでいるアパートの前の大家さんは、その船主だったそうで、売り上げの出納帳などを見せていただいたことがありました。ですから、ここ商都栃木は、長く繁栄していたのでしょう。喜多川歌麿を支援した旦那衆が、その船主たちだったそうで、江戸文化の流れに触れてもいたのでしょう。

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 巴波公園の近くの塚田家の船着場に、今は遊覧船に替わって、一人千円で船遊びをする客たちが、船頭歌を歌う声が聞居ている姿を、昨日も見かけました。

栃木河岸より都賀舟で
流れにまかせ部屋まで下りゃ
船頭泣かせの傘かけ場
はーあーよいさーこらしょ

向こうに見えるは春日の森よ
宮で咲く花栃木で散れよ
散れて流れる巴波川
はーあーよいさーこらしょ

 きっと、桜が開いた今頃は、船の行き来が賑やかだったのではないでしょうか。今日も、市役所の帰りに、家内と川辺の道を歩いたのですが、川面の両岸に、今年新しくされた鯉幟が渡され、その数は、1000匹だそうです。綱に引っ掛かってしまった鯉幟を、家内が綱を揺すって、解いてあげていました。ちょっと寒い日でしたが、春到来です。

 

(巴波河畔に昨日咲いていた桜です)

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白いまんま

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 1952年から、NHKにラジオ放送で、夕方6時30〜50分に、「新諸国物語」と言う、子ども向けのラジオ番組が開始されました。冒険時代活劇で、映像がないラジオ放送でしたから、想像しながら聞き入っていたのが、わたしたちの世代の子ども時代だったでしょうか。

 いくつかの series で、「紅孔雀」 とか「笛吹童子」が放送されていて、夕ご飯を食べるためではなく、これを聞くために、遊びを終えて家に帰り、ラジオの前に、ちょこんと座っていた記憶があります。後に映画化もされていました。

 その中に、「風の小六」と言う、主題歌があって、今でも歌えるのですから、どれほど集中して、聞いて、想像し、手に汗をしながら聞いていたかが判るでしょうか。

風の小六は 泣かぬぞえ
泣いたとて 泣いたとて
明日の 明日の天気が 変ろぞえ
やんれ やんれ やんれさ

風の小六は 泣かぬぞえ
泣いたとて 泣いたとて
白い 白いまんまが くえよぞえ
やんれ やんれ やんれさ

風の小六は 泣かぬぞえ
泣いたとて 泣いたとて
月が 月が四角に なろうぞえ
やんれ やんれ やんれさ

 今夕のネット記事の中に、東映フライヤーズで野球選手として活躍し、安打数で抜群の成績を残したい、張本勲氏が、《白いまんま》について言及していました。『慎ちゃんも俺も白いメシを腹いっぱい食べたいと思ってプロを目指した!』とです。親友の慎ちゃんは、江藤慎一氏で、チームは違っていました、気心の知り合った仲間だったのでしょう。

 この江藤氏は、もう亡くなられたのですが、兄たちの世代のプロ野球選手で、とても良い選手でした。張本勲氏は、広島市の出身で、投下された原爆の被爆者でもあります。お姉さんは被曝して亡くなっておいでです。江藤慎一氏も、貧しい中を生き抜いた人だったそうです。文の立つ人で、江藤氏は次の様な記事も寄稿していました。

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わが輩はバットである―
ボール君は愉快そうに飛んでいった。若手では島野(育夫)選手の鋭いスイングにびっくり。与那嶺コーチの満足そうな顔を、わが輩はチラリと横目でみてすぐボール君に向かっていった。しかし、一つだけさみしい気持ちになったのは、練習が終わるとポイとわが輩を投げ出し、柔らかい泥がついたままケージの中にうち置かれることだ。「なんだい、打つときだけ大事そうにして」と仲間同士で怒っているうちにマネージャーの菅野さんとスコアラーの江崎さんがベンチまで運んでくれた。わが輩たちはさっそく緊急会議を開き、そういった選手にはホームランをレフトフライにすることに決めた。

 野武士の様な九州男児で、素晴らしいプロ野球に選手でしたが、70歳で亡くなられています。戦時下に生まれ、戦後を逞しく生き抜いた人です。貧しくて、新聞配達をし、アイスキャンディーを売りながら家計を助けた少年時代を過ごした人でした。懐かしく親友を語っている張本氏も、戦後、お父さんを亡くして、お母さんの手一つで育てられています。苦労した者同士の友情だったのでしょう。

今も戦火の中のウクライナでは、家が壊され、祖国を追われ、多くの人は亡くなっています。さらに食糧に窮しているのです。食べられない苦痛というものを、この21世紀にも味わっているわけです。それが戦争のゆえであって、パンが食べられない人々が、飢えを味わっているのです。ここ日本でも、パンやうどんが値上げされ、電気代やガソリン代も高騰し、何も良いことを生み出さないでいる戦争が、集結する様に願う、卯月(うづき)4月1日です。

(「巨人の星」の少年・星飛雄馬です)

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太初

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 「新約聖書」の、ヨハネの福音書の最初のことばは、次のように記されて始まります。

『太初(はじめ)に道(ことば)あり、道(ことば)は神と偕(とも)にあり、道(ことば)は即(すなわち)神なり(文語訳)。』

 「道(ことば)」は、logos (ロゴス/ギリシャ言語でλόγος )です。中国語訳も「道 dao 」と訳されています。ユダヤ系の聖書研究者によると、「アラム語(イエスさまが語られた日常会話語)」では [メモラ]と言うそうです。あの父に呼びかける、『アバ!』と言う呼びかけの『ちゃん!』も、このアラム語なのです。

 何もない中に、初めからおられたのが、「神」であるからです。英語は God 、ヘブル語は EL (ヤーウェ、エロヒム、アドナイetc.)、韓国語は ハナニム(하느님)、これらは、《唯一神》を意味していると言われます。各々の民族や氏族や部落が、それぞれに持つ様な神、自分たちにだけ良くしてくれる神ではなく、万人共通の「ただお一人の神」しかおられないに違いありません。

 聖書は、そう断言してから、書き始めています。初めに、神がおいでなのです。『微細な物質、原子があって、それが想像を絶する時間の中で、結合したり分離したりして生命体が作られ、生命体が複雑に関わり合って、高等生命になり、私たち人間になっていった。』と言う解説では説明しきれないのに、現代人の多くは、それで納得しています。

 神の創造なんて信じられないと言うなら、その進化した生命の存在も、荒唐無稽で尚更信じられないのではないでしょうか。

今操作している iPad ですが、どなたも進化の結果の産物だとは思われません。Apple社の研究や設計によって、生産されたた、驚くべき電子機器です。こんなに薄く、小さないのに、世界の隅々にまで、電波を通してつながり、様々な情報を発信しているのを、受け止めて知らせてくれます。

 この宇宙や地球や人に、設計者はいなくていいのでしょうか。製造者がいなくて、偶然の積み重ねによって存在しているのでしょうか。息子や娘や孫や兄弟や友人や知人、自分の国やウクライナ戦争や人口問題や食糧問題、環境問題や健康問題などなどのことを考えて、悲しんだり喜こんだり、心配したり安堵したりしている「思い」は見えませんが、実際にあります。

 そうしているわたしに、必ず設計者と創造者がいます。『初めに神が。』と言って書き出す聖書は、すべての原点、出発点が、「神」だと言うのです。いつも思い出すのは、同志社の新島襄が、漢訳聖書の『起初神创造天地。』と言う巻頭言を読んで、『神がいるとするなら、この神が神に違いない!』と信じたと伝えられています。

 神はおいでになられます。このお方は、義、聖、愛、忠実、柔和なお方です。聖書を読まれるなら、さらに神のご性質やなさっておられることを知ることができます。わたしが、知ることができたのは、まだほんの一部に過ぎません。パウロは、『また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。 (エペソ119節)』と、神を知ることにできる神だと言って、知ることを勧めています。

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撮る

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 「古写真」を見るのが好きな私は、本屋や図書館の写真集コーナーに行って、棚の写真集を開いて、古い街の様子や生活や人を、よく見てきました。現在でも、ネットで探して見ることが、時々あります。古い街並みが、田舎には残っているのです。上海は、近代化したアジア第一の都市ですが、外国航路の波止場付近は、昔の面影を残していて印象的でした。

 日本の写真家に、木村伊兵衛とおっしゃる方がいました。1901年に東京で生まれ、報道写真家として活躍された方です。この方も何冊もの写真集を出しておいでです。この木村伊兵衛は江戸っ子でしたが、秋田に魅せられた人で、生涯に22回も秋田を訪ねています。

 そこにある古い日本の風景と生活と人を訪ねたかったのでしょうか。この方が一番行かれたのが、大曲市(現在の大仙市です)だったようです。足繁く歩いて、撮った写真集の中に、1953年に発行された「秋田」という題のものがあります。

 その表紙の写真が、この冒頭のものです。秋田や東北地方では、若い年頃の娘さんを「おばこ」と呼ぶのですが、その「おばこ」は、撮影時に19歳であった洋子さんだったそうです。新潟と並んで、この秋田が、「美人県」として有名になったきっかけの写真だったのでしょうか。

 父が旧制の中学校を卒業して進学したのは、「秋田鉱業専門学校(現在の秋田大学になります)で、1920年代の中頃のことでしたから、この写真集に魅せられたわけではありません。時代が違います。秋田県人を何人か知っていますが、みなさん色白なことは確かで、やはり「秋田美人」、「秋田美男」なのです。

 JR「大曲駅」の駅舎のロビー吹抜けに吊り下げられた大きなパネル写真も、この写真でした。60年以上も前に撮影された写真が、今日も、掲げられているということは、この秋田や大曲を代表する一葉であるからなのでしょう。

 写真といえばカメラに、ライカがあります。ドイツ製で、このカメラで撮った写真は、特別なのでしょう。好評価を得た有名な写真の多くが、このカメラで撮られているそうです。やはり<カメラの中のカメラ>、<カメラのキング>です。光学デジタルにはない、<古き良き物>の一つなのでしょうか。

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 一機欲しいと思っていた時期がありましたが、一桁違っているように見えるほどの値段を見て、手が引っ込んでしまいました。撮影技術などない私には、もし手に入れても、<宝の持ち腐れ>になりそうです。時々眺める光景で、撮って残しておきたいものがあるのですが、今では、スマホが使えるのは素晴らしいことですね。でも、よく不携帯で外出してしまい、撮影の好機を逃しているのです。

 あの “aurora (オーロラ)” を撮ってみたいのです。スカンジナビアかカナダかアラスカに行ったらいいのでしょうか。病気をなさった方を、しばらくお世話したことがありました。その方が元気な頃に、アラスカに釣りに行かれたことがあったそうで、懐かしく話してくれました。それほど学歴がなかったのに、猛烈な仕事人で、大企業の要職にあった様です。『元気になられたら、一緒にオーロラを観にいきましょうね!』と言ったまま、この方は亡くなられました。

 きっと素晴らしい光景を目にして、もう一度観たかったのでしょう。カナダはバンクーバーまで、わたしは行ったことがありましたが、もっと北を目指した旅を、もう一度してみたいものです。北欧もいいですね。不自由なコロナ禍だから、余計、そんな思いにされるのでしょうか。

 

(「ライカ」で木村伊兵衛が撮影した昭和の顔や子どもたちです)

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喜び

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 『あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。  あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。 (ルカ1547節)」

 この二日間、無くしてしまったものを、捜しました。なくてはならないものだったからです。何かと言いますと、一合半炊きの炊飯器の蒸気が出る部分の部品でした。子育て中は、一升炊きだったのが、子どもたちらが巣立った後、二人世帯になって、さらにコロナ禍で、お客さんも来なくなり、来られてもそそくさとお帰りになられるので、何年も使って摩耗してきてもいましたので、2人用を新規に買ったわけです。

 大手の会社の製品ではないのですが、《使い勝手》がよいのです。もう1年ほど使い続けています。それが昨夕、棚の上に置いてある炊飯器の釜や中蓋と一緒に、その部品を外して、洗い場に持っていく時にでしょうか、どこかに紛れ込んだのか、落ちたのかで、1時間も探してみましたが、どこにも見当たりませんでした。

 諦めた私は、週明けに、製造会社の問い合わせ係に電話をして、取り寄せようと思ったのです。昨夕は、冷や飯で雑炊を作りましたので、炊飯器は使いませんでした。アルミホイルで同じ様なものを作って代用で炊飯を、今夕はしたのです。いつもと同じ様に美味しく炊けたのです。食後の食器洗いを済ませて、片付けようとして、もう一度捜したのです。あったのです。調味料の空の袋の中に紛れ込んでいたのです。諦めなかったのがよかったのでしょう。

 こんなに嬉しく喜こんだのは、久しぶりのことでした。と同時に、彷徨い歩いて、夜な夜な悪所を飲み歩いていた頃、酔いが覚めたのか、ぞくっと背中が寒くなって、惨めな足取りで歩いていた頃を思い出したのです。誰かに見付けられることもなく、人生の闇の中に沈み込もうとした頃、首根っこを掴まれて、泥沼から引き出された様に感じた日がありました。自分が喜ぶよりは、私の真の所有者が、捜索者である神が喜ばれたのでしょう。

 

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 もちろん、見付けられた自分にも、じわじわと、その喜びが感じられていったのを思い出したのです。家内は、『見付けられなかったら(救われていなかったら)、あなたは女に殺されていた違いないわ!』と言うのです。家内に、女性で苦労をかけたことなどなかったのに、何てことを言うのでしょうか。まあ、〈さもありなん〉で、無抵抗の私なのです。

 『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ289節)』

 焼却炉行きの空袋の様ではなく、永遠の滅びの中から、捜し出され、見つけられ、引き出された日から、もう半世紀以上の歳月が経ちました。なくなった部品が見つかって私が喜こんだのですから、創造の父が見つけてくださった私を、とても喜こんでくださったのに違いないのが解るのです。ですから、あのまま見つけられなかったら、袋に紛れ込んで、生ゴミの中に入れられた部品の様に、焼却炉で燃え尽きるところでした。ところが、《神の憐れみ》によって、すんでのところで見つけられた私なのです。そう諦めなかったのが、神さまでした。さあ、《使い勝手》はどうだったのでしょうか。

(“キリスト教クリップアート“”イラストAC”のイラストです)

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和歌山県

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 渋谷や新宿にあった、大型書店の「紀伊國屋書店(きのくにや)」に、時々行ったことがありました。現在の和歌山県は、律令制下に、「紀伊國」と呼ばれていました。創業者の田辺茂一は、紀州徳川藩の足軽の出で、本屋の開業時に、自分の故郷の「紀伊国」を店の名称にしています。

 今年も、「有田みかん」が気に入って、近くのスーパーマーケットで、有田産のみかんを、何度も買って食べました。愛媛も熊本も佐賀も、後続のみかん産地ですが、かつては、紀州が主なる産地で、木箱に入って売られていたのを、父が買ってくれて、よく食べましたから、懐かしかったのかも知れません。

 今では、みかんの産地が、あちこちにありますが、江戸時代には、江戸の市民は、紀州の「温州みかん」を食べていたそうです。それで有名なのが、紀伊國屋文左衛門でした。嵐の中を船で、豊作だった蜜柑を買い集めて、江戸に運んで、巨万の富を手に入れて、豪遊したので、勇名を轟かせたのだそうです。実話なのか、お芝居の人物なのか、どちらにしろ有名な、紀州人でした。

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 この和歌山県の県庁所在地は和歌山市、95万の人口、県木はウバメガシ、県花は梅、県鳥はメジロで、漁業が盛んな県で、県魚はマグロなのだそうです。そう言えば、わが家の食卓には、時々、紀州名産の「南高梅」が添えられます。独特な香りがして、美味しいのです。「つぶれ梅」の特売が、生協のチラシに入る時に、注文しています。

 「木の国」と言われるほど、山林や山地の多い地で、県の7割を山々で占めています。県の北部は、阪神工業地帯に位置していて、工業が盛んですが、県全体としては、人口減少がみられるそうで、どうしても林業が中心の産業構造となってきた県であります。

 手毬(てまり)唄の「まりと殿様」に、『紀州の殿様お国入り』と歌われています。

てんてん手鞠(てんまり) てん手鞠(てまり)
てんてん手鞠の 手がそれて
どこから どこまでとんでった
垣根をこえて 屋根こえて
おもての通りへ とんでった とんでった

おもての行列 なんじゃいな
紀州(きしゅう)の殿さま お国入り
金紋(きんもん) 先箱(さきばこ) 供(とも)ぞろい
お駕籠(かご)のそばには ひげやっこ
毛槍(けやり)をふりふり やっこらさのやっこらさ

てんてん手鞠は てんころり
はずんでおかごの 屋根のうえ
「もしもし 紀州のお殿さま
あなたのお国の みかん山
わたしに 見させて下さいな 下さいな」

お駕籠はゆきます 東海道(とうかいどう)
東海道は 松並木(まつなみき)
とまり とまりで 日がくれて
一年たっても 戻(もど)りゃせぬ
三年たっても 戻りゃせぬ 戻りゃせぬ

てんてん手鞠は 殿さまに
だかれて はるばる 旅をして
紀州はよい国 日のひかり
山のみかんに なったげな
赤いみかんに なったげな なったげな

 みかんをおいしく実らせる、太陽の光が溢れている様子が、作詞者の西条八十によって読み込まれています。この県は紀州藩のお殿様だけではなく、多くの歌人によって、和歌によって詠まれていて、県名でわかるように、県北にある、「和歌の浦」で有名なのです。風光明媚で、とくに「砂洲(さす)」で有名です。

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若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺を指して 鶴鳴き渡る

田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける

 この二首の和歌は、山部赤人の作で、あまりにも有名で「万葉集」に収められています。京畿地方の伝統ある県ですから、ぜひ旅行で訪ねてみたいものです。

 実は、最初の職場で、「道徳教育全国研修会」が、弘法大師(空海)が開山した寺と高野山高校、さらには宿坊を会場にして働かないかと行われた時、事務方の仕事で出張したことがありました。有名な哲学者のご子息が、研修会の専門委員で、ご一緒させていただきました。この方が、「胡麻豆腐」が好物で、三泊ほどいた会期中に、何度も、『食べに行きましょう!』と誘ってくださって、舌鼓を打たせてもらったのが懐かしいのです。

 この方の勤めていた大学が、東京の目白にあって、そこで教師として働かないかと誘われたことがありました。伝道者になって数年経ったばかりの頃でした。でも丁重にお断りしたのです。私を気に入ってくださったのでしょうか、その後も色々とお誘い下ったのです。人との出会いに恵まれた半生を思い返しています。もう半世紀以上も前に出会った方との和歌山への訪問でした。

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古のことと今

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 『あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を通うものも。私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。(詩篇839節)』

 紀元前1000年に生まれて、七十数年の生涯を生きたイスラエルの王・ダビデの詠んだ「詩篇」が聖書の中にあります。その詩の中に詠まれてある、紀元前の人の信仰、思考、洞察、自戒、信頼、価値観、死生観、人間理解、希望などに、驚きを禁じ得ないのです。まるで、現代人の思いと寸分違わないからです。

 日本の皇祖と言われる神武天皇は、紀元前660年に、天皇に即位されたと、「日本書紀」の記述にあります。明治になって、そう公表されました。「日本書紀」は、紀元720年に完成された、日本の歴史書です。日本の歴史は、文字が、渡来人によってもたらされるまでは、口承で、人から人に語り伝えられたもので、文字の記録はないのです。

 漢字は、儒教の教本の「四書五経(論語などです)」や仏教の経典によって、およそ6世紀ころにもたらされているようです。その文字を用いて、日本書紀や古事記が記されてきています。ところが、ダビデの詩は、口承によったのではなく、3000年の前に、文字によって記され、残され、伝えられ、「聖書」の中に収められているのです。今日の感覚と同じで、人の心の動きの微細が記されています。

 ダビデ以前の「ノア」の時代のことが、聖書の「創世記」に中にあります。これはモーセによって記されたとされています。聖書(この場合「旧約聖書」に限りますが)は、紀元前4世紀頃に編集されたとされています。その書き初めに、Γγένεσις(ゲネシス、起源、誕生、創生、原因、開始、始まり、根源のことです)」と言われる書を、日本語では「創世記」と訳したものがあるのです。

 弥生時代人や縄文時代人の生活振りを、貝塚や古墳窓の戸籍から出土した物で理解し、朝鮮半島や中国の文献で知ることができるのですが、古代の彼らに、深い思考とか理想とか夢がなかったとは言えません。人を憎んだり愛したり、裁いたり赦したり、子や孫たちに託す夢だってあった日があったのに、それを知る術がありません。高松塚の壁画が発見され、注目されて50年も経つのですが、推定の段階でしかありません。

 壁の絵だけでなく土器の壊れた破片や折れた矢の鏃のように、何も語らない無言のままに、後世に人々の憶測や、推論で歴史の考察がなされてきたことになります。私たちの租となる人々に、物の生活だけではなく、深刻な思考の生活があったに違いないのは残念なことです。

 ダビデの詩には、「主」と訳された Yahweh (ヤーヴェ)"、”Jehovah (エホバ)" と呼びかけている神がいます。その主なる神なしには、この人の生涯を語ることができません。親兄弟には過小評価され、取るに足りない者でしたが、神は、このダビデを用いて、敵であったペリシテを敗走させる武勲をあげさせ、やがて、イスラエルの王に任職されるのです。人としてダビデの家系から、神の御子イエスが、人の子となられて誕生し、十字架で、人の救いのみ業を成就したのです。

 ダビデが信じ、仕えたように、異邦人であり、異教徒である私でさえも、この十字架の贖罪を信じるなら、救いに預かれるのです。人の世界は、アダムの罪以来、紛争と憎悪の繰り返しで、21世紀になった今に至っても、それらは止みません。何か第三次世界大戦の足音が聞こえている昨今です。聖書は、この人の営みや歴史に終わりがあると記しています。

 その時を迎える準備はお済みでしょうか。聖書には、『先生。それでは、これらのことは、いつ起こるのでしょう。』と言う問いに、『それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現れます。(ルカ211011節)』と答えたとあります。

 ここに、2000年の前になされた、わたしたちへの警告があります。そのための準備する時間的な猶予がありそうです。どうも、そんな時期が迫っているに違いありません。事が起こると、次から次へと急激に起こりそうです。

(古墳の壁画です)

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誰でも

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 『薬の名前の連続みたいですね!』と言うのが、先日、近所の方のお宅にお招きいただいた時に、手土産に持参した「新約聖書」を読み始められての感想でした。イエス・キリストの系図が、巻頭に記されているので、そう思われるのも当然だと思ったのです。

 聖書は、「神の霊感」を受けた筆者が書いています。時代も、書き手の背景も違うのですが、私の最初の読後の印象も、『編集が上手くないよ!』でした。でも、聖書記者に霊感を与えた神を知るなら、もう少しせいかくな言い方をしますと、《神との出会い》があった時から、よく判るようになったのです。薬の名の羅列の様でも、そこに登場する人たちの生き方などに意味があるのを知るからです。

 例えば、「ラハブ」という婦人は、エリコという街で「遊女」をしていた人なのです。イエスさまは、人としての祖先の中に、そんなことを職業としていた婦人がいたことを、平気の平左で書いてしまうのです。『そんなで大丈夫?』と思わせてしまい、それを知った人は、もう聖書を読み続けるのも、イエスを知るのもやめて、拒否反応を示してしまうかも知れません。

 そんな異教の神々の子、生まれや背景の女性でも、神の救いに預かり、救い主が人と生まれた家系の中に入ることができたのです。もちろん、その仕事を良いと言ってるのではなく、どんな背景があっても、神は気にしません。《今》がどうなのかなのです。どんな〈過去〉も〈罪〉も、もし悔い改めるなら赦されるからです。ラハブは、神のご用のために、エリコの街に遣わされた斥候たちを匿ったことによって、神の民の間で生活することを許され、《救い主の家系》の一人とされたのです。

 つまり、それは《神の選び》のことを言ってるのです。義人ぶっていても、実は悪戯小僧で、コソ泥で、いじめっ子で、暴力を働き、悪所に出入りし、人を騙して、いつかは捕まるのではと、おどおどして生きていた者を、救いに導き、神の子とし、神に仕える伝道者の端くれに加えていただいたのは、《神の恩寵》以外に考えられません。

 殺人者でも詐欺師でも、奴隷商人でも大泥棒でも、売春婦でも stripper でも、女囚でも女女衒でも、だれでも救われるのです。公平なのです。ですから誰でも、もし罪を悔いて、神の前に出るなら、《神の子》とされるのです。これが聖書が語る、「救い」なのです。

 『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(2コリント517節)』

 だれでも、どんな人でも、どんな過去があっても、《機会》があるのだと、聖書は言うのです。私が一番気になる聖書の登場人物は、「エフタ」と言う人です。聖書は、この人について、次の様に記しています。

 『さて、ギルアデ人エフタは勇士であったが、彼は遊女の子であった。エフタの父親はギルアデであった。 ギルアデの妻も、男の子たちを産んだ。この妻の子たちが成長したとき、彼らはエフタを追い出して、彼に言った。「あなたはほかの女の子だから、私たちの父の家を受け継いではいけない。」 そこで、エフタは兄弟たちのところから逃げて行き、トブの地に住んだ。すると、エフタのところに、ごろつきが集まって来て、彼といっしょに出歩いた。(士師記1113節)』

 遊女の過去を持つ母の子、それゆえ家族から疎まれ、家督相続の権を奪われ、追い出されたエフタが、ごろつき集団の頭目に転落します。ところがエフタは、イスラエルの「救出者」とされる逆転人生の人なのです。それは通常、あり得ないことでした。でも、人生をやり直すことができたのがエフタでした。彼の様な変化や逆転を経験した人を、多く私は見てきました。『えっ、人ってこんなに変わってしまうの!』と言う人たちです。一番の驚きは、この自分なのかも知れません。

(  “ キリスト教クリップアート ” のイラストです)

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