ウナギ

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 『僕はウナギだ。』、『あたしは親子丼です!』、『君はラーメン?』、この文章は、主語と述語で成り立っているように見えますが、どうもそうではなさそうです。

 この会話は、三人で、食堂に入って、お昼ご飯を食べようとしていたのでしょう。壁に吊るされた、品書きを見ていると、お茶を持ってきてくれた店員さんに、『何にいたしましょう?』と聞かれて、三人が食べたいものを注文しているのです。

 中国に行ったばかりの頃、なんと言うのか判らないので、向こうの卓の客が食べてるのを指差して、覚えたての中国語で、『那个!(あれ)』と言ったのです。それで意思の疎通があって、ちゃんと思った通りの料理が運ばれてきたのです。代名詞や方向詞でも、指差しでも通じるわけです。でも人は、言葉で意思を伝え、相手を理解するので、どう喋るかは大切です。

 日本語で、[主語と述語]や[助詞の使い方]を教えた時に、このことを取り上げた授業をしたことがあったのです。日本語は、曖昧な言語で、主語を省略して話す場合が多いからです。私は、説教時に、言い足さなければならないことが、よくありました。

 同じ状況や環境にいると、相手に『理解してもらえる!』と言う思いがあって、主語を省略しても、外国人の学習者を混乱させてしまうだけで、誰なのか、何なのかははっきりしないといけないのです。

 『僕はウナギだ!』 と言ったら、店員さんは、『あなたってウナギなんですか!』などとは決して思わないわけです。でも、文章化したら、主語の私が「ウナギ」になってしまいます。

 言葉は、やはり見える様に話さなければならないのですが、明治期以降の文豪たちの書き言葉は、実に重みがあり、流暢で、美しいのです。日本語の中に、カタカナ語が入ってきて、その割合が多くなってきて、英語と思しきカタカナ語の原語の spell が解らないので、英語の辞書を引くことができません。

 だいぶ前でしたが、台湾の教会でお話しさせていただいたことがありましたが、通訳をしてくださる牧師さんに、『お願いがあるのですが、カタカナ語は使わないでくださいますか!』と言われました。英語はご存知でも、カタカナ英語は理解できないからです。

 母国語が曖昧になってしまうと、外国語学習にも影響がある様です。長男の子どもたちが、[英検]に挑戦して、頑張っているのです。良い英語学習者になるためには、母語の理解が基礎にあるのが理想的だと言われています。そのためには、夏目漱石や田山花袋や泉鏡花などの作品を読んで、母国語の力を付けて欲しいものです。

(“イラストAC”のイラストです)

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悲しくて

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 上の兄は、空襲で、甲府の街の空が真っ赤だったのを覚えていると語ったことがあります。山奥の山の狭間から、焼夷弾の空爆で、父の事務所のあった街中心部が燃えているという現実を見て知っているのです。わたしには、その経験はありません。ただ軍務に携わっていた父の石英の採掘現場は、爆撃地点ではなかったのが、不思議でした。

 あの戦争が行われていた頃の広島県呉市の様子が、アニメーション映画として上映されました。日本国海軍の軍港のあった呉を舞台に描かれた、漫画の「この世界の片隅で」が、2016年11月に、映画化され、大きな反響を呼び起こしました。

 『主人公が、穏やかな性格のすずで、広島市に生まれ育った少女です。兄妹との三人兄妹で、しっかり者の兄からはいつも鈍いと怒られてばかりだったが、実はすずは手先が器用で絵を描くのが得意だった。えんぴつが握れないほど小さくなるまで絵を夢中になって描いているような少女時代を過ごした。

ある日、北条周作という青年が父親と共に呉から広島市のすずの実家に訪れる。幼少時代に、すずと一度会ったことがあり、その際に一目惚れをし、結婚を申し込みに来たのだった。すずはあまり気乗りはしていなかったものの、周りの勧めもあり、呉へと嫁ぐことを決める。嫁ぎ先の北条家では優しい父、病弱な母、周作、すずの4人で過ごしていたが、途中から周作の姉である径子が娘の晴美を連れて戻ってくる。

 嫁ぎ先の義実家とうまくいかず戻ってきたという。径子はすずとまさに真逆な性格で、テキパキと行動し、鈍臭いすずには絶えず小言を言っていた。しかし、娘の晴美とすずはとても仲が良く、ふたりでよく遊んでいた。

 戦時中のため、決して裕福な生活とは言えなかったが、晴美は軍艦が好きだったので、すずが軍艦の絵を描いてあげるなど、ささやかに楽しい生活を送っていた。次第に空襲警報も増え、呉も空襲に怯えながら防空壕に逃げ込む回数も増えていった。そんな中、義父が空襲のせいで怪我をしてしまう。すずと晴美は義父のお見舞いに病院に行くが、その帰り道にまた空襲警報が鳴る。近場の防空壕に飛び込み、すずは晴美を勇敢に守っていたが、防空壕から出た直後、埋もれていた不発弾に晴美が被弾してしまい死んでしまう。すずも、晴美と繋いでいた右手を失ってしまう。

 大切にしていた晴美と右手を同時に失った喪失感、晴美の母親である径子から責められる日々で、すずは死にたくなってしまう。空襲警報が鳴っても外にいたところ、周作がすずを見つけ、命がけで守ってくれる。広島の実家に帰ろう、そう思っていた頃、広島市に原爆が投下される。原爆投下から数日が経ち、広島市の様子を見るために広島市に周作と共に帰省するが、そこには変わり果てた故郷があった。そのとき、右手を失ったすずを見て、少女が母親だと思い込み近寄ってきた。すずと周作は戦争孤児になってしまった少女を引き連れて呉へと帰り、新たな生活を始めようとするのだった。以上、映画「この世界の片隅に」の簡単ネタバレあらすじと結末でした(映画ウオッチ)。』

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 戦争は、必ず悲劇を生み出します。家庭、親子、恋人同士の愛が引き裂かれます。建物や文化財が破壊されるのです。何よりも深い傷を、心の中に残すのはやりきれません。戦争を知らない世代が、後期高齢者入りになった今、戦争体験者の親に育てられて、親の兄弟たちは戦死したりして、間接的に戦争の被害を知ってるのでしょう。

 戦後、新宿や上野や電車の中に、孤児や傷痍軍人を見かけました。うつろな目をした人たちと、ギラギラとした目で生き抜いている強さを持って生きようとしていた人が混在していた時代でした。

 まさかこんなことになるかとは思わなかった戦争が起きてしまいました。砲撃されたウクライナの街の焦土の様子、戦死者を葬る遺族の悲しい様子、泣き悲しんでいる遺族の顔と涙、こんな悲劇がまた起こって、悲しくて悲しくって仕方がありません。呉の街だけではありません、主要都市が爆撃された日本でしたが復興しました。あんなに瓦礫の山になったキエフなどは、復興できるのでしょうか、何よりも、人々の生活はどうなるのでしょうか。日本にも難民がおいでです。ウクライナの人の傷ついた心は癒えるのでしょうか。

 ただ、主の恵みを祈るだけです。アウシュビッツを生き抜いた方が、ロシア軍の攻撃で戦死されたニュースを昨日聞きましました。これから台湾は大丈夫なのでしょうか。インドも、沖縄も、北海道も、何か大丈夫ではなくなってきていそうです。死にゆく準備は出来ていますか。《永遠のいのち》のあるのをご存知ですか。それでも、今は、《恵の時》なのです。

(漫画の場面、空爆後のウクライナの街の様子です)

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決心

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 時代小説の「半七捕物帳」の著作で有名な岡本綺堂に、「停車場の趣味」という短文があります。

 『・・・これは趣味というべきものかどうか判らないが、とにかく私は汽車に停車場というものに就いてすこぶる興味を持っている。汽車旅行をして駅々の停車場に到着したときに、車窓からその停車場をながめる。それがすこぶるおもしろい。尊い寺は、門から知れると云うが、ある意味に於いて停車場は土地そのものの象徴と云ってよい。

 そんな理屈はしばらく措いて、停車場として最もわたしの興味をひくのは、小さい停車場か大きい停車場かの二つであって、どっち付かずの中ぐらいの停車場はあまり面白くない。殊におもしろいのは、一列車に、二、三人か、五、六人ぐらいしか乗り降りしないような、寂しい地方の小さい停車場である。

 そういう停車場はすぐに人家のある町や村につづいていないところもある。降りても人力車(くるま)一台も無いようなところもある。停車場の建物も勿論小さい。しかもそこには案外に大きい桜や桃の木などがあって、春は一面に咲き乱れている(中略)。

 停車場はその土地の象徴であると、わたしは前に云ったが、直接にはその駅長や駅員らの趣味もうかがわれる。ある駅ではその設備や風致にすこぶる注意を払っているが、・・・やはり周囲の野趣をそのまま取り入れて、あくまでも自然に作った方がおもしろい。長い汽車旅行に疲れた乗客の眼もそれに因っていかに慰められるか判らない(中略)。

 汽車の出たあとの静けさ、殊に夜汽車のひびきが遠く消えて、見送りの人々などがしずかに帰ってゆく。その寂しいような心持ちもまたわるくない・・・停車場という乾燥無味のような言葉も、わたしの耳にはなつかしく聞こえるのである。』

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 足で歩き、籠や馬や舟に乗って旅をしたのが、「汽笛いっせい」黒煙を吐く蒸気機関車に乗るようになったことが、劇的に旅を変えたのです。昭和25、6年頃に、八王子から中央線で新宿や東京、そこから東海道線、京都で福知山に出て山陰線へと急行「いずも」で、母の故郷の出雲市駅への汽車旅をしたことがありました。蒸気機関車が牽引していた時代です。当時の「急行いずも」の時刻は、東京 22:00発、大阪9:06 福知山11:49 鳥取14:55 出雲今市(現・出雲市)17:5で、何と19時間の旅だったのです(さらに八王子からの乗車時間も、東京駅での待ち合わせ時間もそれに加えられる長い旅でした!)。

 蒸気機関車の石炭の煤の匂いが、いまだに nostalgic に記憶に残っているのが不思議です。駅を「停車場」と言う岡本綺堂の文章に、その頃を思い出させられて、懐かしさが込み上げてきます。それ以前に、甲府から新宿の、父に連れられて、同じ蒸気機関車で出たこともあります。トンネルの中も客車も、煙だらけだったのです。「鉄道唱歌」で、その八王子を出て、出雲行の旅でたどった停車場をあげてみます。

[甲府]

今は旅てふ名のみにて 都を出でゝ六時間座りて 越ゆる山と川 甲府にこそは着きにけれ

[八王子]

立川越えて多摩川や 日野に豊田や八王子 織物業で名も高く中央線の起点なり

[新宿]

千駄ヶ谷代々木新宿 中山道は前に行き 南は品川東海道 北は赤羽奥羽線

[東京(新橋)]

汽笛一声新橋 はや我汽車は離れたり 愛宕の山に入りのこる月を旅路の友として

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[京都]

ここは桓武のみかどより 千有余年の都の地 今も雲井の空たかく あふぐ清凉紫宸殿

[福知山]

道を返して福知山 工兵隊も見てゆかん 昔語りの大江山 北へ数里の道の程

[出雲]

雲たち出る出雲路の 斐の川上は其昔 大蛇討たれし素戔嗚の 神の武勇に隠れ無し

今市町を後にして 西に向かえば杵築町 大国主を奉りたる  出雲大社に詣でなん 

 飛行機で旅ができる時代だからこそ、草鞋ばきで旅した往時を思い返してみますと、古人は徒歩の旅を苦とすることなく、二本の足でこの日本列島を縦横無尽に歩いたのです。母に連れられた旅は、難儀だったのですが、養母に諭されたのでしょうか、一大決心をして、父の元に帰って、何も無かったかのようにして、子育てに努めた母がいて、私たちの今があるのです。

 停車場に灯っていた裸電球が、風に揺すられて、右左、西東に動いていたことでしょう。その母親としての決心の土台になったものを、母が持っていて、自分の感情によってではなく、自分の課せられた責務に献身したのでしょう。幼い日に宿った、《神信仰》が、母の一生の《つっかい棒》だったことは確かです。

(急行「いずも」、駅の待合室、D51の機関車、山陰線の蒸気機関車です)

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拍手

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 先日、「皆勤賞」をもらいました。住み始めた街で、「市民大学」が開講されていて、今年度の後期に、6回にわたる講義が行われ、受講しました。実は、コロナ禍で休講の判断で、開講できない講座もありましたが、みなし出席で全講座出席での「賞」でした。「みなし」での表彰ではありましたが、七十過ぎの受賞で、賞状を額に入れて、壁に掛けたくなるほど嬉しいのです。

 病欠児童で、入学式から、始業式や終業式などもひっくるめて、極めて欠席の多い小学校低学年でしたから、兄たちがもらっていた「賞状」に記してある名を変えて自分のものにしてみたい誘惑にかられることもあり、ただ羨ましい限りでした。

 ところが長男の息子、私たちの孫が、今春、中学を卒業し、何と《3年間の皆勤賞》をもらったそうです。孫の快挙に、ただ拍手したくなったのです。あのノーベル賞を取るよりも、実際的でいいのです。きっと眠かったり、体調が思わしくなかったり、しかもコロナ禍でもあった、それなのにの受賞はすごいなあと思い、褒めて上げたいのです。自分が叶えられなかったことだから、なおさらなのでしょう。

 送り出した母親が、後ろ盾になったのは間違いなさそうです。そういった「忠実さ」は、素晴らしい資質ですね。来月からは、《華の高校生》で、運動部にも入るのだと、父親が言っていました。今も、指を咥えて羨ましがっている、六日皆勤賞、実質は三日皆勤賞のジイジなのです。

 

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漂白の思い

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 窓は夜露に濡れて
 都すでに遠のく
 北へ帰る旅人一人
 涙流れてやまず

 建大 一高 旅高
 追われ闇を旅ゆく
 汲めど酔わぬ恨みの苦杯
 嗟嘆(さたん)干すに由なし

 富も名誉も恋も
 遠きあくがれの日ぞ
 淡きのぞみ はかなき心
 恩愛我を去りぬ

 我が身容(い)るるに狭き
 国を去らむとすれば
 せめて名残りの花の小枝(さえだ)
 尽きぬ未練の色か

 今は黙して行かむ
 何をまた語るべき
 さらば祖国 わがふるさとよ
 明日は異郷の旅路
 明日は異郷の旅路

 (旅順高等学校を退学した宇田博の作詞)

 作詞者の宇田は、素行不良、校則破りで、旧制の旅順高等学校を放校処分で去ります。親が奉天(現在の瀋陽です)にいて、その家に帰ろうと悶々としている数日の間に、作詩をしたのだそうです。この学校は開校五年で、終戦を迎え、外地の学校でしたから廃校となってしまいます。歌に曲がつけられて、まさしく「北帰行」と言う題で、若者たちの間で歌い継がれていました。

 夜行列車の行先で、一番人気があったのは、北は青森行きで、しかも準急でも急行でも特急でもなく、各駅停車の鈍行がいいのです。しかも席は二等車に座る、さまざまな理由があって都落ちの旅の終点が、青森、最果ての北海道を目の前にしているのが、絵にも詩にも歌にもなるのだそうです。新幹線網が拡大され、特急や急行などが消えていきました。鈍行も、切れ切れにつながっていく現況です。

 若い頃、暇を持て余していた私は、旧国鉄の列車で旅行をと考えたのです。失恋したのでも、失業をしたのでもなく学生でした。どこか探しましたら、「西」の長崎県の「平戸口駅」でした。まさに「西帰行」の果てのJR最西端の寂れた小さな駅でした。そこから、平戸の島に船で渡ったのです。キリシタン伴天連の島で、ちょっと異国情緒に触れたかなとの感じがしました。

 人は、前進は南に向かって、後退は北に向かって歩み出す傾向があるのでしょうか。今では、JR新幹線の始発駅は東京駅ですが、歌で歌われた上野駅は、以前は、北の玄関口でした。到着駅は始発駅でもあって、夢破れたり、心傷ついたりすると、そこが故郷でなくても、人は北を目指したくなるのだそうです。

 もしかしたら、流行った歌謡曲の影響なのかも知れません。一様に、現実から離れたり、捨てようとして、北に向かって、逃げて帰るのです。北は、寒さや貧しさや遠さを感じさせるのでしょうか。傷ついた自分を、ありのままに受け入れてくれそうに思うのでしょう。気温が高く、実り多く、住み心地のよい南の街は、相応しくはないのかも知れません。

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 東京駅から1時間弱の街で育った私でも、東京人と言う思いがありませんでした。山梨や長野に向かって走る中央線の沿線で、幼少期を過ごしましたから、東北や北海道と言った北への思いはほとんどありませんでした。北賛歌の歌を聴いて、貧しく思えたし、険しそうにも考えていましたので敬遠していました。

 小学校の社会科の授業で、担任が、「間引き」と言う言葉を教えてくれたことがありました。北上川の蛇行している流れの淀みの近くに、地蔵が多く置かれている理由を話してくれたのです。冷害の不作で飢饉が襲った、北上川上流の寒村で、食べていけないので、生まれて来た赤子を、籐や茅の籠に入れて、川に流すのです。これが、「間引き」でした。間引かれた赤子が、淀みで死んでいるのです。それを村人が葬って、その地点に地蔵を置いたのだそうです。

 今、「北帰行」になったのでしょうか、北関東に居を構えて生活をしているところです。辺りは田圃や畑の広がる平野が広がっていますが、山陰の村は、かつては貧しかったのでしょう、永井荷風の「墨東奇譚」に出てくる私娼窟の街で、身を売っている女性の出身は、栃木の宇都宮の郊外の村の出身だと書いてありました。貧しくて親が娘を売ったのでしょう。

 私の母が、台湾に売られるところを、すんでのところで教会から通報を受けた警察に保護されたと言う話を知って、もし養父母の家が、養父が亡くなって貧しく、借金の証文で身を売らなければならないことだってあったかも知れません。家族が生き抜くために、そんな選び取りをしなければならない人の世の無情に、何となく中学生の私は気付いたのです。

 気付きがあっても、お腹いっぱい食べていた自分には、そんな衝撃的な話は、非現実的でした。それでも忘れることができない、日本人の間にあった、悲しい出来事でした。でも現実を真正面からを見ることのできる眼だけは、育てられたのだと感謝したのです。

 「南帰行」、コロナ禍が収まったら、これをしてみたいものです。自分の人生の大きな転機になったのは、後に8年間、一緒に働き訓練を受ける宣教師が、しばらくおいでだった熊本を訪問した時でした。そこで初めて説教をさせていただき、翌年、勤めていた学校を退職して、献身したのです。恩師はすでに帰天されました。

 その南には、若い頃からの友人夫妻がいますので、交わりができたら嬉しいのです。宣教師に案内されて行った阿蘇の外輪にも、また行ってみたいのです。十七、八年前になるでしょうか、大変な手術をした後に、恢復のために、久留米の友人が快く貸してくださった、温泉付きの別荘のあった湯布院にも行ってみたいのです。

 春立てる霞の頃に、片雲の風に誘われ、隅田川の流れの深川の破れ屋で、白河の関を越えたいと願い、景勝松島にも誘われた芭蕉は、弥生三月の末の七日(今の五月十六日頃)に、墨田の流れの千住で、深川から乗った舟を降りて、旅立ったのです。そういえば、「ちぎれ雲」が飛んでいくのを見ると、芭蕉の「漂泊」の心境になってしまいそうです。コロナ禍ばかりの所為(せい)ではなさそうです。

(深川界隈の図、ちぎれ雲です)

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出会い

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 作詞が寺山修司  、作曲が加藤ヒロシで、「戦争は知らない」は、1968年に歌われていたでしょうか。

野に咲く花の名前は知らない
だけども野に咲く花が好き
ぼうしにいっぱいつみゆけば
なぜか涙が涙が出るの

戦争の日々を何も知らない
だけど私に父はいない
父を想えばあゝ荒野に
赤い夕陽が夕陽が沈む

いくさで死んだ哀しい父さん
私はあなたの娘です
二十年後のこの故郷で
明日お嫁にお嫁に行くの

見ていて下さいはるかな父さん
いわし雲とぶ空の下
いくさ知らずに二十才になって
嫁いで母に母になるの

野に咲く花の名前は知らない
だけども野に咲く花が好き
ぼうしにいっぱいつみゆけば
なぜか涙が涙が出るの

ララララ ララララ・・・

 作詞者の寺山修司のお父さんは、太平洋戦争の折、南方のセレベス島で、戦病死をしています。多感な少年、青年、成年の時代を、異端児という評価を得て通り過ぎて行った非凡であったからでしょうか、常軌を逸したり、途方もない形で、演劇を編集し、実演し、公開した演劇人でした。

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 戦争や、アルコールが原因で、父親を亡くしたことと、彼の生き方とは無関係ではなさそうです。私は、彼の挑戦や挑発には応答しませんでした。寺山と同じ年に、ジョージア州で生まれたアメリカ人の宣教師に出会い、この方と8年間、共に過ごしたのです。聖書をどう読むか、どう解釈するか、どう説教するか、時の動きをどう読み取るか、妻をどう愛するか、子をどう育てるかなどを教わったのです。

 そう言った出会いと感化に導かれたことを、今振り返って見て、ただ感謝を覚えるだけです。多くの人が戦争に飲み込まれ、生き方を変えねばならなかったことでしょう。夢だって捨てた人が大勢いたことでしょう。ただ食べるだけだった時代、それでも知識や言葉や活字や思想に飢え乾きを覚えていた人たちが、多かったのです。

 知り合いの宣教師が、なぜ日本に来たかを聞いたことがあります。『戦場で、残忍な行為をした日本兵に必要なのは福音、十字架だと思いました。それを語るために、教会の主に遣わされて日本に来ました!』とです。

 私たちの群れに、しばらく集っていたフィリピン人の方たちがいました。上の息子がアルバイト先で出会って、彼らを助け、交わりをし、教会にお連れしたのです。その中に、私と同じ年齢の方がいて、お父さんを日本兵に殺されたと言っておいででした。彼は基督者でした。帰国した彼から、フィリピンの礼服が送られてきました。感謝の気持ちを込めてでした。憎しみは憎しみを生み出しますが、赦しは赦しを生みます。赦しと共に感謝が生まれること、それらがウクライナとロシアとの間にも起こることを願いつつ。

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恐れない

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 まさに、寝ばなをくじかれる様な、昨夜の地震でした。東日本大震災の時の揺れよりも大きかったし、驚き加減も酷かったので、大きな被害が起きる様に思ってしまいました。でもラジオニュースを聞いて、慌てた厳粛な様子がしませんでしたので、被害状況がわかる前に、ちょっと安心した次第です。感じた様に、被害が少なかったのは幸いでした。

 古来、日本人は、地が揺れるたびに、同じ様な不安に駆られてきた民族なのでしょう。自分もその一員なのだと思わされました。1923年9月1日の関東大震災では、母は山陰出雲で、父は相模横須賀で、大きな揺れを感じたそうです。その父は、地震で揺れるたびに、子どもたちに大声で号令し、『玄関や戸を開けろ!』と叫んでいたのを覚えています。

 それで、昨夜は、鉄製の玄関の戸を開け放って、次の揺れを警戒してしまいました。親爺の子はオヤジで、叫ばずに、自分で玄関を開けました。地震が来るたびに、聖書の記事を思い出してしまいます。

 『大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます。(ルカ2111節)』

 そんな時代の直中に、私たちはいそうですね。でも、恐れずに、これから、神さまが何をするかを思っていたいものです。

(“イラストAC”による地震です)

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 『 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。(黙示録214節)』

 いつ頃だったでしょうか、寺山修司の詩で、「時には母の ない子のように」を、カルメン・マキという歌手が、悲しそうに歌っていたのを覚えています。

時には母の ない子のように
だまって海を みつめていたい
時には母の ない子のように
ひとりで旅に 出てみたい
だけど心は すぐかわる
母のない子に なったなら
だれにも愛を 話せない

時には母の ない子のように
長い手紙を 書いてみたい
時には母の ない子のように
大きな声で 叫んでみたい
だけど心は すぐかわる
母のない子に なったなら
だれにも愛を 話せない

 世には、父を亡くした子だけではなく、母を亡くした子もいます。死別だけではなく、虐待されたり、捨てられたり、心理的に放てられてしまった母のない子が、多くいそうです。

 『帰ってくれ。この幸せを壊さないで!』、これは、母が17歳の時に、奈良にいると、親戚のおばさんに言われた実母を訪ねて行った時に、玄関先ででしょうか、そこで言われた言葉でした。どんな思いで聞いたことでしょうか。どんな思いを引きずりながら、奈良、福知山を汽車に乗って通過し、出雲の街に帰ったことでしょうか。

 実の子の来訪を喜んでもらったり、優しく語りかけられたり、詫びや謝罪の言葉を聞かないで、実母の元を去るというのは、どんなに辛かっただろうかと思うのです。三十代の半ばの生母としては、精一杯の断腸の思いで、娘に語った言葉だったのでしょう。人生ってなかなか思った様には、上手くいかないものです。

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 でも起死回生、どんでん返し、失ったものが、かえって素晴らしいものを生み出すことがあるのです。母は、実母が亡くなった時に、妹の招きで葬儀に出席したのです。その時、祖母のまくらの下に、一様の写真が隠されていたのです。長男が大学生、次男が高校生、三男が中学生、四男が小学生の時に、街の写真屋で、父に言われて撮ったものでした。

 母が、従姉妹にでも送ったのが、何かのきっかけで、祖母の元に届けられていたのでしょう。きっと、繰り返し繰り返し、見ていたのでしょう。『おばあちゃん!』と言われることのなかった孫たちの成長を、きっと悔いながらも、心の中で願っていたのでしょう。

 それよりも何よりも、友だちに誘われて、教会学校に行き、カナダ人宣教師の愛を受け、その仲良くかかわっている家族に接しながら、聖書に記される神が、「父」であることを、母は知るのです。父無し子、産みの母に捨てられた母が、真正の神を、『お父さま!』と呼び掛けることができたのです。この神は、頬に流れる涙の意味をご存知です。この神を信じ続けて、一生涯を基督者として生きたのです。

 自分の生まれを不条理に感じながらも、それを許された神と出会い、その神を信じられて、昭和を走り抜けた母に、産み育て、最前な道び導いてくれたことを感謝しているのです。この地上にある間は、〈悲しい出来事〉は避けられませんが、それを通して、創造者に出会えるなら、素晴らしいことになります。このお方は、目の涙を拭ってくださる神であります。

 今でも、戦争で父を、母を、子を、祖父母をなくす悲劇が生まれています。悲しくて、ニュースを聞いていられません。神がいないからではありません。人が愚かだからです。ただの人でも、平和を愛し、戦争を憎むことができます。一刻も早い停戦、終結を願ってやみません。

(”キリスト教クリップアート“の賛美する教会です)

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外人部隊

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作詞が大高ひさを、作曲が久我山明の「カスパの女」は、次の様な歌詞の歌でした。1955年(昭和30年)」、小学校6年の時でした。

涙じゃないのよ 浮気な雨に
ちょっぴりこの頬 濡らしただけさ
ここは地の果て アルジェリヤ
どうせカスバの 夜に咲く
酒場の女の うす情け

歌ってあげましょ わたしでよけりゃ
セーヌのたそがれ 瞼の都
花はマロニエ シャンゼリゼ
赤い風車の 踊り子の
いまさらかえらぬ 身の上を

貴方もわたしも 買われた命
恋してみたとて 一夜(ひとよ)の火花
明日はチュニスか モロッコか
泣いて手をふる うしろ影
外人部隊の 白い服

  よくラジオで流れていた、こ歌の中に、『♯明日はチュニスかモロッコか・・・外人部隊♭』と言う歌詞があって、その語句が強烈に思いの中に記されているのです。年配の女性歌手が、少し気だるく歌うのですが、まだ思春期前夜、恋だとか愛に関心の湧くちょっと前のことです。

  『アルジェリアってどこ?』、『チュニスってどこ?』、『モロッコってどこ?」』、『外人部隊ってなに?』、そう思って、地図帳で調べたのです。地中海に面したアフリカ大陸の北に位置していて、もう直ぐに、『行ってみたい!』と言う思いに駆られていました。

  ウクライナへの攻撃のニュースを聞いて、世界中から、その「外人部隊」への志願があると、ニュースが伝えています。ゼレンスキー大統領の要請に応えて、日本でも、自衛隊員だった方たちが、大使館に願い出たそうです。彼らを「義勇兵」と呼ぶのだそうです。

  戦争を避ける人、戦士として祖国のために戦う人、外国から戦争に参加する人、様々な想いが錯綜している今、病人や幼子などが犠牲になっているニュースには、居た堪れないものがあり、どうすることもできないジレンマも感じてしまいます。一番は、〈悲しみ〉が溢れ出るようです。

私には父の弟の叔父がいて、会ったこともないのですが、徴兵されたのでしょう、南方戦線で戦死したと聞いています。祖国のためであって、外人部隊ではなく日本軍に従軍したわけです。

弟の書架に、どうして手に入れたのか聞いたことがないのですが、叔父の名と、学んだ大学の名の記された岩波文庫本がありました。戦前の学生が読んでいた文庫本には、知識欲を満たしてくれるものが多くあって、若者が好んで読んだわけです。「読書子に寄す〜岩波茂雄〜」と言う一文があります。

『真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。かつては民を愚昧ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。

岩波文庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。それは生命ある不朽の書を少数者の書斎と研究室とより解放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめるであろう。近時大量生産予約出版の流行を見る。その広告宣伝の狂態はしばらくおくも、後代にのこすと誇称する全集がその編集に万全の用意をなしたるか。千古の典籍の翻訳企図に敬虔の態度を欠かざりしか。さらに分売を許さず読者を繋縛して数十冊を強うるがごとき、はたしてその揚言する学芸解放のゆえんなりや。

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吾人は天下の名士の声に和してこれを推挙するに躊躇するものである。このときにあたって、岩波書店は自己の責務のいよいよ重大なるを思い、従来の方針の徹底を期するため、すでに十数年以前より志して来た計画を慎重審議この際断然実行することにした。吾人は範をかのレクラム文庫にとり、古今東西にわたって文芸・哲学・社会科学・自然科学等種類のいかんを問わず、いやしくも万人の必読すべき真に古典的価値ある書をきわめて簡易なる形式において逐次刊行し、あらゆる人間に須要なる生活向上の資料、生活批判の原理を提供せんと欲する。

この文庫は予約出版の方法を排したるがゆえに、読者は自己の欲する時に自己の欲する書物を各個に自由に選択することができる。携帯に便にして価格の低きを最主とするがゆえに、外観を顧みざるも内容に至っては厳選最も力を尽くし、従来の岩波出版物の特色をますます発揮せしめようとする。

この計画たるや世間の一時の投機的なるものと異なり、永遠の事業として吾人は微力を傾倒し、あらゆる犠牲を忍んで今後永久に継続発展せしめ、もって文庫の使命を遺憾なく果たさしめることを期する。芸術を愛し知識を求むる士の自ら進んでこの挙に参加し、希望と忠言とを寄せられることは吾人の熱望するところである。その性質上経済的には最も困難多きこの事業にあえて当たらんとする吾人の志を諒として、その達成のため世の読書子とのうるわしき共同を期待する。 昭和二年七月 』

夢を持って学んで、妻子を得て、家庭を築き、社会的な貢献も果たそうと、叔父は思ったに違いありませんが、夢を叶えることなく果てたのです。ウクライナでも、多くの青年が夢を破られ、侵攻のロシア軍の若者も戦死しています。なぜ人は愚を繰り返すのでしょうか。なぜ学ばないのでしょうか。戦争放棄の国、日本も再び戦争に関わるのでしょうか。

東京大学協同組合出版部が、「きけわだつみのこえ」を出版し、今でも、岩波書店刊で買って読めます。戦没学徒の手記です。80年近く前の若者たちの心の思いを知ることができます。重くて悲しい歴史の一頁です。

(モロッコの砂漠です)

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