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窓は夜露に濡れて
都すでに遠のく
北へ帰る旅人一人
涙流れてやまず
建大 一高 旅高
追われ闇を旅ゆく
汲めど酔わぬ恨みの苦杯
嗟嘆(さたん)干すに由なし
富も名誉も恋も
遠きあくがれの日ぞ
淡きのぞみ はかなき心
恩愛我を去りぬ
我が身容(い)るるに狭き
国を去らむとすれば
せめて名残りの花の小枝(さえだ)
尽きぬ未練の色か
今は黙して行かむ
何をまた語るべき
さらば祖国 わがふるさとよ
明日は異郷の旅路
明日は異郷の旅路
(旅順高等学校を退学した宇田博の作詞)
作詞者の宇田は、素行不良、校則破りで、旧制の旅順高等学校を放校処分で去ります。親が奉天(現在の瀋陽です)にいて、その家に帰ろうと悶々としている数日の間に、作詩をしたのだそうです。この学校は開校五年で、終戦を迎え、外地の学校でしたから廃校となってしまいます。歌に曲がつけられて、まさしく「北帰行」と言う題で、若者たちの間で歌い継がれていました。
夜行列車の行先で、一番人気があったのは、北は青森行きで、しかも準急でも急行でも特急でもなく、各駅停車の鈍行がいいのです。しかも席は二等車に座る、さまざまな理由があって都落ちの旅の終点が、青森、最果ての北海道を目の前にしているのが、絵にも詩にも歌にもなるのだそうです。新幹線網が拡大され、特急や急行などが消えていきました。鈍行も、切れ切れにつながっていく現況です。
若い頃、暇を持て余していた私は、旧国鉄の列車で旅行をと考えたのです。失恋したのでも、失業をしたのでもなく学生でした。どこか探しましたら、「西」の長崎県の「平戸口駅」でした。まさに「西帰行」の果てのJR最西端の寂れた小さな駅でした。そこから、平戸の島に船で渡ったのです。キリシタン伴天連の島で、ちょっと異国情緒に触れたかなとの感じがしました。
人は、前進は南に向かって、後退は北に向かって歩み出す傾向があるのでしょうか。今では、JR新幹線の始発駅は東京駅ですが、歌で歌われた上野駅は、以前は、北の玄関口でした。到着駅は始発駅でもあって、夢破れたり、心傷ついたりすると、そこが故郷でなくても、人は北を目指したくなるのだそうです。
もしかしたら、流行った歌謡曲の影響なのかも知れません。一様に、現実から離れたり、捨てようとして、北に向かって、逃げて帰るのです。北は、寒さや貧しさや遠さを感じさせるのでしょうか。傷ついた自分を、ありのままに受け入れてくれそうに思うのでしょう。気温が高く、実り多く、住み心地のよい南の街は、相応しくはないのかも知れません。
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東京駅から1時間弱の街で育った私でも、東京人と言う思いがありませんでした。山梨や長野に向かって走る中央線の沿線で、幼少期を過ごしましたから、東北や北海道と言った北への思いはほとんどありませんでした。北賛歌の歌を聴いて、貧しく思えたし、険しそうにも考えていましたので敬遠していました。
小学校の社会科の授業で、担任が、「間引き」と言う言葉を教えてくれたことがありました。北上川の蛇行している流れの淀みの近くに、地蔵が多く置かれている理由を話してくれたのです。冷害の不作で飢饉が襲った、北上川上流の寒村で、食べていけないので、生まれて来た赤子を、籐や茅の籠に入れて、川に流すのです。これが、「間引き」でした。間引かれた赤子が、淀みで死んでいるのです。それを村人が葬って、その地点に地蔵を置いたのだそうです。
今、「北帰行」になったのでしょうか、北関東に居を構えて生活をしているところです。辺りは田圃や畑の広がる平野が広がっていますが、山陰の村は、かつては貧しかったのでしょう、永井荷風の「墨東奇譚」に出てくる私娼窟の街で、身を売っている女性の出身は、栃木の宇都宮の郊外の村の出身だと書いてありました。貧しくて親が娘を売ったのでしょう。
私の母が、台湾に売られるところを、すんでのところで教会から通報を受けた警察に保護されたと言う話を知って、もし養父母の家が、養父が亡くなって貧しく、借金の証文で身を売らなければならないことだってあったかも知れません。家族が生き抜くために、そんな選び取りをしなければならない人の世の無情に、何となく中学生の私は気付いたのです。
気付きがあっても、お腹いっぱい食べていた自分には、そんな衝撃的な話は、非現実的でした。それでも忘れることができない、日本人の間にあった、悲しい出来事でした。でも現実を真正面からを見ることのできる眼だけは、育てられたのだと感謝したのです。
「南帰行」、コロナ禍が収まったら、これをしてみたいものです。自分の人生の大きな転機になったのは、後に8年間、一緒に働き訓練を受ける宣教師が、しばらくおいでだった熊本を訪問した時でした。そこで初めて説教をさせていただき、翌年、勤めていた学校を退職して、献身したのです。恩師はすでに帰天されました。
その南には、若い頃からの友人夫妻がいますので、交わりができたら嬉しいのです。宣教師に案内されて行った阿蘇の外輪にも、また行ってみたいのです。十七、八年前になるでしょうか、大変な手術をした後に、恢復のために、久留米の友人が快く貸してくださった、温泉付きの別荘のあった湯布院にも行ってみたいのです。
春立てる霞の頃に、片雲の風に誘われ、隅田川の流れの深川の破れ屋で、白河の関を越えたいと願い、景勝松島にも誘われた芭蕉は、弥生三月の末の七日(今の五月十六日頃)に、墨田の流れの千住で、深川から乗った舟を降りて、旅立ったのです。そういえば、「ちぎれ雲」が飛んでいくのを見ると、芭蕉の「漂泊」の心境になってしまいそうです。コロナ禍ばかりの所為(せい)ではなさそうです。
(深川界隈の図、ちぎれ雲です)
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