ああ麗しきかな

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 『私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。 私の助けは、天地を造られた主から来る。 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。 見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。(詩篇12114節)』

 今朝も、洗濯を終えて、いつもなら歩いて行くのですが、小雨でしたので、ちょっと贅沢をして、市営の〈ふれあいバス〉に、100円の後期高齢者のための特別運賃の回数券を切り取って、乗務員に渡して乗車し、近場の温泉に参りました。源泉に浸かりながら、泡の中で「美しき天然」の歌を思い出したのです。


空にさえずる鳥の声
峯より落つる滝の音
大波小波とうとうと
響き絶やせぬ海の音

聞けや人々面白き
この天然の音楽を
調べ自在に弾きたもう
神の御手(おんて)の尊しや


春は桜のあや衣
秋はもみじの唐錦(からにしき)
夏は涼しき月の絹
冬は真白き雪の布

見よや人々美しき
この天然の織物を
手際見事に織りたもう
神のたくみの尊しや


うす墨ひける四方(よも)の山
くれない匂う横がすみ
海辺はるかにうち続く
青松白砂(せいしょうはくさ)の美しさ

見よや人々たぐいなき
この天然のうつし絵を
筆も及ばずかきたもう
神の力の尊しや


朝(あした)に起こる雲の殿
夕べにかかる虹の橋
晴れたる空を見渡せば
青天井に似たるかな

仰げ人々珍らしき
この天然の建築を
かく広大に建てたもう
神の御業(みわざ)の尊しや

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 急峻な山から流れ下る川の渓谷が、自分の生まれた土地でした。渓流の瀬音、それこそが、「子守唄」でした。母の胎内の羊水の動く音を胎児は聞きながら大きくなるのだそうです。そして生まれてすぐに耳にしたのが、盥(たらい)にはったお湯で、村長さんの奥さんが、つかわせてくれた産湯の音だったに違いありません。

 時々行く、お気に入りの天然温泉で、目をつぶって、うつらうつらしながら、流れ落ちる湯の音を聞くと、胎内にいるような錯覚を覚えてしまいそうです。欧州では戦争なのに、また東北では豪雨で洪水まで起きっているのに、日本の北関東の地下1000mから汲み上げた湯に浸っている平和が、何か申し訳ないように感じてしまったのです。

 同世代の退職後の日々を、時々やって来ては、放心したように空を見上げたり、湯の動きを見、湯の湧く音に耳を傾ける同じような、時節柄の「黙浴」する年配者が、ほとんどの湯壺の中です。自分は企業戦士ではなかったのですが、多くの方々は、高度成長期を会社勤めをして、それを終えて、今高齢期を迎えているのです。

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 脛に傷も負わず、手術痕もなく、ただ髪に毛は白くなり、肌のハリも輝きも衰え、目を瞑って湯にしたる横顔は、ちょっと寂しそうな憂いが感じられます。そんな風に思っている自分は、脛にも脇腹に傷跡を持ち、惚けている、そんな様子を見せているに違いありません。

 木陰に飛んでくる鳥の鳴き声が聞こえ、トンボも舞い、小雨もぱらつき、時々薄陽がさし、カナカナ蝉の鳴き声もしています。温泉の塀が邪魔をしていますが、背伸びさえすれば、また外に出れば、雨に霞む大平山も、鍋山も、雲が晴れれば見える男体山も筑波山も、神の造形の世界です。さしもの暑さも、もう秋の気配がする、いい湯だな、あは!と歌い出したくなる、美しき天然の北関東です。

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こんな世相です

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 中国語は、その世相を、実に上手に表す言葉を生み出しています。だいぶ前のことですが、「低头族/低頭族ditouzu」という言葉が、中国の街を賑やかせていました。謙遜でいつも頭を低くしている人のことだと思いましたら、そうではないのです。

 バスや電車に座りながら、また歩きながら、《うつむいている人》のことを、そう言うのだそうです。つまりスマホという新しい携帯を覗き込ん で、まるで画面に取り憑かれたかのように、夢中になって覗き込んだり、操作している人のことです。

 先日、高崎までJR両毛線を行き帰り利用したのですが、ほぼ90%の人が、「低頭族」でした。座席に座っているならまだしも、歩きながらの使用も多かったのです。人にぶつかったり、側溝に落ちたり、車に轢かれたりするケースが多発して、社会問題になっているようです。

 以前は、メールを操作している人が多かったのですが、今や、高機能携帯電話が出現して、溢れるほどの情報を読んだり見たりできるようになっています。わが家にやってきた青年に、いろいろな機能があって、便利だと言うので、私のスマホにダウンロードしてもらったことがありました

 その一つが、ネット販売の支払いのできる支付宝"でした。〈30分以内の配達!〉が売りでした。代金は、銀行の口座から、引き落とされるのです。自分のスマホにダウンロードした“QRコードの画面を提示すると、食堂の支払いも、デリバリーの注文もできるのです。

 また、今いる付近を走行している〈空タクシー〉を見つけ、連絡をとってくれ、待っていると、目の前に止まってくれるのです。その料金の支配いもできます。さらに、公共バスが、幾つ手前のバス停にいるかも、“GPSシステムで調べることができるのです。

 何と、バス停の近くでも、どこの道端にでも、乗り捨て自由の有料自転車が、この街に出現しました。<100元>を契約時に払って、手続きをして、自転車に付いている“QRコードを、自分のスマホでスキャンすると、<1回30分1元>で利用することができ始めています。ちょっと便利すぎて、驚いているところです。まだ活躍してるのでしょうか。

 だから、スマホを覗き込む人が増えているのでしょう。これは、ここの街だけではなく、東京でもニューヨークでもパリでも同じなのだそうです。四角い画面に向かって、何か礼拝をしているように見えますので、その魔力にかからないように、「拒絶」の意思表示をしている方もいるようです。人との会話が激減しています。目を見て、手で触れられる距離での交わりがなくなってしまっています。大いに心配しています。

 私たちの時代は、文庫本や新書版のを、うつむいて読んでいた時代ですが、電車内でも、そう言った人が、両毛線の車内でもみあたりませんでした。もう紙に印刷した情報の時代ではなくなってしまったのですね。それでも電子情報は、ちょっとしたことで失われてしまいかねません。もう回復できないのです。だから、やはりアナログもまた必要で、《備忘録用ノート》に、重要な番号やパスワードを書き写しておく必要がありそうですね。

 もう、この新機能についていけないようなので、このまま続けるか、止めるかを決めかねている、わたしの今です。〈15000points 〉を、マイナンバーカードでもらえるそうで、先日、わが家を訪ねてくださった友人が助けてくださって、家内と2人の分を、スマホで手続きしてgetしていただきました。便利過ぎて、〈高頭族〉のわたしは、やっぱりペンで紙が忘れられない、虫の音が聞こえる八月も半ばであります。

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あさがお

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   今季のアサガオの咲く様子は、ちょっと遠慮がちのように思われます。例年、これまでもかこれまでもかと咲き争うかのように咲き続けていたのに、ちょっと様子が、この夏は違うのです。昨年、咲き残った種が、flower pot の中で自然発生的に芽を出して、いつもより遅く芽が出て、2株ほどはひ弱くて伸びずに終わってしまいました。それでも、隅の2株が生き延びて、咲き始め、ご覧のような咲きっぷりになっています。

 華南の街のベランダに咲き始めた、日本から持っていた種から発芽した朝顔が、咲き出した「喇叭花labahua」は、あたりを圧倒するほどの咲っぷりでした。幼い日の朝顔の印象が、すこぶる良かったのか、花などに鼻をかけなかった自分が、家内が種を蒔いて、鉢に咲かせた朝顔に心が癒されるのを楽しむようになって、毎年、この花を楽しんできています。難しい顔も素振りもしない、幼子のような花の姿が好きなのです。

 夏目漱石は、旧制五高、現在の熊本大学で英語を教えていたことがあります。肥後熊本に、29歳で赴任し、1896年(明治29年)から4年間いました。その熊本にいる間、朝顔を詠んだ句が多くあるのです。

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 朝顔の黄なるが咲くと申しきぬ

 熊本には、「肥後六花」と言って、椿、芍薬、花菖蒲、菊、山茶花、そして「肥後朝顔」があります。明治二十年代に、朝顔の栽培が流行したそうで、淡青色の花が主流だったのですが、「黄色」の朝顔が、品種改良で誕生し、その驚きを漱石が作句した次第です。

 奈良時代に、遣唐使が、帰り船で持ち帰った朝顔が気に入って栽培がなされていったようです。二十一世紀に入って、華南の街に帰る時に、わたしは、種苗店で買った「朝顔の種」を、荷の中に忍ばせて持ち出したのです。そして、当時住んでいた集合住宅の7階の台所の流しの下で、家内が芽を出させた小さな苗を、flower pot に植え替えて、ベランダに置いたのです。

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 里帰りの朝顔は、ふるさと回帰を喜んだのか、旺盛に咲き、ベランダいっぱいで咲き続けたのです。その咲き終わった種を持ち帰って、栃木市の沼和田の軒先に植えたのです。行ったり帰ったり、子や孫の代の朝顔は、綺麗に咲いてくれました。残念なことに、十九年の秋の洪水で種を失ってしまいました。

 大型薬販売店の店頭にあった、袋に入った種を買って蒔いた種の子種が、この上の写真の朝顔の花なのです。

 今年もと 咲くを楽しむ 喇叭花

(昨日の朝顔、肥後朝顔、華南の町に咲いた時の喇叭です)

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こんな視線を向けて

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 作詞が林 柳波、作曲が松島 つねで、「おうま」という童謡があります。戦時下の1941年(すぐ上の兄が生まれた年です)に発表された歌で、軍部が、軍馬を取り上げて歌い上げようと、作詞者の林柳波に依頼したのですが、その国策の考えに同意できなかった柳波が、こんな優しい歌詞に仕上げたのです。

おうまのおやこは なかよしこよし
いつでもいっしょに
ぽっくりぽっくりあるく

おうまのかあさん やさしいかあさん
こうまをみながら
ぽっくりぽっくりあるく

おうまのおやこは なかよしこよし
いつでもいっしょに
ぽっくりぽっくりあるく

おうまのかあさん やさしいかあさん
こうまをみながら
ぽっくりぽっくり

 毎週のように送られてくるビデオ映像や画像があります。外孫の従兄弟にあたる、二歳の女の子が、主役です。高校で野球をやっている、実際は、Home school で学んでいるのですが、街の高校に、色々とプログラムがあって、それに参加して活躍している16歳の孫に、肩車をされた写真も、最近送信されて来ました。まさに、ジャイアンツと幼子なのです。

 孫たちの育っていく様子を、ほとんど見られなかった、大陸にいた私たちには、この子の成長ぶりに、目を細めてしまっているのです。この子にも肖像権があるので、この Blog に、正面からアップできないのが残念で仕方がないほど、可愛いのです。

 この子が、腰に手を当てているのでしょうか、スカートをさわりながら歩く様子を見てたら、この歌を思い出したのです。ふざけてるのか、おどけているのか、真っ直ぐに歩かないで 、あっちにちょっかいを出してはと、humorous な素振りが、ぽっくりぽっくりと歩くように思えてしまうのです。

 自分の4人の子に、こんな視線を向けた記憶がないのが、彼らに申し訳ないのです。食べさせ、着せ、学ばせ、遊ばせで、子育てに精一杯で、ゆとりがなく育てたからでしょうか。セッカチでありながら、〈30分前主義〉の父親の行動に、つきあわされた彼らに、こんなゆったりした目線を送ってあげたかったなと、遅きに失した反省をしている今なのです。

 仕事に出るお母さんが、次女の家に預けていく女の子で、娘を、〈ゾオミ〉と呼んでくれると、嬉しそうに言ってきます。こんな平和で和やかな光景を見ることが、わたしにはできるのですが、戦乱の巷となっているウクライナではとてもとても難しいのでしょう。同じ年頃の幼い子たちが、砲弾の下にあるのが悲しくて仕方がありません。

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捲土重来の夏

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 四字熟語、漢字の面白さ、奥深さ、広がりを感じさせる中国語の凄さを感じさせられます。

 秦の時代の末期に、項羽が自害をして果てます。その死を悼んで、詩人の杜牧が、「烏江亭に題す」に書き残したのが、「捲土重来(けんどじゅうらい、けんどちょうらい/両方の読みが正しいとされています)」の四字熟語の出典元なのです。「楚漢戦争」で、劉邦と戦いましたが、善戦及ばず負けて、「四面楚歌(しめんそか)」の状況下で、自ら命を絶ってしまうのです。武将は、一度は負けても、その恥を忍んで、その負けを盛り返して、再び戦おうとして欲しかった思いを、杜牧が、そう詠んだのです。

 国学院大学栃木高校が、長年の県高校野球の王者の作新学院を破って、全国高校野球選手権大会に、栃木県代表として出場し、第二回戦の相手、昨年の覇者の智弁和歌山高校と対戦し、逆転勝利で第3回戦の進出を、今日(13日)決めました。

 『・・・3月11日の練習開始前、柄目直人監督は選手たちに向かって、語りかけた。この日は、東日本大震災から11年目。指揮官は「今から11年前の今日、大震災が起こった。東北では津波によって多くの命が失われ、君たちと同じ高校生も命を落とした。あの災害を忘れてはいけない。震災の爪痕がまだ残っている中で、野球ができることに感謝しなければいけない。コロナ禍で練習が制限されているが、今この瞬間を大切にしよう。」と語ったそうです。

 今年の「国栃」野球部のクラブ・スローガンは、その「捲土重来」なのです。大平山に散歩に出かけることのあるわたしは、学校の横の坂道を登っていくのですが、その左脇に、「国栃」があります。陸上のトラックは見えますが、野球場は目に入りません。栃木市民としてもあり、地元出場校の応援、またこの学校の大学を出た、高等部の国語教師に、中学生のわたしは、「漢文」や「奥の細道」を教えられたことを思い出して応援しているのです。

 屈託がなく、Sports man spirit をもって戦う、高校球児の姿は、汗にまみれ、土に汚れながら、泣いたり笑ったり、悔しがったり喜んだりする姿は、どの出場校も素敵です。県代表になれなかった年月を思い返して、悔しい想いを受け継いできたので、「捲土重来」と、平和なスポーツの場面で、正直に、そして若者らしく感じたからなのでしょう。健闘を期待します。
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にがくも楽しい思い出が

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 まだ熊本の天草では、「ハマボウ」が綺麗に咲いているでしょうか。18の夏に、九州旅行に出かけ、小倉や別府や宮崎、長崎と平戸、熊本や鹿児島を訪ねました。結構大掛かりな貧乏旅行で、そこを訪ねたのです。

 熊本から、船で天草に行きました。まだ島と島とを結ぶ橋ができる前だったのです。天草の本渡に着いた日は、『台風が来る!』言っていた日でした。宿を、案内所で見つけたのですが、夜中の暴雨風で、窓が壊れてしまい、その晩は眠ることができなかったのです。天気予報に注意していたら、別のコースをとれたのにと、悔やんだものでした。でも実に美しい海の景色を見せてくれた所でした。

 そこ天草は、江戸時代の初期に、「天草四郎」という人物がいて、今の長崎県で起こった「島原の乱」のことを学んでいましたので、そこが、天草四郎の生まれた地であったことを思って、はるか昔に思いを馳せることができました。この天草四郎も、「ハマボウ」を眺め、朝日や夕日に映える故郷を楽しんでいたのでしょうか。

 ここは、島原半島と並んで、「からゆきさん(唐行きさん/”とは外国のことを意味していました)」として、東南アジアに売られて行った女性を、多く輩出した地であったそうです。「サンダカン八番娼館(山崎朋子作)」で有名になったのですが(ボルネオ島の西部にある街)、そこに、「娼館」があって、異国の地で亡くなった方の墓があったりと、悲しい物語を伝えています。

 この天草は、もう一度行って見たい思いがしています。滞華中に訪ねました、友人の故郷の東シナ海の「東壁島」も美しい島でした。そこで生活をするのは、かつては大変な苦労があったことが分かる、島の雰囲気を感じたのです。貧しさを克服するために、海外に出ていかざるを得なかったのでしょう。その海外からの仕送りで建てられた、まるで御殿の様に石造りの家が立ち並んでいたのです。また弟のために、シンガポールで働き、激しい労働で稼いだ金の仕送りで、大学で学ばせてくれた兄への想いを、大学教授を退職した弟さんがが話してくれました。

 それを見るほどに、漁業だけでは生きて行けませんし、農業にも土地が向いていない、さらに工業誘致もままならない中で、豪華な家々は、ミスマッチだったのです。一年に一度、「春節」に帰って来て、親族を招き合って、共に交わりをするための家なのです。計り知れない苦労や刻苦が感じられてなりませんでした。その様な光景は、天草では見られなかったのです。その島で、「ハマボウ」の様な花を見かけませんでした。

 わたしたちの世代は、日本が一番元気になろうとしていた時代、地方から大都市に向かって、中学校を卒業して、集団就職列車に乗って、大阪、名古屋、東京に十五歳のみなさんが出掛けていきました。一所懸命に働き、伴侶と出会って、家庭を築き、子育てをして、この国を支えて来た世代です。今温泉は、仕事を終えた企業戦士たちが、静かに目を閉じて湯に浸かり、椅子に座して時を静かに過ごしています。

 ハマボウの花ことばは、「楽しい思い出」なのだそうです。苦しさも、年を重ねた今になると、苦しかったことは忘れてしまい、全てが懐かしく、思い出にふけるのでしょうか。楽しかった過去の思い出が、一コマ一コマと瞼(まぶた)映し出されて来ます。悔いも涙もないのです。

(天草市の市の花のハマボウです)

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あの空間と雰囲気が

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 昨日の朝のベランダで、秋風を頬に感じたのです。立秋を過ぎた残暑は、今朝6時の時点で、35の予報が出て、酷暑の日が続いていますが、それでも着実に季節は移ろいゆこうとしています。そう言えば、飛ぶ赤とんぼも見かけ、蜩(ひぐらし)の鳴き声も聞こえ、高級葡萄がスイカに代わって、店先に並んでいます。

 季節の先取り、昨日は、美味しい梨(幸水でした)をいただき、『今年は皮が硬め!』と言ってナスを、ゴーヤと一緒に、家内の友人が持って来てくれました。今日は、わたしの恩師の息子さんが、家族で訪ねてくれました。

 『家族でおいでください!』と、年に一、二度、必ずと言って招いてくださって、乗り古した車に、4人の子を押し込んで、国道を南下して、訪ねたのです。太平洋からの潮風を感じて、大海原を眺めると、ホッとさせられたのです。それ以上に、招いてくださる、二十歳年上で、誕生日が同じの宣教師の家の二階で、あんなにゆっくりした時を持たせていただいた日々が忘れられません。

 その方の息子さんで、ご両親と同じく日本を愛して、宣教の業をなさっていて、親子二代で、わたしたちに好意を示し続けてくださっているご家族なのです。13年の間、support  し続けてくださり、中国から帰国すると、教会に招いてくださって、泊まったことのないようなホテルに部屋をとってくださったりしたのです。

 家内が入院してからも、退院してからも、そして今日は、三人のお子さんたちを伴って奥さまと訪ねてくれました。彼のお父さまの教会では、交わり会が持たれ、単身で訪ねましたし、日曜礼拝に説教の機会を備えてくださったり、ご子息も、お父さまの世話に預かったわたしたちを、まさに親子二代でもてなし、訪ねてくれるのです。

 お父さまの教会で、ご馳走になった、〈タコライス〉のTochigi version で、お昼を用意したのです。ご飯、とんがりコーン、牛のひき肉、炒り卵、トマト、キュウリ、レタス、ブロッコリーsprout 、ソース(ケチャップ、コンソメ、擦りリンゴ、擦りスモモ、etc )、果物のデザート、コーヒー、ジュース、クッキーで準備したのです。好評でした。

 《2階の食卓の空間》で時を過ごして、時を共有し、もてなしを受け、激励されて、再び、自分の任地に戻った日を、忘れたことがありません。無言の激励は、まさに宝でした。その息子さんが奥さまと、よく子育てをされていて、あの親の恩を子と孫とにお返しした、「愛の交換」の〈山の日〉でした。

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良い態度を持つように

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 くり返し、諭すように、わたしを、〈伝道者〉に育ててくださった方が、言われたのは、“ Having a good attitude “ でした。つまり、『良い態度を持つように!』とでした。そして、この方の友人たちが来ると、オウム返しのように、同じことを言っては帰って行かれました。

 相当、わたしの態度が悪かったからなのか、キリストとキリストの教会に仕える者が、どうしても持っていなければならない資質や生き方や在り方が、《良い態度》だからでしょうか、それを身につけるようにと、彼らは願ったのです。人生の初めの時期に、これを学ぶことこそ、人生を成功的に生きていける秘訣に違いありません。

 この人は、キリスト教会の伝道者ではありませんし、会ったこともない方ですが、映像で見たり、文章で読んだりして、この《態度の素晴らしい人物》がいます。MLBで大活躍している、日本人選手の「大谷翔平」さんです。

 プロ野球の選手としての成績はもちろん、人間性についても、悪く言う人がいないほどに輝いているのです。プロ野球の世界は、成績だけが問題にされるのですから、このような人間性については、法を犯さなかったり、人の道を踏み外していない限り、問題視されることはありません。

 ところが、日本のマスコミの偏見なのではなさそうで、アメリカの野球関係者も、大谷選手を高評価をしているのです。昨年の活躍は周知の通りでして、今年度の成績も素晴らしいものがあります。今日の試合で、バッターとして25ホームランを打ち、ピッチャーとして10勝を上げたのです。アメリカンリーグの「ベーブ・ルース」に並び、「シーズン2ケタ勝利&2ケタ本塁打」に達成したのです。

 驕ることも、高ぶることも、横柄な振る舞いをするでもなく、バッターボックスで〈ゴミ〉まで拾い、ball boy にも紳士的にやさしく接しているのです。岩手県が生んだ、素晴らしい青年です。「爽やかさ」と「素直さ」が、彼なのです。今日は、良い成績だからではなく、《良い態度を身につけている人》として、わたしは彼を誉めたいのです。

 同じ今日は、孫が今春入学した学校が、甲子園で勝利をおさめたのです。ヒットを打つと、「立てよいざ立て主の強者」をブラバンが演奏していました。野球部ではなく、陸上部に入部した彼は、昨日新幹線で出掛けて、今日の試合の応援をして、夕刻、帰って来たようです。「バーチャル高校野球」が配信する動画の中に、その試合に釘付けにされた家内は、応援団席にいる孫の無事を祈りながら探していました。

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良き友、メンターを持つこと

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イスラエルの国に伝わる故事に、王である父親に、弓を引いて、謀反を起こした息子の物語が残されています。息子が自分の野心を成就するためにしたことを、国民の「心を盗んだ」と、そこに記されています。

 父親に相談を求めて、訪ねて来る者を、父の家の門に通じる道のそばに立って、その一人一人の訪問客を、その息子は呼ぶのです。そして、『お前はどこの町の者か?』と問い掛けます。どこの部族かを聞き出すと、今度は、『お前の訴えようとしていることは好くて、正しい。でも、王の配下には、お前の訴えを聞いてくれる能力のある器はいない!』と言って、暗に、自分には、その能力があり、その器であることを示すのです。

 自分に挨拶をして、近づく者全てに、この息子は、手を差し伸べて、抱いて、口付けまでするのです。人を、<手懐ける術>に長けていた息子は、そのようにして、人の心を盗んで、自分に靡(なび)かせていったのです。どうも、そのような術策を、彼に勧めた腹心の部下がいた様です。人は、どんな人格、どんな価値観、どんな計画を持つ者を、自分の「相談者」にするかによって、成功と失敗の違いをもたらすのです。

 父親は、そんな巧みな方法で、野心を遂げる息子に手出しをしませんでした。自分の街や国に混乱が起こるのを避けて、泣きながら都落ちをします。その時、父親は、かつて自分の優秀な議官であった者が、息子の<メンター/ mentor /助言者>になったことを、部下から聞くのです。この息子の助言者は、驚くほどの知恵者であったのです。父親は、『もう駄目だ!』と思ったのでしょう。でも、息子をなじることはしませんでしたが、『この助言者の語る言葉が、愚かなものになる様に!』と叫ぶのでした。

 その叫びが叶うのです。息子の助言者になっていたのが、もう一人の自分の部下でした。父親は、この部下に、『あなたのお父上の議官をした方の今回の謀(はかりごと)は良くありません!』と言わせるのです。息子は、その助言を聞いてしまうのです。結局、この策謀が成功してしまいます。自分の進言が取り上げられないことを知った、智者は、家を整理し、故郷に帰って、自殺をしてしまったのです。

 正しくない心を持つ助言者の末路は哀れです。結局、父は、息子を討ち取ることになります。その死んでしまった息子の亡骸を抱いた父親の嘆きは、人並みではなかったのです。戦乱の世とは、実に大変な時であるのですね。この父親のことが、次の様に書き残されています。『すべての国民を、あたかも一人の人の心の様に、自分に靡かせた!』とです。

 私たちの国の政治指導者が、どんな助言者をもっていたのか、また、どんな財政的な援助者がいたのかが露呈して、この「故事」を思い出しました。指導的な立場の人が、どんな助言者、メンターを持ち、どんな進言や助言、試案に耳を傾けるのか、興味津々で見守っていきたいと、思わされています。願わくば、人や祖国への愛とか優しさとか、公正さとか正直さを持つ助言者を、持たれるように、心から願うものです。そして、わたしたちも、どのようなメンター(忠告者)を持ち、どんな忠告や進言や術策に耳を傾けるかは、とても大切なことであります。そして、「良き友」を持つことです。彼こそはメンターとなりうる人だからです。

( “ キリスト教クリップアート“ のイラストです)

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悲しい別れ

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 このブログは、16年前の2006年3月26日に投稿したものの再投稿です。

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 『俺って、お袋に抱かれたことがないんだ。オヤジが誰なのかも分からない。生まれて、すぐに道端に捨てられていたから。拾って抱き上げて育ててくれた人がいる。あの日に死んでいたはずの俺なのに。この人は、震えていた俺を抱いて、あやして名前までつけてくれた。

 でも、世話をし続けることが出来なくなって、別の家族に引き取られてしまった。そこでも、十二分の愛情を注がれて育てられた俺だけど、外の世界の自由な空気を吸いたくて、ついに飛び出してしまった。生きる術などまったく知らなかったし、どうやって、自分で食べて行ったらよいのかも学んでいなかった。外の世界の現実は冷たかったのだ。物音におびえ、足音や車のきしむ音が聞こえると影に身を潜めた。

 おなかのすいた俺は、申し訳ない思いを持って、主人の所に舞い戻ったのだ。そこには、俺を養い育ててくれた人が、心配して外で帰りを待ち望んでいたのだ。そこに申し訳ない思いを込めて、『ニャーオ!』と鳴いて走り寄って、主人の腕の中に飛び込んだ。食べることも、眠ることも出来なかった俺を、再び暖かく迎え入れてくれたのだ。感謝なことである(「放蕩息子物語~ネコ・バージョン~」)。』

 この「俺」は、猫の「タッカー」なのです。南信の飯田の町の道端で震えて鳴いていたのを、娘婿が拾い上げて家に連れ帰って、育てた猫です。アメリカに帰って行く時に、どうしても連れて行くことが出来なくて、私と家内が adapt アダプトしたのです。来客があったとき、玄関から走り出て二泊三日の「脱走」をしたました。娘が、「ネコ寄せネズミ」を置いていったので、それを持っては外に出て、玄関で振っては、帰りを待っていたのです。

 すると、『ニヤーオ』と一声鳴いて車の陰から走り出て来たではありませんか。食べられない眠れない数日を過ごした彼の帰還を祝って、その晩、缶詰を切ってお祝い会を開いて上げたのです。実に美味しそうに食べ終えたら、彼の所定の場所、茶箪笥の上に行って、そこで2~3日、眠り続けていました。実はもう一匹、娘婿が拾ってきた「スティービー」も我が家にいるのです。彼女は、タッカーの脱走中に、三日ほどまったく落ち着きを失って、異常な行動をとっていたのです。

 ところが、《お兄ちゃん》が帰って来ましたら、その歓迎振りはすごいものでした。二匹とも野良猫だったのを拾われた境遇を同じくしていたので、兄のように慕って、共に過ごしてきていましたから。

 まったく捨て猫で野良猫のような私を、万物の創造の神が、御子の十字架の血の代価で、買い戻してくれて、養子縁組によって、「子」の身分を与えてくれたのです。そして、何と「共同相続人」にもしてくれたわけです。ところが自分勝手の道に迷い出た時も、しっかりと見守っていてくださって、『帰って来る!』と確信して待ち続けてくれたのです。帰って来た時、わたしを見つけ、走り寄り、ハグしてくれ、口づけまでしてくれました。ボロ着を脱がせて一番上等な着物を着せてくれ、指輪をはめ、靴を履かせ、祝宴を催してくれたのです。

 今回のタッカーの脱走劇から、なぜか二重写しに自分の姿を見たようでした。私は、『大好きな俺のとうちゃん!』と、父なる神を呼べるように復権してくださったわけです。感謝なことであります。

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 この投稿から4ヶ月後、わたしたちは、香港経由で北京に行くことになったのです。この二匹の猫を、保護センターに連れて行かなければなりませんでした。情が移っていた二匹と、そういった別れをしなければなりませんでした。

 猫嫌いなわたしが、猫の可愛さを知って、懐かれ、すり寄られる喜びを知っての別離は、泣きたいほどでした。持ち物のほとんどを処分してしまっても、生き物との別離は悲しかったのです。冬用のセーターを、中国に持っていったのですが、家内は、スティビーの毛を、そこに見つけて泣いていました。

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