『私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。 私の助けは、天地を造られた主から来る。 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。 見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。(詩篇121篇1~4節)』
今朝も、洗濯を終えて、いつもなら歩いて行くのですが、小雨でしたので、ちょっと贅沢をして、市営の〈ふれあいバス〉に、100円の後期高齢者のための特別運賃の回数券を切り取って、乗務員に渡して乗車し、近場の温泉に参りました。源泉に浸かりながら、泡の中で「美しき天然」の歌を思い出したのです。
一
空にさえずる鳥の声
峯より落つる滝の音
大波小波とうとうと
響き絶やせぬ海の音
聞けや人々面白き
この天然の音楽を
調べ自在に弾きたもう
神の御手(おんて)の尊しや
二
春は桜のあや衣
秋はもみじの唐錦(からにしき)
夏は涼しき月の絹
冬は真白き雪の布
見よや人々美しき
この天然の織物を
手際見事に織りたもう
神のたくみの尊しや
三
うす墨ひける四方(よも)の山
くれない匂う横がすみ
海辺はるかにうち続く
青松白砂(せいしょうはくさ)の美しさ
見よや人々たぐいなき
この天然のうつし絵を
筆も及ばずかきたもう
神の力の尊しや
四
朝(あした)に起こる雲の殿
夕べにかかる虹の橋
晴れたる空を見渡せば
青天井に似たるかな
仰げ人々珍らしき
この天然の建築を
かく広大に建てたもう
神の御業(みわざ)の尊しや
急峻な山から流れ下る川の渓谷が、自分の生まれた土地でした。渓流の瀬音、それこそが、「子守唄」でした。母の胎内の羊水の動く音を胎児は聞きながら大きくなるのだそうです。そして生まれてすぐに耳にしたのが、盥(たらい)にはったお湯で、村長さんの奥さんが、つかわせてくれた産湯の音だったに違いありません。
時々行く、お気に入りの天然温泉で、目をつぶって、うつらうつらしながら、流れ落ちる湯の音を聞くと、胎内にいるような錯覚を覚えてしまいそうです。欧州では戦争なのに、また東北では豪雨で洪水まで起きっているのに、日本の北関東の地下1000mから汲み上げた湯に浸っている平和が、何か申し訳ないように感じてしまったのです。
同世代の退職後の日々を、時々やって来ては、放心したように空を見上げたり、湯の動きを見、湯の湧く音に耳を傾ける同じような、時節柄の「黙浴」する年配者が、ほとんどの湯壺の中です。自分は企業戦士ではなかったのですが、多くの方々は、高度成長期を会社勤めをして、それを終えて、今高齢期を迎えているのです。
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脛に傷も負わず、手術痕もなく、ただ髪に毛は白くなり、肌のハリも輝きも衰え、目を瞑って湯にしたる横顔は、ちょっと寂しそうな憂いが感じられます。そんな風に思っている自分は、脛にも脇腹に傷跡を持ち、惚けている、そんな様子を見せているに違いありません。
木陰に飛んでくる鳥の鳴き声が聞こえ、トンボも舞い、小雨もぱらつき、時々薄陽がさし、カナカナ蝉の鳴き声もしています。温泉の塀が邪魔をしていますが、背伸びさえすれば、また外に出れば、雨に霞む大平山も、鍋山も、雲が晴れれば見える男体山も筑波山も、神の造形の世界です。さしもの暑さも、もう秋の気配がする、♭ いい湯だな、あは! ♯ と歌い出したくなる、美しき天然の北関東です。
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