コスモス

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 散歩道の脇に池があります。先週も、総合運動公園への道を、少し course に変化をもたせて、警察署の脇にある池で、一人の釣り人が竿を垂れて、水面を眺めていました。ああやって魚がかかるのを待つのも、老いの生き方の一つなのかと思うのですが、一所に座り込んで、半日を過ごすよりは、川辺や庭先に咲く、季節の花を眺めながら、歩く方が良さそうです。

 3週間ほど前からは、コスモスが目立って、どこにも咲いています。もうずっと前のことですが、子どもたちが帰郷した時に、〈コスモス街道で満開!〉というnews を聞いていたので、ちょっと距離があったのですが、みんなを誘って、その街道に出かけたたことがありました。

 秋の信州は、生まれ故郷に似て好きで、時々出かけたのです。その日、「コスモス街道」に着きましたら、三つほどの畑に、コスモスが咲いていました。延々と街道沿いに咲き誇っているように期待したのですが、一郭に植えられてあっただけで、あっさりしていました。そこにテントが張られて、私たちのように、コスモス目当てに来た観光客に、食べ物が提供されたていたのです。

 コスモスへの期待は裏切られたのですが、時あたかも《食欲の秋》でもありましたし、朝食もそこそこ食べただけでしたから、その地の農家のみなさんの炊き出しで、みんなでお昼をいただくことができたのです。子どもの頃に通学路の脇に咲いていたコスモスと同じ、淡いピンクの花は歓迎してくれていました。

 この花は、赤道間近の中米が原産で、スペインに持ち帰られてから、世界中に種子が広く行き渡り、日本には、明治12年(1890年)にやってきたのだそうです。ギリシャ語の κόσμος (調和、秩序、宇宙といった意味です)を、「秋桜」と書いて、コスモスと読ますのですが、こういった当て字を、当てた方は、感性が豊かだったのでしょう。

 洪水にあう前に住んでいた家の庭に、種を蒔いて、コスモスの花が咲き始めましたら、それを見た小朋友のお嬢さんが、家に来るたびに、その花を欲しがったのです。家内は刈って、柔らかな紙に包んであげていました。さあ花を愛でる心が、大きくなあーれ!

(散歩道に咲いていた路傍のコスモスです)

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山形県

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 戦時中、自分が生まれる前に、両親と兄たちは、山形にいたようです。鉱山関係の仕事をしていた関係でです。父は、戦時中のことについて、子どもの私たちには、ほとんど話しませんでした。国策の仕事に従事した人たちや軍関係者は、戦時下のことに口をつぐんでいたのです。父然りでしょうか。ですから憶測する以外にありません。

 この県も訪ねたり、旅行をしたことはありませんが、学校の同級生が、この県(本庄市)の出身で、机を並べて一緒に学びました。穏やかな性格の人で、自分とは違ったものを持って生きていました。何度か手紙のやりとりのまま今になってしまっています。

 山形県には、江戸期には、鉱山があったそうで、金や銅などの採掘が行われていたそうです。父が戦時中に働いていた軍需工場の会社名が分かっていますので、戦前、戦時中に操業していたのは、山形県下で2箇所ほどありました。きっと、そのどちらかの鉱山で仕事をし、戦火が激しくなった段階で、国策事業の従事で、鉱石の増産のために中部山岳の現場を任され、赴任したようです。

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 この山形県は、芭蕉が歩いていまして、ここには芭蕉の弟子が多かったそうで、芭蕉を囲んで句会が多く開かれたようです。芭蕉自身も旅の途上で、多くの俳句を読んでいます。最上川の大石田を訪ねた時には、次のように詠んでいます。

 五月雨を集めめて涼し最上川(五月雨を集めて早し最上川)

 芭蕉が訪ねた大石田と言う村は、私たちが今、住んでいる家の横を流れる巴波川と同じ「舟運」が盛んで、その「河岸(かし)」があって、賑わっていたそうです。最上川の流れを利して、同じように物資の輸送が行われていたそうです。北前船が運ぶ荷を、酒田の港で、小型の舟に載せ替えて、最上川を登って、新庄、米沢と物資を運んでいたのです。下りは、米や紅花や青苧や大豆などが、京都や大阪、年貢米は江戸にまで運ばれたそうです。

 江戸期から明治まで、日本中で、河川を利用した舟運が盛んでした。在華中、友人が誘ってくださって、ユネスコの世界遺産である「武威山(wuyishan)」に行った時に、竹で作られた筏で、川下りをしたことがありました。船頭さんは、竹の竿を流れに竿さして、巧みに操ってくれたのです。日本の川と違って、流れが緩やかなので、悠長に流れる中を、静か下ったのです。船頭さんに、舟運について質問しておけばよかったと悔やんでいます。

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 芭蕉も、大石田から、川を利用して降ったのでしょうか。「出羽三山」と言われる羽黒山、月山、湯殿山が有名です。また米沢は、名君と謳われた上杉鷹山(治憲)の城下町でした。名君の葬儀が行われた時には、その死を悼む領民の葬列が、延々と続いていたほどだったと聞き、どれほど慕われていたかが分かりました。

 この山形県には、「飛島(とびしま)」という島嶼部があるそうで、今や人気の移住地になっているのです。漁業の行われる島だそうで、人気の観光地となっているのです。観光と住むこととは分けなければなりませんが、いくら美しい島でも、生活が成り立たなければ意味がありませんね。

 古来、紅花染が行われています。中近東原産の紅花が、日本には、3世紀ごろに入ってきて、栽培が徐々に盛んに行われてきています。山形では室町時代の終わり頃に植え付けが始まって、栄えていきました。芭蕉も訪ねている大石田は、この紅花の集積地だったようです。

 県人口が、100万人ほどの県ですが、政治家の緒方竹虎、法学者の我妻栄、軍人の石原莞爾、写真家の土門拳、作家の藤沢周平、歌人で医師の佐藤茂吉などの方々が世に出ています。

 口は重いのですが、勢いを得ると一気に話すような感じです。東北人は、訛りが強いので、話す時、それが出ないように、一瞬戸惑うのでしょうか。最上川は、NHK連続テレビ小説「おしん」の舞台でもありました。おしんが船頭の漕ぐ舟で、家を離れる場面には泣かされました。

(庄内平野の鳥海山、大石田付近の最上川、紅花染です)

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魅力度?

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 「地域ブランド調査2021」の enquête(アンケート)結果から、47都道府県の魅力度ランキングの結果が出ています。父と母の生まれ育った県、生まれた県、育った県、働いた県、老後を過ごしてる県、行きたい県、住んでみたい県など、様々です。それぞれに思い出や、肝入りがあっていいので、魅力度を図って、ranking を決めてしまうのに、賛成しかねます。

 満遍なく訪ね、そこに住む人々に接して、長い生活の跡を見てからでなくては、何も言えないのではないかと思うのです。北海道から始めて、沖縄まで、思うことを記してみたくて、ブログの題材に取り上げていますが、前回最下位の栃木県に住み始めて3年近くになりますが、生まれた県、育った東京よりも、《身の丈に見合った生活》を楽しみ、感謝することができて、家内と二人にとっては、とても魅力ある県なのです。

今回最下位の茨城県、隣の県です。子育て中に、海の家に行きました。じつに楽しいひと時を過ぎしたのです。弟の教え子の経営する海浜のホテルに、泊めていただき、海の幸で溢れるほどのおもてなしを受けたことがありました。東日本大震災の後でした。そのホテルも津波で被災していました。じつに素敵な思い出があります。水戸の偕楽園のお土産を、水戸出身の方から何度かいただき、ほっぺが落ちるほど美味しかったのです。

群馬県も、明治の興業期の富岡製糸場があって、日本近代化を牽引したのを忘れてはなりません。今夏、水上で2日間過ごしたのですが、自然は美しいし、人は親切ですし、食べ物も美味しかったのです。埼玉県民であったこともあります。日本有数の古墳群の「さきたま古墳」があり、日本の歴史の中では重要な学問的な価値を持っています。親切で、垢抜けた人が多い県なのです。島根鳥取、コロナ感染者が少ない県でしたし、母は出雲今市小町でした。近県隣県、どこも素敵です。ranking に惑わされずに、魅力を発揮して欲しいものです。どこの県にも、素晴らしい優点や歴史や営みがあります。

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岩手県

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 今日は、岩手県について記そうと思いますが、先ずを。長野県の南信、南アルプスの山際に、大鹿村があります。長野県では二番目に山奥に位置する村だそうで、人口907人(202191日現在)で、林業の村です。この村は、「榑木(くれき)」という屋根材になる木材を産出してきて、江戸期には〈年貢〉として納めていたそうです。村は財政的に豊かだったので、文化的な活動の「村歌舞伎」が行えるほどだったそうです。映画化もされていました。

 次女の夫が、飯田市付近の県立高校の英語教師をしていた時、誘われて「大鹿歌舞伎」を観劇したことがありました。この大鹿歌舞伎は、1767(明和4)年にはすでに上演されていたそうで、私たちが見たのは、歌舞伎の定番、「藤原伝授手習鏡〜寺小屋の段〜」の演目でした。

 主君のために、家臣の子が犠牲になって死んでいくと言う、じつに悲しい内容でした。でも、〈田舎芝居侮るなかれ〉、素晴らしかったのです。村人に真似て〈投げ銭〉をして、歌舞伎観劇気分にひたり、景気付けをしたのです。観終わって、『武士とは難儀な身分だ!』と強烈に思わされたのでした。

 日本人の精神的な支柱こそが、「武士道」だと、新渡戸稲造が、本を著しました。1890年に、アメリカのフィラデルフィアの出版社から英文で出版されました。『愛、雅量、他者への情愛、同情、憐れみは、常に至高の特として、すなわち人間の魂の性質中、最高のものとみられてきた・・・』と、武士道の本質がどこにあるか、心の中にあることを示したのです。この人は、盛岡南部藩の武士の家に生まれています。札幌農学校に学び、東京帝国大学に進学し、アメリカのジョンズ・ポプキン大学を卒えています。

 札幌時代に基督信仰を持ち、人が変わって穏やかな人にされたそうです。生涯、信仰を堅持しました。国際連盟の事務局次長を務め、第一高等学校、東京女子大学、東京文化経済専門学校の学長を務めました。彼のような真の国際人を、岩手県は産んだのです。

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 岩手は「ニッポンのチベット」と言われていました。山が多くて、貧しい県だったからです。でも素晴らしい人材を、日本や世界に輩出してきた県なのです。今日日、大活躍をしている大リーグの大谷翔平が、県下の花巻市から出ています。その play が、孫のように気になり、一喜一憂してしまった一年でした。

 「雨にも負けず」の宮沢賢治を、岩手は産んでいます。彼の生涯で出会った一人に、花巻の人、斎藤宗次郎がいます。この二人の間には、友情関係あって、賢治の勤め先の農学校を訪ね、一緒に蓄音器でレコードの音楽を聞いたり談笑していたそうです。禅宗の仏門に生まれた人でしたが、聖書を読み始め、内村鑑三の著した「キリスト信徒の慰め」を読んで、痛く感動し、内村の言う《非戦論》に共鳴して、納税拒否や兵役拒否をして、官憲から mark されていました。

  岩手師範を出て、小学校の教師をしていましたが、彼の主義主張のゆえに失職してしまいます。それで、新聞配達をしながら生きていくのです。教え子や近隣の人々に支持され、慕われたそうです。やがて内村鑑三のもとに行き、弟子として仕え、内村の最後を看取った弟子でした。しっかりとした子育てをした方と言われています。彼の基督信仰はハガネのように強固でした。

 政界、実業界、教育界、官界、有名無名の素晴らしい人材を、岩手県は産んでいます。小学校の事業で、リアス式海岸を学んだのですが、ノコギリのようなギザヒザな岩手県の海岸線に行って見たかったのですが、いまだに、その願いは叶えられずにいます。寡黙で辛抱強い県民性が言われていますが、地勢や気候によって、人間は強く影響を受けるのでしょう。消極的だと言われますが、行動派の人も多くいるようです。東北人、好きです。

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政(まつりごと)

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歴上の人物は、小説に描かれる時に、ずいぶん脚色されて、つまり作者の思い入れが強くなって「実像」からかけ離れてしまって、「虚像」が描かれるのです。読者へのもてなし、ご機嫌取りなのです。幕末に活躍した坂本龍馬も、土方歳三も、司馬遼太郎が描いたのですが、やはり小説龍馬、小説歳三になってしまっています。

私の同級生に、土方くんがいました。武士以外が、苗字が許されたのが、明治になってからであって、その時に作り出された姓が、多くの人の私たちが使っている物です。山奥から東京の郊外に越してきて、土木工事に携わる力仕事人を「ドカタ」と読んできていますが、それを〈ヒジカタ〉と読む「土方」には、驚かされました。” Dokator “ なら格好いいのですが、『♭ 朝の四時半だ、ベント箱下げて家を出て行く土方の大将 ♯』と言う戯れ歌を、歌ってた小学生の私には、おかしかったのです。

この土方歳三は、江戸から離れた、多摩川と浅川の間に位置する石田村の出身で、裕福な農家に生まれたそうです。喧嘩が強く、利発だったそうです。家は、「石田散薬」を製造して販売していたので、青年期には、これを背に担いで行商をしていたそうです。時間があると剣術の稽古に励んで、天然理心流の腕達者だったのは事実です。

栃木県下の壬生の城下の剣術道場で、腕自慢の萩藩士の高杉晋作が、壬生剣士に打ち負かされて、一本も取れなかったと言う実話を聞き、土方歳三と戦う機会があったら、どちらが強かっただろうかといらぬ心配をしてしまいます。

幕末の京都の防備のために結成された新撰組の副長として、幕府側の任務に当たったのです。美男子だったそうで、洋装の写真が残されています。時代の流れに抗することができず。蝦夷の地、函館まで転戦して行っています。途中、宇都宮では、負った怪我の治療のために停留していたそうです。

2017年の秋に、函館を訪ねた時に、五稜郭前で、市電を降りて人を訪ねたことがありました。函館戦争の激戦地だったのですが、その雰囲気は全くしない、平和な佇まいでした。土方歳三は、任務に忠実で、部下思いの指導者であったそうです。激戦の末に、戦死して行きます。百姓の子が、旗本になる夢を追いかけて、34年の生涯を終えています。

激変していく時代の只中で、多くの若者が、主義のために、任務にために散って行ったのです。歴史とは面白いもので、今回の指名で、岸田文雄氏が、第100代の内閣総理大臣となりましたが、第1代は伊藤博文でした。この人が選ばれた理由が、然るべく就任を期待された逸材が、担うべき器が、みな騒乱の中で、また病気で死んでいなかったから、と聞いた時、人や国家の歴史、人の選出とは実に不思議で、面白おかしいものを感じてしまうのです。

多くの人が願い、期待する人物が選ばれずに、消えていくのですが、これは時の運では片付かないものがあります。「公明正大」、「謙遜」な人ではなく、人や組織の思惑で選ばれるのは、釈然としません。いつでも同じなのですが、でも私の個人的な願いは、

『主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ6章8節)』の聖書を体現できる人なのです。

そして新しい、政治指導者のために、私ができることがあります。『そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。(1テモテ2章1節)』、神を恐れて政(まつりごと)をしてくださるように、神の祝福を願い、知恵と判断力とを、神が指導者にくださるように祈ることです。

(“goodday hokkaido ” の函館五稜郭です)

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エデンの東

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 『それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。(創世記416節)』

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 ある一人の農場主が、カルフォルニア州サリナスの農場で、手広く農業を経営していました。東部から移って来た彼には、男の子が二人あるのですが、出来の好い兄を溺愛し、ひねくれ者の弟・キャルを疎んじている、そんな父子家庭が舞台でした。お母さんは、すでに亡くなっていると聞かされて育ちます。ところが弟は、どこかで生きているということを漏れ聞いて、探すのです。

 自分の街に駅から無賃乗車をして、港町に降り立ちます。場末の飲み屋を経営している女性を見つけ出して、尾行を続けます。その人を問いただすのですが、相手にしてもらえません。確証を得られないまま、仕方なく家に帰るのです。お父さんにも問うのですが、相手にされません。ところが、お父さんの友人の街の保安官が、キャルに、両親の結婚写真を見せてしまいます。それを見たキャルは、訪ねた女性が、自分の母親だと確信するのです。

 その頃、お父さんは、収穫したレタスを、氷で冷蔵して、東部の市場に貨車を借り切って送ろうとするのですが、雪崩が起きて、貨車が途中で停車し、レタスが腐ってしまいます。大損をするのです。弟は、父を助けようとします。ヨーロッパ情勢は戦争が起こる兆候があるとの情報を得て、高騰するであろう「大豆」を栽培すれば、儲けられるという話をキャルは聞きます。その資金の調達を、再び港町に行って、自分の母であることを認めさせて、お母さんから借りるのです。そして大豆栽培を開始します。

 間もなく第一次世界大戦が勃発し、栽培し収穫した大豆を売ると、お父さんの損失を、穴埋めできるほどの大金を得るのです。しかし、戦争を利用して多額の金を手にしたキャルを、お父さんは厳しく叱ってしまいます。差し出したお金を、お父さんは受け取らなかったのです。父を憎く思ったキャルは、兄にも憎しみを向け、港町の母親のもとに兄を、強引に連れて行きます。

 死んだと聞かされていたお母さんが生きていて、しかも自分の思い描いていた理想の母親像と違ったお母さんと会って、兄は半狂乱の様になって、大きな衝撃を受けてしまうのです。そして嫌っていた戦争に、自ら志願して欧州の戦場に征ってしまいます。そのショックで、お父さんは脳溢血で倒れてしまうのです。

 父の愛を知らずに育ったキャルは、兄のガールフレンドが、『キャルを愛してあげて!そうでないと彼は一生ダメになってしまうから!』と、お父さんに執り成しをするのです。お父さんは、それに応え、キャルを受け入れ、自分の世話をキャルに任せるのです。辛い経験をしながら、キャルは、父の愛を、遂に獲得するのです。

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 これは、聖書の「カインとアベルの物語」を題材にした映画でした。ジョン・スタインベックの原作、エリヤ・カザン監督制作の映画、「エデンの東」です。キャルのお兄さんが、哀れでした。出来の好い息子なのに、母や弟をありのままで愛せなかったからです。また自分と違っている弟を認められなかったのです。欧州の戦線に、列車に乗って出征する時、窓ガラスに頭をぶつけて割ってしまい、傷を負って血を流す様子は、まるで「死」を予兆するかの様で、画面に釘付けにされて、まだ中学生の私にはショックでした。

 壊れた家庭の悲劇をスクリーンに、中学生の私は観て、上映のたびに映画館に飛んで行きました。繁栄の国、アメリカにも、いえ繁栄なるが故に、こんな家庭があること知ったのです。あの映画を観て、事情のある家庭で育った父と母を、やがて理解できる年齢になっていきました。

 それなのに、精一杯、私たちを両親は育ててくれたのです。養育放棄をしませんでした。義務教育だけで終わっていても当然なのに、大学にまで学かせてくれました。『後は自分で生きていけ!』、これが父でした。今や、兄弟四人、子育てや仕事といった社会的な責任を果たし終え、静かな余生を送っています。もう少し、私にはすべきことがありそうです。父と母への感謝は尽きません。

 時は秋、コロナの感染者は急激に減ってきて、陸奥(みちのく)の鄙(ひな)びた温泉に行きたくなりました、父と母がいたら、背負って連れて行きたい思いでいっぱいです。一緒に湯船に浸かって、子どもの頃や青年期の話を詳しく聞けたらな、そんな思いがしてきます。そう背中だって流してあげたいのです。悲劇のエデンの東の地、神に背いた者たちに、神の憐れみが働いて、人は救われることができるのです。

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正直

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 「商人魂」と言うものがあるそうです。父は商人ではありませんでしたが、旧国鉄に、電車のクッションの材料を納品する会社にいました。これも製造販売業務になるでしょうか。上の兄は「紙」を作って、それを市場に提供する営業マンでした。お得意さんの注文に応じて、静岡県下にある工場の機械を回して、製品を製造する仕事をしていましたから、製造業と共に商業活動をしていたことになります。下の兄は、ホテルマンとして「サーヴィス(おもてなし)」を提供していましたから、これもまた製品は物ではありませんが、商業になるのでしょうか。弟と私は、「教師」でしたから、無形のものを、成長期の若者に精神活動をしていたことになります。

 アルバイトでスーパーマーケットで、私は働いたことがありました。これこそ正真正銘の商業になります。商業に携わった人、商人に、『通った後にはぺんぺん草も生えない!』と悪評のあった「甲州商人」、『がめつい!』と言われた「なにわ商人」、『三方よし(売り手よし、買い手よし、世よし)!』と好意的に言われた「近江商人」が有名です。

 私の住んでいる隣り街には、日本中のスーパーマーケットが注目している「イオン佐野店」があります。ここ栃木市には、この近江商人の経営するスーパーマーケットがあります。自転車の行動範囲にあるのですが、この「近江商人」が創業したスーパーです。明治5年に始められているそうで、昭和42年に、サーキットで有名な茂木(もてぎ)に第一号店を開業しています。

 商号の「かましん」は、「近江商人」の釜屋新兵衛と言う方の名前の屋号です。栃木県に店を始めたのが最初なのだそうです。この店は、売る側の利益、買う方の満足に加えて、商売が世のためになるのを目指しているそうです。今年になって散歩の途上で見つけたのですが、motto が「正直」だと言うのが気に入ったのです。

 売れ残った物や、規格の小さな物や傷物を、同じように売ろうとして利益を得ようとする商いは、ずるいわけです。正当な利益を得ることは当然です。働く人の家族が養われ、教育を受けられ、一人に人として文化的な活動を楽しめるためにです。
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歴史

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 『上海に雨が降ると、翌日福岡も雨になる!』と聞いたことがあります。一国の気象でさえ、大陸と深く関わっているわけです。あの遣唐使船や遣隋船の行き来の交流によって、文字や文化の伝来があって、深い結びつきがこれまでもあった日本です。大陸に咲く花や野菜の種が持ち帰らられたりして、日本で栽培されてきています。

 物事は、地球規模、さらには世界規模で考えると、考え方は飛躍的に広がって行きそうです。今の時代を知るためには、歴史を学ばなければならないわけです。歴史学者のアーノルド・トインビーは、世界の歴史を、26に区分していますが、その一つに、「日本の歴史」をあげています。そして、世界の国と国との力関係に、日本が果たした役割の大きさを次のように語っています。

 『1840年のアヘン戦争以来、東アジアにおける英国の力は、この地域における西洋全体の支配を象徴していた。1941年、日本は全ての非西洋国民に対し、西洋は無敵ではないことを決定的に示した。この啓示がアジア人の士気に及ぼした恒久的な影響は、1967年のヴェトナム戦争に明らかである!』とです(毎日新聞)。

 『自分の国の歴史を学ばなかった国は滅びる!』とも、トインビーは言っています。よく〈歴史の改竄(かいざん)〉と言われて、自分の国に恥ずかしい歴史を覆い隠したり、解釈を曖昧にしたりして、新しい世代に、正しい歴史の事実を、作為的に教えようとしない国があります。私たちの国では、故意に、不都合な事実を次の世代に教えようとしない隠れた部分がありそうです。

 ユダヤ民族は、「律法」や「自然」を学ぶだけではなく、自分たちの民族のたどった「歴史」を、父親が子たちに教えて、学んできているのです。辛いことも恥ずかしいことも、歴史の中に刻まれた「事実」を、子どもたちは教えられてきているのです。学んだ子どもたちが、自分で判断し、教訓を学んだり、新しい視点を得ていくのです。

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 『あの出来事は知る必要がない!』との大人の判断が入り込むと、歴史は歪んだものになるのです。聖書に、「これはアダムの歴史である(創世記51節)」と記されてあります。そうしますと、私たちにも、「自分の歴史」があることになります。

 歴史を学んだことのある私は、手で触れるように、過去の事実に直面したいのです。父や母に、それぞれの歴史があり、話してくれた部分と語れなかった部分とがあります。子どもの私は、それらの断片を繋ぎ合わせて、類推して、『こうだったんだろう!』と結論付けようとするのです。

 家督を継げなかった父は、母違いの弟を太平洋戦争で失っています。自分の姓を捨て、母の姓を名乗ったのですが、『俺の家系は、鎌倉武士の末裔で 三浦大介の子孫なのだ!』と言ったことがあります。そこまで聞いたのですが、私は、頼朝の家臣として土地を賜り、三浦半島の一郭に土地を得て、『そこで千年になんなんとする年月を過ごしてきた一族なのだ!』、『きっと、鎌倉の若宮大路を馬上高く駆け参じて、頼朝の御所に馳せ参じたのだろう!』と考えたのです。

 いえ、『腰に獣の皮を巻いて、欠いた石の鏃をつけた槍で、獲物を探し求めて歩いていた者たちに子孫!』と言った方がいいかも知れません。さらにエデンを去った失楽園後、『後悔と不安と恐れで生きていた者の子孫であると言った方がいいかも知れません。

( ”クリスチャンクリップアート “ のエデンの園のアダム、現在の若宮大路です)

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秋田県

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「秋田音頭」は、次のような歌詞で歌われています。

ハイ キタカサッサー
ヨイサッサ ヨイナー

コラ いずれこれより ご免こうむり
音頭の無駄をいう(アーソレソレ)
お耳障りも(お気に障りも)あろうけれども
さっさと出しかける

ハイ キタカサッサー
ヨイサッサ ヨイナー(以下略)

コラ 秋田名物 八森ハタハタ
男鹿で男鹿ブリコ(アーソレソレ)
能代春慶 桧山納豆
大館曲げわっぱ

コラ 秋田の国では 雨が降っても
唐傘などいらぬ(アーソレソレ)
手頃な蕗の葉 さらりとからげて
サッサと出て行がえ

コラ 秋田の女ご 何どしてきれ(綺麗)だと
聞くだけ野暮だんす(アーソレソレ)

小野小町の 生まれ在所を
お前はん知らねのげ

コラ 秋田川端 日幕れに通ったば
ピカピカ飛んで来た(アーソレソレ)
蛍と思って ギッシリ掴んだっきゃ
隣りのハゲ頭

 父は旧制の中学校を終えると、日本でただ一つ鉱山学を専攻できる、秋田鉱山専門学校(秋田鉱専)に進学しています。日本の鉱山開発を前進させるための人材育成を、ドイツの鉱山学から学ぼうとして、1910年に、秋田市に開校したのです。

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 けっきょく、父は、戦争終結後間も無く、自分の任地の山村から東京に出て、会社勤めを始めて、転身してしまいます。父の本箱に、鉱山関係の本があった記憶がありましたから、青年期に学んだことを忘れたくなかったのでしょうか。国策企業の責任者であったことを精算して、新規に生き始めたのでしょう。浅草橋、日本橋、新宿にあった会社で働き、私たち兄弟四人を育ててくれました。

 父が青年前期を過ごした街を訪ねたい、という思いがずっとあったのですが、果たされないまま今日に至っています。日本では、父の学んだこ秋田市、青年期を過ごした中国東北部の瀋陽市(旧・奉天)」の二都市に行きたかったのですが、在華中に果たせなかった願いを、果たして叶えることができるでしょうか。

 秋田では「ハタハタ」という魚と、米の粉で作られた「きりたんぽ」、「しょっつる」という調味料が有名ですが、私はいまだに食べたことがありません。秋田県は、日本海を挟んだ大陸との交流があったとされています。海を渡ってユーラシア大陸との間を行き来していた形跡があるようです。言ってみれば博多や長崎だけではなく、秋田にも、その海外との交流の基地があった可能性があったに違いありません。

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 また、秋田は考古学の宝庫なのだそうです。遺跡が多く点在していて、父の若き日々を追うのと共に、古代の浪漫を追うのも良さそうです。大伴家持(おおとものやかもち)の詠んだ和歌に、

すめろぎの 御代栄えんと あずまなる みちのくの山に くがね(黄金)花咲く

とあります。「あずまなるみちのくのやま」は、東国、陸奥国仙北郡だそうですから、秋田には、古代から金山があったことになります。朝鮮半島の百済(くだら)からやってきた山師(鉱山技師)たちが、金鉱石を探し歩いたことがあったそうです。だからでしょうか、秋田が鉱山学の専門学校の設置都市に選ばれたのでしょうか。父に聞いておけばよかったなと悔やまれます。

 そこに土崎という港町がありますから、北前船が航行していた港で、古代から大陸を結ぶ船が出入りしていたのでしょうか。華南に、泉州という港町があって、教え子が招いてくれて訪ねたことがありました。巨大な船の遺跡があって、鄭和zhèng héが、全長130mにもなる船の大船団を率いてアフリカまでの航行の間に寄港した港でした。土崎もそんな港のように思えてなりません。

 秋田、古代の浪漫が溢れているように感じてならないのです。十代の父が、学生生活を送った街には、コロナ禍が終息しましたら、訪ねてみたいと思うのです。

(秋田大学旧校舎、土崎港花火大会、大館曲げわっぱです)

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一匹狼

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 「派閥」の抗争が、私の働いていた職場にもありました。最初の職場にあったのです。総理大臣をされた大平正芳氏が、次のように言っています。『人間は、本来、派閥的動物だといわれておる。三人寄れば必ず二派をつくるものだ。』、〈数の論理〉で、多数派が強い存在意識や主張を持ち、組織を動かすことができるのです。日本の政治の世界は、顕著な派閥の社会です。

 東大の法学部を出て、私学の高校の教頭をしてから、抜擢されて事務局の責任者になった方が、私の職場の長でした。理事会や評議員会の議事録の作成をさせられると、いつも『こんなんじゃあダメだ!』と言われて訂正させられました。それは自分にとって好い経験でした。

 事務方というよりは研究肌の方で、政治力を働かすようなことはなく、いつも学校法などの研究をされていて、組織の中で、いわゆるツンボ桟敷に置かれていました。もう一人の方は、陸軍中野学校出で、なかなかの策士だったのです。

 お二人に、お酒に誘われたのですが、私は、どちらにも与(くみ)しないでいましたら、当時の文部省下の振興財団から定年後に、横滑りで責任者になって、事務局長が変わってしまいました。ハンコをつく、根っからの事務方でした。理事会があり、評議員会があり、難しい組織の中に、私は飛び込んでしまったのです。

 新潟県の県立高校の校長をされて、研究事務係長になっていた方がいました。この方が、『廣田さん、こんな職場に長くいちゃあいけません!』と、越後訛りで忠告してくれたのです。そこは振興財団からの補助金などで運営していましたから、不正受給のために、どこの外郭団体でもしているようなことが罷り通っていたのです。それで若い私に注意をしてくれたわけです。

 そうしていましたら、所長が、某大学の元国文学科長をされた方で、私を気に入ってくれたのです。この方のお弟子で、短大で教務部長をされている方の紹介で、その系列の高校から招聘されて、教諭になったのです。その時も、大学院を出た方と私との間で、一人の採用でした。けっきょく強力な推薦者から推された私が選ばれ、もう一人の方は講師になりました。

 私の勤め始めた学校は、校長がご病気で、主事と二人の副主事の指導体制で、中学校と高校とが動いていて、複雑な力関係が、この3人の中にあったのです。男子教諭をまとめて、学校外の自分のお宅に呼んでは、お茶会や食事会がありました、一方の婦人の副主事が実力を持っていました。一度だけ、このお宅に連れて行かれたのですが、派閥間の争いに入りたくなかった私は、neutral な立場を取ったて、その一度しか行きませんでした。

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 その交わりで、女子教諭を入れた教師組合を作ることが決められたのです。私は、徒党を組むのが好きではないので、50人ほどいた教師の中で、たった一人、一匹狼然としていた私は、これに加わらないままでいました。別にいじめられたりはしませんでしたし、勇気ある選択をしたのか、一目置かれました。生徒には支持されました。

 そんな私を、訓練しながら伝道者に育てようと、アメリカ人宣教師の開拓伝道に誘われました。私は、二つ返事で新しい道を選びました。将来に対する何の保証も約束もありませんでした。8年後に、この方が、無牧の教会に行かれて、後を任されました。そこに三十数年いてから、隣の国に行ったのです。あの決断と選択は、間違っていなかったと、今でも思っています。不思議な人生の展開と、導きでした。

  『あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストにつく」と言っているということです。 (1コリント1章12節)』

 この世の組織は、親分子分、その絆で出来上がっているようです。そして親分になりたい人の間に、力関係があって、主導権が争われるのです。住んでいた貸家の隣の方が、土建屋をされていました。子ども同士は、遊び仲間でしたが、ご主人とは、挨拶やちょっとした話を交わす程度でした。

 ある時、市長選挙があった時に、彼の推す現職市長にと、投票を頼まれたのです。選挙期間中、彼は市長派の運動員をしていました。市長が変わると、仕事がなくなってしまうので、必死だったのです。派閥とは関係ありませんが、どちらが市長になるかは、彼には重大問題だったわけです。現職市長の孫が、娘の同級生でした。子どもの世界にも、お母さんの世界にも、派閥的なものが歴然としてあるようで、人の集まる社会って、大変で難儀なのだと学んだ次第です。

(群れと一匹狼です)

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