大阪府

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 わたしの父が、ゴロリと横になると、懐かしさで何度か歌っていた歌があります。名将と謳われた楠木正成(くすのきまさしげ)は、十万もの大軍を従えて、九州から攻め上ってきた足利尊氏との戦いによって、湊川で壮絶な戦死を遂げています。それを前にして、「櫻井駅(さくらいのえき)」で、息子の正行(まさつら)と別れをします。ところが、正行も、足利尊氏と戦って、討死をしてしまいます。その正成、正行を歌った、「櫻井の訣別(わかれ)」です。

1 青葉茂れる桜井の
里のわたりの夕まぐれ
木(こ)の下蔭(したかげ)に駒とめて
世の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧(よろい)の袖の上(え)に
散るは涙かはた露か

2 正成(まさしげ)涙を打ち払い
我子正行(まさつら)呼び寄せて
父は兵庫へ赴かん
彼方の浦にて討死せん
汝(いまし)はここまで来つれども
とくとく帰れ 故郷へ

3 父上いかにのたもうも
見捨てまつりて我一人
いかで帰らん 帰られん
この正行は年こそは
いまだ若けれ もろともに
御供(おんとも)仕(つか)えん 死出の旅

4 汝(いまし)をここより帰さんは
わが私(わたくし)の為ならず
己(おの)れ討死なさんには
世は尊氏(たかうじ)のままならん
早く生い立ち 大君(おおきみ)に
仕えまつれよ 国のため

5 この一刀(ひとふり)は往(いに)し年
君の賜いし物なるぞ
この世の別れの形見にと
汝(いまし)にこれを贈りてん
行けよ 正行故郷へ
老いたる母の待ちまさん

6 ともに見送り 見返りて
別れを惜む折からに
またも降り来る五月雨(さみだれ)の
空に聞こゆる時鳥(ほととぎす)
誰れか哀れと聞かざらん
あわれ血に泣くその声を

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 この歌は、明治35年に、作詞作曲された歌で、戦前は、学校で歌われたもので、戦に勇ましかった楠木正成親子を題材にして、国民を鼓舞した歌でした。大阪で、一つの群れのお世話を始められた宣教師を訪ねてお邪魔した時に、この宣教師が、『近くに有名な歴史的な場所があります!』と言って、この「櫻井の訣別」の史跡のある場所に案内してくれたました。日本史の出来事として有名な地なのです。

 大阪は、その時、個人的に初めて訪問したのです。テレビ放映が始まって、わが家にもテレビが入り込んでから、ブラウン管に映された番組に、「てなもんや三度笠」がありました。関西喜劇人が出演していて、電波に乗った関西喜劇の関西弁、大阪弁を耳にした初めての時でした。

 よく「コテコテの大阪人」と言うのでしょうか、彼らが確信を持って喋る標準語以外の言葉が、major になった番組だったでしょうか。あの頃の俳優さんたちも、ほとんどのみなさんが亡くなられてしまい、寂しい思いがいたします。電波や映像で初めて接した関西、大阪でした。

 東の「山谷(さんや)」、西の「釜ヶ崎(かまがさき)」は、日雇のみなさんのドヤ街で有名です。高度成長期の建設工事現場で働いた日雇いのみなさんが、安い宿代で寝起きをされた街で、そこにキリスト教会があって、一度お招きをいただいて、お話をさせてもらったことがありました。

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 礼拝の終わったお昼に、パンやおにぎりを提供して、釜ヶ崎を支え続けていた、昭和に始まった教会なのです。アメリカ人の宣教師が始められて、そのドヤ街で信仰を持たれて牧師になられた方が、今も牧会されておいでです。通天閣の下の銭湯にも入って、大阪のコテコテ気分にひたったのは、20年以上も前でしょうか。

 豊臣秀吉の居城の大阪城が、大阪のど真ん中に復元されてあります。商都で、大阪商人の活躍は有名です。「道頓堀」の近くに泊まったことがありました。新宿、渋谷、上野、池袋などの街とは違った雰囲気の街で、生活感があって賑やかで、東京のような気取りがないので、居心地がいいなあと思わされたのです。

 家内は、府の南にある「堺」で、泉州と呼ばれる地で生まれています。この街は、商都大阪を形作った街で、「日明貿易(対大陸中国)」で栄えたのです。有力な商人や倉庫業者などによる、三十人ほどの「会合衆(えごうしゅう)」の自治で運営されていた特徴のある街で、茶道が誕生したりした、文化的な街でもあったのです。戦国時代に、そのような組織ができたようです。

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 成田空港ではなく、関西空港に帰って来て、家内が生まれた堺に宿をとってみたことがありました。生まれてすぐに、東京に越していますから、家内は全く記憶のない街でしたが、やはり誕生地というは、特別な感慨があるものなので、懐かしそうにしていました。お父さんは文京区の出身、お母さんは九州の筑後の出でした。

 大阪府には、33市9町1村の計43の自治体を擁し、府都は大阪市、人口は878万人、県花は梅とサクラソウ、県木はイチョウ、県鳥は百舌鳥(もず)です。明治維新の前後には、遷都の候補地として、薩摩藩の大久保利通によって、大阪が推奨されたのですが、実現しませんでした。ここは、「日本の台所」と言うほどの商都の役割を担い続けて来た地であり、維新当時の夢の追慕でしょうか、「都構想」を掲げて、実現しかけたように、東の東京に対する、西の大阪という意識が強いですし、それだけの経済財政力を持った地なのです。

 露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢

 浪速(難波)に様々なことがあり、天下取りをかなえた秀吉は、栄華を極めたのですが、その業は、やはり夢のように儚いものであることを詠んだ歌です。何をしても、どんな建物を建てようと、どんな支配体制を確立しても、人の齢には限りがあり、六十で秀吉は死んでいます。残るのは、恥に満ちた一生だったのでしょう。

 中村郷の平凡な貧しい農家の子で一生を終えても、天下取りになっても、一切は夢に終わる人の世は、なんと儚いのでしょうか。日本一の商都となり、通天閣が建ち、大阪万博が行われ、日本の第二の都市になった逢坂、大阪と書き記されることも、想像もしなかったわけです。人はそのように来て、去っていくのでしょう。

 華南の街の学校で教えた頃、この大阪市の南港から、船に乗って、2日の船の旅程で上海に、行き帰りをしたことが何度もありました。外国航路の便数は、航空機の発達による空の旅が主になっていましたが、悠長な旅も、趣があっていいものでした。日本語を教えた学生が、日本の大学の大学院で学び、新大阪駅の近くに住んで、日本の大手企業に勤めています。日明貿易が行われた堺のことも、人の動きも、彼の将来も、この global な現代のことも、これからに日本のことも、不思議なことごとの積み重ねなのです。

(「櫻井の訣別」、「通天閣」、明治期に堺の街の様子です)

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