真情

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 『・・・狭い日本には住み飽いた!』と歌って、多くの若者たちが、中国の満州に夢を繋げ様と、出掛けて行きました。それを鼓舞するかのように、大正11年(1922年)に世に出た、「馬賊の唄(宮島郁芳作詞)」でした。歌の持っている力は大きいのです。

俺も行くから君も行け
狭い日本にゃ住み飽いた
海の彼方にゃ支那がある
支那にゃ四億の民が待つ

俺に父無く母も無く
別れを惜しむ者も無し
ただいたわしの恋人や
夢に姿を辿るのみ

国を出た時ゃ玉の肌
今じゃ槍傷刀傷
これぞ誠の男子じゃと
微笑む面に針の髭

長白山の朝風に
剣を翳してふし見れば
北満州の大平野
俺の住まいにゃまだ狭い

御国を去って十余年
今じゃ満州の大馬賊
亜細亜高嶺の繁間より
繰り出す手下が五千人

今日吉林の城外に
駒の蹄を忍ばせて
明日は襲わん奉天府
長髪風に靡かせて

さっとひらめく電光に
今日の獲物か五万両
繰り出す槍の穂先より
荘竜血を吐く黒龍江

銀月高く空晴るる
ゴビの砂漠にゃ草枕

 4億が、現在では14億の人口を擁する中華人民共和国ですが、戸籍に未登記な人々が1億(公式)もいて、実際には、それよりも遥かに多いとも言われてる隣国は、戦前の若者には、雄飛したい国だったのです。

 結局、その野望、理想は、敗戦で崩壊してしまうのです。私の父も、満州にいる叔父を慕って、狭い日本から出掛けた一人でした。私の上の兄は、その理想国にあやかって名前が付けられたほどだったのです。

 もし、この大陸進出から終戦までの間に、日本がしたことで、良いことがあったとするなら、鉄道線路を敷設したことと言えるかも知れません。その判断は、中国のみなさんがされることなのですが。

 今でも、その当時の路線が使われ、近代中国の発展のために寄与してきたことは事実です。もちろん、近年では、高速鉄道網が、瞬く間に張り巡らされています。東北部では、人や物資の輸送は、旧来の路線が活用され、世界の物作りの基盤となっています。

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 そこに「南満州鉄道」があって、父は、若い時期に一時期、そこで働いていた様です。どの様な仕事をしていたのかは定かではありませんが、北米のオレゴンやカルフォルニア、ハワイ、南米のブラジルではなく、満州に、人生の活路を見出そうとしたのでしょう。当時の青年たちにとっては、きっと平安の昔から、良き薫陶を受けた大陸の文化的な背景や、国土の広大さは、憧れの的だったのではないでしょうか。

 南満州鉄道というのは、大連から奉天(現在の瀋陽です)、新京(現在の長春です)、ハルピン(哈尔滨)などに広がる鉄道網なのです。もう何年も何年も、いえ若い頃からなのですが、そこを訪ねてみたいという思いが心の中で温められていたのです。知り合いに、南満州鉄道株式会社のあった瀋陽で、電気工学を学んでいる学生がいたので、彼に案内を頼めるかなとも思っているたのですが、帰国してしまい叶いませんでした。

 戦争が終わって、日本は、狭い国土の中で勤勉に働き、世界に類を見ない復興を遂げ、10年の節目の1954年から、かつて侵略したアジア諸国を経済援助をし始めました。わたしが、聖書を持って、初めて降り立った北京空港も、日本の「ODA(Official Development Assistance)」、途上国への「政府開発援助」で作った空港でした。この中国への初期の経済援助、科学技術の援助で、今の経済大国になっています。十分な償いをしたと言ってもよさそうです。

 長く償いの思いで滞在した中国で、まさに家族のように受け入れられて、交わりをさせていただきました。その中国のみなさんとは、今もなお交わりが継続しております。義理の関係ではなく、真情でしょうか、真心でしょうか、彼らの示してくれる愛と心遣いは、今もなお真実で、変わらず一途なのです。

(旧資料による満鉄のシンボルの「あじあ号」です)

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