ゴミを拾う漢(おとこ)

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 大リーグの選手になりながら、バッターボックスに立つと、目の前に落ちているゴミを見つけると、手でを拾って、ポイッと捨てるのを見て、大谷翔平選手は、気を落ち着かすための performance をしてるのかと思ったものです。

 自分も、多くの会衆の集会の講師や司会者をさせていただき、講壇に立ったのはいいのですが、緊張のあまり、いつになく上がってしまって、『落ち着かなくては!』と肝に銘じるのですが、ノドはカラカラになって、声がかすれるほど緊張した覚えがあります。何かの本に、『会衆を南瓜と思え!』と書いてあったのを思い出して、カボチャ🎃と思おうとしたのですが、残念ながら、怖そうな人の顔しか見えませんでした。

 実は、大谷翔平選手は、緊張を解くためではなかったのです。花巻東高校の一年生の時に、野球人になるべく将来を見据えて、「目標達成シート」を、恩師の勧めで作ったのです。《九九八十一(くくはちじゅういち)》、81個のマスの真ん中に、「ドラ18球団」を入れて、その周りに、8つの目標を書き込んみ、つぎつぎに書き加えたのです。その「ドラ1」の真下のマスに、《ゴミ拾い》と入れてありました。その実践が、MLB の試合のバッターボックスで、屈んでする行為、《ゴミ拾い》の実践だったのです。
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 15歳で決心して、《ドラ1》の想いを、中央に書き刻んだ翔平少年が、十数年を経て、日本のプロ球界ではなく、本場アメリカの MLB の押しも押されもしない花形選手になっても、実践しているのには驚かされるのです。あの屈んでする行為は、嫌味でもなんでもない、純真な人の行為なのです。

 〈たかが野球〉、打ち上げ花火のようなプロ野球の世界なのかも知れませんが、大谷翔平選手のは、《されどプロ野球》ではないでしょうか。ああ言った審判への会釈、選手への労いと激励、相手選手への話しかけ、どれをとっても新鮮で、素敵な仕草でした。ホームランを撃ち、勝利投手になり、盗塁を成功させる以上の魅力を感じさせられた爽やかさを教えられた、試合後に、youtube で観戦した今シーズンでした。翔平少年が、《人間性》にも注意深く生きてきたのに頷(うなず)けるのです。来季にも輝いて欲しいものです。
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福島県

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 私たちの住む街の駅から、東武日光線、東武鬼怒川線、野岩鉄道(新藤原⇄会津高原尾瀬口)、会津鉄道会津鬼怒川線(会津高原尾瀬口⇄西若松)、JR只見線(西若松⇄会津若松)と乗り継いで、福島県の会津若松市、かつては「陸奥国(むつのくに)会津」と呼ばれていましたが、そこに、線路で繋がっています。日帰りは無理ですので、家内が、もう少し元気になったら出かけてみたいと思っているのです。

 と言うのは、この会津は、「白虎隊(びゃっこたい)」で有名なのです。尊王攘夷、開国など幕末に、長州軍を幕府軍の会津藩が迎え撃ったのですが、会津は、敗北を喫してしまいます。特に、この戦いに加わった「白虎隊」の19人の少年剣士(16、7歳)が、飯盛山で自刃して果てていったのです。その1868年の出来事が、詩吟として吟じられ、昭和12年(1937年)に、作詞が島田磬也、作曲が古賀政男で歌謡曲になったのです。

1 戦雲暗く 陽は落ちて
弧城に月の影悲し
誰が吹く笛か 識らねども
今宵名残の 白虎隊

2 紅顔可憐の 少年が
死をもて守る この保塞
滝沢村の 血の雨に
濡らす白刃も 白虎隊

詩吟

南鶴ヶ城を望めば砲煙あがる
痛哭涙を飲んで且彷徨す
宗社亡びぬ 我が事おわる
十有九士腹を屠って斃る

3 飯盛山の 山頂に
秋吹く風は 寒けれど
忠烈今も 香に残す
花も会津の 白虎隊
花も会津の 白虎隊

この会津藩には、日新館という藩黌があり、いくつもの「什(じゅう)」と呼ばれた、十人ほどの子どもたち(六から九歳)が、それぞれに学んでいたそうです。そこには、「什の掟」がありました。
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一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです。

この会津を、仕事で訪ねた次男が、タクシーを利用した時に、運転手の方が、長州(山口県)の人間は乗車を拒否するほど、明治維新前夜の「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」での会津への長州軍の仕打ちへの恨みを、今に至るまで持ち続けているのだと話したそうです。

同志社を起こした新島襄が、『彼女は見た目は決して美しくはありません。ただ、生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です。』と言った八重は、会津武士の娘で、戊辰戦争では、男装して大砲の打ち手として、戊辰戦争に従軍しています。

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福島県人には、忘れられない出来事のようです。現在、181万人余りの人口を擁し、農業県なのです。忘れられないのは、2011年3月11日の東日本大震災の折に、津波に襲われた、福島第一原子力発電所の倒壊事故が勃発し、その被害の甚大さに、日本は驚いたわけです。村長さんの悲痛の声が忘れられません。いまだに汚染水問題、汚染残土の処理など多くの課題を持ち続けています。

子どもたちと一緒に、茨城の海に出かけた時に、奥州三関の一つ「勿来の関(なこそのせき/いわき市)」を訪ねたことがありました。芭蕉も訪ねていて、古代に設けられた関所跡でした。行ったことはないのですが、街の名のついたラーメン、「喜多方ラーメン」が、私たちの住んでいた街にも出店して、子どもたちを誘って何度も食べたことがありました。

どんな災害にあっても、強く生き続けている福島を応援します。「がんばっぺ福島」を合言葉に、苦難に立ち向かっておいでです。男性はコツコツと働き、女性は控えめなのだそうです。

(奥会津、什の掟、自然の景観です)

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整理しました

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 今季のベランダは賑やかでした。朝顔が最後の花を咲かせて、終わりました。それで、昨夕、いろいろと咲いていた様子を思い出しながら、枯葉をつけた朝顔の蔓を切りました。棚にしていた net も取り除いて、綺麗に整理したのです。スッキリしたのですが、ちょっと寂しくなりました。来季に期待して、一区切りの秋の夕べでした。

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EMS

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EMS
Express Mail Service “ 国際スピードサーヴィス)〉と言う、海外向けの郵便サーヴィスがあります。上の娘が、書類を送って欲しいということ、近くの郵便局に行きました。そこでEMS用の封筒を買って、家に帰ったら、宛名書きが、〈所定の印刷されたものでなければいけない〉と、郵便局で言われて、印刷を開いたまではいいのですが、それではダメということで、ネットの郵便局のサイトで、作業を始めたのですが、何度も弾かれたのです。

 その作業を、長男が助けてくれたのですが、それでもダメでした。息子の地元の郵便局に聞いてもらったら、所定用紙の手書きでヨイとのことでした。それが初めから分かってたら、苦労せずに済んだのですが。それを聞いたのは、息子に丸投げでお願いしようと、送付の書類を〈速達〉で、街の本局に行って出したばかりでした。それで、電話をかけて、速達を〈差し止め〉してもらって、再び、本局に、自転車しかないので出かけたのです。

 局員の言われる通りに、各項目を書き埋めて、出しましたら、〈送付可〉とのことでした。手書きがダメのは、手紙以外のもので、書類は可だったのです。なんだか、面倒なことになってしまい、年寄り世帯では printer なんか置いてない家が多いのではないでしょうか。業務の簡素化や経費の削減化が、かえって煩雑なことになっているのではないかなとしんぱいです。

 詳しく聞かなかったのがいけませんが、説明不足もあって、前の晩から、次の日の昼過ぎまで、空回りでした。例のワクチンを打つた時にも、手続きが大変で、人もたくさん必要で、みなさんがアタフタしてやっているようで、paper が多く、簡素化、省力化ではないようで、人が多く関わってしまうのではないでしょうか。印刷代が心配になりました

 旧スーパーマーケットの建物が、ワクチン会場でしたが、案内や消毒など、なんと多くの人がいたことでしょうか。市役所の他の部門から借り出されて、みなさん〈見切り発車〉の電車に乗せられて、アッチコッチの無駄な動きが目立っていました。危機に弱い日本が気になった、コロナ騒動、EMS騒動でした。でも無事に作業が完了したので、追跡調査ができそうで、受け取る娘は安心でしょう。

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銀座四代

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 学校の裏門の近くに、都電の停留所があって、授業の休講で、銀座方面行きに飛び乗って、銀ブラを何度かしました。もう運賃がいくらだったかは忘れてしまったのですが、〈チンチン電車〉と呼ばれていたのです。帰りは、有楽町から山手線に乗って東京駅に行き、そこから中央線に乗って家に帰ったと思います。

 東京の郡部は田舎で、学校は、山手線の中にありましたが、〈華の東京〉の外れで、渋谷や新宿は身近に感じたのですが、銀座は別格でした。やっぱり〈お上りさん〉で、なるべくキョロキョロしないですまし顔で歩いても、田舎者の感じでした。

 一度だけ、帝国ホテルに一泊したことがありました。知人が部屋をとってくれて宿泊させてもらったのですが、身にそぐわない感じで、ちょっと高級過ぎて身の置き所がありませんでした。ビジネスホテルの広さがちょうど安心できるのです。

 そんな東京に、コロナの感染者が激減したので、昨日は出かけたのです。掛り付けの歯科医に、歯を診てもらうためでした。やっと口の中が落ち着いて、その歯科医院の近くに友人がいて、事務所兼教会に、彼を久しぶりに訪ねたのです。浅草の老舗の鰻屋さんの支店に連れて行ってくれ、何年ぶりでしょうか、「鰻重」を頂いてしまいました。持つものは友で、友情に感謝したのです。

 もう銀座なんて、何年も行っていませんし、用がないからです。銀座を横切って、都の事務所に、仕事で何度か出かけたり、父と教文館の社主に会いに行ったことがあったのを思い出します。

 ここ栃木市にも、〈銀座通り〉があったのですが、郊外に大型店が出て、先日は、アーケードの取り壊しが行われていました。ますます、地方都市でも、昭和が遠くなり、昭和を感じさせる建物などが老朽化してきています。ここは気取らない街で、気に入っています。川の流れの瀬音を聞きながら住まえるのは情緒があって、快適なのです。

(江戸期、明治期、昭和戦後期、現在の様子です)

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ブラジル移民

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 移民して来た外来者に、ブラジル人が言った言葉が記録されているようです。『ドイツ人は3人集まると教会を建てる!』、日本人は何を建てたのかと言いますと、「学校」だったそうです。信仰と教育、人となるために必要なことなのでしょう。ドイツ人の場合は、教会が、教育を担っていましたから、教育と信仰は一つであったわけです。

 「日本力行(りっこう)会」という団体があります。農家の次男や三男が生きていくために、注目される働きをしてきています。貧しいけれど、向学心のある子弟のための教育支援事業を行ってきているのです。学校紹介、学費の援助、またアルバイトの斡旋などもしていました。1897年(明治30年)年に、牧師・島貫兵太夫によって、東京神田に開設されています。

 この島貫兵太夫は、仙台藩の下級武士の子で、維新後は、農業に従事した父に育てられますが、貧しくて、小学校で学ぶことができないままでいました。島貫は一念発起、14歳の時に学び始めると優秀で、卒業時には首席でした。小学校の助教になり、訓導の資格も取得します。キリスト教に反対でしたが、聖書を学ぶ内に基督者となり、仙台神学校(東北学院大学)で学ぶのです。

 救世軍の伝道をし始めますが、貧しい人たちや苦学する学生たちへの思いが強くなり、そう言った思いから、貧民救済の働きを始めるのです。そして「苦学力行」という言葉から、「力行会」を建て上げるのです。その働きが発展的に、アメリカやカナダ、そしてキューバやブラジルやアルゼンチンなどへ、国内の貧しい若者たちや家族を海外移民させる働きもしてきました。

 ブラジル移民ですが、最初の移民船がブラジルの海の玄関、サントス港に、781名が笠戸丸で着いたのが、19086月でした。それ以前に、五人の方(通訳地世話をした人たちです)が前もって調査や政府との交渉にために渡航していて、移民のみなさんを迎えています。コーヒーの栽培での成功を約束されていましたが、開墾から始め、それは重労働で、まるで奴隷のようだったそうです。

 1950年代の終わりに、家内の兄が、高校を終えてすぐに、ブラジルに移民をしています。日本で約束されたことが、現地とは食い違っていて、随分と苦労をしています。同行の仲間の自死があって、埋葬のために泣きながら土を掘ったと聞きました。アルゼンチンに行きました帰りに、サンパウロに、義兄を訪ねた時に聞いたのです。農業移民でしたが、自分で事業を興して、家族を養い、子どもたちに教育を受けさせ、立派に働きを確立していました。

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 私の訪問時に、日本のリンゴを栽培して、大成功を収めた、義兄の親友とお会いしました。3人の子をつれて、離婚されたお母さんは移民に応募したそうです。辛苦の末、リンゴ栽培を始め、その貯蔵施設を作って、出庫調整をしておられ、美味しい「ふじ」を一箱届けてくださったのです。義弟ということで、街の大きなレストランで、大判振る舞いを私にためにしてくれました。サントス港に別荘を持っていて、次回訪問時にはお連れしたいと言ってくれました。

 移民の成功者は一部で、サンパウロのリベルダージに、日本人街がありましたが、一世のお年寄りが、地下鉄の駅の前のベンチや石垣に座って、日向ぼっこをしているのを見かけました。みなさん、深いシワを顔に刻んで、ご苦労をされてきて、お子さんたちを育て上げて、移民仲間と談笑しながら、老後を過ごしていたのが印象的でした。

 ブラジルで飲んだコーヒーは、とても濃くて、たっぷりな砂糖を加えて、チビチビと飲まれるので、American に馴染んできた自分には、違った飲み物のように感じられたのです。espresso でしょうか、苦くて甘い、移民の歴史のような味でした。美味しいコーヒーは、ほとんどが日本向けに輸出されるのだそうです。

 義姉に、青空 market に連れて行ったいただいた時に、一世のお婆さんにお会いしましたが、とても寂しそうだったのを覚えています。ポルトガル語を話す孫やひ孫と、日本語で会話ができないからでした。長い異国での苦労が、お顔に滲み出ていました。

 (移民船笠戸丸、最初の移民の集合写真、サントス港です)

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宮城県

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 小学校一年、中耳炎になって、住んでいた街の耳鼻科にかかりました。あんなに痛かったことは初めてでした。あれ以来、時々中耳炎が起こり、何度も耳鼻科通いをしてきました。『仙台に、鼓膜再生で腕の確かな医師がいる!』と、あるblogger が教えてくれたのです。その人に連絡して、どこの医者かを聞いたのです。

 度重なる中耳炎と、教師をしていた時に、生徒とバレーをしていて、右耳にボールを当ててしまって、鼓膜を損傷してしまったのです。そんな経過があって、「杜(もり)の都」の玄関口・仙台駅で地下鉄に乗り換えて、そのお医者さんを訪ねました。もちろん前もって連絡をしてありましたので、左右両方の鼓膜再生手術は無事終わり、2日後には退院、帰宅できたのです。

 そんなことが、仙台と宮城県との自分との関わりとなりました。退院した日に、碧眼の将・伊達政宗の居城の青葉城(仙台城)を訪ねました。市内遊覧バスに乗ってでした。城壁しか残されてありませんが、ここから、ローマを中心に、当時のヨーロッパに使節団(慶長遣欧使節団)が訪ねたことを学んでいましたので、ことのほか興味がありました。

 慶長18年(16131028日)に、その遣欧船は、石巻の港から出帆しています。支倉常長(はぜくら)が団長で、実際はアメリカ大陸のメキシコに上陸し、そこから太西洋を航行して、1615130日に、スペイン国王に謁見しています。そして1620年に帰国したのです。それ以降は、キリシタン禁制、鎖国政策で、日本は内に籠ってしまうのです。

 石巻は、東北地方で有数な漁港で、10年前の東日本大震災の折には被災して、多くの犠牲者を出しています。津波が、北上川を遡上していく様子が、ヘリコプターから中継されていて、驚きのうちに、その映像をテレビで見たことがありました。下る川の勢いではなく、逆流する水の力の強大さに息を呑んだのです。

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 この仙台に、東北学院があって、進学を考えましたが、学びたい学科がありませんでしたので諦めました。また、今の東北大学医学部の前身の仙台医学専門学校がありました。そこで、中国の紹興の人、魯迅が学んでいます。魯迅の影響でしょうか、今でも東北大学には、中国からの留学生が、千二百人もいるそうです。私の教え子も、ここに留学していました。

 仙台は、伊達政宗が街作りをしていますが、特異な街作りをしていて、調べてみると興味深いものがありそうです。どなたであったか忘れましたが、この街を探索して、テレビの番組で comment しておいででした。

 宮城県は、現在、228万人の人口で、ほぼ半数の102万人が仙台市民です。最も有名な観光地は、「松島」でしょうか。芭蕉が訪ねて、感無量だったようです。

 『抑ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず。』

と、書き残しています。中国一の景観と言われる、杜甫が「岳陽楼に登る」で詠んだ湖南省の「洞庭湖」、白居易(はっきょい)が詩に取り上げた浙江省杭p州市の「西湖」に比肩するほどの名称が、この松島なのだと言うのです。芭蕉は自分の足で、大陸を訪れたことはありませんでしたが、伝え聞いていたのでしょう。

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 私たちが住んでいた華南の街にも、人造池の「西湖」がありましたが、多くの街に作って、そう呼ぶ池があるほど美しく、有名な湖のようです。

 芭蕉は、自分では俳句を詠むことはしませんで、同行の曾良が詠んだ俳句が有名です。

  松島や鶴に身をかれほととぎす

 ここ栃木市にある大平山からの眼下の眺めが、まるで「松島」のように思えたと言う、上杉謙信の故事から、実に美しいと言われて、「陸の松島」と呼ばれています。そう見えなくはないのですが、実際の松島に行ったことがないので、「謙信平」から見下ろす風景で、想像する以外になさそうです。

 どうして名物になったのか、「牛タン」が美味しいと言われて、入院した帰りに、お土産に買って帰ってしまいました。そのほかに「笹かま」も美味しいのですが、ただ化学調味料の旨味が強くて、自然のままのかまぼこを食べてみたくなりました。

 (石巻にある遣欧船の復元船、復興なった女川町、ミヤギノハギです)

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hug

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 日本社会の上下関係、主従関係の典型的な姿が、この写真に違いありません。織田、豊臣、徳川の時代ではなく、令和になって、まだこんな写真を見て、日本って根本的には、まったく変わっていないのだと言うことが分かります。

 江戸時代の狂歌に、「織田が搗(ひ)き 羽柴が捏(こ)ねし天下餅 座りしままに食うは徳川家康」がありました。信長の性急ぶり、秀吉の学歴や家柄の劣等感ぶり、家康の冷淡ぶり、いえ、この三人はみな、同じような〈ぶり〉の専制者だったかも知れません。総理大臣というのは、王様ではなく、国民に serve する、公僕の頭であります。

 政府の大臣のみなさんが、首相の前に、低頭している様子は、尊敬よりも、何か上下関係が露わで、好きになれません。欧米だったら握手、21世紀の日本でも、握手でいいのではないでしょうか。相手の体温が伝わってきて、平身低頭するよりは、友好的な挨拶になるのではないでしょうか。そうしないで慇懃な顔をして、それを受けている旧態依然さが、気になります。

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 私は、アメリカ人宣教師と8年間、この方から多くを学んで、共に働きました。この方は、ご自分を「先生」と呼ばせませんでした。母教会を開拓された方も、「Jack さん」と呼ばれるのを喜んでいました。もちろん教会は上下関係ではなく、友愛の横関係であって、互いが、赦された罪人同士で、兄弟姉妹なのであって、握手やhug をし合うのです。

 何かの落度があって、ビンタをされた若い方が、『牧師先生は僕を愛してくださっているからだ!』と思ったそうです。彼は、お父さんから関心を寄せられなかったのでしょうか、父的なものを、その暴力で感じてしまったのです、そう思わせたなら、ビンタした者は牧者ではなく、相当なおまけをして言っても調教師、訓練士、そう愚か者ではないでしょうか。オリンピックでしたか、馬術で、走らない馬の横っ面を殴ったことが、大きな騒ぎになっていました。馬だって愛は感じなかったに違いありません。

 いやー、教会の中に鉄拳や平手がとんでしまうとしたら、それは日本の旧軍隊やタコ部屋、さもなければ博徒の集団に間違われそうでなりません。平和と赦しや和解の世界にあってはいけないことが、かつての一部の教会では、弟子訓練の名で、まことしやかに行われていました。まさに愚の骨頂です。まさか今はないでしょうね。

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 それは日本精神、上位下逹の慣行が、愛にすり替わって入り込んでしまっています。私は中学の運動部で、鉄拳制裁を、教師や上級生、OBから受けたことが何度かあります。〈ヤキを入れる〉、〈制裁〉、〈連帯責任〉ででした。今は人権問題になってしまいますから、ないと信じています。

 弟子のペテロが、剣を抜いて、耳を切り落とした記事が聖書の中に出てきます。血気盛んなとか、若気の至りとか、正義感からとか言って、その行為を弁護できるでしょうか。イエスさまは、ペテロの剣を収めさせて、耳を治されています。「平和の君」でいらっしゃるからです。

 今度の首相には、顔を見合わせ、微笑みながら、ねぎらい合いながら、歓迎し合いながら、hug や握手をして欲しいのです。できるかなの十月です。

 好い指導者を私たちは願うのですが、私たちも好き国民、部下、学生でなくてはなりません。

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登山

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 先週の土曜日は、散歩で登山してきました。市内が標高40m、その錦着山は80mですから〈40m登山〉でした。山の西側には、永野川が流れていて、この地の歴史は、川の氾濫が繰り返されたようです。

 その防護堤の工事に、尽力した市長さんの顕彰碑と胸像が、この山の頂きにありました。この街(村)でも、梅雨や台風の時期の川の増水で、洪水になったり氾濫があって、農業に痛手を被っていたのでしょう。一昨年秋の19号台風の洪水で、罹災した経験から、川の容量を超えるほどの雨とは、どんなに護岸工事が近代化した技術で作られても、耐えられないのでしょう。

 今年から、五カ年計画ででしょうか、一昨年、決壊した散歩道の脇を流れる永野川の護岸工事が行われています。江戸時代、どこの藩でも、護岸工事は一大 project だったようです。好い為政者は、そのために尽力したそうです。自然は、近代社会にも容赦なく〈シッペ返し〉をしてくるようです。

 自然を破壊してきた人間が、刈り取っていることなのでしょう。もう何年も《共生》が言われてきていますが、乱開発、自然の秩序の破壊、もう壊れ切ってしまったのでしょう。江戸時代にたびたび発生した飢饉ですが、近年、私たちの国では起きていません。異常気象が続いているのに、最近では米の凶作などの話を聞きません。

 米に頼らない食習慣に変わったからでしょうか。それとも私たちの国では、輸入に頼り切っているので、食糧不足に悩まないのかも知れません。でも、学んだ日本史を思い出すと、江戸時代の凶作、飢饉、米騒動など、生まれてこの方、中国や北朝鮮、アフリカなどから聞くだけで、とんと聞きません。

 輸入先の生産国も、冷害や大雨によって田畑が流されて、穀物や野菜や果物の生産が不足することもあり得ます。山の上から自分の街を見下ろして、やはり農業が盛んにすること、後継者を育てることが必要なのでしょう。お金になる近郊農業、園芸だけではなく、基幹作物の生産を上げていく必要を感じています。

 でも、今後、こんなに自然が狂い始めてきていますから、天候不順、日照不足で、農作物が実らない年がありそうです。大雨も、暴風も、竜巻も、いまや人の所業の結果です。世界中で、森林面積が激減し、砂漠化は由々しき問題なのですが、専門家は警告していても、物で満ち足りた、この時代の私たちは関心さえ示さないのが、問題なのかも知れません。
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月空星空

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 昨日の夕方7時頃の南の夕空に、月と星が見えました。この写真には映っていない、もう一つの星が月の右に、微かに見えたのです。iPad の撮影ではとらえられませんせした。その二つの星のどちらかが「土星」なのだそうです。天体望遠鏡があったら観たかったと思うこと仕切りでした。秋の夜空は幽玄で、趣があります。多分観る気持ちが、そう言った気分にされるからでしょうか。

 南宋の蘇軾は、「赤壁賦」を詠んだのですが、性格が豪放であったそうで、たびたび人生の危機、政治的な憂き目に直面するのですが、楽天家でしたので、くよくよしないで、夜空を見上げて月や星を、鋭い感性で詠み上げた詩人でした。

 『あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。(詩篇836節)』

 夜空を見上げると、邪心が洗われるような思いにされ、創造の世界に引き込まれていきます。創造の神は、無限の星の一つ一つに、名をつけ、その名を呼ばれるお方です。「ウエストミンスター小教理問答」に、『神とは、どんな方ですか?』の答えに、『神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変のかたです。』とあります。

神さまは、まさに《無限》、《永遠》、《不変》です。

※ 写真を Click すると、左上に星が映り込んでいます!

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