人を残す

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 東京という街は、よくできた街だと思います。太田道灌の城を増改築して、江戸を首都として定めた家康、その意を汲んで江戸を一大都市に創り上げるべく、働いた家臣には驚かされます。その街が、東京になり、関東大震災で大打撃を受けたのですが、そこに手を入れて、世界に誇れる「東京」に作り上げたのが、陸奥国胆沢の出身の後藤新平でした。

 市長や外務大臣、さらには台湾総督・民政長官などをした彼は、死の間際に、『よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておきなさい!』と、三島通陽(日本にボーイスカウトを広めた人)に、言葉を残したと言われています。

 また、中国の古典「管子」には、『一年の計は穀を樹うるに如くは莫く、十年の計は木を樹うるに如くは莫く、終身の計は人を樹うるに如くは莫し。 』とありますから、国を造り、時代を造ろうとするなら、先ず、<人材育成>が最もすべきことという勧めです。

 その人ですが、矢張り、柳の枝がしなうが如く、あるいは『鉄は熱いうちに打て!』という様に、若い時期、自在に形作られるを由とする時が最適だと言われてきています。ある講演会で、『年をとった猫に、芸を教えることは至難の業です!』と講師が語っていて、笑ってしまいました。犬や猿なら、「芸」を教えることができますが、猫などは、始めから芸を仕込む事などできないからです。人も、歳をとって硬化してしまってからは、学ぶには不適で、どうにもならないのでしょう。

 「教育」と言うのは、人となるために重要な働きだと、つくづく思わさせられます。『◯◯先生から学びました!』、『恩師の生き方から影響を受けました!』と、日本でも中国でおも、多くの人から聞きました。青年期に受けた感化は、一生に亘るのでしょう。『一生、詩人たれ!』と、まだ三十代の講師が、熱く語りました。同じ学校の先輩でした。後輩に、現実に押し流されないで、『夢や幻や理想を掲げて生きていけ!』と言ったのです。

 国にも地方自治体にも教育界にも、そして福祉の世界や実業界にも、その時代時代の必要に見合って、仕えることのできる【人】が必要です。歴史を学ぶ面白さは、国家危急の時に、必ず【人】がいたと言うことです。21世紀の日本にも、備えられた【人】が、必ずいることでしょう。

 『もう学び終えた!』などと言えません。ありのまんまの自分を受け入れて、これに感謝して、もう一歩の成長を課したいと、自らに願って、毎朝目覚めます。学ぶ姿勢で生きるなら、人生を肯定し、感謝に溢れて生きているなら、きっと創造主に出会うことができます。神の前に、『自分が何者か?』を知らずして、道を説くことはできないからです。

 5歳年下の新渡戸稲造は、しんぺいと同じ陸奥国(岩手県)、盛岡で生まれていますが、札幌農学校で、創造主と出会い、救い主キリストを信じて基督者となっています。二人とも、日本の近代化に貢献した人材であったのです。

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生きよ

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 『まことに主は、イスラエルの家にこう仰せられる。「わたしを求めて生きよ。 ベテルを求めるな。ギルガルに行くな。ベエル・シェバにおもむくな。ギルガルは必ず捕らえ移され、ベテルは無に帰するからだ。」 主を求めて生きよ。さもないと、主は火のように、ヨセフの家に激しく下り、これを焼き尽くし、ベテルのためにこれを消す者がいなくなる。(アモス書 546節)」

 聖書は、徹頭徹尾、『生きよ!』と語ります。命の付与者である神の前に、生きなければならないからです。旧約聖書に、アヒトフェルという人が登場します。第二代のイスラエル王のダビデに仕えた議官でした。その知恵は、〈人が神のことばを伺って得ることばのよう〉だったと言われるほどだったのです。

 ところが主君の子のアブシャロムが、父に謀反を起こした時に、『「父上が王宮の留守番に残したそばめたちのところにお入りください。全イスラエルが、あなたは父上に憎まれるようなことをされたと聞くなら、あなたに、くみする者はみな、勇気を出すでしょう。」 』と言う勧めをしました。

 ダビデは、その人生の危機に際して、『主よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください。』と祈ります。欺きや叛逆、非人間的な勧告や非道の助言は、義や公正さを愛する神さまは看過ごしにされませんでした。義や愛を優先させる助言者・フシャイを、神は用意されたのです。

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 そのフシャイの助言を、アブシャロムは受け入れてしまうのです。これを知ったアヒトヘルは、故郷に帰って、身辺整理をして、自殺してしまいます。実にあっけない最後でした。成功者の自尊心や誇りが、決定的に傷ついたからなのでしょう。人の上限ができても、自分に人生の危機で相談する友や助言者がいなかったのです。いえ、彼には、そうできない成功し続けてきた者に見られる、独特な弱さがあったのです。

 先日、取り上げた、石原慎太郎ですが、中学時代からの親友がいました。江藤淳です。彼は奥さんを亡くした後に、後を追う様にして自殺をしてしまいます。彼もまた人生の最大の危機に際して、的確な助言を得る友がいなかったのです。中学以来の友情関係にありながら、最高度の危機に、心を打ち明けて相談できる友でなかったのです。

 金銭問題、人間関係、ことさらに異性関係などで、心や肉の戦いの中で、『真の友を得よ!』と、恩師は、私に勧めました。過ちに《否》と、涙を飲みながら言ってくれる友のことです。自分の赤裸々な隠された闘い、その心を打ち明けられる人を得ることこそが、おのれの人生を全うさせる力となるからでした。ダビデには、若い時にヨナタンと言う友がいました。

 人の相談を受けて、的確で優れた助言のできる人だと思っていたのに、実は自らの深い問題を解決しないまま、その問題に負けている人がいます。言い訳できない深刻な欠陥です。自分が罪と戦わない敗北者なのに、人を助けることができるでしょうか。私は、そう言う人の著作は捨てました。どんな賢い助言も受け入れませんし、参照にすることも致しません。

 賢くはないけど、義を愛し、公正な道を歩む無学、無名な人の方が、神の前には優れているからです。彼らには、《神の知恵》が与えられるからです。その人の経験から得た知恵ではなく、《天来の知恵》を与えられた人です。

 生きる意味、死の現実を真正面から捉えないで、人生の最期で、悶々として、迷ってしまう成功者は、本物の成功者なのでしょうか。若い日に、一冊の本を読みました。「カタコームの殉教者」と言う題でした。ローマの市街地の地下にある墓所に逃げ込んで生きていた人たちです。捕らえられて闘技場でに置かれます。市民の熱狂の中で、飢えた獅子に、噛み裂かれて死んでいく、初代の基督者の姿が描かれていて、慄然として読みました。天を見上げ、神をほめたたえつつ、死んでいく、雄々しい信仰者の姿を知って、『そんな時が、自分の生涯にもあるのだろうか!』と、深く考えさせられたのです。

 自分のやがて迎える「死」を、しっかりと見据えながら、今の責任を果たして生きるだけです。死の向こうにある約束の永生の国、《天なる故郷》の市民であることこそ、今朝の私の確信なのであります。

(“キリスト教クリップアート”による「ダビデ」です)

沈みゆく太陽

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 吉岡治の作詞、原信夫の作曲の「真赤な太陽」を、美空ひばりが歌っていました。

まっかに燃えた 太陽だから
真夏の海は 恋の季節なの
渚をはしる ふたりの髪に
せつなくなびく 甘い潮風よ
はげしい愛に 灼けた素肌は
燃えるこころ 恋のときめき
忘れず残すため
まっかに燃えた 太陽だから
真夏の海は 恋の季節なの

いつかは沈む 太陽だから
涙にぬれた 恋の季節なの
渚に消えた ふたりの恋に
砕ける波が 白く目にしみる
くちづけかわし 永遠を誓った
愛の孤独 海にながして
はげしく身をまかす
いつかは沈む 太陽だから
涙にぬれた 恋の季節なの
恋の季節なの 恋の季節なの
恋の季節なの 恋の季節なの

 この歌を歌った、美空ひばりは昭和を代表する女性歌手でした。川田晴久と一緒に歌っていた、まだ子どもの頃の彼女の歌声を、薄覚えています。歌は、1967年に発表され、なんと140万枚の大ヒットを飛ばしたものでした。ジャッキー吉川とブルーコメッツが、バックで歌っていました。自分は、青春真っ只中で、すぐ上の兄に買ってもらった背広に、白いYシャツにネクタイ、黒い靴を履いた社会人一年生でした。その年の夏前に、流行ったのです。

 この2月1日に、89歳で亡くなる直前の石原慎太郎氏が、この歌詞の「いつかは沈む太陽」のくだりを、余命わずかな時期、昨年の秋頃に引用して、「死への道程」と言う遺稿を記していました。大学在学中の1955年に、「太陽の季節」を発表し、57年には芥川賞を受賞し、一躍文壇の寵児となり、「太陽族」の社会現象が起こりました。少なからず自分も、夏休みに坊主頭に、「慎太郎刈」の真似事をし、中学校の校則違反をしたことがありました。足を引きずって裕次郎の様な歩きの真似もしたのです。

 湘南海岸の砂浜を駆け回った男たちも、鬼籍に入ったわけで、輝いていた「太陽」が沈むように、生者必衰で、「太陽族」の弟の裕次郎も、その歌の作詞者も、作曲者も、歌手も、一緒に歌った若者たちの多くも亡くなっています。聖書には、次の様にあります。

 『人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている・・・。(ヘブル927節)』

 誰もが、「死」を迎えるのです。父も、母も、恩師たちも逝きました。やがて順番に、私も、決して避けることができずに、死に逝くのです。実に厳しいのは、「死後に裁き」のあることを言います。聖書には、次の様にもあります。

 『しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。 1コリント1554節)』

 これは、パウロが、コリントの教会に書き送った手紙の中の一節です。パウロは何を言っているのでしょうか。語ることなく、封印しておきたい「死」の問題を取り上げているのです。この聖書箇所の前に、次の様に書き記されてあります。

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 『聖書に「最初の人アダムは生きた者となった」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告jげましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。(1コリント154553節)』

 人類の始祖の〈最初の人アダム〉と、《最後のアダム》、《第二の人》である、イエスさまが比較されて記されています。アダムは死にました。ところが、イエスさまは十字架で死なれたのですが、復活されて、「死」を討ち滅ぼされたのです。《死に勝利した救い主》だと、パウロは記します。代々の基督者は、これを信じたのです。私の母も、父も、二人の兄も、一人の弟も、息子も娘も孫たちも、そう信じたのです。受くべき「裁き」を、代わって受けてくださったことを信じることができました。未知、未経験の「死」を、恐れないで、怯えないでいいのです。イエスさまは、

 『それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは「死」を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。 2テモテ110節)』

と、パウロが弟子のテモテに、「死」は滅ぼされたと書き送ったのです。

 『「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。(1コリント人へ155558節)』

 軍隊を、ウクライナの街々に送って、殺戮行為を繰り返している命令者のプーチンも、レーニンやスターリンがそうだった様に、彼もまた必ず死ぬのです。誰一人、これを免れることはできません。だから生きている今、神と和解し、私の身代わりに十字架に死んでくださったイエスを、誰でも信じるなら、救われ、永遠の命を頂けるのです。ここに「救い」があります。聖書は、そう約束するのです。

(1950年代の若者の「太陽族」、“キリスト教クリップアート”からです)

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幕末の雄

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 高知の桂浜の高台に、坂本龍馬の像があって、太平洋の彼方に目を向けて、遠望している姿が印象的でした。華南の街のわが家に出入りしていた若者が、明徳義塾高校に留学するので、親御さんに代わって、その入学式に出席したことがあり、その式の帰りに、その高台に上がってみたのです。

 この龍馬は、あまりにも虚飾が多くなされて、実像とかけ離れているのを知って、司馬遼太郎の功罪を考えてしまいました。sensational に筆を進める誘惑に、小説家はさらされているので、遥かに実像とかけ離れた人間像が作られ、それが一人歩きをしてしまうのでしょう。

 世界に目を向けていた幕末期の青年であったことは間違いがなさそうです。当時の青年たちが、鎖国の外の世界に関心があったからです。同じ土佐から、船員だった万次郎が太平洋を漂流して助かったのですが、その万次郎が、10年ぶりに帰国して、その漂流の記録を本にしました。「漂巽記略(ひょうそんきりゃく)」で、鎖国で海外事情に飢えていた人々に、その本は情報を提供しています。龍馬も、その本を読んで、その目を外国に向けたのでしょう。

 それで観光用の像が、太平洋の彼方に向けられた龍馬像を作っているのでしょう。面白おかしさではなく、歴史上の人物の真実さを提供してくれるのが、「日誌」です。1966年から68年にわたって、同じ司馬遼太郎作で、毎日新聞に掲載された「峠」があり、幕末に登場した人物を取り上げていました。文庫本になっていたのを、読んでみたことがあります。

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 越後国長岡藩の家老を務めた河井継之助を、小説家の筆で、憶測や願望をもって描いていますが、実虚を織り交ぜた小説で、読者の興味に応じて筆を運んでいるので、実像とは大分違った誇張や飾りがあります。買って読んでもらわなければならないので、何とかも方便があるのでしょうか。

 幕府支持の長岡藩は、長州軍を迎え撃つのですが、福島の会津只見で、戦いで負った傷が原因で没しています。あの戊辰戦争の犠牲者となったのです。その只見川の河畔に、記念館があるそうで、雪が溶けて春になったら行ってみたいと計画してます。日帰りは難しそうですが。

 この徳川への恩義や忠実さを忘れず、穏健な立場をとって、会津と長州の間で執り成しをしますが、長州に打たれてしまいます。この継之助の実像を知りたかった私は、彼の日誌を、古書店で見つけたのです。藩の要職につく以前の、若き日々の旅行記です。コロナ禍の良い点は、いながらに旅行案内の日誌を読んで、文字と sketch で、その旅程を、当時の様子を思い描きながら 楽しむことができることなのです。

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 『安政戊午(ホゴと読み、五年のことの様です)十二月二廿七日に、長岡を出で・・・』、継之助が32歳の時でした。三国峠を越えて、九日後に江戸に着いてます。品川沖では、「異船(外国船のことです)を見て、驚き怪しんだと言うよりは、『気味好き事なり。』と言っています。

 横浜、鎌倉などを訪ね、実に羨ましい旅の見聞を知ることができるのですが、若き継之助の目的は、観光だけではありませんでした。これと決めた人を訪ねて、教えを請うと言った修行時代の旅でした。四国は備中松山藩に、「幕末の三傑」と呼ばれた、「山田方谷」と言う賢者から教えを受けたいと願っての西国遊学の旅でした。この方谷は、石井十次、富岡幸助、山室軍平らに、「至誠惻怛(『世に小人無し。一切、衆生、みな愛すべし。』と言った教えです)」の教えの影響を与えています。

 方谷は、多忙だったのですが、よく時間を割いてくれて、その訪問を『談ず。』と書き残しています。その内容の記録は省いているのです。旧知の会津藩の訪問者などもいて、そう言った訪問者仲間でも、『談じ。』たのです。師の方谷は、江戸に行く用ができたので、継之助は短期滞在で松山を経って、九州に向かうのです。

 十月二廿一日に、肥後国熊本に着いています。加藤清正の築城した熊本城は、長岡城と比べてみたのでしょう、その石垣の大きさに驚きを見せています。噂に聞いた通りの城だったのでしょう。『平地多し、広大なり。』と言って、城下から薩摩の方面を見たのでしょう、肥後藩の豊かさを、その感想で記しています。

 後世に残そうと旅日記を書いただけではなく、金銭の出納の記録を、『何々に二文。』とか書き残していますし、漢書を学んでいた人なのに、当て字も多くある様です。自由に書き記した日誌だったのがうかがえます。よく本を読んだ人でしたが、〈多読〉ではなく、《精読》を旨とした人だと言われています。

(越後長岡の花火大会、旅行地図です)

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医院の待合室に

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 月一で通院している、掛かり付け医師を持つ身となり、今朝も診察に行ってきました。血液検査なのですが、長年、極めて高かった中性脂肪が平常値に戻りました。また薬を飲んでいた尿酸値も正常値になり、ただ血圧が高めで、薬を飲まされています。血糖値も問題なし、逆に貧血もありません。

 この掛かり付け医は、医院と道路を挟んだ向こうにグラウンドが見える高校があって、そこを卒業している方です。母校の脇での開業医はいいですね。この方の医院の壁に、同じ作者の絵が掲げられているのです。この上の絵は、待合室の壁にかけてあって、今朝、スマホを向けて撮りました。下の方は、ウイキペディアのサイトにある、この方の絵なのです。

 イギリスの人気画家、マッケンジー・ソープ( Mackenzie Thorpe )の描いたものです。「希望」、「愛」、「喜び」を伝える画家だそうです。このソープ氏の背景は、幼児期の極貧を過ごしたのだそうで、その頃から、絵を描くことが一番の励ましでした。そんな背景や思いの作者の好きな医師を知って、私は安心してるのです。

 今朝も、ご自分で診察室の椅子から立って、待合室にいた私の名を呼んで招き入れてくれました、今朝は二度もでした。二度目に行った時に、早過ぎたのです。駐車場の脇の花壇の花に、この医師が水を遣っておいででした。挨拶して私と目があったら、医院の裏から入って行って、玄関の戸を開け、カーテンを開け、テレビまでつけて招き入れてくれたのです。

 看護師さんにだけ任せずに、率先して開院の準備をしたり、患者を呼んだりする医者は、開業医では珍しいと感心した私は、もうそれだけで半分は治った思いだったのです。❤️を大切にしている内科医に違いなさそうです。

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外滩

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  上海に、「外waitan(外灘)」と呼ばれる場所があります。長江の河口の黄浦江にあって、多くの船が東シナ海に出入りしている箇所です。戦前には、横浜や神戸や下関から出港した船が接岸した「波止場」で、中国にいました間、何度か、この波止場と大阪南港の間を船旅で、私は通ったのです。

   華南の街のバスターミナルから、長距離の夜間運行のバスに乗り降りして利用しました。「波止場」と言うのが一番相応しい呼び方で、飛行機を利用するよりも、はるかに情緒があって、潮のにおいも感じさせられますし、カモメの鳴き声もするのです。何よりも『日本に帰るんだ!』と言う想いが湧き上がり、日本からやって来て上陸する時は、独特の緊張感のあった上離陸点でした。

 一度だけでしたが、旧日本街にある、ホテルに泊まったことがありました。上海から来ていた学生が案内してくれ、そのお礼で一緒に restaurant に行って、食事を奢ったのです。その泊まった youth hostel(ユースホステルになっていました)は石板の床でなく、年季の入った板を敷いた床で、しかも古びたにおいがして、父に若い時代の雰囲気ってこんなものだろうか、と思えたのです。

 『若かった父も、もしかしたら、ここに泊まったかも知れないかなあ!』と想像しながら、そこで明日の出航の前夜を過ごしたのです。あの《懐かしさ》って、何だったのでしょうか。もうとっくに召されていた父に聞く術もなかったのですが、長州藩士の高杉晋作も、幕末期に、この街を訪ねて、過ごしていますから、きっとそんな思いにされたのでしょうか。

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 上の兄が、大学受験で聞いていたラジオ番組の後だったか、前だったか、歌謡浪曲で、「人生劇場」をしていたのを聞いていました。それで、その文庫本を買って読んだ本の中に、吉良常という人物が登場するのです。彼が、「花火師」として、この上海にやって来て、日本の花火を打ち上げる下りがありました。中学生の私は、『オレも上海の夜空に花火を上げるんだ!』と誘発されたのです。

 12、3歳頃の幼い願いなど、いつか消えてしまったのですが、全く別な使命や目的を抱いて、中国に行き、家内と一緒に13年も過ごしたのも不思議な導きだったのだと思っています。花火師としてではありませんでしたが、素敵な年月でした。

 御多分に洩れず、コロナ感染のためと経営難のために、上海フェリーの貨客船が、2020年から運行停止し、現在は、「日中国際フェリー」のみが就航していますが、これも現在は、コロナ禍で運行停止中で、まだ再開の見込みが立たないようです。留学生、旅行者、同じように大学で日本語を教える教師などのみなさんと、二泊三日で同船し、話し合ったのが懐かしいのです。仕事で日本に出掛けていく若い女性たちとも出会いました。カモメが沖合までついて来て、外海に行くと飛び魚が、船の横を飛んでいるのが見えました。

 そう言えば、ずいぶん船に乗っていないのです。近くの巴波川の観光舟は、時折、これもコロナ禍で営業自粛で、毎日のように見られないのですが、大洋を横切る船に乗りたいのは、コロナ禍で外出がままならないから、殊更に誘(いざな)われるのかも知れません。わが家にやって来る青年が、『コロナ明けにはオーロラを観に行く予定なんです!』と、家内に言っていたそうです。

 赤い鼻緒のジョジョを履いて、おんもに出たいと願うみーちゃんの思いに、みんなが重ねて思っているのでしょうか。すぐ上の兄が、兄弟会で一緒に出掛けられる日のやって来るのを、首を長くしている mail が、時々来ます。みんな同じ思いの春到来ですね。

(上海の外灘の現在と1927年に描いたデッサンです)

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揺籃

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 1月10日の「悠然自得」に、与謝野晶子の「君死にたもうことなかれ」を掲げました。どれほどのお姉さんが、妹が、兄が弟が、戦場に出征する兄弟を思いつつ見送ったことでしょうか。日露戦争への出征兵士の姉の心情を、正直に、そう晶子は漏らしたのです。ロシアにもウクライナにも、そんなお姉さんがいるのでしょうね。孫娘が、これまでは兄の大学進学やスポーツのことで激励していたのに、一朝、ロシアのウクライナ侵略のニュースを見聞きして、『戦争に行くの?』と母親に聞いた思いが、実に重く感じる早春です。

ああおとうとよ 君を泣く
君死にたもうことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとおしえしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや

(さかい)の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたもうことなかれ
旅順(りょじゅん)の城はほろぶとも
ほろびずとても 何事ぞ
君は知らじな あきびとの
家のおきてに無かりけり

君死にたもうことなかれ
すめらみことは 戦いに
おおみずからは出でまさね
かたみに人の血を流し
(けもの)の道に死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
大みこころの深ければ
もとよりいかで思(おぼ)されん

ああおとうとよ 戦いに
君死にたもうことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまえる母ぎみは
なげきの中に いたましく
わが子を召され 家を守(も)
安しと聞ける大御代(おおみよ)
母のしら髪(が)はまさりぬる

暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻(にいづま)
君わするるや 思えるや
十月(とつき)も添(そ)わでわかれたる
少女(おとめ)ごころを思いみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたもうことなかれ

お姉さんだけではなく、お母さんの気持ちも忘れてはいけません。小学校の級友のお母さんが、八百屋さんの手伝いをしながら子育てをしていた姿を覚えています。白い割烹着をしていたのです。戦争で主人を亡くし、父を亡くして残された子を、懸命に育てていた姿です。

「コサックの子守唄」を聞いたことがあります。

1 眠れや愛し子 安らかに
空から月も のぞいてる
お聞きよ私の 子守歌
まどろむお前の 頬に微笑(えみ)

2 やがては旅立つ 愛し子よ
門出に手を振る りりしさよ
見送る涙が 母の夢
眠れや愛し子 安らかに

眠れやコサックの 愛し子よ
空に照る月を 見て眠れ
やさしい言葉と 歌を聞き
静かに揺り籠に 眠れよや

 「コサック」は、ウクライナの戦闘集団を呼んだ言葉で、ソ連に属していた時代にも、戦士として戦った歴史があります。戦士を産もうとしているお母さんなどいようはずがありません。コサックのお母さんも、揺籃(ようらん)を揺すりながら子守唄を歌って、幼児が平和に生きていくのを願ったにちがいありません。  4人の子を産んだ私の母も、家内も、そんな思いで育て上げていました。

 悪戯度では同じような級友が、時として寂しいそうな顔を見せていました。同級生で、空手をやっていた猛者がいました。お父さんは、有名な将軍の一族の親や叔父を持ちながら、日中戦争後も、中国に残って、部下の戦後の世話をしながらも帰国できず、中国の乾いた土の上で倒れたのです。お父さんのことは聞いても、抱いてもらうことのなかった、級友たちの父親への思慕の思いは大きそうでした。家に遊びに来た時に、私の父と話していましたが、ちょっと複雑だった様です。

 晶子ではありませんが、『君死にたもうことなかれ!』の思い、『静かに眠れ!』と揺籠を揺するお母さんの手の想いが、強く迫って来ます。剣を納める日の来るのが早いことを願う、弥生3月の初めの朝であります。

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ボルシチの国々

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  『ご覧ください。あなたは私の日を手幅ほどにされました。私の一生は、あなたの前では、ないのも同然です。まことに、人はみな、盛んなときでも、全くむなしいものです。セラまことに、人は幻のように歩き回り、まことに、彼らはむなしく立ち騒ぎます。人は、積みたくわえるが、だれがそれを集めるのかを知りません。 主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。(詩篇3957節)』

 これは、世界を恐怖に陥れた、世界最初の共産主義国家の「ソビエト社会主義共和国連邦〉の国歌です。

1
Союз нерушимый республик свободных
Сплотила навеки Великая Русь
Да здравствует созданный волей народов
Единый, могучий Советский Союз!

自由な共和国の揺ぎ無い同盟を
偉大なルーシは永遠に結びつけた
人民の意思によって建設された
団結した強力なソビエト同盟万歳!

Славься,Отечество наше свободное,
Дружбы народов надёжный оплот!
Знамя советское, знамя народное
Пусть от победы к победе ведёт!

<コーラス>
讃えられて在れ、自由な我々の祖国よ
民族友好の頼もしい砦よ!
ソビエトの旗よ、人民の旗よ
勝利から勝利へと導きたまえ!

2
Сквозь грозы сияло нам солнце свободы,
И Ленин великий нам путь озарил:
Нас вырастил Сталин-на верность народу,
на труд и на подвиги нас вдохновил!

雷雨を貫いて自由の太陽は我々に輝き
そして偉大なレーニンは我々に進路を照らした
スターリンは我々を育てた――人民への忠誠を
労働へそして偉業へと我々を奮い立たせた!

Славься,Отечество наше свободное,
Счастья народов надёжный оплот!
Знамя советское, знамя народное
Пусть от победы к победе ведёт!

<コーラス>
讃えられて在れ、自由な我々の祖国よ
民族幸福の頼もしい砦よ!
ソビエトの旗よ、人民の旗よ
勝利から勝利へと導きたまえ!

3
Мы армию нашу растили в сраженьях
Захватчиков подлых с дороги сметём!
Мы в битвах решаем судьбу поколений,
Мы к славе Отчизну свою поведём!

我々の軍は戦いによって我々を成長させ
卑劣な侵略者を道から一掃する!
大戦によって我々は世代の運命を決定し
我々が我が祖国に栄光をもたらそう!

Славься,Отечество наше свободное,
Славы народов надёжный оплот!
Знамя советское, знамя народное
Пусть от победы к победе ведёт!

<コーラス>
讃えられて在れ、自由な我々の祖国よ
民族栄光の頼もしい砦よ!
ソビエトの旗よ、人民の旗よ
勝利から勝利へと導きたまえ!

 これは、〈レーニンとスターリン賛歌〉であって、スターリンが原稿に赤鉛筆で推敲に推敲を凝らして作詞したと言われています。聖書には、次のようなことばが記されてあります。

 『自分の口でではなく、ほかの者にあなたをほめさせよ。自分のくちびるでではなく、よその人によって。 (箴言272節)』

 自画自賛のこの国の国歌を、ソ連崩壊まで歌い続けた(死後にスタリーンが批判された後、フルシチョフが作り直していますが)のですが、たくさんの人材を粛清した者たちの成した業を知っているソ連国民が、どんな気持ちで、この歌を歌たったのでしょうか。

 現在、ロシアの国家は、スターリン時代の国家の melody を復活させて、「強い国家」を建て上げるために、人々を鼓舞しようとしています。歴史は、「大国主義」の野心は、常に崩れ去って崩壊しているのにです。

 大国志向の国は、弱小国を侵略し、吸収して、国境を拡張させていくのです。ローマ帝国もモンゴール帝国も、破竹の勢いで世界制覇をしたのですが、今はその残り滓しか残っているではありませんか。多くは、内部抗争、後継者選任の抗争で滅んでいきます(ある歴史家は、今も、なおローマ帝国の時代だと言っています)。

 その大国維持は、警察国家を設けて、言論も行動も規制していき、違反者は抹殺してしまうのです。そういった強圧的支配が、長続きしないのは、スポーツの世界でも、芸能の世界でも、いわんや政治の政界でも、結局は、〈窮鼠(きゅうそ)猫を噛む〉で、体制は内部から覆されてしまうのです。

 失敗した過去に学ばないで、過去の栄光を追おうとする男のすることを黙認し、支持してしまう民族的な欠陥は、長い唯物論の教育の結果があるかも知れません。それとは真逆で、クレムリンの中にも、篤信の基督者がいたのです。「義」や「公正」の基準を持たない人も社会も国家も、長続きはしません。

 一体、歴史を支配される主なる神さまは、今、ボルシチを食べる国々の中で起こっていることを、どうご覧になっているのでしょうか。じっと目を凝らして、義なる神が、何をなさるか、そのなさることを見てみることにします。悪が思いのままにことをなすことなどあり得ないからです。

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 『また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。『初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。--しかしあなたは実際は富んでいる--またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。(ヨハネの黙示録2810節)』

 まだ若い頃のことです。ソビエット連邦が崩壊する前に、東側諸国に、福音宣教の働きをしていた団体から、送られてきた機関紙に添えられていたと思いますが、薄い一冊の冊子がありました。そこにソ連国内の宗教弾圧のおぞましい記事が掲載されていました。イワンという若い兵士が、キリスト信仰の故に迫害を受けている様子が、写真も添えて記してあったのです。

 自由圏にいて、信仰の自由が保障されている私とは、まるで違う状況下に置かれている、同世代の基督者が、イジメや差別や過酷な仕事を強いられ、その上、度重ねる体罰を受けて、顔がパンパンに腫れ上がり、内出血した身体を、写真で見て驚いたのです。

 そんな不都合な仕打ちを受け続けてきた兵舎の中で、死ぬ直前に、このイワンは、天に引き上げられる経験をするのです。あのパウロが経験したと同じような、幻のうちにか、現実だったか、第三の天に引き上げられたのです。それは、殉教の日の次に、輝ける明日があり、永遠の時があることを、神さまが、イワンに知らせるためだったのでしょう。

 迫害が、まだ大っぴらに行われていた時代、平和な日本で生活していた自分にとって、ソ連国内では、こんなひどいことが起こっていたのに、慄然とさせられたのです。

 教会の主で、キリスト・イエスは、「牢」を恐れずに、『死に至るまで忠実でありなさい!」と勧めています。不正や、不義に対して、自らの信仰を貫くことを、示された時でした。

 『あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちのを与えよう。(ヨハネの黙示録210節)』

 それ以前に、こんな話を聞きました。信仰のゆえに銃殺刑に処さられる人たちが一列に並ばされていたのです。銃が構えられていた時、一人が、その処刑を恐れて、棄教して列を走り出たのです。その時、冠が天から降りてきていたのです。それを見た一人の兵士が、銃を捨てて、空いた列の中に立ったのです。その兵士は処刑されたのですが、天来の冠を被せられ、永遠の命に預かったのです。

 私たちの母教会を始めた方からだったと思いますが、そんな話を聞きした。イエスさまは、『からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。 (マタイ1028節)」と仰っています。

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