余暇

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 『なまけ者よ。いつまで寝ているのか。いつ目をさまして起きるのか。しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまねいて、また休む。だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、あなたの乏しさは横着者のようにやって来る。(箴言6911節)』

 怠け者になったのではないのですが、社会的責任から解かれて、時間が溢れるほどあって、もう残り時間は、そんなにないのだと思っています。でも子育て中の忙しさが嘘のように思い出されたり、忙しく働いた日々の出来事に追い迫られている夢を見る時があります。

 今の時間を、〈持て余し時間〉とするか、〈ご褒美〉にするか、〈余暇〉にするかでだいぶ違います。もう何年も前に報告された記事を思い出しています。「余暇と死亡率」の調査です。その調査は、アメリカのもので、あ50〜75歳へのものでした。男性53,440人と女性69,776人、合計12万3216人を対象に行なわれました。14年間にわたる追跡調査結果で、男性11,307人、女性7,923人が死亡しました。

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 『男女共余暇時に座っている時間が1日3時間未満と、6時間以上について調査され、3時間未満の場合と比較されました。6時間以上座っていると、男性の場合1・17倍総死亡率が高く、女性の場合1・34倍総死亡率が高かったそうです。次に座っている時間が6時間以上で、運動時間が週24.5MET、週7時間未満ですと、男性は1.48倍総死亡率が高く、女性は1.94倍総死亡率が高かったそうです。心臓血管病死の場合に、最も関連性が強かったとあります。論文全体が見られたわけではありませんが、座っている時間の長さは、運動時間の長さの如何を問わず、総死亡率と関連があったそうです。結論としては余暇時に活発に運動をし、出来る限り座って過ごす時間を少なくするのがベストで、肥満解消になるという事でしょうか。(「朝日新聞記事)』

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 今散歩途中で、私の万歩計派の歩数は、〈6483歩〉です。昨日も家内が、『ずいぶん痩せてスッキリしてきたのね!』と言っていました。朝食を準備し、食べ終わって、後片付けをし、洗濯機を回し、掃除機をかけたり、モップをしたり、時には水モップしたり、洗濯が終わるとベランダに干すのです。それから、ただの散歩、買い物ついでの散歩、これが pattern です。

 〈余暇〉の過ごし方ですが、下野国の国庁跡や、国分寺跡、古代の豪族の墳墓、集落後などにも出かけたりしますが、行ってみたいのは、網走の「モヨロ貝塚」、「吉野ヶ里(佐賀県)」、「三内丸山遺跡(青森県)」、「稲荷山古墳(埼玉県行田市)」など、古代の浪漫や夢を追いかけてみたいのです。これって、〈三つ子の魂〉なのでしょうか。小学生の頃の強烈な探究心が、今も残っているのも不思議です。TULLY’Sでのブログ作成です。

(時を刻み続ける「北大の時計台」です)

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セラ

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 『それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。 (詩篇275節)』

 『あなたは彼らを人のそしりから、あなたのおられるひそかな所にかくまい、舌の争いから、隠れ場に隠されます。 3120節)』

 『あなたは私の隠れ場、あなたはから苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を囲まれます。セラ(詩篇3120節)』

 隠れ家、秘密基地、逃れ場(英語ですとmy sheltermy refuge and my portion in the land of the living hiding place などでしょうか)、言いたいのは、《ホッと一息つける空間》のことです。聖書の中に「セラ」と言うことばが、とくに詩篇の中にありますが、「小休止」の意味だと教わりました。すぐ上の兄が、押入れの中に、その秘密基地(?)を作っていて、自分も真似して、別の部屋の押し入れを開拓したことがありました。

 近所の遊び仲間と、林の中の木の間に、葉っぱや草や枝で基地を作ったり、空き地に穴を掘ったりして、自分たち専用の空間も、よく作りました。まさに秘密基地でした。きっと、雪国の「かまくら」も、そんな空間だったのでしょうか。空き家にも入って、そんな遊びをしたこともありました。

 日常から離れて、ボーッとしたい時や場所を、どなたも持ちたいのではないでしょうか。家内は、「蔵リハ」と呼ぶ介護施設に、1週間に1日、2時間の時を、七人、八人の同世代のご婦人との交わりに通って、帰って来ては、『ああ、楽しかった!』と、毎回言っています。


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 一昨日は、スダチを手にして家内が帰ってきました。ちょうど夕食の献立が、〈メカジキの餡かけ〉でしたので、半分に切って、それに添えてみました。格段に美味だったのです。group 内での物のやり取りは禁止なのだそうですが、『庭にできたので!』と言って頂いたそうです。

 彼女のもう一つの出掛け先は、「市立図書館」なのです。最近は杖も使わないで大丈夫になって、出掛け先の路上で、推しぐるまの老婦人に、『どうして杖や押し車で歩かないの!転倒したら大怪我をするので、気をつけて!』と言われたそうです。散歩で出会う、散歩仲間からです。

 私のは、ちょっとお金がかかるのですが、この写真の空間を持っている喫茶店がお気に入りで、たった一人の世界ではないのですが、二人掛けの簡易 sofa  に、深く座って、その日その日の coffee  を飲むのを、月にニ、三度ほどしているのです。あの空間とあのひと時は、今の《わたし固有の空間》、《秘密基地》、《隠れ場》なのでしょうか。

 家に居づらいことなどないのですが、気分転換には、とてもいいのです。日常から、そっと離れて、散歩途中に、その時間を設け始めて3ヶ月ほどになるでしょうか。《一杯三百円珈琲》は、心の潤滑油になっているかも知れません。《本日のコーヒー》が美味しいのです。

 コロナ禍のお陰で〈黙浴〉を促されている、入浴温泉が市内にあって、ここにも時々出かけています。誰とも話すことなく、雲や木々の葉っぱや湯の動きを眺めながら、子どもたちや兄弟たちや友人たちを思いながら、また過去を振り替えながら過ごすひと時も、かけがえのないものになっています。

 〈子ども帰り〉なのかも知れませんが、課せられた仕事を終えた今、と言っても、でも継続していて小休止か、見えない勤務についているのかも知れませんが、これまでのthrilling な経験も、出張も、訪問なども少なくなって、けっこう狭い世界の中にいるのでしょう。それでも年齢なり、社会的な立場から、けっこう変化を持たせて生きているのでしょう。とても感謝なことです。

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rule

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 散歩する時に、道路を横断しなければならない箇所があります。『幼稚園生や小学生の模範でないければ行けない!』、そんな〈おじいちゃん〉は、横断歩道を渡ります。でも信号機や横断歩道のない箇所を渡らなければならない場合もありますが、そこは気をつけて渡っています。

 最近、三台に一台ほど、信号機のない横断歩道で、止まってくれる車があります。こちらに住み始めた頃は〈3.9%〉で、ほとんど泊まる車はなかったのですが、日本最下位を記録してから、県下の運転マナーは改善されてきているのが、次の統計の図表から分ります。

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 華南の街では、歩道を車が我が物顔で走りますが、ゆっくり走るので、事故になることは滅多にありませんでした。支通路から急発進したり、急加速をしないのです。ゆっくり相手を見ながら、ほぼ無視して運転する技術は抜群です。だから、乗用車での事故は少なかったのです。ただ、電動自動車事故はたびたび見かけました。全く傍若無人、唯我独尊、一人天下で走っているからです。

 次女の子どもたちが、まだ小さかった頃に、友人たちと道路を渡る時に、右手を上げて渡ってるのを写真に撮って送ってくれたことがあります。アメリカの社会では、通常はそんなことをしないのですが。私は、華南の街で、右手を上げて道路を渡ることにしていたのです。『あれは日本人だ!』と、きっと認めたことでしょう。

 それは、rule なのですから、停車は当然ですが、渡る時に、私は会釈をして感謝を表すのです。左折右折する車も、早く曲がりたいばかりに、目の前を横切っていく車が時々あります。何を私がするかと言いますと、その車の number plate に、人差し指で指して、どこの県、街の車かを確認するのです。back mirror で、でその私の仕草を見たら、なんと思うでしょうか、嫌味になりでしょうか。

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茨城県

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 今年の4月4日は、家内と私の《銀婚》の記念日でした。1971年4月に、結婚をしたのです。普通は、花嫁の夢をかなえる新婚旅行に出かけるのですが、私は、その願いを叶えて上げませんでした。どこに行ったのかと言いますと、茨城県下の「霞ケ浦」だったのです。

 どうして「霞ケ浦」だったのかと言いますと、かつて、そこは海軍予科練の飛行学校があって、国を守ろうとした若者たちが、機影を湖に映しながら、飛行訓練に明け暮れた地だったのです。少年の日に、予科練に憧れ、潔く国を守るために殉じていった彼らが汗と涙を流した地に、私は行ってみたかったのです。

 今思うと、それって独身時代に済ませておくべき事なのに、女性にとっては記念に残したい人生最高の event の旅行の願いを叶えてあげられなかったことを悔やんでも後の祭りです。でも、家内は黙ってついてきてくれたのです。そして、教師を辞めた私の歩みに、ずっとついて来てくれ、海まで渡って、華南の地で13年も過ごしたのです。

 そうなんです、私にとっての茨城県は、新婚旅行の地であっても、「軍国少年」の思いを葬る旅であったのです。土浦から船で潮来に行きました。戦前戦時中に、海軍航空隊があって、若者たちが飛行訓練をした出来事など全く予想もできないほどに静かな佇まいでした。その街には、今は自衛隊が駐屯し、予科連の記念館があります。

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Lake Kasumigaura sailboats

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 今は栃木県民になった私たちですので、小山からJR水戸線に乗ると、県都の「水戸」に、2時間半ほどで行くことができます。かつては「常陸国(ひたちのくに)」、「常州(じょうしゅう)」と呼ばれ、律令制のもとでは、「東海道」」の北端で、北は「陸奥(むつ)」でした。

 上野からJRの「常磐線」が、茨城に延びています。次兄が、この常磐線の沿線にいたことがあって、学校に行っていた頃に、何度も乗ったことがありました。知人に水戸の出身の方がいて、名物の梅を和菓子にしたお土産を、よくいただきました。平地が多く、農業のための環境が整っていて、昔から全国上位の農産品の生産県です。東京の台所を預かる東京中央卸売市場の農産品の入荷は全国一だそうです。

 茨城県は、高級和服の生地の絹織物の「結城紬(つむぎ)」が有名です。奈良時代に始まり、私たちの栃木県でも作られているようです。私の弟の教え子が、観光ホテルの女将で、東日本大震災の後に、被害状況を知りたくて、茨城県の海岸に出かけた時に、泊めていただき、近くの岡倉天心の「六角堂」も津波にさらわれていて、それが再建されているのも見ました。「五浦」を、「いずら」と読むそうですが、難読地名でした。

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1 Kings 17:2-6

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 ここ栃木の街はカラスが多いのです。それで、よく歌うのが、「七つの子」です。これは、作詞が、野口雨情、作曲が本居長世で、作詞者の野口雨情は、この茨城県の出身なのです。

からす なぜなくの
からすは やまに
かわいい ななつの
こがあるからよ

かわい かわいと
からすはなくの
かわい かわいと
なくんだよ

やまの ふるすへ
いってみてごらん
まるいめをした
いいこだよ

かわい かわいと
からすはなくの
かわい かわいと
なくんだよ

やまの ふるすへ
いってみてごらん
まるいめをした
いいこだよ

そんなことを思い出しています。海を見たくなることが時々ありますが、湘南に行くのは便利ですが、心情的には、お隣の茨城の海なので、来年あたりは出かけられるでしょうか。好きな味噌汁の実が、シジミなのですが、栃木県の那須を水源にする那珂川の最下流にある「涸沼湖(ひぬまこ)」は名産地で、ここにも《シジミ党》としては、いつか行かなくてはなりません。

(「霞ケ浦」の風景です)
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秋風景 at 北米

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 次女の住む北アメリカにも秋がやってきたそうで、写真が送られてきました。秋に誘われ、旅に招かれているように感じます。ここ栃木も、『奥日光は紅葉が綺麗!』だと報じられています。私が好きなのは、木の葉が落ちた峠の道をカサコソカサコソと、葉を踏んだり蹴散らせてゆっくり歩くことです。梢の葉が落ちて見晴らしもよくなって、山が深く見渡せるのです。

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信仰の道

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 子どもの世界で、わがままだったり、不公平だったり、ずるいと、嫌われてしまいます。戦争前の私たちの国では、「アカ」とか「ヤソ」と揶揄されて嫌われた組織や集団や人がいました。

 私の母は、日本でも最も宗教都市と言われた街で育ったのです。そこで、カナダ人宣教師の伝道の中で、少女期にキリスト信仰に導かれました。その熱心さを知った親戚から、『ヤソは先祖を敬わないから、教会行きをやめろ!』と言われて反対されたのです。それが昂じて、『台湾にでも売ってしまえ!』と言うことで、実の親ではない養父母も、それに同意して、危うく売られそうになります。でも警察に保護され、その難をのがれたそうです。

 「国体」に沿わないと決め込んだ官憲は、共産主義者と基督教徒を迫害したのです。キリスト教会への迫害も酷かったのです。まだ私が若い頃に、静岡草深教会の辻宣道牧師の著された本を読んで、その実態を知らされたことがありました。この方のお父さまは、聖潔運動(ホーリネス)の中で、青森県弘前市で牧師をされておいででした。お母さまは、ホーリネス運動をなさった中田重治のお嬢さまだったのです。ご両親とも、弘前バンドの伝道の中で基督者となっておいでです。

 キリストと国家元首の二者は併立することが叶わず、王として再臨するキリストを信ずる者たちを国賊として、厳しく棄教や転向を迫ったのです。それに屈することなく信仰を堅持しようとした者たちは、監獄に送られ、行動の自由を制限されました。

 戦時下、再臨信仰に立つホーリネス教会は、殊更に官憲の監視のもとにあり、お父さまは、弘前刑務所に収監され、その獄中で亡くなられてしまします。15歳の宣道少年は、お母さまと二人で、リヤカーをひいて亡骸のもらい受けに刑務所に行ったそうです。棺桶の中で硬直した亡父が、道路の段差で揺すられゴツゴツ音をするのを聞きながら、家に戻ったと、記しておいでです。

 15歳で、そんな辛い経験をした少年は、信仰をやめたのでしょうか。いえ、戦後聖書学校に入学し、教師試験に合格して、お父さまと同じ牧師の道を進むのです。刑務所に、夫を奪られたお母さまは、教会の役員の家に、食べ物をてもらいに、宣道少年をつかわすのですが、『国賊の家族にやるものはない!』と断られたそうです。人の弱さを知らされても、彼の献身の思いはゆるぎませんでした。

 熱狂的な信仰が試された時の人の肉の弱さを知らされながら、強固で堅実な「信仰告白」の重要さを、痛切に感じたそうです。信者、しかも役員をしていた者が、国体に反して投獄された牧師を捨てたことは、辛い経験でしたが、人の弱さや冷たさを思い知らされたのでしょう。それは信者だけの問題ではなく、教役者たちも持ちわせていた弱さでもあったのです。獄中の折檻や拷問で信仰を曲げ、転向する人も多くあったようです。誰も、それを責めることができません。

 『イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ146節)』

 同じ時期に、ナチスに台頭したドイツでも、福音信仰に立った教会は、存続の危険に迫られていました。ところが、カール・バルトたちの《ドイツ福音主義教会》によって「バルメン宣言」が発せられました。聖書のみことばを掲げ、それに反するどのような国家的な圧力にも屈せず、妥協したり容認しない堅固な聖書信仰の上に立ったのです。暴力を用いずに、信仰の戦いを戦ったのです。

 牙を剥いて襲いかかってくる時に、持ち堪えられる信仰を、私たちはいただくのです。

 『あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです。 1ペテロ15節)』

 私たちの教会に、三重県下で、この戦いをし続けてきた群れがあって、そこの牧師のご子息が、礼拝に見えられたことがありました。神の律法に立って、偶像礼拝をせず、国家権力にも屈せず、聖書信仰に立った小さな群れでした。アメリカ人宣教師の伝道によって建てられた教会だったのです。大きな教団に大同団結していく教会の中で、それに吸収されてずに、戦前、戦中にわたって、聖書信仰、福音主義を貫いた群れの牧者の息子さんでした。地方紙で攻撃されても屈しなかったのです。

 信仰の試練の中を通り抜けた群れの強さを、その息子さんの柔和な態度の中に感じたのです。私の母は、寂しい幼児期、少女期をかけぬけて、95歳で召されるまで、信仰を持ち続け、4人の子を信仰に導き、孫たちも、その信仰を継承しているのです。国家権力が暴走すると、人の尊厳を傷つけ、人権を踏み躙るのです。
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花と緑の葉

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 今年の51日に、隣町の壬生町に出かけました。塚の古跡があるということと、散歩を兼ねて、東武線の壬生駅で下車して歩いた訪ねたのです。豪族の墓塚の車塚、牛塚が、整備されてありました。集落の傍にか、川の傍にあるのか、集落は川の近くに作られたのでしょう、南北に「黒川」が流れていたのです。

 「日本奥地紀行」を著したイザベラ・バードが、『よく手入れされた麻畑や街道沿いの景色に日本の美しさを実感した。」と書き残した、「鹿沼」が、この黒川の上流に位置しています。栃木で、街の名として覚えていたのは、日光、那須と鹿沼でした。子どもの頃から、「鹿沼土(上の写真)」が、盆栽家庭菜園などで使われていると聞いていたので、どこにあるかを確かめなかったのですが、東武日光線に乗るようになって知ったのです。
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 この鹿沼土は、火山の赤城山から噴出し、火砕流がもたらす軽石で、造陸造山活動で、地表に流出した物です。歳をとって、時間ができたのか、コンクリートの中に住んでいるからでしょうか、遠くの大平山の緑は目にできるのですが、身近に緑が欲しいと思っているところに、子どもたちが送ってくれた物が置かれて、目を楽しませてくれています。

 市内を運行する、ゆうゆうバスに乗って市立花センターやカインズの花売り場に行くと欲しくなったりして、買ってしまった物もあります。この夏前から、ミニトマトや朝顔が勢いよく咲いて、緑だけではなく実もあるベランダでした。
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 遠くの緑とベランダの緑に、どんなに慰められたことでしょうか。今も写真のように、素敵な花と葉を見せてくれています。平家に住んだら、庭に棚を作って、鹿沼土を買って、園芸に精出したい願いがあります。狭いベランダの活用が、今は課題です。

賛美

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 『神よ。あなたに、私は新しい歌を歌い、十弦の琴をもってあなたに、ほめ歌を歌います。(詩篇1449節)』

 中学の頃から245才まで、母に誘われて時々、特別集会には出たことがありました。でも、聖書研究会にも、祈り会にも、もちろん日曜日の礼拝に行くようになったのが、25才の頃でした。その頃、よく集会の中で歌われていた のが、chorus でした。聖書のことばに melody をつけたものでした。ニューヨークから来た神学校の教師が、アフリカで宣教する教え子たちを応援するための旅行の途中に、私たちの教会を訪ねてくれた時でした。

 この方が、アメリカの一部の教会で、賛美し始めていた “ Making melody in my heart /心の中でメロディーをなど、何曲か紹介てくれて、それを日本語に翻訳して歌い始めたのです。讃美歌は素晴らしいし、聖歌も素晴らしいのですが、「新しい歌」を歌って賛美するのも聖書の勧めですから、それが新しい世界的な潮流で、賛美礼拝で起こり始めていたのです。

 その後、またたく間に、日本にもアジアにも、ヨーロッパにもアフリカにもオーストラリアにも広がっていきました。その反面、『おかしなことが起きている!』と、新しい動きを危惧する声が、伝統的な教派や教会に上がってきていました。厳かな賛美歌で賛美をしてきたみなさんには、奇異にも、異端にも聞こえたのかも知れません。

 でも音楽的にも水準の高い新しい賛美ですし、なによりも、詞と melody を、神から与えられたものが、ほとんどでしたから、聖書的でした。それが、若いみなさんに受け入れられ、多くの教会の礼拝でも歌われるようになりました。私たちが集った中国の教会でも、台湾やシンガポールを経由して、礼拝で賛美されるようになったのです。音楽を学んだこともない方に、詞や melody が与えられて、「新しい歌」が歌われ、多くの教会で涙ながらの感謝に内に賛美されているのです。

なが瞳のように守り 死ぬことのないように  御翼の影に われを匿いたまえ(『私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。(詩篇178節)』)

わたしは静かに神を待つ わたしの救いは神から来る わたしは決して揺るがない わたしの救いは神から来る   (『私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。(詩篇625節)』)

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 この賛美に励まされて、教会で奉仕し、大陸の教会でも仕えることをしてまいりました。私たちの信じる神は、

 『けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。(詩篇223節)』

とおっしゃる神だからです。その神が選ばれたイスラエル民族や基督教会の賛美の中に、ご自分を顕し、そこを住まいとされる驚くべき神だと、ダビデは賛美したのです。

(“ キリスト教クリップアート” からです)

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新潟県

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 上越市に、ずいぶん前になるでしょうか、家内を誘って出かけたことがありました。上杉謙信の居城・春日山城のある街で、市内を流れる川に架かる橋の中ほどで、この街のに、神の祝福を、ふたりで祈ったのです。日本海側の街を見たくなっての旅でした。太平洋側と違って、太陽の輝く日が少ない県、街だと聞きました。

 次男は、新潟市内の高校に入学し、家内と長男と一緒に、入学式に出かけたり、運動会を見学をしたことがありました。『弁当忘れても、傘忘れるな!』と言う諺があるほど、雨天や曇天の日が多く、運動会当日も、グランドが田んぼのような中、教職員や生徒たちが、砂を撒いて行われていました。

 その帰りに、ガソリンスタンドでガソリンを入れていた時、店主が、お国自慢をしていたのです。と言うよりは、総理大臣・田中角栄自慢でした。新幹線や道路整備、トンネルの敷設、港湾整備など、地元への貢献に対する県民一般の感謝が溢れていました。こちらから聞き出したのではなく、越後といえば雪と米と角栄だからで、他県人は忘れてしまっても、越後人には忘れられない、人だったのです。

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 息子を訪ねて、三人での帰りに、上越道のサーヴィスエリヤで、「魚沼産コシヒカリ」を買って帰りました。冷たい沢の水で育てられた米は美味しいのです。中国の北にある黒竜江省でも、「あきた小町」や「コシヒカリ」が生産されていて、スーパーの米売り場にも、道端の商店にも置かれて売られていました。懐かしくて、つい買ってしまったのです。

 河南省の村に、二人の子どもを残し、おじいちゃんとおばあちゃんに子育てをお願いし、現金収入の出稼ぎに来ている、華南の街で出会ったご夫婦が、いつも米を担いで訪ねてきて、帰国するまで買わずに済んだほどでした。お百姓さんが丹精して生産した穀物も野菜も農産加工品も、どこの国でも美味しいのです。新潟も農業県で、日本の食糧を支えている県でもあります。

 この新潟は、「瞽女(ごぜ/盲御前から、そう呼ばれたようです)」の故郷だったと思います。目の不自由さを負いながら、逞しく生きていくために生きていくために、子どもの頃から、厳しい練習を積み重ねて、三味線の練習に励んで、一人前になったのです。辻や門口に立って歌って、何がしかのお足や食料を得て生きていた、旅芸人です。「最後の瞽女」と呼ばれ、三条市の名誉市民であった小林ハルさんの演奏、哀調に満ちた声の歌を聞いたことがありました。

 芸能の少なかった地方での活動は、全国的に広がって行ったそうで、その中で、「越後瞽女」が一番有名だったようです。ハルさんの『よい人と歩けば祭り、悪い人と歩けば修行!』と言う、ハルさんのことばは、どう人と関わって生きるかの積極的なあり方を教えてくれました。

 私の勤めた職場に、新潟県で県立高校の校長をなさった方おいででした。当時、おいくつくらいだったのでしょうか、書が上手で、昼休みのバトミントンの対決も、元気一杯の方でした。私に転職の勧めをしてくださった方だったのです。その思いが通じたのでしょうか、都内の高校から招聘されたのですが、一度、電話を職場にくださったのです。偉ぶらない気さくな方でした。

 そう忘れてはいけないのは、新潟県教員試験を受けたことがありました。見事不合格でした。万が一はあり得ないのですが、受かっていたら、越後で、情に熱く、辛抱強さがあり、『嫁は越後から!』と言われていますから、そんな嫁をもらっていたかも知れません。糟糠の妻は、大阪生まれで、東京育ちですが、越後女性のようです。新潟は離婚率の低さが特徴だと言われています。添い遂げる強さがあるからでしょう。
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 米所の越後は、煎餅も美味しく、あの「柿の種」は、新潟の企業が生産していて、帰国以来、菓子入れに欠かさなかったのですが、体調管理のために、最近は買うことも、食べることもなくなってしまいました。解禁する日が来るでしょうか。

 そう言えば佐渡には行ったことがありません。ここ栃木から、日光例幣使街道、中山道、三国街道を経て、佐渡へも行くことができたのです。もちろん、江戸の罪人が、佐渡送りにされると、この道を行ったのだそうです。難所を何度も越えての旅は、厳しいものだったことでしょう。今夏、その三国街道沿いの須川宿(みなかみ)に泊まったのですが、そこを通って、三国峠など、いくつもの峠を超えて、越後の長岡、寺泊の港から佐渡の赤泊の港へと繋がっていたのです。

 新潟県、北から下越、中越、上越と南北に長い、人口227万ほど県です。京の都とは、陸路と北前船の海路でつながっていたのです。江戸も陸路を延々と歩いて旅をしてたのを思いますと、新幹線や高速道路が、縦横に延びて、便利な時代になったものです。

(秋の「妙高高原」、「北から南に見た日本付近」です) 

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栄光

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 『天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。(詩篇1916節)』

 先週末の黄昏時、南の空に金星が瞬いていました。わが家のベランダから見えたのは富士山のはるか上空に輝く、宵の明星でした。じつに神秘的、ダビデが空を見上げて感嘆の声を上げたように、北関東の夕空を見上げて、私は三嘆の声を上げてしまうのです。偶然にとか、長い年月をかけてとか、爆発拡大とかしか、人は言えないのでしょう。

 地球も、数えきれない星々の中の一つだとするなら、この均衡、位置、自転、公転、傾斜、ほぼ同じ軌道の運行、山、海、川、湖、平地、海、海溝、真水、海水、霧、雪、植生、地中の資源、生命の存在、人と人の営み、保存、なんと驚くべき事実ではないでしょうか。エレミヤは,次のように記しました。

 『主はこう仰せられる。主は太陽を与えて昼間の光とし、月と星を定めて夜の光とし、海をかき立てて波を騒がせる方、その名は万軍の主。(エレミヤ3135節)』

 初めからある天体、もっと輝いて見えた夜空、家出をして枯れ草の間に寝て、夜空を仰いだ夜がありました。まさに煌めく星座、降るような星々でした。『だれが散りばめ、だれが瞬かせ、だれが押し広げたのだろうか?』、吸い込まれそうな幽玄な蒼光、孤光、独光、だれが光源を備え、備え続けているのか、見飽きることのない秋の夜空に、心が震えてしまいます。

 科学者は、130億年前に大爆発があって、星が誕生し、延々として今も星が誕生している、と言うのを聞きました。40億年前に、太陽系が誕生し、偶然に生命も誕生したのだと言います。人類の祖先の誕生は、500万年前なのだそうです。

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 これが、21世紀の科学研究の行き着く結論です。この結論に、私は満足しません。無限の広がりをもつ大宇宙に深淵があっても、それでも存在しているのを、設計図なしに、創造者なしに存在するとは思えないのです。喫茶店のソファーに座って、指を動かして、操作している、この iPad は、Apple社の技術者の設計に従って製造された物です。海の向こうの友人や娘たちの家族と、声も映像も交えて交信できるほど、優れた電子機器なのです。

 これよりも精緻に造られているのが、電子機器を操作している、ちょっと老化してしまったのですが、人間現役の私なのです。この感情、この意志、この知性、思考し、命が躍動している私に、必ず設計者がいて、命の付与者がいて、維持者がいて、回復者がいて、激励者がいるのです。生きる目的があります。そう信じて、私は生きてきました。イザヤは次のように言っています。

 『わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。 (イザヤ437節)』

 この自分が、《神の栄光》のために生きていると思うのは、そう言われる《聖書》のことばがあるからです。神に生かされている限り、いえ生きていられるから、自分の存在の目的も意義も役割も、《ある》のだと信じるのです。神を信じられる、家庭環境を備えてくれた父と母に感謝しています。とくに、少女期に基督者となり、信仰ある母の乳房をふくみ、主を畏れる母の手になる食べ物を食べ、洗濯する服を着て、敷いてくれる床に寝て育ててくれたのです。

 小学生の私の手を引いて日曜学校に連れて行き、聖書を買って与えてくれ、相談にのってくれた、賛美する母がいたからです。人の限界を教えてくれ、人のために生きることを教えてくれ、主に従って生きるようにしてもくれたのです。計り知れない大宇宙にポツンと生きる私は、神の手による創造と恢復の光輝ある作品の一つであります。

(”天体写真の世界“ の「まがたま星雲」です)

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