仙台の青葉城を訪ねたことがありました。耳鼻科の名医がいると紹介され、鼓膜の再生手術を受けるために、四日ほど、市内の病院に入院したのです。聞きしに勝る手術の上手なお医者さんでした。そこを退院後に、この城を見学したのです。城跡に、独眼竜と呼ばれた伊達政宗の銅像がありました。
武士の世界には、「元服(げんぷく)」という節目の儀式がありました。これは、「成人式」で、中国伝来の大人となる儀式でした。この政宗は、十一歳で「元服」をし、焚天丸(ぼんてんまる)から、「伊達藤次郎政宗」(だてとうじろうまさむね)と改名したと伝えられています。当時、元服年齢には、決まりがなく、各家よって異なっていたそうです。
嬉々として遊び回りたい年齢の十一歳で、大人扱いをされては、随分と、こども時代が短かかったのではないでしょうか。武家の家では、それだけ、家督を継いだり、父の職を継いでいくことが重んじられ、「家制度」、とくに嫡男の男の子には責任が課されていたのです。
それは、「自立」への大きな一歩であったのです。自分一人の力で生きていくことを言っているのが、自立、独立でしょうか。親の援助なしで、結婚し、家を構えるなら、それこそが自立です。それまでの親の援助に感謝して、生き始めたのが、22才でした。26才で結婚しました。それまで、家に「食い扶持(くいぶち)」を入れたのですが、父は大変喜んで、それを受け取ってくれました。
最初に母親に渡した翌日、自分は飲まないビールを買っ来て、食卓に置いてくれました。それを夕食に添え、一緒に飲んでくれたのです。嬉しかったのでしょう。精神的な自立というのは、経済的財政的な自立こそが、実際的なことのでしょう。
熊の世界に、「またぎ(東北地方・北海道で厳しいしきたりを守りながら集団で狩猟を行う人を言います)」がいますが、この方が言われる「苺落とし」という儀式があるのだそうです。
野生の熊が、生きていくのは厳しいことですから、母熊は、人生の厳しさを教えるのです。冬眠中に出産して子育てを終えると、山の中に子グマを連れて行き、餌取りを教えるのです。この熊の大好物は、「苺」だそうです。新潟県の「エコミュージアム」の会報に次のようにあります。
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『新潟県魚沼地方の里山も初夏の装いとなり、アザミの花や美味しそうな桑の実で彩られています。また定点観察地点(エコミュージアム園内ではありません)のオニグルミの実も写真の通り順調に推移しています。オニグルミの青い(緑色の)実はツキノワグマの大好物ですが、里山や河川敷、農道、人家周辺にある「桑の実(クワイチゴ)」もまた子グマの大好物です。ツキノワグマの親子(母グマと子グマ)は出産から約1年半の間行動を共にしますが、子グマが1歳の初夏の頃に「親離れ・子離れ」を迎えます。子育てを終えたメスグマはこの直後にオスグマと交尾し、秋以降の摂食状況(餌資源の獲得量)に応じて子宮内へ受精卵が着床するかどうかが決定されるようです。
野イチゴが実る初夏の時期は「親離れしたばかりで警戒心の少ない子グマが観察(発見)されやすい季節」でもあります。「野イチゴの盛期」と「ツキノワグマの親離れ・子離れ(ひとり立ち)」を関連付けて、東北のクマ猟師の方々は「母グマが子グマに野イチゴの場所と食べ方を教え」「子グマが野イチゴの美味しさに夢中になっている間に母グマはそっとその場を去り」「初夏にツキノワグマが親離れ、子離れの時期を迎える様子」を、「クマの苺落とし」として情感たっぷりに捉えています。』
熊の出没が、私が時々行く大平山にもあったと、この冬にニュースが伝えていました。もともとは、熊の棲息域だったのに、そこに人間が入り込んだのだと考えると、熊にとっては迷惑なのでしょうか。大きな音が嫌いな習性がるそうで、人に方が彼らを遠ざける努力をしたらいいかなあって思っています。熊だって生きていくのは厳しいわけで、子熊に生きる術を教え、生きていくための母熊の突き放し、一才半ほどの独立の促し、子熊にとっての「自立」は、親心、やさしさかも知れません。
次女は、十五才でハワイの高校に入学するために、出かけて行き、親元を離れて行きました。その長男が、今秋大学に入学すると知らせてきました。家を出て、教会の dormitory で生活を始めていくようです。home school で学び終えて、これから家を出ていく息子を見送るのですが、母親は、どんな思いなのでしょうか。川を挟んだ隣町にある学校と教会に行くのです。教会の dormitory は、次女も生活した所です。この自立への一歩を祝福する祖父母の私たちです。
(「オニグルミの実」、「月輪熊」です)
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