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隣町の教会のM牧師さんが、『準さん、サキソフォンを吹いたらいいよ!君にはぴったりですよ!』と、まだ学校に行っていたころに勧めてくれたことがありました。宣教師が留守の間に、水曜日の聖書研究を担当してくれた方でした。彼から教えていただいた聖書のレクチャーは、何1つ覚えていないのですが。
実は、教会に行っても、当時は女性ばかりでした。教会に行くことも、そして楽器をやるということも、《軟派なこと》だと決め付けてきた私は、『はい!』と言って、その勧めに従うことをしませんでした。もちろん、母が毎晩、毎日曜日、せっせと教会に通っている姿を見て、『この母を夢中にさせているのだから、何か真実なものがある!』とは認めていながら、自分の心を向けることをためらっていました。それでも、教会で歌われていた賛美を聴くのは大好きでした。クラシックの曲を、ラジオで聞いて育ったからでしょうか。
私の母がハミングしていたのは、讃美歌でした。でも私にとって、歌は、「流行歌」に限っていました。今で言う「演歌」です。日本的なと言うか、アジア的と言うのでしょうか、あの旋律と歌詞とに共感を覚えていたのです。大人への入り口にさしかかっていて、その歌詞の意味も深みも理解できないでいる私でしたが、父や母の青年期に歌われた歌に、たいへん興味を持ったのです。
ある時、母に無理強いをして教えてもらった歌がありました。『諦めましょうと別れててみたが・・』と言う歌いだしの恋歌です。
あきらめましょうと 別れてみたが
何で忘りょう 忘らりょか
命をかけた 恋じゃもの
燃えて身をやく 恋ごころ
喜び去りて 残るは涙
何で生きよう 生きらりょか
身も世も捨てた 恋じゃもの
花にそむいて 男泣き
母の多感な十代のころに流行った歌だったのでしょうか。そんな〈身も世も捨てた〉、〈男泣きするような〉恋に憧れたほどでした。何度も歌ってくれている間に覚えたのですが、高校生の私には、その節回しが難しくて歌いこなせませんでした。それでも、あの歌のメロディーが時々、今でも思い出されるのです。そうしますと、当時の母や父や兄弟たちの様子、自分の生意気な姿が彷彿とさせられるのです。
母の郷里に、江田島の海軍兵学校に行っていた若者がいたそうです。そうこれも無理に、私が聞き出したことでした。恋する乙女時代の憧れの漢(おとこ)が、凛々しい兵学校の軍服を着た青年だったのでしょう。そんな母の十代の話を聞いて、何かホッとしたのを覚えています。
もう何年も前ですが、高校の同級生と、20年ぶりに食事をしていました。しばらくたつと彼が、「上海がえりのリル」を歌い出したのです。切なく、実に哀調を帯びて歌っていました。大陸で戦死したお父さんの帰りを待ちわびた、彼の数十年のすべてが、その唄声に込められていたのです。
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私を育ててくださった宣教師さんが、事あるごとに歌っていた讃美がありました。ヨハネの黙示録5章12節を歌詞に、彼が作曲した「ほふられた小羊」でした。
ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい(お)方です
ジョージアで生まれ、彼の人生を急展開に変えてしまったイエスさまが、ご自身を十字架にささげられた主であることを思いながら、感謝と希望を込めて歌っていたのです。私たちの子どもたちは、これを賛美する宣教師さんを強烈に記憶しているのでしょう。この方の信仰の “ Thema song ” だったからです。
人の心の中には、「歌」が宿っています。人は様々な思い出の中で、時々、口ずさむのです。ダビデは、『私はあらゆる時に主をほめたたえる(詩篇34篇1節)』と言って讃美した人でした。順境の日も逆境の日も、主をほめ歌ったのです。
もし私が。あの時からサックスを吹いていたら、今頃は渡辺貞夫の後継者になっていたでしょうか。友人が教えてくださって、一曲吹けるようになったままで休止状態です。
まだ3歳くらいの孫を連れて、次女が里帰していた時に、サックスの代わりにハーモニカを吹いて上げましたら、手を打って喜んでくれたことがありました。今も引き出しの中から、3本あるハーモニカを出して、時々吹いています。一つは、隣国で出会った教え子が贈ってくれた物なのです。今、大阪で仕事をしています。また、その孫兵衛が、今秋には大学生になるのです。老けゆくジイジと、至るところ聖山ありの孫です。
(イラストAC、キリスト教クリップアートのイラストです)
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