宣言!

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昨晩、知人のお宅を訪問しました。客間の床に、『のってみて!』と言ってるように、「体重計」が置いてありました。ずいぶん測っていないのを思い出したのです。ちょっと太り気味で、ズボンがきつくなってきていましたから、恐る恐るのってみました。案の定、前回計測した時よりも、だいぶ太っている自分が、体重計にのっていたのです。

太ってきた理由は明白です。この半年ほどでしょうか、パンの製造会社の社長夫人から、パンやケーキ、また果物を頂き続けているのです。とくにケーキですが、二人で三、四回食べるほどの分量を2ケースも、毎週のように貰うのですから、冷凍庫に常時しまわれてあるわけです。二日か三日ごとに食べているのですから、やはり太るわけです。しかも、大好きなチーズケーキとかチョコレートケーキなのです。これが<大曲者>なのです。

これでは、相撲界に誘われてしまいそうな危険性を感じて、本当に<危機感>を覚えたのです。今も冷凍庫に、1ケースしまってあるのです。さらに、前回、この家を訪ねました時に、1ケース、手土産に持って行ったのです。みなさんで食べましたら、『この店のケーキは美味しい!』と大好評でした。それで、この家のご夫人が、昨晩は買ってきていたのです。それを小学生の息子さんが、冷蔵庫から出してきたではありませんか。同席していた、近所の若い方に赤ちゃんができて、そのお祝いのためだったのです。

甘党にとっては堪(こた)えられないようなことですが、家内と顔を見合わせて、無言で、『これで最後ね!』と確認して、食べたのです。先日、アパートの二階の方がスイカを四分の一に切って持ってきてくれましたから、あの冷凍庫のものは、このお宅に嫁入りさせようと結論したところです。<幸せ太り>ではすまされないので、今朝から、朝の散歩を再開したところです。継続するために、公けにブログにアップして宣言した次第です。三日坊主にならないためにです。

(写真は、"Tops”のチョコレートケーキです)

奥様会

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こちらに、「奥様会」があります。これはご主人が日系企業の方や、こちらの方と国際結婚されたご婦人が、親睦をしたいとのことで始められた交わり会なのだそうです。中国語を喋れない方たちもおいでとかで、情報交換のためにも集まって、和気藹々(あいあい)、和気ワイワイなのだそうです。それで、もう何年も続けれていて、家内もいそいそと出かけております。

今週持たれるのは、<飲茶(やむちゃ)>の美味しい餐館だそうで、公共バスで、どう行くかを調べさせられました。日頃の思いを母国語で忌憚なく喋れる機会が、ご婦人方には必要なのでしょう。それでなくとも文化の違う外国で生活をしているのですから、それは好いことと大賛成して、家内を送り出しています。

まだ日本にいた頃のことですが、客人が来て、お昼を食べるために、ちょっとしたレストランに行きますと、ほとんどの席は、「奥様会」がもたれていました。ご主人は、コンビニ弁当を食べているというのに、けっこう値の張るようなプレートを前に、ワイワイガヤガヤと食べながら話しながら盛り上がっているのです。子育てや家事に明け暮れるご婦人方には、そう言った開放の時が必要なのだと公認されているのでしょう。

けっこう物分りの好い夫の私なのです。男がストレスを感じるように、ご婦人方も同じなのだと理解しているからです。ネット情報に「美食網」というのがあって、味と環境とサーヴィスの採点が載っています。一人前の経費まで書き込まれているのです。きっと美食情報は、この辺りからなのでしょうか。それともご主人が行って、『あそこ美味かったぞ!』と言われての奥様バージョンなのかも知れません。

この街でも、帰国される方が多くなっているのだそうです。妻子は帰国し、単身での滞在型に変わってきているのかも知れません。私たちは、この八月から<九年目>に入ります。「九」は、「久」の発音が”jiu”で、「永久」と言っためでたい数字なのです。すっかり私たちは慣れてしまって、帰りたくない気分になっております。

今朝は、家内が買い物に行ったので、掃除をしようと、マットを玄関ではたいていたら、ドアが閉まってしまいました。鍵も携帯もお金もなく、締め出しを喰ってしまったのです。仕方なく1時間半も、隣のアパートの下にあった籐椅子に座ったりして、家内の帰りを待ったのです。初めてのことでした。「奥様会」の日でなくてよかった!

(写真は、”百度”から、中国の子どもたちです)

感情

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『親分、ポリ公の野郎が来やがりましたぜ!』と、手下が報告しました。泥棒にとって天敵の警察官には<ポリ公>と言い、来ることも<来やがった>と、蔑みの言葉を使います。しかし、自分の上に立つ頭には、たとえ泥棒でも、<親分>とか<・・・ました>と敬意を表すのです。これは、日本語を特徴的に言い表している、好い例文だと言われています。「敬語」の使い方は、日本語を学ぶ人にとっては、実に難しい学習点だそうです。そういえば、日本の最近の若い人たちは、なかなか使いこなせないのだそうです。それで世代間の軋轢が生じてしまうのかも知れません。

何十年と喋り続けてきた自分でも、日本語は独特で、面白い言葉だと思うのです。東京新聞の「筆洗」というコラム欄に、こんな言葉が散り上げられていました。『でも、さっきそうおっしゃったじゃねえか!』とです。これを読んでみて、前半では、<おっしゃった>と言い始めたのですが、相手が先ほど言った言葉を翻して、他のことを言ったことを赦せなくなったのでしょうか、後半では、<じゃねえか>と荒い口調と非難を込めて語り継いでいるのです。心の動きが読んで取れて、なかなか面白いなと感じたのです。

しばらく我慢していたのでしょうか。その緒が切れてしまって、そう言ってしまはねば、気が収まらなくなかったのでしょう。兄貴に狡いことをされたので、それを抗議しようとして、下の息子が、『お兄ちゃんは・・・』と言い始めたのですが、<お兄ちゃん>に変わる侮辱語を学んでいないので、何時ものように、尊敬するお兄ちゃんに対して使っている時と同じ呼びかけをしてしまったのです。もう少し大きくなると悪い言葉を覚えたり、<ちゃん>だけを省いて、<おにい>がとか言ったりするのでしょうが。

中国語にも、そんな言い回しがあるのかも知れませんが、人の語る言葉に添えられている<感情>は、聞いていてすぐに分かってしまいます。尊敬語を使いながらも、敬意が籠っていないしゃべり言葉を聞いて、この方の相手への気持ちの程度が分かってしまうのも、実に面白いなと、先日感じ入ってしまいました。感情や思いは、なかなか誤魔化せないようです。『つい言葉が滑って!』と言うのも、その類でしょうか。自分の感情にも気を付けなくてはと思う、週の中日の朝であります。

(漫画の表紙は、日本文芸社・立原あゆみ作のものです)

 

八ヶ岳の麓で

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中央自動車道を信州諏訪に向かって、東京方面から走って、甲府盆地に入ると、眺望が開けます。目の前に見えてきて、徐々にその全貌が迫ってくる山があります。そう「八ヶ岳」です。

上の兄の友人たちの仲間に入れてもらって、この八ヶ岳の麓に、泊りがけで出かけたことが度々ありました。それを、「打ち合わせ会」と言っていたのです。話し合いがあるのは確かなのですが、そればかりではありませんでした。この仲間内の共通の趣味が、<テニス>だったのです。テニスボールを打ち合うところから、そう命名されたようです。

中年になり、それぞれが社会的に責任のある立場にあったのですが、冠や鎧を脱いで、まさに<テニス小僧>になっていたのです。<オッちゃん顏>なのに少年のように、嬉嬉として球を打ち、球を追いながら、行動と時を共有したのです。春と秋の週日に、二泊三日の<小さな贅沢>をしました。宿泊代の安い市営施設を見つけては泊まり、他に人のいないコートでの三日間の<テニス漬け>は、忘れられない日々だったのです。

一緒に過ごした方の内には、すでに天のふるさとに帰って行かれた方もおいでです。うまく打ち返せた時の『ナイス・ショット!』の掛け声が耳の奥に聞こえてきそうです。合間に、果物やお菓子を分け合い、まるで<おっちゃんの遠足>そのものでした。温泉に浸かり、近況を分かち合い、やがて孫の話も花咲くような時にもなって行きました。

交わりの知らせが来なくなって、どのくらい経つでしょうか。ある方は、病んで入院をし、手術をされたと聞いています。狩人が、猟をしない時には、弓の弦を緩めるように、人には、緊張を緩和する時が必要なのです。あの様な時があって、今日があるのだと思い返しながら、感謝の思いで、一緒に打ち合わせたお一人お一人の顔を思い返しております。

今のところ、常備薬を飲むことなく、ただビタミン剤を飲んでいる日々ですが、いつかは不調を感じる時がやってくるかも知れません。その時には、逆らわないで、『その不調と共に生きて行きたい!』と、弟の助言を読んで、そんなことを思っております。今日は、22度、昨日より10度以上も低い気温の華南の一日であります。

(写真は、WMによる八ヶ岳です)

悪戯ごころ

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中学校に入学した時、バスケットボール部に入部しました。担任は反対でした。練習は、高校と一緒でしたし、部室や体育館には、高校生や、卒業した大学生や社会人が出入りして、柄が良くない伝統があったからだったのです。担任は、良い大学合格を目指して、6年、勉強一筋で行って欲しかったのですが、自分の意思を通したわけです。長兄が陸上部、すぐ上の兄が野球部に入っていましたので、三男坊の私も、それに準じて入部したのです。

案の定、やはり柄が良くありませんでした。それ以降、いろいろなことを教え込まれることになったのです。そんな中で覚えさせられたのが、「軍隊小唄」の替え歌でした。

○○良いとこ 誰ゆうた
櫟ばやしのその中に
いきな学生がいるという
いちどは惚れてみたいもの

都立公立古臭い
同じ行くなら○○へ
○○健児は色男
いちどは惚れてみたいもの

肩のカバンにすがりつき
連れていきゃんせ○○へ
連れて行くのはやすけれど
女は入れない???

ごめんなさい。もう何十年もたってしまい、歌詞を忘れてしまいました。毛も生えていない中一が、「○○男児」になるために、「男っぽくなること」に思いと生活を向け始めたわけです。そんな中学生活を始めた私は、中高と6年間、電車通学をしていていたのです。駅まで歩き、ホームに上がり、電車に乗り込むまで、父が、そっと後をつけていたことが何度もあったようです。私の後を、同じ電車に乗り込む、何人かの女学生が付いて来て、私の噂を何かしていたのだそうです。それを父が後からつけて、聞いていたのです。父が家に帰ってくること、その朝の噂話を報告してくれたことがありました。

まさか後ろに父が着いて来ていたことを、意識したことなどなかったのですが、男っぽくなろうとしていた私の行動を窺う、そんな<悪戯ごころ>が、父にあったようです。昨日、成績表を提出し、こちらの2013年度の仕事が終わりました。九月の新学年まで、夏季休暇となり、ちょっと身軽になった六月末の朝、そんな昔を思い出した次第です。

(写真は、”WM”から、通学駅の今の様子です)

ほどほどが好い

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子供の時に、『私の子どもたちは、<スパルタ式>で躾けている!』と聞いたことがありました。そう聞いただけで、『それは厳しい子育てなんだな!』と理解したのです。それで、この<スパルタ式教育>が何なのか調べたり、聞いたりしたことがありました。

<スパルタ>とは、古代ギリシャの都市国家のことで、戦争に強い国で、優秀な戦士を育てるために、厳格な教育をしたことが 分かったのです。一体どんなことをしていたのでしょうか。数年前に、「日本の教育について」、「日本の軍国主義教育について」という題で授業をしたことがあり、そのために、「教育」についての資料を改めて調べてみたことがあります。

英語の”education”を翻訳して、日本語では「教育」と言います。もともととはラテン語からきた言葉なのです。「人の内にあるものを引き出す」という意味を持っているそうです。「教え育てる」とは違って、人には生まれながらに持っているものがあって、それを引き出すことが、本来の教育だと言うわけです。スパルタでは、戦争で猛々しく戦う優秀な兵士を作るための厳格な教育が、男子になされていたのです。戦前の日本やドイツの軍隊も、それに似たものがあったようです。

それは「教育」というよりは、「訓練」という方が良いのです。『日本人は、「自分が死ぬこと」を恐れず、「相手を殺すこと」が平然としてでき、「上官の命令」に絶対服従できる民で、戦士になるには一番ふさわしい民なのです!』と、中学の三年間の担任で、日本史などを教えてくれた恩師が言っていたのです。こう言った資質を持っていたからでしょうか、小野田少尉が、戦後30年もの間、上官の命令に服して、軍務に就いていたわけです。「訓練」の結果とか、「上官の命令への服従」が、それほど威力と効力を持つものだったことを証明しています。

私の子育ては、厳しかったようですが、スパルタ式でも軍隊式ではありませんでした。でも、子どもたちは恨んでいないようです。私が心掛けたのは、「一切れの乾いたパンがあって、平和であるのは、ご馳走と争いに満ちた家に勝る!」という家庭の建設でした。豊かでも貧乏でもありませんでしたが、ほどほどの家庭ができたのではないかと自負しております。国も、ほどほどで好いのではないかと考えているのですが。

(写真は、昨日訪ねた島の中に咲いていた「花」です)

✨追記:この花は「野牡丹」だと、ある方がお知らせくださいました。

夏至の一日

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小学校で歌った「海」という歌があります。

松原遠く 消ゆるところ
白帆の影は 浮かぶ
干網(ほしあみ) 浜に高くして
かもめは低く 波に飛ぶ
見よ昼の海 見よ昼の海

島山(しまやま)闇(やみ)に 著(1 松原遠く 消ゆるところ
白帆の影は 浮かぶ
干網(ほしあみ) 浜に高くして
かもめは低く 波に飛ぶ
見よ昼の海 見よ昼の海

昨日は「夏至」でした。親しい友人たちと、海に行ったのです。夏の陽と潮風を一身に浴び、コンクリートの建物の間から、大自然の世界に移動し、実に快適な一日を満喫しました。高速道路の出口付近に、白鷺がたくさん木に止まったり飛んだりして歓迎してくれました。「国家AAA級観光地」の島に、高速艇に乗って上陸し、島内を見学し、その後、「アワビ」の養殖の様子も、筏にのって体験することができたのです。そこは、昔はとても貧しい漁村だったのだそうですが、ワカメや蟹やアワビの養殖を始めてからは、一変して豊かになってきているそうです。

訪ねたのは、車に乗せてくださった方の養殖場でした。そこで水揚げしたアワビを持って上陸をし、食堂で調理した、えにも言われないほど美味なアワビ料理をご馳走してくださったのです。その他の海鮮料理も、随分と高級食材とかで、満腹してしまいました。夏の季節と、海の味覚を味わい、夕方帰宅することができました。

海鮮料理をご馳走していただいて、自分が、海洋国家の国民なのだと、改めて思わされた一日を、そうして過ごさせてもらった次第です。時々頂くアワビが、そこで育てられていることを知って感謝でもありました。松原は見えませんでしたが、そこには海と夏が溢れていました。

(写真は、”百度”の中国の「海」です)

終身之計

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中国では、「一年之計、莫如樹穀、十年之計、莫如樹木、終身之計、莫如樹人」と言われています(「管子」から)。和訳しますと、「一年の計は穀を樹うるに如くは莫(な)く、十年の計は木を樹うるに如くは莫く、終身の計は人を樹うるに如くは莫し」になります。穀物や樹木はともかく、人を育てるには、一生涯を要すると言っているのでしょう。

そうしますと、「教師」は、良い職業ではないでしょうか。手工者の手にある柳の若枝や、陶器師の手にある粘土の様に、どのようにも思いのまま細工できるのが、教育だと言えます。その教えを受ける私たちの学齢期、学生時代は、自在に曲げたり伸ばしたり、叩いたり潰したりされる年代なのです。ですから、どんな教育を受けるか、誰に感化されるかは、とても重要なことになるわけです。

戦後の平和な時代に、民主教育を受けることができたのは、私にとっては素晴らしい恩恵だったと思い返しています。「うちやませんせい」、「さとう先生」、「こづくえ先生」、「あべ先生」、「けにさん」、これらのみなさんが、私の<五大恩師>であります。病弱で欠席ばかりの集団行動のできなかった小二の私に、忍耐深く激励してくれました。日本や外国の歴史、そして社会の仕組みや機能を教えて興味を引き出してくれました。<魔の中二>の只中にいた私を叱らないで見守り続け、『よく立ち直りました!』と、中学最後の成績簿に書いてくれました。『詩心をもって生きていきなさい!』と五百番教室で語ってくれました。そして、人間とは何で、どう生きるべきかを、懇切丁寧に教えてもらいました。

土中から掘り出され、振るいにかけられ、水が加えられ、こねられ、叩きつけられ、ロクロの上に置かれ、ヘラで切られ、整形され、日陰で乾され、着色され(そうされないものもあります)、焼かれて、粘土は「陶器」となります。造られた陶器は、様々な役割をになっています。日陰の冷暗所に置かれるものから、宮廷の謁見の間に置かれるものまであるのです。あの恩師のみなさんは、時々、『あの子は、どうしてるだろうか?』、『さて、どんな風に出来上がって行くだろうか?』と、思っていてくださったのでしょうか。

(イラストは、”yahoo”からのものです)

『先生、さようなら! 』 ☞転載記事

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☆ 山村の教育に尽くした教師 、教室で死

甘粛省蘭州市郊外にある楡中県定遠鎮の水岔溝小学校で2月26日午後、6年生の生徒10人が教卓に白い花を飾り、黙祷を捧げた。皆が目を赤らめている。同校の教務主任で、6年生の作文の授業を担当していた劉万芳先生(57歳)は前日の25日、授業中に心臓発作を起こし死去した。貧しい山村の同地で、生徒の家庭事情に配慮しながら、最後まで教育に尽くした人生だったという。中国新聞社が報じた。

☆まずしい山村での教育活動に、生涯を捧げる

劉先生は1977年に、代用教員(民弁教員)として採用された。農村部の教員不足が深刻だった当時の中国で、学歴などが基準に満たなくとも、初等教育に従事する意思があれば、比較的簡単な審査で「臨時教員」として認めた制度だった。劉先生は山村部の同学校での教育活動に情熱を燃やし、1997年には正規の教員の資格を取った。

劉先生が33年間にわたり勤務した岔溝小学校は山間部にあり、現在の生徒数は73人。うち6年生は1クラスで10人だ。教師数は7人で、授業以外のさまざまな仕事を担当する。劉先生は多方面にわたる才能の持ち主で、鼓笛隊の指導、壁新聞の制作、生徒の絵画作成の指導、さらには、学校食堂の食材の買出しまで担当したという。

たまたま夫人が両足を骨折してしまったことと、自分の高血圧が思わしくないため、劉先生は5月中旬から10日間ほど休んでいた。しかし、生徒の作文を取り寄せて添削するなど、指導に影響がでることを気にしていた。生徒も劉先生のことが心配になり、家の用事で都合がつかない1人を除き、6年生の9人が週末の22日に先生の家を訪れた。劉先生は大喜びして、貧しい山村の家庭ではあまり食べる機会のないバナナなどをふるまってくれたという。

☆「子どもに迷惑はかけられない」

無理おして出勤再開 劉先生は24日、出勤を再開した。校長は劉先生の体を心配して自宅で休養を続けるよう勧めた。他の教師も心配したが、「父母が都会で金を稼ぐため、家を離れている生徒も多い。そんな子らに迷惑はかけられない」と言って、劉先生は自分の意思を貫いた。

中国は6月1日に児童節(子どもの日)を迎える。劉先生は、学校行事のことも気にしていた。24日の午後も、鼓笛隊の練習を指導した。同僚だった蒋先生は、「劉先生は、本当によい人だった。子どもたちと一緒にいると、まるで本当の家族のようだった」と、その死を悼む。

25日午前、劉先生はいつも通りに6年生の授業を開始した。教科書の課題文の題名「作文上的紅双圏(作文に書かれた二重丸)」を板書してから、教卓に向かって座り、説明を始めた。ところが10分ほどたつと、様子がおかしくなった。顔面が紅潮し、うつむいてしまった。息が荒くなり、教卓に突っ伏して動かなくなった。驚いた生徒が声をかけたが、返事はなかった。 生徒らは教室を飛び出し、別の教師を呼んだ。村の診察所から駆けつけた医師が劉先生に強心剤を注射した。劉先生は県の病院に急送されたが、病院の医師は午後1時、病室の外で待っていた同僚の教師らに、劉先生の死を宣告した。

☆「いちばん好きな先生だった」

泣きじゃくる生徒 劉先生が10日間ほどの休暇を取っていた時、作文の授業を代行したのは校長だった。「私にとって、もっともすばらしい先生」の題を与えたところ、6年生全員が劉先生のことを書いたという。「具合が悪くてお休み中ですが、先生は毎日、ぼくに電話をかけて、勉強のことを気づかってくれます。劉先生には『本当にご苦労様です』と言ってあげたい」と記した生徒もいたという。

翌26日午前、校長が生徒10人に、劉先生の死を告げた。泣きじゃくる生徒を慰めながらも、校長は自分自身の涙を押さえることができなかった。女子生徒の金亜莉さんは、週末に自分だけが先生の家に行けなかったと、泣き続けた。「お父さんもお母さんも都会に行ってしまって家にはいない。いつも話し相手になってくれたのは劉先生だった。風邪をひいたときにも、お湯と薬を飲ませてくれた」という。 同日午後、生徒は教室に整列して、劉先生に黙祷を捧げた。黒板には、劉先生が書いた「作文上的紅双圏」の文字がくっきりと残されていた。(編集担当:如月隼人)

(写真は、甘粛省の山村の小学校の教室です)

『元気に暮らしてるか?』

 

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「キャッチボール」という題の歌があります。平井堅の作詞作曲です。

夕暮れの坂道を 大きな背中と歩く
グローブを抜いた左手 皮革(かわ)の匂いが残る

どんなに加減しても あなたの球は速くて
逃げ腰の僕を茶化して 永遠に微笑んだ

「元気で暮らしてるか?」と
書かれた手紙 受け取る度に
独りでこらえた涙たち 止まらなくなるよ

僕の年頃にはもう あなたは家庭を築き
守るものがある強さに 僕はとてもかなわない

ごめんね この口唇(くちびる)は 嘘で誰かを傷付けるけど
いつもの優しい瞳で僕を 叱ってください

「元気で暮らしてるか?」と
書かれた手紙 越えてゆくため
今度は「元気だよ」と強く 返事を書くから

これは父親とキャッチボールをした記憶の中から詠んだ歌なのでしょう。私にも同じ記憶があります。着物に下駄履きの父が、グローブを右手にはめて、軟球を放り投げている姿が、鮮明に思い出されてきます。もう何十年も何十年も前のことです。まだ未舗装 だった家の前の坂道の上で、時々キャッチボールを、父としたのです。父は、四十代の盛りでした。

沢村栄治とかスタルヒンがプレイしていた時代のプロ野球のフアンだった父です。今のように様々な種類のスポーツのなかった父の時代で、メジャーだったのは野球だったのでしょう。きっと時間を見つけては試合観戦に行っていたに違いありません。『かっとばせ!』とか言って声援していたのかも知れません。

四人の男の子とキャッチボールをしてくれた時、ボールを投げるたびに、『大きくなれよ!』、『健康に育てよ!』、『愚れんなよ!』との思いが込められていたのでしょう。結構強い球を父が投げていたのです。そんな手の痛みの記憶が、ギリギリのところで、愚れきれなかった抑止力になっていたに違いありません。こちらにも<子煩悩なお父さん>がいて、一人っ子と遊んでいる光景を、よく見かけます。

あちこちで生活している息子たちや娘たちに、『元気に暮らしているか?』との思いを放っている6月18日の朝であります。

(イラストは、”ダカーポマガジン”からです)