平和

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大晦日、映画を観ました。台湾から来て、この街で働いておられるご婦人が、『とても好い映画があるから観たいらいいですよ!』と、一緒に、「日本蕎麦」と「台湾風うどん」の"ダブル麺"の「年越し蕎麦」で、 夕食を一緒にした後に、iPadを操作して観られるようにしてくれたのです。

妹尾河童(せのおかっぱ)が、自分の自伝として書き上げた「少年H」を、2013年に映画化した作品でした。腕白(ヤンチャ)な小学生の主人公「肇(はじめ/Hajimeの<H>で<少年H>)」と妹、その両親が、戦争色が徐々に濃くなって、閉塞して行くような世相の神戸の街で過ごす様子が描かれています。

Hは絵が上手で、御多分に洩れず、戦時下の少年たちの憧れは、帝国海軍の「軍艦」で、それを描くところから映画が始まります。お父さんは、洋服の仕立てや寸法直しを生業(なりわい)にし、家族を養っています。お得意さんは、外人居留地の外人さんたちで、採寸にHを誘って、お父さんは出かけるのです。外人さんたちも、徐々に帰国して行き、お得意さんは減少して行きます。リトアニアで、杉浦千畝領事代理が発行した通過ビザで、敦賀に上陸したユダヤ人たちが、神戸で船の出航を持っている間、お父さんは、彼らの服の修理を無料でしていました

日本の社会が日支事変から太平洋戦争に拡大されていくのですが、穏やかなお父さんと仏教徒からの回心者の信仰深いお母さんとの信仰は、続けるのが難しくなる時代でもありました。でも両親とも、変節をせずに、信念を曲げずに、あの時代を生きたのです。反米色が強くなっていく社会の中で、アメリカ人の宣教師との関わり、帰国した彼らから絵葉書をもらったりしたことで、Hは、同級生から揶揄されたり、「ヤソ」と机に落書きされたりします。でも反撃せずに耐えたのです。

送られてきた絵葉書に印刷されていた、ニューヨークの”エンパイヤステイトビル"の大きさに度肝を抜かれ、そんなアメリカの凄さを友だちに話した事が、悪意にとられたことでいじめを受けたりします。そこには、<狭量な日本人の心>が描かれていたり、共産主義者への弾圧、しまいには、外国人をお得意さんとしていたお父さんは、スパイの嫌疑をかけられて、警察に拘留されて、拷問や殴打のめに遭ったりします。負け戦で、更に社会が窒息化し、猜疑心(さいぎしん)ばかりが大きくなっていくのです。

お父さんは、拷問を受けても、常に穏やかでした。それが物足りない息子でした。特高の警察官に放り投げられた時に、額から血を流すほどの怪我しても、お父さんは怒ったりしないで、常に冷静なのです。そういうお父さんを受け入れるのに、もがき、ながら、Hの心は揺れて行きます。更に戦時色、敗戦色が強まり、ついに神戸の街も、米軍機の投下する焼夷弾(しょういだん)の攻撃を受けて、焼け落ちてしまいます。

お父さんの<命>であるミシンを燃え盛る家から、お母さんと二人で持ち出すくだりが、<父思い>の少年だった事が印象的に描かれていました。終戦の詔勅(しょうちょく)で、戦争が終わった後、運び切れずに放置されていた、父愛用のミシンを、お父さんは瓦礫の中に見つけ出し、修理します。そして、使えるようにして、お父さんは、《やり直し宣言》をして、戦後を、ミシンを踏みながら、家族を養って生きて行くのです。

疎開先から帰ってきた妹が、大事に持ち帰ってきた米を炊いたご飯で、飢えた隣家の子どもたちに分けてしまう、そんなお母さんの行動に、Hは不満ですが、お父さんはそう言ったお母さんを誇っているように見えたのです。不自由な仲を、助け合う心を忘れなかった事は、お母さんの心の中に宿り、それを堅持してきた《潔さ(いさぎよさ)》が印象的でした。

1940年に、東京で開催予定のオリンピックが、戦争で開催不能になりました。しかし、戦後の復興の中、1964年にオリンピックが開催されました。そして、2020年、オリンピックが、再び東京で開催されようとしています。Hが少年期を過ごしたような時代が、また来るのでしょうか。

2018年の年頭に、ただ平和を願う思いで、心はいっぱいです。たとえ戦争が起きても、《心の平和》だけは持ち続けていたいと決心しております。『地に平和があるように!』

(平和を象徴する「ストック」です)
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一世紀のユダヤ人社会の中で、ある物語が語られました。「九十九匹の羊と一匹の迷子の羊」です。どんなお話かと言いますと、100匹の羊の世話をしていた羊飼いが、<一匹>の羊がいなくなった事に気付きます。それで、<99匹>を牧場に残したままで、その<一匹>探しに出かけるのです。

数量的に、日本人の私は<一億三千万分の一>ですし、こちらの中国では<十四億分の一>になります。統計学的に考えますと、<一人>の人の数に比べるなら、他の残った<一億二千九百九十九万九千九百九十九人>と比べるなら、物の数には入りません。

それで、戦争中は、残った同胞を救うために、<一人>の兵士が犠牲になって戦場に送られ、戦死するか傷痍軍人(しょういぐんじん)になるかで終わっても、「よし」とされた戦争をしました。「一銭五厘」の命だったのです(戦役義務を促す<召集令状>が一銭五厘のハガキだったのです)。私は、「父無し子(ててなしご)」の悲哀を、よく知っています。「クン坊」は、私と同じでオッチョコチョイで、悪戯で、落ち着きのない同級生でした。でも、ふと<悲しい表情>をする事がありました。どうしてか分かったのは、<クン坊>の家にはお父さんがいなかったからでした。

また大学の同級の「準」は、高倉健の任侠映画を観ては興奮して、一緒に酒を飲み交わした仲間でした。彼も、空手をする様な剛毅さを持っていたのですが、ふと<寂寞とした雰囲気>に包まれる事があったのです。わが家に来て、泊まった時に、私の父と話した事があり、とても<羨ましそう>にしてました。彼の父君は、有名な軍人でした。戦時下には褒めそやされた軍人が、敗戦後、手の平を返した様に、戦争犯罪人と嫌われた中を、母君の故郷でお母さんの手一つで育ったのです。

あの羊飼いは、一匹の羊の<命の重さ>を知っていたのです。数的に比較した命ではなく、一個一個の命を心に止めていたのです。私の愛読書の中に、「あなたは高価で尊い。」とあります。虫にも等しい様な私を、「高価」で「尊厳」にある存在だと言ってくれているのです。もし、この事が分かっていたら、<神風特別攻撃隊>を編成したり、出撃命令を下す事などなかったはずでした。<一銭五厘>のハガキなど、勝手に送付する事もなかったに違いありません。

JR西日本の新幹線車両の亀裂故障が起こった時、問題ある指示がありました。発車駅「小倉駅」で焦げた匂いを感じたまま発車しました。「岡山駅」で異常音を耳にしたと聞いた保守点検担当者は、停車駅での点検をすべきだと提案をしたのですが、東京にある<新幹線総合指令所>は、『走行に支障するような音ではない』と判断し、継続走行を指示したのです。そのまま走り続けて、「名古屋駅」でようやく問題が発覚したわけです。

危険のサインがあったのに、それを無視した事、点検を後回しにした事、人命の安全が第一だという事を守らなかった事、《定時走行(作り上げてきた新幹線の誇りと実績と好評価と言った"売り")》を大切にしてしまった結果でした。『発車時間を守り続けてきた旧国鉄、JR!』の美名を守ろうとした結果です。「誇り」が、利用者全員と言うよりは、《一人一人》の命を軽視してしまう危険性でした。

「ハインリッヒの法則」は、何事に対しても警告となる大切な法則の様です。最も大切な事は、その時点での司令担当者の《正しい状況判断と的確な決断》ですね。政治家や経営責任者や株主の判断ではありません。運輸大臣でもありません。長年従事してきた当事者、担当者の《心》に中に語りかけられる《声》です。大惨事にならなかった、ヒヤリとした経験を教訓に、安全運転に心掛けていただきたいのです。

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19℃

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今、南側のベランダの、木製のベンチ、ちょうど日本の下街で、夏の夕涼みをする時に、住宅の前の通りに置いて、助さんと広さんが将棋を打つためにが座っていた様なものです。そこでブログをしています。夕方4時過ぎの外気温は19℃もあって、冬の感じではありません。

前回 咲いた朝顔の横に、今日は、もう少し開き気味に朝顔が咲きました。また、右手に、白く見える小さな花は、「キンモクセイ」です。かすかに香りを放っています。

2017年末で、「年惜しむ」時候になってまいりました。今年も、公私共に、いろんな事がありました。喜んだり、泣いたり、痛かったり、痒かったり、出たり入ったり、まあ様々な事がありました。特に、長女が結婚した事は、特記すべきでしょう。好い人と出会えた事は、何よりです。助け合って、許しあって、愛し合って行って欲しいと願っています。

親族家族の12月の誕生日も終わったところです。今年から四人になったので歓迎しています。国際情勢も、日本国内情勢も、難しい問題がありそうです。問題にだけではなく、解決にも思いを向けて行きたいものです。ただ、過ちを繰り返さない様にしたいですね。

みなさん、好いお年をお迎えください。消えてしまったりしてるブログですが、お読みくださった事を感謝しております。
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先日、結婚式の引き出物に、紙箱入りの銅鑼焼(どらやき)、クッキー、ヌガーなどの入った「婚庆礼盒hunqinglihe」をいただきました。婚礼に出るといただく「引出物」です。普通は、どの婚礼に出ても、帰りにいただくのは、小さな手の平には入りそうな箱(チョコレート、飴が入った簡単なもの)です。こんなに豪華なのは初めてでした。開けてみて、実に高級感があって、美味しかったので、大喜びをしました。その後、「銅鑼焼」の「化粧箱」もいただきました。

それで、これらの「箱」は、物を整理するのに便利ですから、ずいぶんの数を再利用しているのです。こちらの家は、引き出しが少ないので重宝しています。箱といえば、「玉手箱」が日本では有名です。あの浦島太郎が、龍宮城土産に、音姫乙姫(おとひめ)さまからいただいた箱です。"開けてびっくり玉手箱"で、若い太郎が、お爺さんになってしまった有名な箱です。お伽話(おとぎばなし)ですが、『そんな箱があるんだろうか?』と思いつつ、何かの機会で開いてしまって、お爺さんになってしまわない様に願っていました。

ところで、ヨーロッパ世界にも有名な「箱」があります。ギリシャ神話からの「パンドラの箱」です。"世界大百科事典"に、『…プロメテウスが天上の火を盗んで人間に与えたとき,怒ったゼウスは,人間どもにその恩恵の代償を支払わせるべく,鍛冶の神ヘファイストスに命じて粘土で女を造らせ,他の神々から女性としての魅力や美しい衣装などを授けられた彼女をパンドラ(〈すべての贈物を与えられた女〉の意)と名づけて地上に下し,プロメテウスの弟のエピメテウスに与えた。このとき彼女は神々からのみやげとして1個の壺(いわゆる〈パンドラの箱〉)を持参していたが,好奇心にかられた彼女がそのふたを開けると,中からあらゆる災いが飛び出して四方に散った。ただひとつ〈希望〉だけは,急いで彼女がふたを閉じたため,壺の底に残ったという。…』とあります。

開けないでいる事、触れないでいる事などに、理由があるのです。でもいつかその事を決着をつけて、明らかにしなければならない時期があるのです。そそて、「パンドラの箱」の蓋をあけなければならないのです。

1948年5月14日に、イギリスの承認と助けで、国家として『イスラエル共和国」が建国されました。実に、エルサレムが陥落してから、1…プロメテウスが天上の火を盗んで人間に与えたとき,怒ったゼウスは,人間どもにその恩恵の代償を支払わせるべく,鍛冶の神ヘファイストスに命じて粘土で女を造らせ,他の神々から女性としての魅力や美しい衣装などを授けられた彼女をパンドラ(〈すべての贈物を与えられた女〉の意)と名づけて地上に下し,プロメテウスの弟のエピメテウスに与えた。このとき彼女は神々からのみやげとして1個の壺(いわゆる〈パンドラの箱〉)を持参していたが,好奇心にかられた彼女がそのふたを開けると,中からあらゆる災いが飛び出して四方に散った。ただひとつ〈希望〉だけは,急いで彼女がふたを閉じたため,壺の底に残ったという。

1900年振りの出来事でした。その間、流浪の生活をし続けてきたイスラエル人(ユダヤ人/ヘブライ人)は、彼らの父祖アブラハムに、ほぼ4000年も遥か前に、与えると約束された地に、帰還して国家を樹立したのです。

1900年間住み続けてきたアラブの民には、所有権はなく、アブラハムの末裔にあるという事が国際社会から承認されたからです。この国が建国される以前から、彼らには、『エルサレム(シオン)に帰ろう!』との熱い願いがあって、いつか"シオニズ(Zionism)"の思いが湧き上がり、全世界に離散していたイスラエル民族が、"カナン"の約束の地に戻り、国家建設をしたわけです。

あの"リトアニア”の領事代理の杉原千畝(ちうね/せんぽ)が、"トランジット・ビザ(通過ビザ)"を発給した、ポーランド在住のユダヤ人たちも、ナチス・ドイツの民族絶滅殺害計画によって、結局は、日本、アメリカを経由して、民族の祖国の地である"シオン"に帰って行ったのです。

ですから、その都は、「ダビデの町」と言われ続けてきた、この民族の都「エルサレム」でした。エルサレムを首都とするのは、イスラエル人は民族としては、当然の事なのです。民族的に宗教的に複雑なのですが、いつか、エルサレムを首都と承認する事が必要でした。それを、今回アメリカ大統領トラップ氏が、宣言したのです。まさに、「パンドラの箱」を、トランプ大統領が開いたのです。賛否両論がりますが、事実として私が理解している事事です。

(エルサレムの城壁にある「黄金の門」です)
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一寸

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年の暮れに、 まだ若かった頃に「煽(おだ)てられ話」を一つ。父の親戚筋の家に遊びに行くと<中村錦之助 (後の萬屋錦之助)> 、高校の頃は<山内賢>、社会に出ると<渡瀬恒彦>や<中条きよし>、そんな映画俳優や歌手に似てると煽てられていました。渡瀬恒彦や中条きよしという芸能人は、知りませんでした。別に、どうでも好いと思って聞き流していたからです。

その後、この知らなかった二人の若い頃の写真を見る機会がありました。それで驚いたのです。そっくりだと言われましたから、何十年も経ってから、昨年だったでしょうか、『では!』と言う事で調べてみたわけです。<渡瀬恒彦>は、渡哲也の弟で、同年齢でした。彼の映画は観たことがありませんが、テレビの警察物に出ていて、何度か見ました。

また、ダメ男を主人公に、「うそ」という歌謡曲を歌っていたと聞いていましたが、 『噓だろう!』と思って、<中条きよし>も調べてみたのです。ところが、ネットで検索したのは、この二人の若い時の写真で、『これって俺の?』と思うほどに似ていたので驚いたわけです。

あれほどニヒルだったり、ニヤケた顔ではないと思うのですが、ここに掲出したものです。 自分が認めるのですから、似てるのかも知れません。自分の顔は、好きではありませんでした。頭の格好も声も好きではなかったのです。顔は整形すれば変わるのですが、そんなことは男のすることではないので、いじりませんでした。ただ声は変わると期待して、多摩川の流れの瀬音のする岸に立って、大声を出して、喉を潰そうと実行したのですが、しゃがれ声になっても、また元に戻ってしまいました。

でも、私の愛読書に、「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのち(身長)を少しでも延ばすことができますか。」とあります。それを読んでから、父と母の全てを受け継いで生まれてきた私は、自分の身長も、目が一重か二重か、福耳か狼耳か、面長か丸顔か、何もかもありのままの自分を受け入れなければならないということを知ったのです。もちろん気質や性格もです。

どうにもならないことを嫌っても、変えようと願っても、仕方がないのに、そうしようと、結構、人は悩むのです。変えられるのは、生活態度や性格の好くない点や、価値観、死生観などです。それで方向転換して、人への悪い態度を改めようと決めたのです。生意気なのもいけないと気づいて変えたいと思いました。諦めが早かったのですが、忍耐強く頑張ろうとしました。短気だったので、一呼吸二呼吸置くことにしたのです。失敗しながらも、少しは好くなってきたかな、どうかなと言ったところです。

《自分は自分》、好いも悪いも、全てを認め、受け入れ、そして自分を愛することができたらいいですね。"一寸(3.03cm)"でも前進できたら、努力途中ででも、人生を卒業できそうです。年をとると頑固になり、切れやすいと思われていますが、《例外》になってみたいものです。2017年も、そろそろ行こうとしています。反省ばかりなので、「煽てられ話」を。
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出会い

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皇后の美智子さまには、そばでお世話をされた方が何人かおいででした。その中に、神谷美恵子さんがいました。この方は、精神医学の医者で、ハンセン氏病患者の島、「長島愛生園」で、青年期に奉仕をされ、後に、そこで精神科医長をされています。「生きがいについて」と言う著書も表しておられ、皇太子妃として過ごされる美智子さまのお話の相手をされ、適切な助言を、神谷美恵子さんが話されていたそうです。

いわゆる「平民」から、皇太子妃として嫁がれたので、皇族や爵位を持つ人たちから、それに迎合するマスコミから、《手酷い扱い(「いじめ」でした)》 を受けますが、美智子さまをかばったのは、昭和天皇だったそうです。何よりも旧習にとらわれずに明仁皇太子が、愛し支えたのだそうです。その苦しみを理解し、適切な助けを神谷美恵子さんから受けられたのです。

雲上人の別世界の<針の筵(はりにむしろ)>の様な上で、よく耐えられたというのが、美智子さまの凄さなのでしょう。私の家内なら、『何言ってんのよ。おとといおいで!』と言えたかも知れないのですが、流産、失声症などの精神的な苦痛を経験されて、よく皇太子妃、皇后として、今日まで過ごしてこられています。

どこの王妃や大統領夫人よりも、優れた気品を身に付けておいでで、実に楚々とし、また華々しくもあります。この美智子さまのそばで、お世話をした方に、もうお一人いました。東宮女官として、天皇家に30年もの間仕えた和辻雅子さんです。ご主人が亡くなった後、1979年に、宮内庁からの要請で、その任に就かれたのです。とくに美智子さまの信頼が厚かったそうで、その働きをとても喜ばれたそうです。
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この雅子さんのご主人、和辻夏彦さん(哲学者の和辻哲郎の長男)と、私は知り合いでした。「道徳研修会」が、高野山で持たれた時に、事務方の仕事でご一緒したのです。宿坊の 近くの茶所の「胡麻豆腐」が好きで、その会期中に何度もご馳走になったのです。それ以降、その職場を退職し、都内の学校で働き、アメリカ人起業家の助手になってから、ご自分が教壇に立っていた大学や、法人の監査をしていた私立高校を紹介してくれて、東京に戻って来る様に勧めてくれたのです。

この人なりに私の将来を、実の息子の様に案じてくれたのです。それ以降、忙しさにかまけて、恩義を忘れて疎遠になってしまったのは、申し訳なかったなと思って反省しております。また残された奥様が、そんな大切なご用をされていたのを知らなかったのです。中国に住むことなど、あの頃は思いもしなかったのですけれど、不思議な今があります。好い出会いがあったことを思い返して感謝しております。

(若かりし日の美智子さまと、和辻家のあった藤沢の鵠沼海岸です)
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キャル

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1910年代のアメリカ西海岸の一つの家庭に起こった出来事です。その父親が、カルフォルニア州サリナスの農場で、手広く農業をしていました。東部から移って来た彼には、男の子が二人あります。出来の好い兄を溺愛し、ひねくれ者の弟・キャルを疎んじている、そんな父子家庭が舞台でした。お母さんは、すでに亡くなっていると、子どもたちは聞かされて育ちます。ところが弟は、どこかで生きているということを漏れ聞いて、捜すのです。

自分の街の駅から無賃乗車をして、そこから離れた港町に、キャルは降り立ちます。場末の飲み屋を経営している女性を見つけ出して、尾行を続けます。彼女を問いただすのですが、相手にしてもらえません。確証を得られないまま、仕方なく家に帰るのです。そしてお父さんに、お母さんの事を問うのですが、相手にされません。ところが、お父さんの友人の街の保安官が、キャルに、両親の結婚写真を見せてしまうにです。それを見たキャルは、訪ねた女性が、自分の母親だと確信するのです。

その頃、お父さんは、収穫したレタスを、氷で冷蔵して、東部の市場に貨車を借り切って送ろうとするのです。ところが、雪崩が起きて、貨車が途中で停車し、レタスが腐ってしまいます。お父さんは、大損をしてしまいます。弟は、そのお父さんを助けようとするにです。ヨーロッパ情勢は戦争が起こる兆候が見られるとの情報を得て、高騰するであろう「大豆」を栽培すれば、儲けられるという話をキャルは聞きます。その資金の調達を、再び港町に行って、自分の母であることを認めさせた上で、お母さんから借りるのです。そして大豆栽培を開始します。

間もなく第一次世界大戦が勃発し、栽培し収穫した大豆を売ると、お父さんの損失を、穴埋めできるほどの十分な収入を得られたのです。しかし、戦争を利用して多額の金を手にしたキャルを、お父さんは厳しく叱ってしまいます。差し出したお金を受け取らなかったのです。父を憎く思ったキャルは、兄にも憎しみを向け、港町の母親のもとに兄を、強引に連れて行きます。
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死んだと聞かされていたお母さんが生きていて、しかも自分の思い描いていた理想の母親像と違ったお母さんと、電撃的に出会って、兄は半狂乱の様になり、大きな衝撃を受けてしまうのです。そして嫌っていた戦争に、自ら志願して欧州の戦場に征ってしまいます。その兄息子を見て、お父さんは脳溢血で倒れてしまうのです。

父の愛を受けずに育ったキャルを、兄のガールフレンドが、『キャルを愛してあげて!そうでないと彼は一生ダメになってしまうから!』と、お父さんに執り成しをするのです。お父さんは、それに応え、キャルを受け入れ、看護師を追い返し、自分の看護をキャルに任せるのです。辛い経験をしながら、キャルは、父の愛を、遂に獲得するのです。こういった話です。

これは、ジョン・スタインベックの原作、エリヤ・カザン監督制作の映画、「エデンの東」です。キャルのお兄さんが、哀れでした。出来の好い息子なのに、母や弟をありのままでに愛せなかったからです。自分と違っている弟を認められなかったのです。母の現実を受け止められませんでした。欧州の戦線に、街の駅から列車に乗って出征する時、窓ガラスに頭をぶつけて割ってしまい、傷を負って血を流すお兄さんの様子は、まるで「死」を象徴するかの様で、画面に釘付けにされて、まだ中学生の私には衝撃的でした。

壊れた家庭の悲劇をスクリーンに見て、恵まれない家庭で育った父と母を、やっと理解できる年齢になりつつあった年頃でした。私たちの両親は、ハンディーがありながら、精一杯、私たちを育ててくれたのです。養育放棄をしませんでした。義務教育だけで終わっていても当然なのに、大学にまで学かせてくれたのです。『後は自分で生きていけ!』、これが父でした。今や、兄弟四人、子育てや仕事といった社会的な責任を果たし終え、静かな余生を送っています。もう少し、私にはすべきことがありそうです。父と母への感謝は尽きません。

(カルフォルニアにサクラメント近郊の農場です)
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25日の朝顔

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昨日今日と、こちらは暖かいのです。昨日は23℃もあったですし、今日も15℃ほどあります。それで、ベランダの手すりの朝顔が、少し開きかけています。開くには、気温が足りないかも知れませんね。もう一つ蕾があるのですが、どうでしょうか開いてくれたら大喜びなのですが。先ほど久しぶりに、散歩してきました。吹く風は冷たいようです。
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来福

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夕べは咳がひどくて寝眠れないほどでした。ウトウトとすると咳が出て、そうすると痰までが出てくるほどで、《泣きたいほど》でした。今朝起きて、着替えをしたのです。何と、昨日取り入れた靴下(黒と白の格子模様)の中に、《蜂(大型ですから"スズメバチ"でしょうか)》がいて、左足の親指の付け根を、嫌という程に刺されてしまったのです。すぐに、"ムヒ"を塗ったのですが、まだ痛みが取れません。

これを、まさに「泣きっ面に蜂」と言うのでしょう。子どもの頃に、蜂の巣を突っついて刺された事が何度かありましたが、ずいぶん久し振りで、中国に来て経験するとは思いもしませんでした。前に住んでいた小区の5階の家の外壁に、スズメバチの巣を見つけ、2回も落とした事がありましたが、 昨日は、<年の瀬>なのに、23℃も気温があったからでしょうか、蜂の巣と似た白黒で、柔らかな靴下を巣と勘違いしたのか、「かくれんぼ」をしていて、入ったのか、災難でした。どこか近くに巣がありそうですね。

「転んでもただでは起きない」で、中国では、「泣きっ面に蜂」とか「弱り目にたたり目」を何というか調べて見ました。"屋漏更糟连夜雨(雨漏りしてるのに連夜の雨)"、"船迟又被打头风(船が遅れてるのに向かい風が吹いている)"、"祸不单行(禍<わざわい>が重なってやってくる)"と辞書にありました。あいにく中国人の友人に聞いて確かめていません。家内が、干した 洗濯物を取り入れる時は、注意深く点検 していますが、雑な私はしないのです。

でも、人生、風邪や蜂に刺される事、雨や嵐の日ばかりではありません。今まで、治らなかった風邪や引かなかった痛み、止まなかった強雨も大嵐もないのですから。「災い転じて福となす(禍に遭ってもいつか祝福に変わる時が来る)」のです。中国語では"转祸为福zhanhuowei"で、意味は同じです。今日も暖かで、「小春日和(こはるびより)」ですね。
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手児奈

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私の最初に勤めた職場の母胎が、都内の市ヶ谷の駅のそばにありました。週一で、八王子から電車で、ここに出掛けて、新聞の一つの覧を担当してさせてもらっていたのです。その機関誌の編集をしていた方が、千葉県の市川から通っておいででした。お寺の住職をしながら勤務されていて、若い私を誘っては、神楽坂などの料理屋で、お酒をご馳走してくださったのです。とても好い人でした。

万葉集に、「真間の手児奈(ままのてこな)」のことが歌われています。

葛飾の真間の井見れば立ち平し水汲ましけむ手児名し思ほゆ
(現代語訳:葛飾の真間の井を見ると、立ちならして水を汲んだであろう手児名が偲ばれる。)

語り伝えられている「手児奈」の物語りは、次の様です。

 むかしむかしの、ずうっとむかしのことです。真間のあたりは、じめじめした低い土地で、菖蒲(しょうぶ)や葦(あし)がいっぱいにはえていました。そして、真間山のすぐ下まで海が入りこんでいて、その入江には、舟のつく港があったということです。
 そのころは、このあたりの井戸水は塩けをふくんでいて、飲み水にすることができないので困っていました。ところが、たった一つだけ、「真間の井」とよばれる井戸からは、きれいな水がこんこんと湧き出していました。だから、この里に住んでいる人びとは、この井戸に水をくみに集まりましたので、井戸のまわりは、いつも、にぎやかな話し声や笑い声がしていたといいます。
 この、水くみに集まる人びとの中で、とくべつに目立って美しい「手児奈」という娘がいました。手児奈は、青い襟(えり)のついた、麻の粗末な着物をきて、髪もとかさなければ、履物もはかないのに、上品で、満月のように輝いた顔は、都の、どんなに着かざった姫よりも、清く、美しく見えました。
 井戸に集まった娘たちは、水をくむのを待つ間に、そばの「鏡が池」に顔や姿を写して見ますが、その娘たちも、口をそろえて手児奈の美しさをほめました。
「手児奈が通る道の葦はね、手児奈の裸足(はだし)や、白い手に傷がつかないようにと、葉を片方しか出さないということだよ。」
「そうだろう。心のないアシでさえ、手児奈を美しいと思うのだね。」
 手児奈の噂(うわさ)はつぎつぎと伝えられて、真間の台地におかれた国の役所にも広まっていったのです。そして、里の若者だけでなく、国府の役人や、都からの旅人までやって来ては、
「手児奈よ、どうかわたしの妻になってくれないか。美しい着物も、髪にかざる玉も思いのままじゃ。」
「いや、わしのむすこの嫁にきてくれ。」
「わたしなら、おまえをしあわせにしてあげられる。洗い物など、もう、おまえにはさせまい。」
「手児奈よ、わしといっしょに都で暮らそうぞ。」
などと、結婚をせまりました。その様子は、夏の虫が明かりをしたって集まるようだとか、舟が港に先をあらそってはいってくるようだったということです。
 手児奈は、どんな申し出もことわりました。そのために、手児奈のことを思って病気になるものや、兄と弟がみにくいけんかを起こすものもおりました。それをみた手児奈は、
「わたしの心は、いくらでも分けることはできます。でも、わたしの体は一つしかありません。もし、わたしがどなたかのお嫁さんになれば、ほかの人たちを不幸にしてしまうでしょう。ああ、わたしはどうしたらいいのでしょうか。」
と言いながら、真間の井戸からあふれて流れる小川にそって、とぼとぼと川下へ向かって歩きました。手児奈の涙も小川に落ちて流れていきました。
 手児奈が真間の入江まできたとき、ちょうどまっ赤な夕日が海に落ちようとしていました。それを見て、
「どうせ長くもない一生です。わたしさえいなければ、けんかもなくなるでしょう。あの夕日のように、わたしも海へはいってしまいましょう。」
と、そのまま海へはいってしまったのです。
追いかけてきた男たちは、
「ああ、わたしたちが手児奈を苦しめてしまった。もっと、手児奈の気持ちを考えてあげればよかったのに。」
と思いましたが、もう、どうしようもありません。
 翌日、浜にうちあげられた手児奈のなきがらを、かわいそうに思った里人は、井戸のそばに手厚くほうむりました。
 手児奈が水くみをしたという「真間の井」は、手児奈霊堂の道をへだてた向かいにある「亀井院」というお寺の庭に残っています。(市川市ホームページから)

この「亀井院」の住職が、この人だったのです。一度も、そこを訪ねる事がなかったのですが、「万葉の代(よ)」の人々は去り、景観は変わっても、語り伝えられた物語は、人から人へと残されているのです。

(市川市の市花の「バラ」です)
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