おじさん

 

 

我が儘、不従順、短気、無礼などについては、私が違反すると、父親にこっぴどく叱られたの です。でも生活上の細かいことなどについては、見て見ぬ振りでしょうか、小言を言われる様なことはありませんでした。当を得た叱責でした。その代わり、おじさんたちから、随分叱られたり、たしなめられたり、注意されたのを覚えています。

朝の通勤時間のバスの中でのことです。若い女性がスマホで話し始めたのです。結構長く話していました。乗客からは冷たい非難の視線が、彼女に向けられていました。こんな出来事に遭遇することが、時には私たちにあります。多くの場合は、無視して我慢してしまいます。ある人は、怒鳴ったりします。みなさんでしたら、どうされるでしょうか。公共の場での迷惑行為です。

以前、ある大学の先生たちが、こう言ったのをラジオで聞いたことがあります。だいたい次の様なことでした。

現代は、様々なことが多様化している。価値観も違う。他者に迷惑になる行動も、掛ける側も受ける側も、程度の差がある。ある人は寛容で、そのことを迷惑に感じない。でも、ちょっとしたことで、感情的になってしまう人もいる。注意されたことで不快感を感じると、自己保身で攻撃的になる。まさに動物レベルな反応である。現代は、幼児社会になっている様だ。

それで、大人として、どうしても注意しなければならないなら、次の様にすべきだと言っていました。

① 感情的に言ってはならない

② 敢えて注意しない

③ どうなっているかの事実だけを告げる

先ほどのバスの中での一件です。一人のおばあちゃんが、この女性の肩をトントンとしました。そして、小さく首を振って、『マナーよ。』と小声で言いました。《どうすべきか》を促したわけです。そうしたら、その若い女性は、素直に、『ごめんなさい。』と言って、スマホを切ったのです。

今は、<上手に叱れない時代>なのです。また叱られ下手です。つまり、上手に生きていけないのでしょう。人間関係を上手にできないのは、誰にも教えられていないからです。教育が知的に偏向して、『周りと和してどう生きるか?』を学ぶことを忘れているからに違いありません。昔のおじさん、おばさんは、小うるさかったのですが、的を射て叱ってくれたのです。

《ビンタ》でも《ゲンコツ》でも《叱声》でも、昔のおじさんも教師も先輩も、自分の子の様に、弟子だから、後輩だから、次の時代を担うべき子だから、そう本気で関心を向けてくれたのです。人としてあるべきことから外れていたら、正してくれたのです。命の重さ、人の持ち物の尊さ、共に生きることの楽しさなどを、みんなに教えてくださったのです。そうする責任が、21世紀のおじさんたちにもありそうです。

(咲き残っているカワラナデシコの花です。花の色も新鮮でした。[HP/里山を歩こう]から)

秋の麒麟草

 

 

広島県呉市阿賀町の暗い林床に咲いた黄色い「アキノキリンソウ」です[☞HP/里山を歩こう]。下は、宝石の様な「ノブドウ」です。晩秋の佇(たたず)まいが、ちょっと侘(わび)しい感じで伝わってきます。週末、海浜の村にも、わずかですが花をつけた木々がありました。

今朝は、昨晩からの雨です。好い1日をお過ごしください。

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追思会

 

 

その小高い丘の上に、墓地がありました。そこから海辺の村が一望できるのです。向こうの半島との間に、美しい湾があり、東シナ海の外海も眺められます。『あの向こうに日本がある!』のだそうです。1946年に生まれ、2018年の10月に召された知人の母君の告別式に列席するために、先週の金曜日の朝、家内と二人、この方の親族の方の車に同乗させていただいて、出掛けて、一昨晩帰宅しました。

高速を走って、私たちの住む街から、2時間弱の行程の所にある村でした。『この村は400年の歴史があります!』と、もう一人の息子さんが語っておられ、この海辺の村で生まれて育ち、同じ村の方に嫁いで、五人のお子様を生み育てたお母様でした。激変する時代を、貧しい漁師の村を生きて、子どもたちの世代になって、やっと豊かになり、老後は幸せな日々を生きられたのです。

お嬢さんが生んだ男の子さんが障碍を持たれていて、その子の養育を、おばちゃんに任せて、アメリカのニューヨークに出掛けたまま、諸々の都合で帰国できずに、21才になられたお孫さんを、母親の様にして育てられたのです。このお孫さんも帰郷されて、最後の別れをされていました。

この方のご子息夫妻、お子様たちとは、こちらに来て間も無くお会いして以来、色々と生活上の助けをしていただいて、近く親しい交わりをさせていただいてきています。母君の「追思会(告別式)」の最後に、お話をさせていただきました。式翌日、長く生活をされた村の目抜き通りを、葬列が進み、爆竹が鳴らされ、村の人々が沿道に出て、見送りをしておいででした。

村の人たちの多くを助けてこられたそうで、格別な感謝と敬意とを受けておられ、千人以上の方が式や葬列に加わったでしょうか。伝統あるこの地方の葬儀に出て、まるで親戚の一人であるかの様に、私たちは関わらせていただいた二日間でした。死別の悲しみの中に、再会の望みを持っておいでのご家族でしたから、ただ悲しむだけではありませんでした。

葬儀一切は、亡くなられた方との《悲嘆の作業》であり、十分に悲しんだ後、死に逝った愛する母、義母、祖母、姉、妹、おばとの死別を認め、これ以降は、自分の責任を果たすために、精一杯に生きていられる様に、お勧めしました。

埋葬された墓地は、山の中腹の内海を見渡せる風景の美しい所にありました。ここに、清代の終わり頃のでしょうか、欧米からの方たちがやって来られて、素敵な出会いがあったそうです。そに出会いの事実を継承された、五代、六代に世代が住んでおいでです。あんな田舎に、よくやって来られたものだと、驚きでした。

好い経験をさせていただき、共に悲しみ、共に時を過ごすことができたことを感謝した次第です。

(この村の海浜の夕暮れの風景です)

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ノジギク

 

 

呉市音戸町に瀬戸内海沿岸に咲く、「ノジギク」です。晩秋の空の下に咲く花で、この聞く苦菜を、古来、日本人は愛でてきたのです。[HP/里山を歩こう]が配信してくださいました。今年は、多くに花の名を教えていただきましたが、覚え切れないほどです。自然界が、どれほど美しく装っているかを知った一年でした。有難うございました。小動物の様子も知らせてくださっています。その小動物に関心がないわけではないにですが、花にだけ集中して見ました。

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一村

 

 

恥はたくさんかいてきたのですが、ほとんど描いたことがないのが「絵」です。それでも観るのは好きで、美術館にはよく出掛けたのです。有名無名の画家が、精魂込めて描いた絵には、文学者とは違った語り掛けがあって興味深いものです。アメリカの北西部のポートランドに行った時に、「棟方志功展」をしていました。日本人画家の描いた絵を、アメリカの街で観るというのは、ちょっと不思議な感じがしましたが、素敵な絵がたくさんありました。

そんな私ですが、小学校の五年生ほどの時だったでしょうか、絵と工作で銅賞をとったことが、一度だけあって、街の展覧会に出展されたことがありました。その一回きりの賞は、私の生涯で得た「賞」の全てです。確かあの時は、いつもは集中力がなく、飽きっぽいのですが、一生懸命に描きましたし、何を作ったかは忘れたのですが、工作も粘り強く作ったのだけは覚えています。

 

 

あれで啓発されていたら、今や、孤高の画家で、枯れた絵などを描いていたかも知れません。最近、その素敵な、その「孤高の画家」を知りました。その画家は、ここに掲出した絵を描いた、「田中一村」です。栃木県に生まれ、美術学校(現在の芸大)に学びますが、すぐに中退して、画業を続けています。50歳になった時に、奄美大島に移住し、そこで、大島紬(つむぎ)の染色の仕事をしながら、創作を続けたのです。

この一村に、いくつかの創作の時代区分があるのですが、創作の晩期を、奄美大島で過ごしたのは、とても素敵です。南国の特異な絵を、日本画として描いたのです。69歳で亡くなっています。彼の記念館が、奄美大島にあり、知る人ぞ知ると言った画家です。今になって、こんな絵が描けたら素晴らしいなと思うのです。家内の叔父は、パリに留学したが学生でしたが、そこで不幸な経験をされて、筆を折ったそうです。

南の島に、五十を過ぎて出掛けて、そこを終の住処とされ、亡くなるまで、創作に明け暮れた人生というのは、自然界を書き留めて絵として描くことに、どれほど魅了されたかを知らされて、羨ましい限りです。一心に事に当たれる情熱が、この絵を見ても伝わってまいります。また、出かけたい所が増えた様です。

(上の絵は千葉に住んでいた時代のもの、下は奄美大島の時代のものです)

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便利

 

 

今朝の8時のベランダの寒暖計は、16℃です。めっきり秋の感じがしております。素足では、ちょっと寒く感じるのですが、それでも、まだまだの秋です。今日の天気予報は「曇り」で、しばらく降り続いていた秋雨が止んでいます。時々、孫たちの写真が送られてきて、元気に過ごしている様です。

上の息子が、学校を卒業して、家に帰って来た時に、使っていたアップルのコンピューターを持ってきました。それで、わが家にも有能な電子機器が入り込みました。まだ当時は、ワープロを使っていたのですが、徐々に機器を買い換えて、今ではタブロイドの"iPad"の使用比率が主力になってしまいました。

即情報、即返事、即近況が伝えられて、なんと便利な時代になったことでしょうか。昔、ある人が夢を見て、夥しい人が、<四角い箱>の前で、それに見入っている光景を見たそうです。その後、テレビが出現した時、それが夢の成就だと思われたのですが、パソコンが出てきて、携帯電話が使われる様になり、そして今や、スマホの出現です。みんな四角いと言えば四角いのです。世界中で、タブロイドやスマホに魅入られています。

この進化や進歩は、どこまで行くのでしょうか。便利になり過ぎてしまいました。この2週間ほど、スマホで商品を注文し、決済も済ませ、30分後には配達される買い物をしています。同じ物が安くて早いので、こんなに好いことはないのですが、ちょっと便利過ぎて、怖い様です。今度は、思っただけで、何かが始まり、動き始めてしまう様で怖いのです。ブログ作成を、途中で休んで、再び書き込みを始めたら、久し振りに、陽が射してきました。明日、お客さまが来るので、モーフや布団を干さないと。

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昔日

 

 

この写真は、東急電鉄の「東横線」の渋谷の駅ではないでしょうか。折り返しのホームと、ホームの天井に見覚えがあります。地下鉄と相互乗り入れして、地下にホームが潜る以前、渋谷のターミナル駅の高い所に、ホームがあったのです。あんなに降り易く、乗り換えが便利な駅だったのに、もう昔日(せきじつ)の感なしの渋谷駅は、昭和のおじいさんには「迷宮(めいきゅう)」そのものです。

この東急電鉄沿線に、父が通った旧制中学校がありました。横須賀の県立中学校から、その私立中学校に転校したのです。この学校についての話を、父から聞いたことがありませんでした。その転校は、父にとっては不本意だったのでしょうか。思春期の真っ只中で、自分の家を出て、親戚の家で暮らしながら、この東急線の沿線で学んだ数年間に、父が話題にしなかった分、ことの外、私は関心があります。

その父が、父が敬愛した教育者が建てた、私立中学に、私を行かせたのです。1950年代に、息子をそう言った学校で学ばせると言うのは、そんなに易しくなかったはずです。小学校6年の今頃でしょうか、もう少しした12月になってからでしょうか、突然、『準、○○中に行け!』と、父が私に言ったのです。それで鉢巻をして(?)、受験勉強をした覚えがあります。

兄たちも行かず、同級生たちも行かない、電車通学の学校に行かせてもらった私は、ちょっと得意だったでしょうか。その入学試験の時に、高三になろうとしていた上の兄が、一緒について来てくれました。ですから、兄たちにとって私だけが違う中学に入る、弟への父の特別扱は、『準ばかりが!』と言った思いにはならなかった様です。

私は、《父特愛の子》だった様です。病弱だったのか、父を愛して育ててくれた、自分の父親に似ていたからでしょうか、兄たちと弟とは、だいぶ違った取り扱いが、私にはあったのです。しかも我儘で、内弁慶な私は、兄弟にとって<鼻持ちならない奴>だったはずです。幼い日、庭に、私が食べたブドウの皮を放ると、父が、『光、賢治。拾え!」と言われて、兄たちは拾わされたのだと、兄たちが言っていたことがあります。でも、『まあいいか!』で、兄たちは認めてくれていたのでしょう。

それなのに、大陸にいる私が一時帰国しますと、恨まれることなどなく、一席、食事会を開いてもてなしてくれるのです。そう言えば、子育て中に、住んでいる家の上の階で、ガス爆発がありました。それで燃えてしまったり、消化の水で水浸しになって、ほとんどの家財道具がなくなってしまったことがあったのです。その時に、大きな車に、救援物資を集めて、それを持参して、東京から駆けつけてくれたのが上の兄でした。そんなことを思い出しています。

人思う秋、故郷を思う秋、昔を思い出す秋が来たからでしょうか。また老い先の短さを感じるからでしょうか、昔のことが懐かしくなってきます。病気や怪我や事故や海水浴で、何度も何度も死にかけて、それでもしぶとく生きてきた日々を思い返すと、怒涛の様に、様々な人、出会い、出来事が溢れてくる様に、思い出されてきます。「かの日」や「かの人」があって、今日の私があるのですね。

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天の故郷

 

 

晩秋の陽を浴びている「セイヨウアブラナ」です[☞HP/里山を歩こう]。今頃から、来春にかけて咲く花だそうです。ここは、広島県東広島市黒瀬町の黒瀬川の岸です。こちらもめっきり晩秋、あんなに盛んに咲いていた、この小区の庭の花が落ちてしまって、冬籠りの準備でしょうか。ちょっと寂しくなった感じがいたします。

こちらで出会って、大変なお世話をいただいた方のお母様が、先週末にお亡くなりになりました。海岸の村にお見舞いしたり、この町の住む息子さんの家に来られた時にお訪ねし、一緒に食事などをしたご婦人です。

家内と好い関係があって、ずっと手を握ったり、さすって上げたりしていました。そうされると痛みがなくなると言われていたのを思い出します。病や思い煩いや長年のご苦労から解放され、天の故郷に凱旋されたのです。この金曜日に、告別式が、海岸の村で行われますので、泊りがけで出掛け、参列する予定です。

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かの日

 


 

子育て中、まだわが家の子どもたちが小学生の頃、自分を<不良>に見せていた子どもたちが、体育帽子のツバを後ろにかぶって、可愛らしく自己主張をしていました。わが家の前が通学路でしたから、向こうの方から白帽を、そういう風にかぶってやって来る子たちが、あどけない顔と服装のちぐはぐさとで、遅刻して登校する様子を面白く眺めていました。

去年は北中、今年は南西中、来年は南中と、年代わりで、<荒れた中学>を持ち回りで、市内の中学校がやっているかの様でした。それは、自分も「来た道」でした。当時の大人たちが、どんな思いで、遠巻きに変な風体の私を見ていたのでしょうか。今度は、観る側に立った私は、結構楽しんで、その様子を見ていました。

ある時、お母さんに連れられて、一人の中学生が、私の事務所にやって来たのです。和菓子の菓子折りを持ってでした。当時、わが家の近くの市営住宅に住んでいて、学校一の不良で、<番長>がいました。体が大きくて、いい面構えをしていたのです。この番長が、<タイマン(一対一の喧嘩))>だと言ってしていた相手が、この菓子折り持参の子でした。この子は、生徒会の会長で、勇気を持って、この番長と喧嘩をしていたのです。番長の子分たちが、取り巻いていました。

学校かクラスで何か不正があって、それを注意した生徒会長が、その相手からのタイマンを受けて立った様です。その中学校の正門を出て、右に行った所にあった空き地で、生徒会長は勇敢にも、その番長に挑んでいました。私と家内が、そこを通りかかったのです。劣勢で生徒会長がボコボコにされていました。そこに私が、『待ちねえ!』と割って入ったのです。

中学校の先生たちが二、三人、向こうの正門で、何もせずにウロウロしていました。『もうやめ、やめっ!』と私が言ったら、番長は殴る手を止めました。どうも誰かから止めてくれるのを待っていた雰囲気でした。喧嘩慣れした番長と喧嘩などしたことがないけど、勇敢にもタイマンに挑んだ生徒会長とでは話になりません。それで、『俺を知ってるか?」と聞くと、『あそこの事務所のおっちゃんずら!』と、番長が言っていました。

それで一件落着で、タイマンは終わったのです。その二日後だったでしょうか、お母さんが息子を連れて、喧嘩を止めてくれたお礼を言いに来られたのです。番長は音沙汰無しでした。もう30年以上も前のことになります。あの二人とも、そろそろお爺ちゃんの年齢でしょうか。どんな思いで、彼らは子どもを育て、今や孫たちに接していることでしょうか。

私が思い出しているのですから、きっと彼らも40年前の出来事を思い出しているのでしょう。<来た道>を思い返すことって、大切なことかも知れません。人生何かにつけ「かの日」があって、この日があるのですから。

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この歌は、作詞が森まさる、作曲が橋本国彦で、1946年(昭和21年)に、NHKラジオ歌謡として発表された「朝はどこから」です。

1 朝はどこから来るかしら
あの空越えて 雲越えて
光の国から来るかしら
いえいえ そうではありませぬ
それは希望の家庭から
朝が来る来る 朝が来る
「お早う」「お早う」

2 昼はどこから来るかしら
あの山越えて 野を越えて
ねんねの里から来るかしら
いえいえ そうではありませぬ
それは働く家庭から
昼が来る来る 昼が来る
「今日は」「今日は」

3 夜はどこから来るかしら
あの星越えて 月越えて
おとぎの国から来るかしら
いえいえ そうではありませぬ
それは楽しい家庭から
夜が来る来る 夜が来る
「今晩は」「今晩は」

朝は「希望の家庭」、昼は「働く家庭」、そして夜は「楽しい家庭」から来るんだと言うのです。実に明るいメロディーです。私は、この日を、『楽しみ喜ぼう!』と鼻歌を歌いながら、朝はを迎えるのを旨としています。嵐の朝も、曇天の朝も、病気や悩みの日もありますが、どの朝も新鮮で、晴れや嵐に関わらず、その新しい一日への期待に胸を膨らませて生き始めます。

その新しい日に、生きる意味があり、誠イッパイ生きるのです。そうして過ごして、夕べを迎えると、快い疲労感と満足感が溢れています。子どもの頃は母が、結婚した今は家内が、夕餉(ゆうげ)を用意してくれ、家に子どもたちがいた時は、夕食のテーブルを囲んでにぎやかに、巣立ってしまった今は、家内と向き合って、その一日や、昔を語り合いながら、感謝で食事を摂ります。

大陸の朝、昼、晩を、幾日過ごしてきたことでしょうか。13年目の晩秋を迎え、秋の朝の気温18℃のベランダに、また朝顔が四輪咲いています。今日も素敵な一日が始まっています。子どもたちも、孫たちも、兄弟姉妹、友人、知人、隣人、祖国の人々、全ての人が、喜びの一日を過ごせる様に願いつつ、朝を迎えています。

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