舟と船に乗ってみたい気分がして

.

.

 乗ってみたい船があります。一つは、毎日見下ろす巴波川を、江戸時代から明治にかけて、舟運で、舟荷を運んでいた都賀舟(部賀舟)です。人を乗せるよりも、日光東照宮の設営のために、必要資材を運ぶのが目的で用いられた浅い舟床の小舟です。今は、栃木の街中で、遊覧のために人を乗せるために使われているものです。

 五月五日の「子どもの日」に、ブラリとでかけてみたのですが、「蔵の街」の観光案内に誘われたのでしょうか、江戸の佇まいを感じるためにおいでの親子連れでいっぱいでした。東京から東武日光線に乗っておいでなのでしょうか、最近は目立って観光客が増えているのです。船乗り場に、列をなして、乗船待ちをしている人が、旧塚田商店の黒塀の前に並んでおいででした。

 舟賃「大人千円」、「子ども七百円」、「幼児無料」、「犬猫百円」だそうで、初めて栃木を訪ねた時には、「七百円」でした。ラジオ体操仲間のお一人が、開業時に舟頭さんをされていたそうで、懐かしそうにお話ししてくれました。時々、テレビや映画の撮影班が、来られていて、撮影の様子を眺めることができます。

 もし、江戸は深川まで、昔の様に、舟で行けるなら、乗ってみたい願いがいまだに消えません。舟運の行われていた頃は、都賀舟を、栃木の河岸で荷を載せて、渡瀬川の手前で、高瀬舟に、舟荷を載せ替えて、利根川、江戸川を登り下りしていたそうです。下り舟は二日間、上り舟は十日間ほどかけていたそうです。上り舟は、綱手道を舟を人力で曳いていたのです。

 今住んでいる住宅の、前の大家さんは、代々、舟運をされてきたそうで、その頃に着用した印半纏、帳簿などが残っていて、以前見せていただいたことがありました。たくさんの水夫(かこ)をかかえていたことでしょう。

 その都賀舟に乗った時に、水夫さんが歌ってくれた歌があります。それが「栃木河岸船頭歌」です。

1)日光街道 たかみで通る

  小山泊りは まだ陽が高い

  間々田ながして 古河泊り

  (ハーアー ヨイサーコラショ)

2)栃木河岸より 都賀舟で

  流れにまかせ 部屋まで下りゃ 

  船頭泣かせの かさ掛け場

  (ハーアー ヨイサーコラショ)

3)向こうに見えるは 春日の森よ

  宮で咲く花 栃木で散れよ 

  散れて流れる 巴波川

  (ハーアー ヨイサーコラショ)

 自動車や鉄道が出現する前は、日本全国、河川を利用した「舟運」が、おおく盛んに行われていて、特産品を、江戸や大阪に運んでいたのでしょう。ただ、江戸期の鎖国政策下、大型船の製造、使用、航行を禁止しましたので、国内輸送の主力は、舟でした。北前船の様な大型戦は例外で、国外渡航の可能な船は禁止されていました。

.
.

 そんなことを思い出しながら、大阪と上海の間を、船を利用して、移動したことが何度もありました。丸二日の行程の機関船で、ゆったりとした船旅を楽しんだのです。華南の街から、夜行バスや、新幹線が営業開始してからは高速電車で、地下鉄ができてからは上海の紅橋駅から波止場まで行ったり、タクシーも利用して行きました。その波止場で乗船手続きをしたのです。

 帰国をする留学生や日本語教師、日本で仕事をするために出かけていく若者たち、ビジネスマンは、飛行機を利用するので、ほとんどいなかったでしょうか。良い交わりがあったり、本を読んだり、機関室のエンジン音や波の音を聞きながら、船と並走する飛魚を眺めたり、そう、お風呂まであったでしょうか。

 かつて遣唐使船や遣隋船などの航路は、七月から八月に間に大陸にむかって吹く季節風を帆に受けて大陸を目指し、秋から冬にかけて大陸からの季節風を受けて帰国したのです。一度上海からの蘇州号が、地風に余波を受けて、縦揺れをして、船員さんも酔うほどで、ほぼ全員が船酔いの中を帰国したのです。

 あんな波に遣唐使船はもまれたこともあったようです。昔も今も同じで、変わらなかったのでしょうか。海水や白い波頭しか見えない世界を行き来していたのです。季節風を帆に受けて航行する帆前船がほとんどだったのでしょう。人力で櫂(かい/オール)を漕ぐ場合は、接岸する時に漕いだ様です。風任せの船旅は、大変な日数をかけてしたわけです。

 今は、運行停止中ですが、もう一度、東シナ海を船に乗って出掛けてみたいのです。船の風呂から、波頭が見えて、なんとも言えない気分を味わえるのです。あれだけの経験で、十分ですが、人とに出会いがあって、楽しかった日々を思い出します。航空機では味わえない人との交わりがあるのです。また、ペットボトルや発泡スチロールを板につけて、簡易舟を作ったら面白そうですね。

(ウイキペディアの都賀舟、蘇州号です)

.