追思会

 

 

その小高い丘の上に、墓地がありました。そこから海辺の村が一望できるのです。向こうの半島との間に、美しい湾があり、東シナ海の外海も眺められます。『あの向こうに日本がある!』のだそうです。1946年に生まれ、2018年の10月に召された知人の母君の告別式に列席するために、先週の金曜日の朝、家内と二人、この方の親族の方の車に同乗させていただいて、出掛けて、一昨晩帰宅しました。

高速を走って、私たちの住む街から、2時間弱の行程の所にある村でした。『この村は400年の歴史があります!』と、もう一人の息子さんが語っておられ、この海辺の村で生まれて育ち、同じ村の方に嫁いで、五人のお子様を生み育てたお母様でした。激変する時代を、貧しい漁師の村を生きて、子どもたちの世代になって、やっと豊かになり、老後は幸せな日々を生きられたのです。

お嬢さんが生んだ男の子さんが障碍を持たれていて、その子の養育を、おばちゃんに任せて、アメリカのニューヨークに出掛けたまま、諸々の都合で帰国できずに、21才になられたお孫さんを、母親の様にして育てられたのです。このお孫さんも帰郷されて、最後の別れをされていました。

この方のご子息夫妻、お子様たちとは、こちらに来て間も無くお会いして以来、色々と生活上の助けをしていただいて、近く親しい交わりをさせていただいてきています。母君の「追思会(告別式)」の最後に、お話をさせていただきました。式翌日、長く生活をされた村の目抜き通りを、葬列が進み、爆竹が鳴らされ、村の人々が沿道に出て、見送りをしておいででした。

村の人たちの多くを助けてこられたそうで、格別な感謝と敬意とを受けておられ、千人以上の方が式や葬列に加わったでしょうか。伝統あるこの地方の葬儀に出て、まるで親戚の一人であるかの様に、私たちは関わらせていただいた二日間でした。死別の悲しみの中に、再会の望みを持っておいでのご家族でしたから、ただ悲しむだけではありませんでした。

葬儀一切は、亡くなられた方との《悲嘆の作業》であり、十分に悲しんだ後、死に逝った愛する母、義母、祖母、姉、妹、おばとの死別を認め、これ以降は、自分の責任を果たすために、精一杯に生きていられる様に、お勧めしました。

埋葬された墓地は、山の中腹の内海を見渡せる風景の美しい所にありました。ここに、清代の終わり頃のでしょうか、欧米からの方たちがやって来られて、素敵な出会いがあったそうです。そに出会いの事実を継承された、五代、六代に世代が住んでおいでです。あんな田舎に、よくやって来られたものだと、驚きでした。

好い経験をさせていただき、共に悲しみ、共に時を過ごすことができたことを感謝した次第です。

(この村の海浜の夕暮れの風景です)

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