足利探訪

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昨日は、籠りがちな私を、友人夫妻が連れ出してくださったのです。小雨がフロントガラスを時々濡らす中を、隣町の「足利(あしかが)」に連れて行ってくれました。奈良平安の時代に始まっていて、歴史的にはっきりするのは室町時代だそうです。この日本で、多くの若者たちを集め続けてきた街でした。

買い物や遊びのために、原宿とか六本木とか秋葉原と言った街が、今は人気なのですが、当時、その「足利」には、日本で最も古いと言われる「学校」があったのです。そこに、多くの有為な若者が、日本中から、「学び」のためにやって来ていたのだそうです。

東京の湯島に、「昌平黌(しょうへいこう)」と言われる徳川幕府の学問所があったのですが、それ以前にあった学問の府が、「足利学校」でした。その湯島は、家内の本籍地のあった街で、私には馴染み深いのです。

火事で焼失したのを復元して、葺かれた茅(かや)の分厚い屋根が印象的でした。ここ北関東の「下野国(しもつけのくに)」は、室町時代以降、若者たちの間で、明治期に至るまで、知る人ぞ知る憧れの地だったのでしょう。

何を学んだのかと言いますと、「孔子(こうし)」の説いた、「儒教」でした。若者たちが寄宿しながら、孔子の教えを編集した「論語」の素読をし、その解き明かしを学んだのだそうです。若き学徒が喧々諤々(けんけんがくがく)語り合い、論を戦わせたのでしょう。

「子曰く」と言う、その素読の声が響くようで、学問の基礎を学んだ雰囲気が感じることができました。頂いた書類の中に、学んだ人たちの名前が列記ありました。林羅山、吉田松陰、高杉晋作、大隈重信、渋沢栄一、東郷平八郎、乃木希典と言った日本史に学んだ逸材がいました。

落ち着いた雰囲気が満ちて、時折茅葺(かやぶき)の屋根から、茅に含んだ水滴が落ちてきて、足元を濡らしていました。見学が終わる頃は、お昼を過ぎていましたから、〈栃木県下で一番〉と友人夫妻が好む、「うな重」をご馳走になってしました。9時頃に、この家に来る前に、予約をとっておられ、計画的に連れ出してくださったのです。

このお二人は、心憎い配慮と心遣いをし続けてくださっています。洗濯をし、家内を入院先に見舞うために、同じ時間に家を出、同じ時刻の電車に乗って出掛け、ほぼ同じ時間に戻って、一人前の夕食の用意をして、単調な日を送っている私を見兼ねたからでしょうか。

〈卵かけご飯〉のための特別に買われる卵を、昨日もお持ちくださったのです。まるでカラスのようにしてです。『昔の人は懸命に、一生学んだのだから、年配になってもまだ学びなさい!』と言われたような足利探訪の日でした。もう一方で、『食べるのも忘れないで!』、そうも言われた、一息つかせて頂いた一日でもありました。

49年ぶり

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このところ、数十年ぶりの経験が、いくつか続いていて、ちょっと苦笑いをしたり、その意外さに驚いたり、自分の生き方が随分変わったのだと納得したりしているのです。

今日、実は、「定期券」を買いました。東武鉄道日光線の「栃木駅」から、宇都宮線の「おもちゃのまち駅」の1ヶ月定期です。教師をしていた時、都下の駅から、都内の最寄り駅までを、定期券で通勤していた時以来の「通勤定期券」を、10930円で購入したのです。

何と、49年ぶりの購入になります。学校を退職してから、地方都市に参りましたから、私の足は、電車やバスから自動車に切り替えざる得なくなったからです。時々電車を使う時は、その都度、切符を購入し、“Suica”や“PASMO”が出てからは、ICカードで、電車やバスに乗るようになっていました。今回の帰国で、家内が入院しましたので、“Suica”で病院の行き来をしていました。ところが次女が来日してからは、友人が車を貸してくださって、その車で40日ほど、家内のもとを訪ねていました。

計算に疎い私の代わりに、長男が、電車賃を計算してくれ、ICカードで往復が616円、1ヶ月にすると18480円で、7550円も安くなることが分かったのです。とても助かり、今日は購入と同時に、この区間を定期券で往復して、家内を見舞うことができました。

中国や日本の友人たちや、兄弟や子どもたちが、入院治療のために援助してくださっていますので、このように節約できるのは本当に感謝なことです。家内を見舞い、洗濯物を届け、持ち帰り、インフルエンザでの面会禁止も解け、病室まで行くことができて、世話をするために、「通勤」の定期券で通えるのです。これも夫の「勤め」、努めてこれをしようと思っております。

(東武鉄道の電車です)

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華南の街の若き家内の友人から、二枚の写真が送られてきました。『・・・3月、4月は、雨の多い華南の街ですが、今日は久しぶりに太陽が出て、いいお天気でした。金◯山公園へウォーキングに行ったら、キレイな花が咲いていました。私は花に詳しくないのですが、これは桜と桃でしょうか?日本ももうすぐ桜の季節ですね・・・』と、二言、三言添えられていました。

華ある季節っていいですね。次から次へと花が競うように咲き出して、これからの季節の華南の街は、実に美しいのです。花が咲き始める季節は、ここ関東地方は、中国華南に比べ、遅いのですが、ビールの原料の麦が、一面の畑を緑に彩って、ここ栃木の田園風景は、春の始まりでしょうか。

この方は、家内が省立医院に入院中、毎日、家内にそばでお世話くださった方です。ご主人もおいでくださって、難しい医学用語の含む会話を、通訳してくださいました。日本に留学されて、日本でお仕事をしていたご主人と、東京で出会われて結婚されています。『優しいんです!』と、ご主人を正直にほめておいでです。高校生の息子さんも、家内に想いを向けていてくださっています。

《友あり、遠方より写真来たる》、春雨の止んで、燦々と初春の日の注ぐ、五月の初めの週日です。

雨のち晴れ

北原白秋は、福岡県柳川市(山門郡沖端村)の生まれでした。子どもの頃を思い出して作詞したのでしょうか。この『あめふり』は、1925年(大正14年)に、中山晋平の作曲で、雑誌『コドモノクニ』で発表されています。

あめあめ ふれふれ かあさんが
じゃのめで おむかえ うれしいな
ピッチ チャップチャップ
ランランラン

かけましょ かばんを かあさんの
あとから ゆこゆこ かねがなる
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

あらあら あのこは ずぶぬれだ
やなぎの ねかたで ないている
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

かあさん ぼくのを かしましょか
きみきみ このかさ さしたまえ
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

ぼくなら いいんだ かあさんの
おおきな じゃのめに はいってく
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

このところの春雨で、雨の中を歩くのは、ちょっと気が滅入るのですが、この  ♭ランランラン♯ との歌詞を思い出して、この雨が地を潤し、春を呼んでいるんだと思ってみますと、軽快さに思いを変えられ、嫌な思いを追い出せるのです。

「蛇の目傘」は、子どもの頃にさしていました。ゴム長靴などなかったし、下駄を突っかけて、水たまりもなんのそので外歩きをしていました。今、滞在している家の洗濯場に、この蛇目があるのです。ちょっと懐かしさに誘われて、開いてみました。そうとう古いもので、破れて開ききりませんでした。

竹と紙、その紙に油を塗って、雨を弾く様に細工した〈優れ物〉です。そのほかに、障子と襖(ふすま)、畳、板の間、和紙の明かりとり、二層式の洗濯機、娘が買ってきた杉細工の蒸かし、街中で自分で買った竹製の孫の手、壁には1986年の暦(30年以上前のものです)、昭和の香りが満ちている家で、六十日近く生活をさせて頂いています。

街を歩きますと、江戸や明治を感じさせてくれる蔵や年季の入った土壁と木造の商家があり、和菓子店が散在し、江戸の木場を結んだ舟が行き来した巴波川(うずまがわ)が流れ、そこに鴨や白鷺や鯉が見られるのです。目を逸らさなければ、ここは江戸時代そのものです。でも現実は、けっこうきわどい運転のおばさまたちの繰る軽自動車に、煽(あお)られています。

それでも、“coffee”と書かれた看板の〈喫茶店〉が多いのも特徴でしょうか。アメリカ発祥の “starbucks“ が、蔵造り風で、本通り脇にあるのです。若者人気で賑わっているのが、通りから眺められます。アメリカ文化や雰囲気を感じさせる空間だから、若者を惹きつけているのでしょう。

それにしても、「柳のねもとで泣いている」少年(少女?)が気になって仕方がないのです。ずぶ濡れの中を歩いて帰って来た私には、泣いている気持ちが分かって上げられませんでした。でも家内が病んで、ちっと弱さを感じる様になって、この子が泣かなければならない理由を、考えられる様にされているのです。雨のち晴れの朝です。

強弱多少


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ここ栃木では、このところ雨の日が続いています。この「春に降る雨」を、「春雨」と日本人は呼んで、この地で生活し続けてきているのです。また「春時雨」とか、「小糠雨(こぬかあめ)」とか「春霖(しゅんりん)」とか、そう言った別名もあります。

叩きつけるように強くはなく、〈しとしと〉と降る風情が、日本人の心に合っているのでしょうか。まるで〈小糠〉のように降るからです。中国の華南の街では、もう今頃は、雷の季節になっているかも知れません。この西から東に、北から南に、自在に走る稲光と、轟き渡るような雷鳴とを、しばらく聞いていないのに気付いたのです。

この時季、父や母から、一雨一雨暖かくなると聞いてきましたので、そんな期待感が湧き上がってきます。昨日も春雨、小糠雨にズボンの裾を濡らしながら、駅まで歩いて、東武宇都宮線の電車に乗り、家内の入院先の病院に行って帰りました。

日本人の感性と「雨」とは深いつながりがあるに違いありません。何時でしたか、雨の呼び名を調べたことがありました。驚くほどの表現があって、この雨が日本人の心を形作ってきているのが分かったのです。

春雨や   添水みにゆく  傘二つ

日野草城(ひの そうじょう)の作です。「添水(そうず)」と言うのは、「懸け樋(かけひ)」などで水を引いて、竹筒に注ぎ入れ、一杯になると、その重みで反転し水を吐き、軽くなって元に戻るときに、石などを打って音を発するようにした仕掛け。もと農家で猪(いのしし)や鹿を脅すのに用いられた。〈ししおどし〉(大辞林)」です。

忙(せわ)しなさを覚える時、雨は人の心を落ち着かせてくれます。「雷」と「小糠雨」の《強弱》、私たちの一生にも、そう言った違いや変化があるのに気付かされます。

春雨の 中を流るゝ 大河かな

与謝蕪村の作です。しとしとと降る春雨と、大きな流れの川との《多少》を対比して詠まれているのですが、人の一生も、わずかなことの積み重ねによって、けっこう大きかったり多かったりになるようです。私たちの長く住んできた街に、旧市街と新市街の間に、大河が流れ、大きな中洲の中に、私たちに住んできた家があります。

昨日の三月三日は、古来私たちに国で、女の子の成長を願って祝ってきた日でした。病まないで、怪我をしないで成長して欲しいとの親の思いが受け継がれてきているのです。この雨がやんだら、暖かくなるのでしょう!

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縮める

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学校行事の中で、どなたも懐かしく思い出すのは、「遠足」、「林間学校」、「臨海学校」、「修学旅行」でしょうか。その中でも圧巻は「修学旅行」です。東京で小中高と学んだ私は、小学校は「日光」、中学は「京都・奈良」、高校は「北海道」に出掛けました。

教室を出て、外に出掛けるという、日常性から離れられたことが、よかったに違いないのです。小学校での日光行きは、今でしたら観光バスで行くのでしょうか、私達の時代は、「列車」に乗って出掛けたのです。日光駅からバスで通った「いろは坂」の曲がり角の印象は、強烈でした。

巡った「東照宮」、「中禅寺湖」などが、今でも思い出されるのです。一番驚かされたのは「華厳の滝」でした。その97mもの高さに、11歳の私は圧倒されてしまったのです。狭い日本に、こんな〈落差〉のある滝があるというのも、不思議なものです。

実は、私は、アルゼンチン、ブラジル、パラグアイの3国の国境にある「イグアスの滝」も、アメリカとカナダの国境にある「ナイアガラの滝」も、行って見たことがあります。その規模からするなら「華厳の滝」は、この両者にかないませんが、「落差」はこれらに優っているのです。

今週の日曜日に、私が滞在している家に、17人の家族や友人たちが集まって、集いを持ち、《タコライス》と呼んで、わが家で、ちょっと特別な時に食べてきた食事を、子どもたちのリクエストで共に調理しました。「和気藹々」、《ワキワイワイ》な感じがして、実に賑やかな時でした。

ところが昨晩は、家内は入院先の病院、昼前に娘たち家族が帰って行ってしまい、一人というより、「独り」になってしまったのです。その〈落差〉は、この街の北にある「華厳の滝」に比べられないほど、大きい、いえ、「深い」のを感じたのです。

『ジイジ、コーヒー飲む?』と毎朝聞いてくれて、淹れてくれた孫たちが、もういないのです。そうしましたら、友人が、『夕食を一緒にしませんか!』と、電話で誘ってくださったのです。もう二つ返事で、『はーい!』と言ってしまいました。腕を怪我しているのに、次女が使わせていただいた車を、雨の中を取りに来られて、お宅までお連れくださったのです。

実に美味しい、奥様お手製の「オムレツ」をご馳走になりました。次兄が差し入れしてくれて、お裾分けした「沢庵とラッキョ」が、テーブルに載っていました。味も語らいも、その〈落差〉を縮めてくださったのです。アイスクリームもいただきました。その配慮が、憎いほど嬉しい夕べでした。隣街にいる家内の感じている〈落差〉を縮めるため、会えても会えなくても、面会に励むことにします。

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広島県呉市中央1丁目付近に咲く、「イヌノフグリ」です。今では絶滅危惧種なのだそうですが、市街地に咲いていると、[HP/里山を歩こう]が知らせてくれました。

十代の母をときめかせた、凛々しい青年が、この呉(くれ)の隣にあった江田島海軍兵学校にいたのです。私が青年期を過ごしていた時に、少女の頃を思い出したのでしょうか、眩しそうに母が話してくれました。

母親は「母親」なのに、自分の母が「女」なのだと気付いた一瞬でした。憧れたり、慕わしく思ったり、そばに居たいと言った衝動を覚える思春期、青年期を過ごしていたわけです。

息子たち、娘たちが、自分の母親が、「女」なのだと言うことを、何時、何処で、どんなきっかけで知ったんだろうかと、思ったりしている朝です。

今日の栃木は快晴です。現実は、ごみ出しの日、朝一番で、集積場に出して、ソファーに座って、愛読書を開き、人を思いながら、そんな思いにふけっております。

北関東の山を遠くに眺める、この地は、朝焼けと夕焼けが、やけに綺麗です。家内も私も子どもたちも魅了させられているのです。面会できてもできなくとも、次女の運転の帰途につく車から眺められる夕焼けは感動ものです。

長女と次女家族がやって来て、40日になります(長女は一旦仕事で任地に戻り、主人を連れて再来しました)。毎日、入院中の母でありバアバであり妻を見舞いに通った道は、近道も見つけたり、渋滞を避けたりした日々でした。

明日、それぞれの街に帰って行きます。オセンチにならないようにしよう、そう決心している朝です。そう言えばレンゲが、昨日の帰り道、道路脇の畑で咲いているのを見つけました。

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一羽のすずめ


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今週、私たちに、滞在先の友人の奥様が、ピアノ演奏をしてくださって、その音色と歌唱に驚かされてしまいました。先週はハープの演奏と歌唱をしてくださったのです。音楽学校で、中学から大学まで学ばれた方ですから、音も声も素晴らしいのです。5メートルほどの距離の席で、お聴きましたので、その迫力は感動的でした。

歳を取ってからですが、音楽とか花とか絵に目が開かれてきた私は、『どうして若い頃に関心を向けなかったのだろう?』と、仕方のない悔いをしているのです。そんな私が、体調が優れなかったり、心が重かったりすると、決まって家内に教えてもらい、『歌って!』とお願いして、歌ってもらった歌があるのです。

「一羽のすずめに」と言う歌です。時々、キーボードを弾きながら歌ってくれることもあるのです。『うまくないの!』と言いながら、何時も弾いたり、歌ってくれるのです。ピアノを正規にを学んだことがない家内ですが、私は、穏やかに叩くピアノやキーボードの鍵盤の音と声が好きなのです。

その曲、“”Why Should I Feel Discouraged,Lyrics Mrs.C.D.MartinMusic Charles H.Gabriel”を、この日曜日に、友人の奥様が歌ってくださって、聴くことができたのです。念のため、お願いをしたのではありません。

入院中、まるで「一羽のすずめ」のようにして、一人で病室で闘病している家内、その家内のこと、今後のことを考えていることが多い、これまた「一羽のスズメ」のような私に、『背を伸ばして、元気を出して!』とでも言うように、強弱高低をはっきりした声とピアノを聴かせてくださったのです。

ほんとうに背筋が伸びたようでした。頭をもたげ、将来にに望みをつなぎ、永遠を思うことができたのです。人とは何者でしょうか。気高く、高貴なものとして、地に足を据えて生きているのです。「永遠の御手」に支えられているのですから。

(「徒然庵の俳句日記」から雀です)

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ときめき

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大分県に、「日田(ひた)」と呼ばれる街があります。江戸幕府の直轄領で、明治の初期には、皇室に属する「天領」でした。そこは盆地で、巡りが山で、長く盆地で生活した私には、少し地形的な想像がつきます。と言うのは、街の情報を聞いただけで、一度も訪ねたことがないのです。久留米と大分を結ぶ、〈JR久大線〉の沿線にある街です。

14年ほど前に、熊本で会議があって、出かけた帰りに、この久大線に乗って、由布院温泉に行ったことがありました。実は、その年の春に右腕の腱板断裂の縫合手術をして、リハビリが必要だったからです。それで、その湯布院に、久留米在住の友人のお父様の別荘があって、使わせてくださるとのことで、鞄を家内に持ってもらって、1週間、湯治をしながら過ごしたのです。

Vその別荘は、温泉が引かれていて、温泉三昧の時でした。その時に通過したのが、「日田」でした。美しい街だったのです。そこは、私には思い入れのある街だったのです。当時、母校の恩師の推薦で、ある研究所に勤めていました。柳川の高校で研修会があって、それに出席したのです。その時、私をときめかせた女性が、そこにいました。

念のため、家内と出会う前の話です。背がすらりとして、いわゆる「日田美人」でした。東京弁の旅の人に、この女性が恋をしたのです。いえ御免なさい、こちらがでした。ある時、休暇をとって、東京に出て来てくれたのですが、女性の気持ちを分からない自分は、結婚を迫られそうで、それ以上の付き合いを避けたのです。

『ずるい、卑怯者!』と女性に言われてしまうのを覚悟で書いています。でも、その頃、まだ24歳でした。70パーセントはまだ〈子ども〉で、30パーセントは〈ませた青二才〉でした。そんなこんなで、今、二度目にときめいて、48年も結婚生活を共にして来た家内、《糟糠之妻》がいるのです。苦労をさせ続けた彼女の前では、頭の上がらない男です。

今日も病院に、入院中の家内の着替えを持って、一人で出かけて来ました。何度も、何日も怪我で入院した私に、着替えを運んでくれた家内へのお返しの日々なのです。20℃もある日の午後でした。昨日は、大人数で、入院先に出かけた私たちを、満面の笑みを浮かべて迎えてくれました。帰りしな孫たちとは握手とハグをしたりしていました。ところが今日の午後は、気分が優れず、会うことが叶いませんでした。ただ快復を願う、春を感じさせた日の夕べです。

(日田名物の「日田羊羹」です)

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もう一つの出会い

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今、私たちを受け入れ、まるで兄弟のような愛をお示しくださるのは、過去を遡ってみますと、共通の知人の《親交のネット》につながる方なのです。3年前の帰国時に、滞在場所を探していた時に、この方が快諾くださって、その帰国時に、以前奥様のご両親がお住まいだった家で、過ごさせていただいたのです。

昨秋、帰国時の住まいを探していて、北関東のかつての県都・栃木市に滞在する許可を、再びいただいたのです。東武鉄道やJRの鉄道網を使って、東京や新宿や浅草、町田までつながる便利さと、空気と水の美味しさ、朝焼けと夕焼けの美しさ、何よりも《人の優しさ》を楽しもうとしていました。

そして、これまで数年に亘って、次男の推薦で、日赤広尾病院で、家内が診察をしてもらって来た、その代わりに、獨協医科医学病院(栃木県壬生町)が、先端医療と地域をカバーする医療をしていることを知って、ここで継続診察や治療をしようと決めたのです。

ところが十二月に入って、降誕節の後に、体調を崩して、元旦に、膵炎のCT検査をして、そのまま入院してしまったのです。その治療を終える頃、肺に影があると言われ、省立医院の主治医に、日本での治療を勧められました。

その医院を退院した足で、飛行機の搭乗手続きをしていたら、空港の医師から、搭乗不可を申し渡され、やむなく家に帰ることになったのです。その帰宅は、家内にとっては、一息つける時で、かえってよかったのです。翌朝、搭乗許可を得て、成田空港に向かい、出迎えてくれた長男の車で、栃木にまいりました。

その日から今日まで、六週の間、様々な助けを、ご夫妻でして下さって、家内は入院生活を続けることができています。私の愛読書に、「友はどんな時にも愛するもの。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」とあります。私と家内を、友のように、兄弟姉妹のようにしてさせてくださっています。

その彼が、今週、交通事故で救急搬送され、幸い打撲で家に帰ることができ、この週末の土曜日に、CT検査を控えています。ちょっと、私たちに気を使ってお疲れになって、怪我に遭ったのではないかと、ちょっと自分を責めてみたりしてしまいました。でも無事に回復するのを願っています。

互いに若い日に出会って、私を指導してくれた恩師の、その恩師の義弟に当たる方を、この友は自分の師と仰いだのです。《同根同種》と言ったらよいのでしょうか。春のような陽気の先週、自転車に跨って、彼の好物の「揚げ餅」と「いちご大福」と「どら焼き」をもって、お見舞いに行って来ました。痛みがあるようですが、回復を願って、彼の家を辞しました。