次女の街に咲いた花の写真を送ってくれました。雪が溶けると、水になるだけではなく、「春になる」のですね。北半球に、春の到来です。中国の私たちの街に咲く花を、友人が送ってくれました。

作詞が野口雨情、作曲が草川信の「春の唄」です。

1 桜の花の 咲く頃は
うらら うららと 日はうらら
ガラスの窓さえ みなうらら
学校の庭さえ みなうらら

2 河原(かわら)で雲雀(ひばり)の 鳴く頃は
うらら うららと 日はうらら
乳牛舎(ちちや)の牛さえ みなうらら
鶏舎(とりや)の鶏(とり)さえ みなうらら

3 畑に菜種(なたね)の 咲く頃は
うらら うららと 日はうらら
渚(なぎさ)の砂さえ みなうらら
どなたの顔さえ みなうらら

「うらら」とは、「麗らか」なことです。病院帰りの東武宇都宮線の乗客はまばらでした。春の陽を受けて、みなさん、春のポカポカの陽を浴びて、「みなうらら」になって、船を漕ぐように、何人もの方が昼寝、電車寝をしていました。

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ことば

 

 

『人は生きている限り、可能性に満ちている。』、私が4年間学んだ学校で、まだ若い専任講師時代の恩師が、頬を紅潮させ、情熱的に講義の初めに話したのです。「公的扶助論」という講座でのことでした。

淡々として、教壇から語る教師がほとんどでしたが、まだ二十歳の私たちに、同じように感じて欲しかったのでしょうか、訴えかけ、喚起させるように話したのが、昨日の出来事のように思い出されます。

この講師は、その前週に、滋賀県の「近江学園」を見学して帰ってきたばかりでした。そこは、糸賀一雄と言う人が、重度の心身に不自由を持つ児童の世話しようと、開設したホームでした。そこでの体験談を、熱く話してくれたのです。

『何一つできないのに、入浴している時や、日光浴をしている時に、あの子たちは、なんとも言えない喜びの表情を表すんだ!』と、そう言ったのです。それを聞いた私は、何でもできる身体と思いを持ちながらも、不平だらけで生きていたのです。

そんな私への聞き流せなかった、《鉄槌のことば》でした。それで、自分が持っている《可能性》に目が開かされたのです。そればかりではなく、すべての人が《可能性》に満ちて生きているのだということが分かったのです。それで教師になろうと決心したのです。

スポーツをして、男っぽく生きてきた自分が、重度の障碍を持って生まれてきた子に関心など向けたことが、それまでありませんでした。でも、その講師のことばは、私の心の目を開いたのです。たくさん聞いてきた《ことば》の中で、私が聞くべき《ことば》だったのです。

それ以来《ことばの重さ》を感じ続けています。人を生かしも殺すもするのが、《ことば》なのです。軽率に語って、何度人を、私は傷つけてきたことでしょうか。《人を生かすことば》を語り、人の《可能性》を引き出してみたいと思う早暁です。

(琵琶湖の景色です)

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旅立ち

 

 

三月は「旅立ちの春」と言われています。「別離の月」でもあり、小学校、中学、高校、大学、あれっきり、会うことのない級友たちは、どんな年月を過ごして、今日を生きているのでしょうか。

10円をカンパし、廊下に立たされ、肩を組み合い、隠れてタバコを吸い、名画座にジェームス・デーンを観に行き、九州旅行を共にし、殴り合い、ポケットに恋文を入れ、『じゃあな!』と言ったり、無言のまま別れた彼らは、どうしてるのでしょう。

みんな昨日の日のように思い出されてきます。島崎藤村が、「惜別の歌」を詠みました。歌にもなったのです。

遠き別れに 耐えかねて
この高殿に 登るかな
悲しむなかれ 我が友よ
旅の衣を ととのえよ

別れと言えば 昔より
この人の世の 常なるを
流るる水を 眺むれば
夢はずかしき 涙かな

君がさやけき 目の色も
君くれないの くちびるも
君がみどりの 黒髪も
またいつか見ん この別れ

君がやさしき なぐさめも
君が楽しき 歌声も
君が心の 琴の音も
またいつか聞かん この別れ

この歌を、よく歌っていた級友もいました。卒業して、結婚式に呼ばれて、一度、新婚世帯を訪ねたっきりです。また教師をしていましたので、「旅立って行く教え子たち」を送り出した経験もあります。涙や笑いや、様々な感情の交錯する季節ですね。

でも「出会い」も「再会」も、人生にはあります。いつでしたか、通り過ぎようとしていたバスから、わざわざ降りて、懐かしい顔を見せ、語り掛けてくれた教え子がいました。結構、満員電車に中で、背中合わせになる人の中に、懐かしい人がいるのかも知れません。あの広い中国で、そんなことが2、3回ありました。

場所と時を共にした人というのは偶然ではありませんし、再会だって、けっこう必然であったりするのでしょう。そんな再会の期待感で、『今日も電車に乗ってみようかな!』と思っている朝です。

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八年

 


2011年3月に、中国のみなさんが、「東日本大震災」の被災者に、書き送ってくださった「寄せ書き」がありました。そこには、中国のみなさんは、日本人を含めて、「我们就是家人」と書いてあったのです。それは、『私たちは家族の一員です!』と、親愛に満ちた言葉です。兄のように慕い、弟のように慈しんだ関係が、中日の間に、まだ根強くあるのだとの語り掛けです。

私の父は、若き日に、東シナ海を渡って大陸に赴き、そこで生活をしたと言っています。現在の中国東北部、遼寧省の瀋陽(奉天)です。大陸は、当時の日本に青年たちにとっては、《憧れの地》であったのでしょう。自分の人生を切り開こうと、みなぎる青春の血を燃やそうとしたのです。

悲しい歴史が両国の間にはありましたし、まだ感情的には受け入れにくいことも多くはあるのですが、この13年の中国でに生活の間、『あなたには罪がありません!』と何度言われたことでしょうか。でも父の時代の歴史的事実は、変えることができないのに、寛容さを持って接してくださり、敬愛の情までお示しくださったことは、忘れられません。

あの東日本大震災のあった日、家内と長男の家に滞在していました。胆嚢の摘出手術を控えていた日でした。突然の揺れに驚かされ、隣の生協の店の駐車場に、家内と共に避難したのです。地震がおさまって、家に帰ると、テレビは、仙台近郊の川を、津波が遡上して行く様子を、放映していました。

しばらく経ちますと、福島原子力発電所が、津波によって、大きく崩壊している様子も伝えていたのです。遠くで起こった災害が、劇場で眺めるように、地震の被害が伝えられていて、父から聞いていた「関東大震災(1923年9月1日発生)」の被害の様子を彷彿とさせるようでした。

戦後の主要な災害の一つが起こった後、中国のみなさんがお示しくださった「善意」の一つが、その「寄せ書き」でした。「加油」ともありました。『頑張って!』との意味です。あれから、もう八年が過ぎたことになります。

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揺れた心

 

〈揺れる信念〉、これが今の心境です。昨年の決心と信念が揺れ動いています。家内の入院で、車の運転のできないもどかしさを覚えて、『失効してしまった運転免許証は、〈やむを得ない事情〉があるなら、失効取り消しの可能性があるのではないか!』との思いがあって、意を決した信念が揺るぎ始めているのです。

今日は、県の免許センターに、執行取り消しの相談に行く決心をしているのですが、それも心が揺れて、平安がないのです。その理由は、免許証があったら便利だし、こちらで運転している同世代以上の方たちより、まだ運転技術は上だ、と誘惑されているのです。

『便利さと技術が上の空自信で、あの決心を変えてしまっていいのか?』と言う思いが強くなってしまっている朝です。7時23分に電車で出かけようとしているのですが、行くか、止まるかと迷っています。迷っている時は、一歩を取らないこと、これが《天からの声》なのでしょう。

〈13年の運転空白期間〉は、高齢者の運転再開には、はなはだ危険だと判断した理由は、きっと正解だったのです。この躊躇逡巡は、《天声》であり、《内なる声》に違いありません。衝動的な自分としては、こんなに冷静になれるのが不思議です。

〈別れた免許証〉を追いかけるのをやめます。〈揺れた心〉を落ち着かせた、これが、今朝四時の私の決定です。

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温泉?

 


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まだ行ったことがありませんが、秋田県仙北市に「乳頭温泉」と言う、「秘湯」があります。秋田藩の歴代藩主の佐竹氏が、この温泉で、湯治をしたと言われているように、長い歴史があります。

これは想像ですが、私の父は、秋田鉱業専門学校(現秋田大学鉱山学部)に学んだのですが、学業中に、級友と一緒に、この温泉に出かけたことがあったのではないかと思うのです。もちろん、温泉ブームなどない昭和初年のことですが、誘い誘われ湯治に出かけているのではないでしょうか。

日本人の入浴習慣は、世界を驚かせてきていますが、かく言う私も温泉が好きです。日本中の自治体が、掘削して温泉を掘り当てた時期がありましたが、新しくできた日帰り入浴施設に、一息つきたくて、よく出かけました。

ところが、こちらに参りましてから、滞在中の家の浴槽が大きいので、貧乏性なのか億劫性なのか、「独り風呂」になかなか入らない私を、子どもたちに見抜かれていて、背中を押されているのです。

下の息子が、先日、家で温泉を楽しめるようにと、「入浴剤」を買ってきてくれました。その中に、「乳頭温泉」と同じような白濁の湯に浸かれるようにと、気を使ってくれたのです。シャワーだけですませていたのですが、小原庄助気分で、「朝風呂」を、一昨日の朝、たいたのです。

もちろん、そのお風呂は、「乳頭温泉」でした。『ああ、いい湯だな!』の気分を満喫してしまいました。これで気分爽快の私は、同じ病院に、MRI検査に行く友人の車に同乗させていただいて、家内を見舞いに行ったのです。新しい点滴の管を付け替える日でした。

無事に終わるのを見届けて、帰宅したのです。こちらに広がる田園風景は、来た頃に比べ、ビール麦の緑が、色濃くなってきて、そろそろ稲作の準備や、野菜の栽培も始まるのでしょうか。レンゲが咲いたり、桜の芽が膨らんでき始めてきている3月の中旬です。

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春驟雨

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昨夜から降りだした雨は、けっこう強いので「春驟雨(はるしゅうう)」と言うのでしょうか。この雨が、雪や氷を溶かして、春を連れてきてくれる「雪解雨(ゆきげあめ)」なのかも知れません。日光や那須の雪も、この雨で溶かされて行くのでしょうか。

「春をつくる」と言う歌詞がある歌を、よくこの季節になると歌ったのです。「やって来る」にではなく、「造られる春」との表現が面白くないでしょうか。ウキウキし、心が踊りそうになる春の陽を浴びながら、よく歌いました。再生の業がなされる自然界も、踊り出しそうにしています。

通院している、東武宇都宮線の「国谷(くにや)駅」の駅舎脇に、十本の桜の木があります。老木でしょうか、よく世話が行き届いて、幹が太くて枝ぶりも良いのです。そこを通り、停車する度に、蕾が膨らんでいるのが、分かるようになってきています

そう言えば、冬用のコートを着ようか、着まいかと迷うほど、暖かくなり始めている北関東です。まだ一日二日は、まだ寒い日もあることでしょう。季節の到来で、さしもの冬も敗走していかないわけにはいかなそうです。

「造られていく春」を、これから毎日毎日見ながら、追いながら、この季節を楽しみたい思いに駆られる朝です。

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訣別

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東京から、ここ栃木に参ります時に、いくつかの川を渡ります。その最大な川は、日本三大河川の一つ、「利根川」です。私たちが滞在しています栃木市の市内を、「巴波川(うずまがわ)」が流れているのですが、この流れが「渡良瀬川」に流れ込み、そして「利根川」に合流して、太平洋に至ります。

この利根川は、「坂東太郎(ばんどうたろう)」と呼ばれてきて、親しまれています。この「坂東」と言うのは、日本の西国を「関西」と呼び、東国を「関東」と呼んだ、もう1つの呼び名です。“ウイキペディア”には、次のようにあります。

『一方、利根川の別称である「坂東太郎」については、足柄峠と碓氷峠を境としてそれより東の諸国を総称する「坂東」を流れる日本最大の河川であることから名づけられた[38]。ちなみに同様の別称を付けられた河川としては、九州地方最大の河川である筑後川が「筑紫次郎」、四国地方最大の河川である吉野川が「四国三郎」と呼ばれるほか、中国地方最大の河川である江ノ川(ごうのかわ)が「中国太郎」と呼ばれることがある』とあります。

また日本を二分して、「関西」と「関東」と呼ぶのですが、この「関」について、同じように“ウイキペディア”にあります。『672年に壬申(じんしん)の乱という日本古代で最大の内乱戦争が起き、天武天皇は翌673年に都一帯を守る為に、東山道に不破関、東海道に鈴鹿関、北陸道に愛開関と、3つの大きな関所(三関)を設置させた。こうしてこれ以降、これらの三関よりも東側を「関の東側」という意味で「関東」と呼ぶ習慣が生まれたのである。』とあります。

私は、新婚旅行を、迂闊(うかつ)にも、家内の願いを聞かずに、自分で決めてしまったのです。彼女のロマンチックな夢を無視したわけです。どこに行ったのかと言いますと、茨城県の「霞ヶ浦」から船に乗って、潮来と犬吠埼にでした。先ず、誰も選ぶことのない所でした。私は、北利根川が流れ込む霞ヶ浦に、自分の思いを葬り、沈めたかったのです。

どんな思いかと言いますと、〈軍国少年の亡霊〉をでした。日本主義とか軍国主義の思いの残影を、戦時下の海軍予科練習生が、その機影を映して飛んで、飛行訓練を積んだ霞ヶ浦に、どうしても捨ててしまいたかったのです。そして新しい思いで、彼女と生きて行こうとしたわけです。海軍の家系の子の思いを、そのように葬るための〈軍国主義との訣別〉でした。

お酒を飲んでいた若い頃、私は、ベトナム派兵のアメリカ兵に、立川で喧嘩を挑んだりした、「アメリカ嫌い」の〈日本男児〉を気取っていた時期がありました。実に危険な思いに突き動かされていたわけです。そんな思いを持ったまま、結婚生活に入れないとの願いが、あの霞ヶ浦行きの理由でした。

迷惑をし、困惑したのは、彼女です。『どうして霞ヶ浦?』と、何度聞かれて今日まできたことでしょうか。そんな私を取り扱うためでしょうか、アメリカ人起業家と8年間の時を一緒に過ごし、「日本主義の牙(きば)」を削られ、謙遜を学ばされたのです。そうして年を重ねた今があります。

(利根川が流れ込む「霞ヶ浦」です)

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足利探訪

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昨日は、籠りがちな私を、友人夫妻が連れ出してくださったのです。小雨がフロントガラスを時々濡らす中を、隣町の「足利(あしかが)」に連れて行ってくれました。奈良平安の時代に始まっていて、歴史的にはっきりするのは室町時代だそうです。この日本で、多くの若者たちを集め続けてきた街でした。

買い物や遊びのために、原宿とか六本木とか秋葉原と言った街が、今は人気なのですが、当時、その「足利」には、日本で最も古いと言われる「学校」があったのです。そこに、多くの有為な若者が、日本中から、「学び」のためにやって来ていたのだそうです。

東京の湯島に、「昌平黌(しょうへいこう)」と言われる徳川幕府の学問所があったのですが、それ以前にあった学問の府が、「足利学校」でした。その湯島は、家内の本籍地のあった街で、私には馴染み深いのです。

火事で焼失したのを復元して、葺かれた茅(かや)の分厚い屋根が印象的でした。ここ北関東の「下野国(しもつけのくに)」は、室町時代以降、若者たちの間で、明治期に至るまで、知る人ぞ知る憧れの地だったのでしょう。

何を学んだのかと言いますと、「孔子(こうし)」の説いた、「儒教」でした。若者たちが寄宿しながら、孔子の教えを編集した「論語」の素読をし、その解き明かしを学んだのだそうです。若き学徒が喧々諤々(けんけんがくがく)語り合い、論を戦わせたのでしょう。

「子曰く」と言う、その素読の声が響くようで、学問の基礎を学んだ雰囲気が感じることができました。頂いた書類の中に、学んだ人たちの名前が列記ありました。林羅山、吉田松陰、高杉晋作、大隈重信、渋沢栄一、東郷平八郎、乃木希典と言った日本史に学んだ逸材がいました。

落ち着いた雰囲気が満ちて、時折茅葺(かやぶき)の屋根から、茅に含んだ水滴が落ちてきて、足元を濡らしていました。見学が終わる頃は、お昼を過ぎていましたから、〈栃木県下で一番〉と友人夫妻が好む、「うな重」をご馳走になってしました。9時頃に、この家に来る前に、予約をとっておられ、計画的に連れ出してくださったのです。

このお二人は、心憎い配慮と心遣いをし続けてくださっています。洗濯をし、家内を入院先に見舞うために、同じ時間に家を出、同じ時刻の電車に乗って出掛け、ほぼ同じ時間に戻って、一人前の夕食の用意をして、単調な日を送っている私を見兼ねたからでしょうか。

〈卵かけご飯〉のための特別に買われる卵を、昨日もお持ちくださったのです。まるでカラスのようにしてです。『昔の人は懸命に、一生学んだのだから、年配になってもまだ学びなさい!』と言われたような足利探訪の日でした。もう一方で、『食べるのも忘れないで!』、そうも言われた、一息つかせて頂いた一日でもありました。

49年ぶり

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このところ、数十年ぶりの経験が、いくつか続いていて、ちょっと苦笑いをしたり、その意外さに驚いたり、自分の生き方が随分変わったのだと納得したりしているのです。

今日、実は、「定期券」を買いました。東武鉄道日光線の「栃木駅」から、宇都宮線の「おもちゃのまち駅」の1ヶ月定期です。教師をしていた時、都下の駅から、都内の最寄り駅までを、定期券で通勤していた時以来の「通勤定期券」を、10930円で購入したのです。

何と、49年ぶりの購入になります。学校を退職してから、地方都市に参りましたから、私の足は、電車やバスから自動車に切り替えざる得なくなったからです。時々電車を使う時は、その都度、切符を購入し、“Suica”や“PASMO”が出てからは、ICカードで、電車やバスに乗るようになっていました。今回の帰国で、家内が入院しましたので、“Suica”で病院の行き来をしていました。ところが次女が来日してからは、友人が車を貸してくださって、その車で40日ほど、家内のもとを訪ねていました。

計算に疎い私の代わりに、長男が、電車賃を計算してくれ、ICカードで往復が616円、1ヶ月にすると18480円で、7550円も安くなることが分かったのです。とても助かり、今日は購入と同時に、この区間を定期券で往復して、家内を見舞うことができました。

中国や日本の友人たちや、兄弟や子どもたちが、入院治療のために援助してくださっていますので、このように節約できるのは本当に感謝なことです。家内を見舞い、洗濯物を届け、持ち帰り、インフルエンザでの面会禁止も解け、病室まで行くことができて、世話をするために、「通勤」の定期券で通えるのです。これも夫の「勤め」、努めてこれをしようと思っております。

(東武鉄道の電車です)

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