肩もみ

.

.
家内の入院治療が始まって、家と病院との《二点間移動》が始まって、8ヶ月になります。もちろん、市役所、郵便局、スーパーマーケット、ドラッグストアー、農協の即売所、煎餅屋、歯科医院、血圧内科医院などにも、私は出掛けてはいます。

転居手続きのために埼玉県志木市、買い物に栃木県佐野市、友人夫妻にご馳走に連れ出されて小山市、足利市などにも行きました。でも、生活の精神的、実際的には、この《二点間》での移動なのです。

最近、家内の体調が好くて、限られた行動範囲から、少しずつですが、行先が増えつつあるのです。昨日の外来通院で、午後の投薬までの間に、院内のレストランで昼食に、「日光ゆばうどん」を摂っていました。さらに家内は、街中のうどん店、回転寿司店、イオンなどに行ける様になっているのです。

そういえば、食べる物も、糖分や油分を、極力避けていたのが、外食もできるようになってきて、家での食事に、砂糖(蔗糖ですが)、塩や醤油なども普通に使うようになっています。昨日も、腫瘍が小さくなってきているとか、肺に空気が多く取り込められるようになってきているとか、胸水がなくなっていると、担当医師が言っておられました。

咳も痰も出なくなっているのです。そんなで、家内も私も、もう少し広く世の中や病院が見られるようになってきているようです。この大学病院には、「ものわすれ外来」とか「こども医療外来」、別の大学病院には、「がん哲学外来」があるそうで、家内自身も、ただの「内科」ではなく、「呼吸器・アレルギー科」で受診しているのです。

医療の分野が細分化し、より専門化してきているのでしょうか。家内が最近、友人から頂いて読んでいる本は、順天堂大学の「がん哲学外来」の樋野医師の書いたもので、病院外で、「まちなかメディカルカフェ」という動きも行われていたりして、国内の100箇所以上で、交流や相談が行われているそうです。彼女は、これに参加したいのだそうです。

病気の「気」が、注目されてきて、患部にだけではなく、「心」が注目されたきているのでしょう。そういえば、彼女は、入院中、研修医に「肩もみ」をさせてしまったそうで、そんな治療は、内科にはなさそうです。その医師は、他の科の研修に行っても、家内の病床にやって来て、激励してくれたのそうです。それが、とても嬉しかった様です。

昨日、《第7回目のキイトルーダ》の投与を、家内は受けてきました。まだ加療を必要としていますが、「心」が元気でいます。多くの友人のみなさんや兄弟姉妹、子どもたちから、励まされ応援されていて、難病と果敢に闘っている最中です。ありがとうございます。

(庭のホットリップスです)
.

オーロラ

.


.
地球上に起こることは、悲しかったり、見るに耐えられないかったり、不安だったりしますので、地上への関心を、ひとまず停止し、目と思いとを、天空に向けて見ることにします。そこには《流星群》や《オーロラ》が見られて、素晴らしい世界が広がっているではありませんか。

中国・北宋の時代の詩人、蘇軾(そしょく)が詠んだ詩に、「中秋月」があります。

暮雲収蓋溢清寒
銀漢無聲轉玉盤
此生此夜不長好
明月明年何處看

◯日本語読み
暮雲収め尽くして清寒溢れ
銀漢 声無く 玉盤を転ず
此の生 此の夜 長くは好からず
明月 明年 何れの処にて看ん

◯ 日本語訳
日暮れ方、雲はすっかり無くなって、さわやかな涼気が
みなぎり、銀河には玉の盆のような明月が音もなくさしのぼった。
この楽しい人生、この楽しい夜も、永久につづくわけはない。
この明月を、明年ははたしてどこで眺めることだろう。

ここに詠まれる「銀漢」とは、「銀河」、《天の川》のことです。古代中国の詩人も、官職にあった北宋の世も、人との関わりが煩雑で、生きるには難しかったのでしょう。彼もまた、空に目を向けたのです。地上からは群れをなしてる様に見えても、一つ一つの星は、孤高の光を煌めかせいたのです。
.


.
二十一世紀の地上は、落ち着きがありません。怒声や唸り声や憎しみが、やかましく渦巻いています。敵愾心、赦せない思い、過去に民族が負った不始末の蒸し返し、被害者も加害者も荒げた声と、殺伐とした思いが鍔剃り合いながら、挙げた拳を下ろそうとしても、下し所と時が見当たりません。

作詞が永六輔、作曲がいずみたく、坂本九の歌った「見上げてごらん夜の星を」が、よく歌われていました。

見上げてごらん夜の星を 小さな星の
小さな光が ささやかな幸せを うたってる

見上げてごらん夜の星を 僕らのように
名もない星が ささやかな幸せを 祈ってる

手をつなごう僕と 追いかけよう夢を
二人なら苦しくなんかないさ

見上げてごらん夜の星を 小さな星の
小さな光が ささやかな幸せを うたってる

手をつなごう僕と 追いかけよう夢を
二人なら苦しくなんかないさ

見上げてごらん夜の星を 小さな星の
小さな光が ささやかな幸せを うたってる

見上げてごらん夜の星を 僕らのように
名もない星が ささやかな幸せを 祈ってる
ささやかな幸せを 祈ってる

だから、アラスカやカナダやスカンジナビアに、《オーロラ》を見上げに行ってみたいと、仕切りに思うのです。もう召されてしまったのですが、知人を病床に見舞ったり、病院の送り迎えを繰り返して差し上げた、同年輩の男性と、『元気になったら、オーロラを見に行くじゃん!』と約束したことがありました。彼もまた企業戦士で、やり手であったから、心も擦り切れていて、それを、繕う旅に、誘って、外の世界に連れ出して上げたかったからです。

アラスカならずとも、また内蒙古の草原のバオから、降る様な《流星群》や《銀漢》を見上げてみたいのです。ストレスを溜め込まない私ですが、子どもの頃に、写真で見た、《オーロラ》も、元気なうちに出掛けて見てみたいのです。悠久の時間を味わえそうです。
.

歌人

.

.
中学生の時、「白鳥」という名前の同級生がいました。“ はくちょう ”
ではなく “ しらとり ” と読みました。名前とは裏腹で、色黒で男っぽいな顔をしていました。体育大学に行って、卒業してから、高校の教師になったと聞いています。

中一の国語の時間に、

白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

という和歌を習いました。「酒仙の歌人」と言われた若山牧水の作です。その教師が、白鳥くんをからかっていたので、懐かしく思い出すのです。この教師は一級上の学年の担任をしていて、そのクラスに、若山牧水の孫がいました。この上級生の担任であるのを、自慢げに話していて、同級生をからかったりで、好きになれない教師でした。

牧水は、『百害あって一利なし!』の酒と旅を愛した「漂白の歌人」だと言われていますから、家族を顧みない気ままな人生を生き、早逝した人だったのです。そんな彼なのですが、その詠んだ歌は、多くの人。に愛されています。牧水が、次の歌を読んでいます。

山越えて 入りし古駅(こえき)の 霧のおくに 電灯の見ゆ 人の声きこゆ

失恋で、憔悴の思いで旅に出て、若き牧水が詠んだものです。私も一度失恋をしましたが、憔悴することも、旅に出ることもなく、あっさりと諦めてしまいました。でも男の執念でしょうか、時々思い出し、彼女を射止めた男を、殴ってやりたい思いを、若い頃に持ちました。これもまた若き日の夢のまた夢です。

感受性の敏感な男の失恋、全てを忘れたくて、牧水は、田舎行きの列車に飛び乗ったのでしょう。たどり着いた鈍行列車の到着駅で、「人の声」を、久しぶりに聞いたのでしょうか、その声を聞いて慰められた思いを、詠んだのです。

芭蕉にしろ、杜甫にしろ、旅を続ける自由と、迎え入れてくれる歌の友がやお弟子さんがいて、それを楽しむことのできる、そんな好い時代だったのでしょうか。彼らは傷付き易い人でもあったのでしょう。その歌は、飛行機や新幹線に乗ってでは、詠み得ない歌なのです。

人の声の懐かしさって、こんな私でも感じることがあります。家内と二人の話に、昨日は長男家族が加わって、交わされる会話、「人の声」が、なんとも言えず懐かしく、暖かく、慰められたのです。石川啄木の歌にも、

ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく

標準語しか話せない私でも、子どもの頃に育った村の方言の響きを覚えていて、新宿駅から、鈍行の中央本線の長野か、松本か、茅野あたり行きの列車に乗り込んだら、その方言が聞こえてきて、なにとはなく懐かしさがこみ上げてきて、啄木をした経験があります。

今、『職業は何ですか?』と聞かれたら、寺山修司だったら、「詩人」と応えるのでしょうけど、私は、『歌人です!』と応え様と心備えをしていますが、まだ聞かれたことがありません。上手に歌を詠めませんから、ちょうど好いのですが。

(青森駅の駅舎です)
.

朝顔たより/9月12日

.

.
この写真の後に、私たちの生活空間が写り込んでいます。昨日も、『ユリさん!』『ジュンさん!』と呼び掛けてくれる、5歳になったばかりのオシャマなお嬢さんが、来てくれました。友人夫妻がメロメロなお孫さんなのです。昨夕は、今夏久しぶりの涼しさを感じさせられました。やはり、さしもの暑い夏も、行こうとしています。

帰省の季節で、電車も道路も渋滞が始まったようです。子どもたちや孫たちの実家が、栃木に移ってしまって、帰省ならずも、訪問は嬉しいことでした。13年も、彼らの実家が、大陸にあったのですが、今は、海を渡らないで、「実家」が住むここに、電車やバスで来られ、自転車だって来られるでしょう。

北関東の夏が行き、初めての秋がやって来ます。果物栽培も盛んで、このお嬢さんのお父様が、先週は、「巨峰」を2房も届けてくださいました。美味しかった!

満ち足りて

.

.
水辺に青草が生え、そこを石垣が守っている構図が、友人の手で撮られていて、配信されています。羊がこんな所にやって来たら、安心して草をはむことができそうです。もちろん、ここは牧場(まきば)ではありませんが、そんなことを連想させる一葉の写真です。

「 他使我躺卧在青草地上,领我在可安歇的水边。 」、中国語訳の有名な詩を思い出しています。住む家、食べ物、飲み物、衣服、洗濯機、お風呂、それに今夏は少々暑過ぎますが、空調設備も整い、綺麗にクリーニングしてくださったマットと寝台とシーツ、夏掛け、まくらなど完備された家に、水辺で安息する羊の様に、満ち足りて、安心して横たわることが、私たちにはできています。こんな感謝はありません。

それに、優しい「人たち」がいてくださいます。見守り、助言してくださり、訪ね、美味しい物まで届けてくださる友や家族がいて、まるで楽園にいる様です。闘病する家内は、溢れるほどの感謝であります。

昨日は、長男家族の訪問があり、夕方7時過ぎまでいてくれました。お昼は、友人がうどんを作ってくれ、ほかの友人が、今夏始めての温州みかんを差し入れしてくれ、美味しくいただくことができました。立秋過ぎの日曜の一日でした。
.

私の戦争

.


.
日中戦争、太平洋戦争のさなか、父に下った軍命は、戦闘機の防弾ガラスの原材料を、石英の鉱床のある中部山岳の山奥で、掘削し、京浜のガラス工場に納めることでした。綺麗な結晶を見せる水晶の基盤である石英が、戦闘機に増産は急務だったからでしょう。父、三十代前半の〈報国〉だったからです。

甲府連隊長と懇意だった様で、父が山奥と街の事務所とを往復するのに使ったのは馬でした。それは、連隊長の軍馬よりも良いもので、連隊長が仕切りに欲しがったそうです。しかし父は譲らないでいる内に、子どもの発病で、栄養をつけねばならぬ父親が、世話をしていた、私の父の馬を無断で屠殺し、子どもに食べさせてしまったのです。そのことを聞いた父は、その馬丁の父親を責めることなく、不問に付した、と母に聞いたことがあります。

私は、中学生になった時、歴史を学び、人から戦時中のことを聞くに及んで、〈戦争責任〉を覚える様になっていきました。父の掘り出した石英で作られた防弾ガラス、それをつけた戦闘機や爆撃機が、朝鮮半島や中国大陸を攻撃して、多くの人命を奪ったと言う事実を蔑(ないがし)ろにできませんでした。

私が、華南の街に住み始めた時に、十代半ばの一人の少年が、わが家に来始めました。日本のアニメが好きで、アニメで日本語を覚え、日本人がいると聞いて、私を訪ねて来てから、毎週来る様になっていました。しばらくすると、彼を育ててきた祖父母が、家内と私を、家に招いてくれ、ご馳走してくださったのです。

お二人共、人民軍の位の高い退役軍人で、退役軍人用の住宅に住んでおいででした。私は、自分が日本軍の支払った給料で、産着やミルクや食べ物を与えられて育った子で、父が技術者として軍務で、防弾ガラス製造の一端を担ったことを、このお二人に語って、その防弾ガラスを装備した爆撃機でしたことを、お詫びをしたのです。

おばあさまは言いそびれていたのですが、安徽省の出身であること、生まれ育った村に、日本軍が上陸し、村を日本兵が焼き払ったことを、聞き出したのです。おじいさまは止めたのですが、私が、『是非!』と言いましたら、腕をまくって、その火で負った火傷跡を見せてくださったのです。でも彼女は、私たちを責めませんでした。詫びた私を赦してくれたのです。そして帰りしな、彼女は、『请再来吧/また来てね!』と言って、家内をハグしてくれたのです。

ある夏、教師の集いがあって、それに参加したことがありました。六、七十人の大学の先生たちの前に立った時、『どうして中国に来たのですか?』と聞かれたので、私は語りました。若い頃から、父の戦争責任を覚え続けてきて、いつか中国に行って、謝罪したかったことなどをです。

それで、私は、みなさんの前でお詫びをしました。そうしましたら、聞いたみなさんの反応が大きくて、十年も経って、再会した一人の方が、あの時の私の話に、感謝の言葉をくださったのです。多くの中国のみなさんは、私が戦争責任を詫びる必要がないと言ってくれました。でも、一人の日本人の姿を見てくださったのは事実です。
.


.
第一次大戦の後、列強諸国に倣って、日本も、中国に、幾つもの街に、「日本租界」を設けました。その権益から、満州国を建国し、日本支配を拡大し、日中戦争を始め、1945年8月15日に、無条件降伏をして、戦争は終わったわけです。銃と軍靴で侵略したのは事実です。

父のしたことも事実です。戦後、子育て中の父は、戦争を語りませんでしたし、軍歌も歌ったのを、一度も聞きませんでした。ただ、軍馬を育てる内容を含んだ、〈めんこい仔馬〉を歌っていただけです。自分の愛馬を思い出していたのでしょうか。そして、満州国の国策企業の南満州鉄道で働いた青年期を、思い出していたのかも知れません。これが私の戦争なのです。

(石英と結晶した水晶、天津にあった日本租界です)
.

白馬

.



.
妻の手をとって白馬行の《祝誕生日山行き》の写真が、次男から送られて来ました。真夏というよりは、初秋の高原ですね。母親が、『背負ってわたしを連れてって!』と言いたそうにして見ていました。一度、白馬に行ったことがあります。行ったことがないスイス、みたいでした。
.