恩送り

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この記事は、“ カラパイア ” の2017年3月5日に掲載された記事の転載です。

「恩送り」とは、かつて誰かから受けた恩を、直接その人に返すのではなく、別の人に送ることを意味する。人々のやさしさは伝播していき、世界はやさしくなれる。それが「ランダムアクトオブカインドネス」という考え方なのだが、そんな言葉を知らずとも、地道に自分が受けた恩を返し続けている人がいる。

 貧しかった少年時代、近所の人の好意に支えられ暮らすことができたというこの男性は、当時の恩を忘れることはなかった。

 中国の瀋陽市にて、貧しい子どもたちを学校に通わせてやりたい。そんな思いから30年間にわたって月給のほとんどを寄付している清掃員の男性が人々の注目を集めている。
 
 彼の物語はソーシャルメディアを通じ大勢の人に感銘を与え、彼の生き方を称える一方で、恩送りの素晴らしさを考える投稿も相次いだという。

月給のほとんどを30年間寄付

 中国の瀋陽市にて過去30年間、月給のほとんどを子どもたちの教育のために寄付している56歳の路上清掃員、Zhao Yongjiuさんのエピソードがネット上で話題となっている。

 この心優しい男性は、毎朝4時半に自宅を出て夜9時まで働いている。月給は日本円にしておよそ4万円。現地ではまともな暮らしがどうにかできるぐらいの額だが、彼は生活費をぎりぎりまで抑えている。
 
 そして残りのお金は “貧しい子どもが通学して正規の教育を受けられるように” と、全額寄付しているのだ。

 彼はこうした寄付を30年間続けており、これまでに寄付した総額はおよそ285万円で子ども37人分の学費に相当するという。

 だが男性はもっと子どもを支援をすべきだと考えており、自分の唯一の財産を売り払い、家賃およそ1万円のワンルームアパートに引っ越したりもしている。

近所の人たちの善意に支えられた少年時代

 Zhao Yongjiuさんが寄付を始めるようになったのは、子どものころの個人的な経験がきっかけだという。彼は1976年に15歳で父親を亡くし、それ以後は残された母と共に食べていくのも厳しい生活が続いたという。

 だが、近所の人々は何年にもわたってZhao Yongjiuさん一家の生活を助けた。彼らは自分たちのお金を出し合ってくれることもたびたびあったという。

 身近な人々の優しさに触れて感謝し、感銘を受けながら成長した彼は、人助けの人生を決意。子どもの頃に隣人たちから受けたたくさんの恩を次の世代である子どもたちに送ることにしたのだ。

恩送りを続ける真のヒーロー

 彼のエピソードは中国のソーシャルメディアにかなりの衝撃を与え、大勢の人が感動しそれぞれの思いをシェアした。

 そこには”彼のような人が大勢いればこの世界はもっと良くなるだろう”、”みんなが困っている人々に少しでも援助をすれば世の中は本当にずっと良くなるだろう”、というツイートもあった。またZhao Yongjiuさんを真のヒーローと呼ぶ人も声も上がっているという。

 自分が受けた恩を別の誰かに送る恩送り。それはもちろん金銭的な援助に限ったことではない。すべての人が困っている誰かにささやかな手助けができたなら、あらゆる人が精神的な豊かさを持つ世の中になるはずだ。

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こう言った善意は、瀋陽の街で、この竿さんがしているように、世界中の街でもなされている、「《隣人愛》なのでしょう。父の青年期、この街で一時期過ごしています。この隣町の撫順から、天津で学んでいた大学の学生が、よく天津のアパートに来られ、数ヶ月一緒に生活をしました。そんなことを思い出しています。

(ザオさんの仕事中の姿です)
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勝者

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アテネ・オリンピック出場をかけた、ある女子競技の予選の試合が行われていた頃ですから、2004年だったでしょうか、それをテレビに誘われて観戦していました。その時、日本チームの練習風景が、中継の合間にビデオで流されていたのです。

監督が、19才の高校を出たての選手に、『バカヤロー!』、『出て行け!』、『お前なんか使わない!』と罵声を飛ばしていました。ああ言った言葉に耐えないと試合に出られない、勝てない、大会に出場できないのです。

国の名誉を賭けた、熾烈な競争に勝つには、精神を鍛えなければならないのです。『なにくそ!』という跳ね返す心がないとだめなんです。相手に勝つ前に自分に勝たなければならないし、チーム・メイトにも勝たなければならないのです。根性がなければ駄目なんです。そのためには、暴言も暴力も必要悪なのだ、そういった風潮がみられたのです。

5、60年も前に、中学や高校の運動部にいた私は、その様子を見ていて、『ちっとも変わっていないな!』と感じること仕切りでした。その五十代の監督さんの選手時代は、われわれと同じ「しごき」の時代だったのです。私の所属していたクラブの練習は、ものすごいものがありました。

インターハイや国体の優勝校で、その決勝戦への常連校でしたから、その名誉を維持するためには、常識的な練習では駄目だと言うのが結論でした。予科練帰りの旧日本軍の規律で訓練された先輩たちにしごかれたと言う、卒業生のおじさんたち、そのおじさんたちに鍛えられたOBが、入れ替わり立ち代わりやって来るわけです。ビンタは当然でした。殴られると、今度は下級生にビンタで焼きを入れるといった悪循環があったのです。

あの監督さんは、暴力はしていなかったのですが、あの言葉は心に痛かったでしょうね。社会全体が軟らかいソフトムードで、そこで育って来た若者たちの中で、一流選手のいる、スポーツ界は変わっていないんですね。

何時でしたか、力士のAが相撲の稽古をつけている様を、テレビで観ていました。竹刀(しない)で焼きを入れていました。その相手は、彼よりも年令は上で、大学出の人気力士でした。この世界は年令も学歴も関係ないのですね。番付が上なら天下なのです。

《悲壮感》、そう言ったものがないとスポーツの世界では、出られない、勝てない、大会に出場できないのですね。まさに日本型のスポーツの世界の伝統であります。

これも何時でしたか、アルカイダの訓練の様子が放映されていました。またアメリカ海兵隊やイギリス軍の新兵訓練も見たたことがあります。戦場の最前線に遣わされる兵士には、非人道的な訓練が、世界中、どこでも行われているのです。そこにあったのは、私が若い頃にやっていた、ある流派の空手の稽古の中に感じた「殺意」です。躊躇のない一撃必殺が要求されるのです。逡巡していたら、殺されてしまうからです。 
 
あの監督に罵声を飛ばされていた選手が、試合に出してもらって活躍していました。スパイクを決めたときに見せたのは、実に素晴らしい笑顔でした。あの暴言を、『監督さんの愛情からの言葉なんだ!』と思って感謝しているのでしょうか。

でも、『勝たなくってもいいんだ!』、そういった気持ちで、スポーツを楽しめたら素晴らしいでしょうね。もちろん健康であるためには、肉体の鍛錬も必要に違いありません。欠点だらけの私を指導してくださったアメリカ人の起業家は、私を、殴ったり、威嚇したり、蔑んだり、罵倒したりしませんでした。その代わりに、愛の配慮で忠告や助言や激励をしてくれたのです。若かった私が、《人生の勝者》になるためにでした。
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朝顔だより/8月1日

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こんなに暑い夏は初めてです。北関東・栃木での初めての夏ですが、だからと言って一番の暑さではなく、日本全体、いえ地球全体、北半球全域が暑いのです。そんな「厳重警戒」を、朝の9時から示し始め、昼前には「危険」と警告されています。

次男が行ってきました様に、水分補給、塩分摂取、外出注意(彼が言ったのは外出禁止でしたが)で過ごしましょう。今日から、隣の家具屋さんは、週休2日になっています。後の5日が祝される様に願っています。縁側の朝顔が、10輪も咲きました。ハイビスカスもマリーゴールドもコスモスもホットリップスも日々草が、いのちを輝かす様に咲いています。
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おめでとう!

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このブログ(日記)、「悠然自得」を始めまして、今月で満九年になろうとしています。子や孫に、彼らの父と祖父が、どう思い、どう考え、どう生きてきたか、どこに向かっているのか、そんな事々を書き残して、伝えたくて始めたのです。これを発行する以前、二度ほど別のタイトルでブログを発行したのですが、自他両面の都合で廃刊になり、2010年9月に、この「悠然自得」の発行を再開したわけです。

意外な人が、『読んでいます!』と言ってくださったりしていますが、『こんなこと書いて公にして好いの?』など、子どもたちから、何回も言われながら、ちょっと恥ずかしい事まで書いてきています。それでも大分抑え気味の執筆なんです。最近では、応答が余り寄せられませんが、家内の病状などを知って、電話やメールをしてくださる方もおいでです。

それでも、何度か絶筆をと思ったり、掲載した記事が欠落してしまったり、故障があったりしましたが、結構長く続いてきているのに、我ながら感心しております。始めましたのは、タイトルでお分かりの様に、中国に行って四年ほど経った頃でした。ですから、最近は兎も角、ほとんどが、華南の地で書いたもので、海を隔て、時を隔てて思いを連ねた事になります。

今日は、闘病中の家内、《糟糠の妻》の《誕生日》なのです。肺の腫瘍が大きくて、血管と気道と食道とを圧迫して、手足がパンパンに腫れ、呼吸が困難になり、食べ物を飲み込めない〈三重苦〉、さらに胸水も肺の中に、多量にありました。ですから退院もできませんし、組織検査をしてもはっきりした事が分からず、治療法も決まらずにいて、ほぼ諦めてました。きっと誕生日も迎えられずに、召されると覚悟していたのです。

そんな中、次男が見つけてくれた “ サプリメント ” を買って持ってきてくれて、入院治療中の母親に飲む様に勧めていました。十代の子育てに難儀した息子で、最後に産み落とした息子への愛情は特別でした。その子から、自分の母を切々と思い、回復する様にと、願いの籠った “ サプリメント ” は、どんな薬よりも、薬効があったのでしょう。主治医の反対を押し切って、内緒で家内はそっと服用していました。それが奏功したのが、危機を脱する事が出来た、一つの理由です。

華南の省立医院で診てくださった医師、その判断と治療、そして帰国を勧めてくださって、獨協大学病院にかかり、若い主治医が判断し、繰り返してくださった入院検査と治療、退院後の継続治療、これを受けられたことは感謝に尽きません。この主治医の背後に “ カンファレンス ” の経験豊かな医師陣がおいでで、懇切に治療をし、いまも継続して外来の医師の手で、治療が行われています。
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もちろん、世界中で家内への思いが盛り上がり、手が挙げられ、応援の声が響き渡ったのは勿論のことでした。大陸の華南の街からは、三組もの友人たちが来てくださいました。家内のために労を惜しまず、家を掃除してくれ、食事を作ってくれたりしたのです。みなさんが溢れ、こぼれ出る様な愛心を示してくださいました。これも大きな回復をもたらした理由だったのです。みなさんに、これほどまでに愛され家内が、実に羨ましいほどでした。

『今晩が山かも知れない!』と医師が、看護師に小声で言われた事も、家内は聞いた事があったそうです。幾度か〈死線〉を越えたのです。ところが最近は、元気になる様にと、席を設けてくださって、鰻や金目鯛の寿司や牛しゃぶまでも、食べられるほどの回復を見せている今です。何しろ、誕生日を迎えられたと言うのは、一たび諦めた私には、夢を見ている様な奇跡なのです。

戦時下に、大阪の泉州は堺で生を受け、戦災の東京郊外で火の中を潜り、苦学しながら学び、保育に生涯を捧げたのです。ところが、私が紹介され、結婚し、4人の子を成し、4人の孫のバアバの今です。この子たちや孫たちの激励は、大きな癒しの力に違いありません。懐かしい恩師の著作を開いたりして、家内は若き日を思い起こしています。

友人が住む様にしてくださった家で、ピアノを弾き、長く歌ってきた愛唱歌を口ずさみ、友人たちから送られてくる書を読み、幼い日から読み続けてきた愛読書を手元から離さずに、日を過ごしております。またハガキを書いて、感謝と近況を友人や知人に送ろうとしています。一昨日の夕方は、高校生の頃から、一緒に笑ったり泣いたり、行き来をし、同じ様な病と闘っている友に、一冊の本を贈呈していました。

本やクッキー、下着や寝具、野菜や果物、さまざまな愛の籠った物を戴くのですが、35年過ごした地の特産の《白桃》が、一昨日の昼前に届きました。あの地で、同じ師から一緒に学び、一緒に働き、共に子育てをし、一緒に総二階の事務所を建て、親しく交流した友人夫妻からの家内への贈り物でした。息もつかずに家内は泣きそうになって、ジュウシーな桃を食べていました。嬉しかったのでしょう。この様な多く篤い愛は、病を敗走させている事でしょうか。

家内と私は、13年生活した大陸の華南の地に、帰りたいと切望しています。御心ならば、きっと戻る事ができるでしょう。同じ心をもって、慕ってくださる友人たちと一緒に、彼の地で、共に時を過ごしたいと願っています。そこは私たちの《第二のふるさと》だからです。叶えられても、そうでなくても、この願いは変わりません。

梅雨が終わって、猛暑の到来に、〈暑さ指数33℃〉の「危険」、外出禁止、水分補給を、息子二人 が知らせて、留意する様に勧めてくれています。多くのみなさんの愛に感謝の家内と私です。

まだ闘病の日は続きます。家内は、御心の中にいたいと願っております。時々、『おまけを生きてるんだもん!』と彼女は言っています。何よりも、その《おまけ》をくださり、生まれる前から注がれ続けている、造物主の愛顧、憐れみ、激励、祝福を、一身に受けて、今日迎えた誕生日を、心から祝福します。先ほど(早朝5時)小さなプレゼントを、大きな感謝と愛とであげましたら、ハグでお返ししてくれました。誕生日おめでとう!

(家内の特愛の「マーガレット」、第二の故郷の風景です)

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“ シュワー ”

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“ ラムネ ” を、華南の街の中心にあった西湖の売店で見つけて、買って飲んだことがありました。あの “ シュワー ” とした感じを期待してでした。ところが、子どもの頃を過ごした街の駄菓子屋さんで、金盥(かなだらい)の水で冷やして、瓶の中のビー玉を栓抜きで押しこんで手渡されて、瓶の口から溢れ出るのを、口で受け止めて飲んだ、あの味と違っていたのです。甘かったのですが、 “ シュワー ” としなかったのです。
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“ サイダー ” とも違った味で、あの頃と同じ味の “ ラムネ ” は、今でも売られているのでしょうか。私の記憶ですと、この “ ラムネ ” と「夕立」とが一括りで思い出されるのです。車軸を流す様な雨と〈一対〉なのです。この「車軸」とは、大八車をご存知でしょうか、木製の台に鉄製の輪をはめた車輪と車輪をつないでいる心棒のことを言います。この車軸が、天から落ちてくる様な太い雨脚の雨が、激しく強く降ってくる様子を、「車軸を流す」と言うそうです。
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今では、「バケツをひっくり返した様な」とか「風呂桶をひっくり返した様な」雨と言ったりします。あの「土砂降りの雨」です。雷光、雷鳴、雷雨が大好きな私は、華南の街で、轟き渡る様な雷鳴を、腹の底で聞くのが、大好きでした。それは私の生まれ故郷で聞いた雷鳴の数十倍の大音量なのです。西から東に、響き渡っていく様な、天空の鼓を激しく打つ様な轟なのです。

今夕、何か「夕立」が来そうな予感がするのです。「梅雨明け」を宣言する様な、大音響が聞こえ、車軸を流す様な雨になりそうで、ワクワクしてきているのです。これって趣味でしょうか、愛好でしょうか。たぶん悪趣味に思われてしまいそうです。傘もささずに、裸足になって、夕立をこの身で受けてみたい衝動に駆られています。そうしたら、“ シュワー ” とするのでしょう。栃木地方の今夕(29日)の予報は、「雷雨」とのことです。

きっと、発令された「暑さ指数」が〈危険〉がしめされていると、次男が知らせてくれ、外出禁止、水分補給をアドバイスしてくれました。それほどの全国的な暑さでした。もう一つは、何かサッパリしたいのかも知れません。わだかまりや停滞や追い詰められているのではないのですが、そう “ シュワー ” としたいのです。“ シトシト ” では駄目なのです。『来るかな!』の午後です。
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セミ

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「蝉時雨」の記事をアップして、暑いさ中、蝉が鳴かないなと思っていましたら、蝉が、網戸の網をよじ登ってきました。朝顔を見にやって来たのでしょうか。夏の風物詩です。外気温午後一時で、36℃だそうです。この近くには林や里山がありません。庭木があるくらいでしょうか。それで網戸なのでしょう。
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蝉時雨

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先週末、玄関の三和土(たたき/ )」に、小ぶりなアブラゼミがひっくり返っていました。『起きなよ!』と、そっと触ったら、起き直って、目を離した隙に、どこかに、最後の力を振り絞って飛んで行った様です。栃木で初めて見た蝉でした。

そういえば、もっと激しく鳴いてもよさそうなのに、蝉には気の毒な長雨と低温の七月でした。天津で0南の街で11度、夏を過ごし、今年も過ごすつもりでしたが、家内の病で帰国して、住み始めた栃木で初めての夏を迎えています。

子どもの頃に、蝉の賑やかな鳴き声を聞いたのですが、華南の街では、高い山に行かない限り、蝉の鳴き声は聞けませんでした。ここでは、まだ一度も耳にしていません。「蝉時雨(せみしぐれ)」と言われる様な、まるで夏の夕立が降る様に、“ ジージー ” 、“ オーシンツクツク、オーシンツクツク ” 、 “ カナカナ、カナカナ ”と聞こえて、子どもの頃に、夏本番を体感したのに、今夏は夏らしさを感じていないので物足りません。

この「蝉時雨」と言う夏を表現する言葉は、日本語の美しさを存分に伝えてくれます。俳句の「季語」にもなっています。

還(かえ)ります 人に故国の 蝉時雨

阿部みどり女の作です。勝手な解釈をしてみます。戦時下、外地で蝉の声を聞いたのでしょうか。今頃は故国では、子どもの頃に聞いた、あの蝉が、今も時雨が降るがごとく鳴いているに違いない。そこに今まさに帰ろうとしているのでしょうか。

ひぐらしや かつては兵の 征きし道

一木幸治の作です。同じ様に勝手に解釈をしてみます。戦争が終わって、平和になった今、あの日兵隊さんを見送った日に鳴いていた、ひぐらしが、同じ様に、何もなかったかの様に鳴いている。あの兵隊さんは、戦地から戻ったのだろうか。

そういえば、華南で住んでいた街の家から、戦前、外国人の避暑地であった山に行って、知人の紹介してくれた山荘で、家内と一緒に、友人たちと3日ほど過ごしたことがありました。夕方に、 “ カナカナ、カナカナ ”と蝉が、ちょっと寂しそうに鳴く声を聞いたことがあります。

今週は、酷暑になると、天気予報が言っていました。夏の好きな私は、あの子どもの頃に聞いた、「蝉時雨」を思いっきり聞いてみたいものだと思うのです。昨夕、遠くから、これも弱そうに、“ ジージー ” と鳴く声がしていました。もっと強く鳴いて欲しい七月の末です。
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朝顔便り/7月29日

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台風が熱帯低気圧に変わったのですが、大雨が降った後、真夏の到来です。三重県沖の震源の地震が、ここ栃木を、震度3で揺らして、目覚めさせられてしまいました。今日は酷暑の一日でしょうか、梅雨が明けたのでしょう。それを喜ぶかの様に朝顔が開きました。潮騒に誘われていますが、茨城の海に行けるでしょうか、の月曜日です。

(上は5時50分、下は8時半の撮影です)
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夕顔の里

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栃木県に住んで、7ヶ月になろうとしています。思いもよらず、県民、市民になった私は、《家内を支える》を、今為すべきことと決めて、これこそ、一生の総仕上げの任務として、友人や兄弟、子どもたちに激励され、助けられてつとめているところです。

忙(せわ)しさから解放され、ゆっくりと流れている巴波川の様に、過ぎゆく時を過ごしています。黒土だった田んぼが起こされ、そこに植えられた苗が、ずんずんと背丈を伸ばして、青々と成長しています。この地で採れた野菜を、農協の即売所に買い出しに行き、〈地産地消〉を原則に、県産品に拘りながら、料理も、皿洗いも、今までしてくれた家内へのお返しでしております。

住まいも、友人夫妻の愛と配慮とで備えられ、故障していた空調も、お見舞いの志で取り替えることができ、水道水の浄水器も息子に買ってもらい、その水を飲み水にしています。家内の回復を助けようと、良質な食材を見つけては、カラスの様に運んでくださる友人がいます。

窓の下に植えた朝顔も、東京の友人が見舞いにくださったプリンセス・ダイアナ、鉢植えで買った日々草もマリーゴールドも、先日買ったハイビスカス、一昨日買ったホットリップス、息子にもらった種で植えたコスモス、とても賑やかに散ったり咲いたりしています。

息子と友人の送迎で、病院も通院し、先週、第6回目のキイトルーダの投薬を終えて、3週間後の通院で、待機しています。家内は辛い闘病を、そのまま感謝して受けて、愛読書を読んだり、ハガキで感謝状を書いたり、遠近の友人知人を遥かに覚えたり、ピアノを弾き、歌い、車椅子で外出し、そこから降りて公園を散歩し、心と体のリハビリに励んでおります。時には、友人夫妻が連れ出してくれ、隣の足利に遠出もさせていただいたりしています。多くのみなさんの激励と支えに感謝でいっぱいです。

家内が入院し、今通院している獨協医科大学病院は、ここ栃木と県庁所在地の宇都宮の間に位置する、「壬生(みぶ)町」にあります。戦国時代には、壬生氏の所領でした。江戸期には、日根野、阿部、三浦、松平、加藤、鳥居の各氏が治めて、明治の廃藩置県で、「壬生県」になっています。そして、栃木県に吸収されて、今日に至っているそうです。
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ここに面白い逸話が残されています。幕末の長州藩の高杉晋作が、この壬生の城下町を訪ねているのです。江戸で剣術の修行をした晋作は、腕試しにでしょうか、壬生城下町の剣術道場で、地元の剣士・松本五郎兵衛(神道無念流)に何度も試合で挑んでも、一本も取れずに、その全ての試合に敗れています。それは若き晋作には、衝撃的な経験であったそうです。このことは黙して語らずだった様です。

そうしますと、柳生新陰流の免許皆伝の剣士(神道無念流も修行したそうです)を打ち負かした強者の子孫や親族が、東武日光線に同乗しているかも知れないとか、病院のロビーですれ違っているかも知れないと思うと、楽しくなってしまいそうです。若い日に、高杉晋作の生き方に感動させられた私には、くすぐったい様な逸話です。

(壬生町花の「夕顔の花」、下野壬生城の城郭です)
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歓迎

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今朝の我が家の第一玄関のようすです。マリーゴールドが、来客を待つ様に咲いています。と言うよりは来客のために、外に置いていた鉢を玄関の下駄箱の上に、今朝置いたのです。綺麗なのに、誰も気づかなかったのは、ちょっと残念ですが、歓迎はしていたのです。
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