心を治める

.


 「ねたみ(妬み、嫉み、嫉妬)」と言う感情が、どんなひどい結果を生むか、小説ばかりではなく、現実の世界に多く見られます。人類最初の殺人事件の記録が、ユダヤの古書の中にあります。カインとアベルの兄弟の中で起こった一件です。ちょっと長くなりますが、その条(くだり)を取り上げてみます。

 『人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た」と言った。彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。
 そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」
 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」
 そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。
それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」』

 弟と自分とを比較してみた時、弟のささげた物は受け入れられ、自分の捧げたものは拒まれた経験をします。弟への祝福を喜べない思いが、兄の内にみられます。この違いは、この時だけのことではなさそうです。これまでの二人の生き方の結末ではないでしょうか。

 私には二人の兄と一人の弟がいます。子どもの頃を総括すると、〈喧嘩〉ばかりしていたのです。原因の一つは、いつでも我が儘な三男坊の私にありました。父親は、最初の子や最後の子を可愛がり、真ん中の子たちはあまり関心を示さない、これが良くあることです。しかし私たちの父は、三男を殊の外に愛したと思います。溺愛まではいきませんが、美味しい物があると、一番に私に食べさせ、食べ捨てた葡萄の皮を、上の兄たちに拾わせたりしていました。

 兄たちは、どんな気持ちで拾わされていたのでしょうか。聞いたことがありません。兄弟三人は、街の公立中学に行きましたが、私だけ私立中学に行かせました。確かに父には、偏った子育てがあった様です。そんな私は、就学前に、肺炎に罹って、死にかけたのです。国立病院に入院させ、時の県知事が見舞いにくるほどでした。知事の側近、院長をはじめ病院の偉い方たちの一団が、ベッドの上の私を取り巻いていた光景を覚えています。

 それで甘やかされた三男坊は、始末が悪く、父や母のいない陰で、小突かれていたのです。それって当然の仕打ちでしょうね。それで兄たちは晴れ晴れとされていたことでしょう。そんな子どもの時期がありながら、兄たちは、弟の私を連れ回してくれたり、守ってくれたのです。いじわるする私なのに、私に同情して弟は、父に叱られる私のために泣いたり、家を出されると、一緒に出てくれたのです。

 結婚して、兄弟たちから離れた地で生活をしていた私が、アパートの上階で、ガス爆発の火災事故があって、消防の水で、家財を失うもらい事故に見舞われたことがありました。ほとんどの物を失ったのですが、再出発のために、兄弟が、東京と私たちの街を車で、何度も往復して、ほとんどのものを差し入れ、整えてくれました。そして昨年、家内が入院すると、何度も差し入れを持って見舞ってくれました。退院すると、その祝いに、温泉の宿に招待してくれ、経済的に助けてくれ続けたのです。

 兄たちには、兄たちへの方法で、明治男の父は愛してくれていたのでしょう。そう言って父からの愛を受けていたに違いありません。弟を小突くいて腹癒せをするくらいで、〈苦味〉や〈妬み〉は全くなかったのです。アダムが、私の父の様に、不正や狡いことをすると、ゲンコツをくれていたのなら、カインは、陰湿な弟への感情を持つこともなく、私の兄たちの様に、平然として、自分の感情を正しい形で処理できたのでしょう。

 蔑(ないがし)ろにし、処理しなかった〈怒り〉や〈妬み〉は、やがて最悪な結果を生むのです。現代人の私たちにも必要なことは、《心の思いを治めること》です。そうできる能力は、誰もが与えられているから、そう言われるのです。もしそんな思いがあったら、心を治めようとしてみることです。やらないよりも、やる方がよいからです。どんな悲劇も、《逆転の機会》があります。そう信じて生きるのがよいのです。

(エリヤ・カザンの「エデンの東」のジェームス・ディーンです)

.

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください