2024夏・長崎

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 江戸時代、明日に夢をつなごうとした日本中の若者たちが、この長崎に出かけようとしました。明治期の若者は、イギリスやドイツやアメリカに出かけようとしたのですが。この長崎は、ロンドンやベルリン以上の憧れの街だったのでしょう。その街が、1945年の8月9日に、原爆投下によって、壊滅し、多くの命を奪ったのです。18の夏に、この街を訪ねました。復興した街にたたずんで、戦時下の悲劇と、戦後の復興の姿に、複雑な思いをしたのです。今年も酷暑の長崎に思いを馳せています。

(ウイキペディアによる長崎市の様子です)

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人間とは、生きる権利とは

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「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(新改訳聖書  ミカ6章8節)」

 憲法の改正を求める声が、有識者の中にある反面、この平和憲法を守り続けようとする声も強くあります。憲法論議は、戦争放棄だけの問題だけではなさそうです。憲法を、どう国民生活に当てはめていくかも大きな課題でもあり、大きな課題をもたらした時期がありました。

 私たちの国の福祉行政や社会福祉そのものの遅れが叫ばれていた頃に、私は、学生でした。当時、生活保護を受けるために、実に厳しい査定が行われていたのです。極力、公費の負担を減らすために、支給条件が厳しく、その受給の必要のある人を制限づけていたからです。国の財源も、まだ少なかったからでしょうか。

 昭和25年に、「生活保護法」が制定されました。それは戦後の新憲法で、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。(第3章25条1項)」の条文から、国民に生活を保護し、幸せを享受するために制定されたのです。

 結核にかかって、岡山の療養所に入所していた朝日茂氏は、その生活保護を申請し、毎月、生活扶助と医療扶助として600円を支給されていたのです。その金額で、生活をし、治療をしていくことは、その頃の物価水準からしても、とうてい生活をしていくことができなかったわけです。

 1957年に、所轄の福山市の福祉事務所に、給付金の増額を願い出ます。そうしますと、福祉事務所は、お兄さんに、毎月900円の援助をしてもらう様に、通告しました。そんな経緯で、国に対して、扶助の増額の訴訟を起こさざるを得ませんでした。

 あの頃、福祉事務所は、そういう対応したのです。親兄弟、親族の助けを求めました。もっと酷い場合は、それは笑うに笑えないのですが、受給者が、岸田さんなら、同姓の岸田さんに、生活の助けを求めるようなやりかたが、行政の指導だったそうです。そんな前近代的な扶助の時代だったのです。

 それを「朝日訴訟」と言って、大きな話題となったわけです。戦争が終わって、『この国に生まれ生活する私たちが、健康に、文化的に生きていくために、国が責任をとる!』と謳った「平和憲法」はあっても、実際の国民生活には、まだまだ不十分だったのです。

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 生活権を主張して、保護費の増額が、裁判所に持ち込まれた頃、今、即位されて天皇となられた徳仁さまのご両親が結婚をされた後、このお二人に、子どもが生まれ様としていた頃でした。福祉や社会事業に関わる方々が、心密かに願っていたことがあったのです。その「密かさ」の中に、切なる願いが込められていたわけです。

 それは不敬になることで、戦前では、決して許されないことだったのですし、平和憲法のもと、自由な雰囲気が立ち込める時代の只中でも、公にできないものでした。それだけ財源が乏しく必死な時代だったのかも知れません。でも、国庫にも、各行政府には余剰金は隠されていたのです。

 それは、『もし生まれくる皇嗣(こうし)が、障害を負って誕生されるなら、日本の福祉は、大きく変わっていくかも知れない!』と言う切なる願いでした。決して人の不幸を願うのではなかったのです。もちろん心身に不自由をもって生まれることが、即不幸というのではありませんが。『生活苦の朝日さんが、最低限度の生活が保障され、ある余裕をもって、病と戦いながら、幸せであって欲しい!』と願ったからでした。

 昭和35年2月23日に、男子が誕生され、徳仁と命名されました。五体健康で誕生されたのです。優しく、思いやりがあり、好感度抜群な徳仁さまでいらっしゃって、素晴らしい人格をお持ちです。皇后雅子さまやご息女の愛子さんに対する、やさしく思いやりのまなざしや行動は、実に素敵で、みなさんから愛され、尊敬を受けておられます。

 それだけ、当事者のみなさんは、必死だったということでしょうか。経済大国になって、世界でも有数の豊かな国となった今、戦後間もなく厳しい生活下に置かれたことが、嘘でもあるかの様に、社会弱者への労りが、今生まれようとしています。『生きることとは何か?』を、人と国家に問いかけた裁判でした。

 平和を掲げ、幸福を掲げた新憲法の誕生には、多くのクリスチャンが関わっていたのです。聖書の精神が、反映されて、憲法が誕生しているのです。わずかな数のクリスチャンたちが、この社会、この国の良心の礎となっているのは、感謝すべきことかも知れません。預言者ミカが記した神のことば、「公義を行う」ことこそ、国家、国政にあたる人たち、官吏に認められるべきことに違いありません。

(Christian clip artsによるイラストです)

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「初老ジャパン」と小朋友と

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 華南の街で生活を始めた最初の時期は、師範大学の寮に住んでいました。そこに住みながら、留学生たちのための語学学校で、フィリピン、インドネシア、マレーシア、イギリス、そして中国系のシンガポール人の同級生たちがいて、刺激し合いながら学んでいました。このシンガポールからの留学生は、家庭では、それぞれの中国の出身地(主に福建省からの人でしたが)の方言はできるのですが、いわゆる標準中国語は話したことがなく、そのために短期で学んでいた若者だったのです。

 しばらくして、その寮を出て、大学教員のために建てられた「師大新村」に住み始めたのです。お隣りは、退役の老教授の家で、息子さん家族と同居していました。幼稚園に通っているお孫さんがいて、外の庭の石の椅子で、とても難しい漢字を書く練習をしていたのです。日本の様に「ひらがな」がありませんので、そんなに早くから学ぶのです。おじいさんに教えられながら、宿題をしていました。

 彼のご両親は、奥さんのことを「老婆laopo」、ご主人は「老公laogon」と呼び合っていたのです。それで教会の中で、家内が、『我的老公・・・』と、私のことを話した時に、『それは使わないほうがいいですよ!』、『我的丈夫wodezhangfu』がよいのだと教わった様です。きっと、「旦那」とか「宿六」とか砕けすぎた表現だったからでした。

 「老」は、日本語では、年齢的なことで主に用いるのですが、中国語では、親しかったり、慣れているとか、長い間のといった意味で使う様です。それで、「親友」には、「老朋友laopengyou」と言っていました。

 最近の日本では、40歳になりますと、「初老」なのだそうです。平均寿命でしょうか、余命でしょうか、それがご婦人では87歳にもなっている現在なのに、そんな言い方があるのだそうで、自分は驚いてしまうのです。

 パリ・オリンピックのニュースが持ちきりの中で、一喜一憂しておいでの方が多そうですが、「若人の祭典」と言われるスポーツ競技大会ですが、参加するのは十代、二十代の選手がほとんどなのです。走ったり、投げたり、跳んだり泳いだりするのは歳を取ってもできますが、競技となると、そうはいきません。

 ところが、馬術競技だけは、その平均年齢が高いのです。馬との相性とか、経験の長さが要求される競技で、どうしても年齢が高い様です。今回のパリ大会の馬術団体で、日本チームが銅メダルを獲得したのです。かつて馬術競技は日本得意種目でした。

 1932年に、ロサンゼルスで、第10回大会が行われました。馬術の「グランプリ障害飛越競技」では、日本の西竹一中佐が、愛馬のウラヌス号に騎乗して、金メダルを獲得したのです。その時、西中佐は、30歳でした。次のベルリン大会にも、参加したのでが、そこでは入賞できずに終わっています。

 1945年2月、アメリカ軍の猛攻の硫黄島で、西竹一氏は42歳で没しています。ロサンゼルス大会での優勝を知っている、多くのアメリカ人に惜しまれた戦死だった様です。私の級友の戦死されたお父さんが、この西中佐の補欠で、オリンピックに参加していたと、彼が話してくれたことがありました。

 今回のパリ大会で銅メダルをとった馬術チームの平均年齢は、41.5歳で、最高齢は48歳だったのです。それででしょうか、彼らのニックネームが、「初老ジャパン」だっそうです。この「老」も、ただ年齢が高いだけではなく、経験の豊富さ、落ち着きなどを加味した意味合いで、自らそう名乗った様です。

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 年齢が高くなった自分も、経験は長いのですが、もう、最終盤の人生競技の段階にあるようです。こちらに来て、知り合ったご家族の一粒種のお嬢さんが、先週も遊びに来てくれました。小学校四年生になっているのです。家内の誕生日のお祝いにでした。お祝い品を持参して、お母さまと一緒でした。まだ、『遊ぼう!』気分で訪ねてくれるのです。まさに、家内と私の「小朋友xiaopengyou」なのです。でも、もう「老朋友」になるほどの間柄になっているのでしょうか。

(ウイキペディアによる西竹一中佐、バルーンで飾ってくれた写真です) 

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広島2024夏

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☆ビデオ IMG_2850(被爆記念の市電の様です)

 今日日、ウクライナやパレスチナで戦争が行われている最中ですが、1945年に、広島市に原爆が投下された79回目の今日は記念日です。先日、広島を訪ねた次男夫婦が、旅先から送ってくれた、広島市内の写真とビデオです。ハトが写ってるいるのが、とても印象的でした。また、復元された市電が、現役で運行されているのです。
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出て行って休みを得よ

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「主はこう仰せられる。「剣を免れて生き残った民は荒野で恵みを得た。イスラエルよ。出て行って休みを得よ。(新改訳聖書 エレミヤ31章2節」)

 人気を保つために、結婚を禁じられ、家庭を持たないまま、隠れた生活をしながら生きなければならない様に、強いられて、そんな慣習に縛られた、「アイドル」とされた男女がいます。心も体も休む暇のない人たちなのです。

 アイドルであるために、強いられた生き方を、大人たちにさせられて、人本来の幸せを満喫することもなく、無節操な世界に身を置いたのです。やがて、人気に翳(かげ)りが来ますと、表舞台から去って行き、噂にも上らなくなってしまうのです。もうすぐに、次のアイドルが誕生するのです。きらびやかであった銀幕や舞台のスターたちが、そう言った人生を歩む様子を見聞きしてきました。

 みんな大人の都合なのです。大人が生きていくための tool(ツール/道具、手段)、いえ収入源、生活原資を確保するための「ドル箱(円箱と言わないのが面白いですね)」として、人気取りの世界が蠢いています。次から次へ誕生しては、消えて行きます。〈夢を与える〉のに、夢を奪われて、惨めな結末で去っていくのです。

 モデルを勧められ、誘われたことも、ないではない自分ですが、その一見して輝かしく見える世界が、実は闇の世界だということを感じたからでしょうか、そに誘いにのりませんでした。あの日に、闇深い金づく、色づくの闇の世界に引きずり込まれないで、打ち勝てたのは、自分が強かったからではありませんでした。私をみちいてくださった永遠の御手であったに違いありません。

 芸術だと言いながらも、その内実は、名誉欲や肉欲や物欲の蠢く世界で、若い頃にあった輝きや注目は、年老いて衰え、無理な生活の刈り取りで、身体も心も病んで、人々に忘れ去られ、見る影もなく寂しく去って行った人たちが、数限りなくいます。いつの間にか、輝かしい舞台の上から消えてしまったのです。

 お父さんがしていた医者の跡を継がないで、芸能界で生きた一人のスターがいました。映画の世界で、若い頃に、とくに輝いていました。しかし最後は、私が住んでいた街の隣街で、病んで、孤独の内に亡くなってしまいました。往年の大スターでした。上の兄の二級ほど上の年齢でしたが、その70年ほどの生涯は、実際には孤独だったのです。虚構や嘘の世界で、自分でない他人を演じるというのは、観る人には娯楽であっても、演じる人は矛盾を抱えて生きさせるのでしょう。自分を失ったに違いありません。もちろん全ての俳優が、そうだとは言えません。立派な人格者もおいででした。

 子どもの頃、街の空き地に、小屋がかけられ、チャンバラの時代劇が演じられていました。男がお白粉で化粧をし、赤い口紅をつけ、黒いクマを目の周りに塗って、かつらをかぶって、尻っぱしょりの着物で、各々、役を演じていました。客席からは、演じる役者の名が呼ばれ、お囃子が流れ、太鼓が打ち鳴らされ、投げ銭が飛んで、全く別世界がありました。

 農耕に疲れた村人が、農閑期に、しばしの休みと、近郷近在から呼び集められ、そう高くない木戸銭を払って、夢の様な舞台を眺めて、娯楽を楽しんだ名残が、銀幕の映像が映し出された映画に変わったていったのです。

 その映画に、小学生の私は、魅せられてしまったのです。父が転校した旧制中学校に、何級か先輩で、有名な映画俳優がいました。そんな親近感があったからでしょうか、その出演映画が観たくて、隣街の映画館に、週末になると、弟を誘って出かけたのです。チャンバラ映画です。

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 それに、若くて、これからの映画界を背負って立つ、俳優たちを観たくてでした。ところが、その多くの方が、若くして亡くなってしまいました。無理が原因してなのでしょうか、不摂生な生活を強いられ、奢侈贅沢な生活が続いて、ついに心も滅ぼしたのか、身体を壊し、夢を売ったにしては、ご自分としては、ずいぶんと不幸な一生だったのです。

 一度だけでしたが、ある仕事を頼まれて、あの映画俳優や舞台俳優や歌手が、スポット・ライトを当てられて、舞台の上に立ち、歩む姿をライトで追われる様な中を、歩む経験をしたことがありました。そのライトを当てられた時、舞い上がる様な高揚感に包まれたのです。まるでマジックにかけられたかの様でした。人々が客席にいて、自分だけが一人、脚光を浴びていました。

 あの気分を味わった私は、一度だけだったのは良かったと、つくづく思うのです。あの舞い上がる様な気分は、今でも忘れられないからです。常にそんな立場にいたら、スポット・ライトが当てられなくなって、銀幕や舞台から去った後の落差は、如何ばかりに大きいいことだろうかと思えたのです。

 スーパーマーケットで働きながら、二足の草鞋(わらじ)、三足の草鞋を履きながら、家内と二人で、教会の用と子育てをした日々を思い返し、感謝が尽きないのです。真夜中に、スーパーやコンビニの床清掃もしました。学校に行っていた頃、外資系のホテルのバイトで、ポリシャーを回した経験もあって、それで請け負ったのです。

 たくさんの方々の助けで、その事業を始めましたら、『他の支店もして欲しい!』とか『コンビニでもして欲しい!』と頼まれ始めましたが、会社組織は作らなかったのです。自分に与えられている時間を、正しく管理する必要を感じていたからです。それでバイト感覚でやり続けました。子どもたちの教育費をそれで捻出したのです。20年近く、それを続けたでしょうか。使徒パウロが、天幕づくりをしながら、宣教活動をしたのに倣って、清掃の仕事をしたことは感謝でした。

 そうやって、伝道者として過ごした日々を思い返して、決して guilty (罪悪感でしょうか)に責められることなないのです。その働きが、社会的に評価され、感謝されたからでもありました。家に帰って来た子どもたちも、一緒に働いて、助けてくれ、子どもたちの学業が終わる頃には、その事業も終わったのです。

 まさに「万事あい働きて益」であったと感謝したことです。「わが生涯に悔いなし」と今、深く思わされております。ワックスの注文を忘れてしまった夢を、今でも、時々観るのです。そんな私で、もう何もしない様な今も、あの頃と同様に感謝が溢れ、喜べるのです。

 オランダの歴史学者のホイジンガーが、「労働と遊びの両立」を、その彼の著書で言っていました。月に2度、真夜中の労働は、実は辛かったのです。でも親の責任を果たすために、また同労の働き人の生活援助のために、献金のためにも頑張れたのです。疲れ切って、白む朝を迎えた日々が懐かしく思い出されます。

 その街には、山際に日帰り入浴施設が多くあって、川の対岸の壁に、ぎっしりと氷柱が下がっていた温泉もありました。あの湯につかりながら眺めた光景は、感動的で忘れることができません。ちょうど真冬の季節の厳冬で、凍てつく日が続いていた日だったと思います。春の新緑、秋の紅葉、自然に触れて力付けられた、あの一息つく時々、「遊び」があって、生活にリズムや休息が与えられていたことになります。けっこう質の素敵な生き方だったかなと、そんなことを思い返して、自負している今であります。

(ウイキペディアによる熊本の古閑の滝の氷柱、チャンバラごっこです)

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もう赤とんぼや鈴虫が

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『あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。(新改訳聖書 伝道者の書12章1節)』

 それでも、もう赤とんぼが、ベランダの朝顔の葉やなでしこの花の間を飛ぶ様になり、夜間は虫の声もする様になっています。どんなに暑くても、季節の移り変わりが感じられるのは、今年は、救いの様に思えてしまいます。

 間もなく、甲子園の熱戦が始まりますが、高校野球連盟の報告(硬式野球)は、次の様です。今回は、第106回の大会で、甲子園への出場校数は、49校です。

 『本日、富山県で全国最後の地方大会組み合わせ抽選会が終了し、今大会の参加チーム数が、3,715校3,441チーム(昨年3,744校3,486チーム)で確定しました。

参加チーム数は、抽選会に参加したチーム数を集計したものです。

今回、最も参加校が多いのは愛知の173チーム、次いで神奈川168チームで、大阪の155チーム、兵庫の152チーム、千葉の148チームで、全国10地方大会で参加チームが100チームを超えており、最も参加チームが少ないのは鳥取の22チームです。

また、『統廃合の特別措置』による連合チームは8校4チーム、部員不足による連合チームの参加は403校133チームです。(7月5日付)』

と報告されています。私が、高一だった1960年は、参加校は、1903校、出場校は30校、優勝校は法政二高(神奈川県代表)でした。東京都の予選は、東西に分かれる以前でした。高三だった1962年は、参加校1996校、出場校は30校、北関東代表(栃木県と群馬県)の栃木県宇都宮市の作新学院が優勝しています。プロ野球で活躍したエースの八木沢壮六が赤痢にかかり、急遽控えの加藤斌が投げて優勝した年でした。加藤は、上海で誕生しています。

 今年は、地元の栃木県県予選の試合を観戦しましたので、県代表になって出場する、県立石橋高校を応援したいと思っています。自分の高校時代は、公立校の参加校での比率が高い時代でしたから、今と比べ隔世の感がします。でも、予選で敗退した学校、複数校の混成チームでの参加校、参加してもレギュラーになれない控え選手、応援席で応援する選手たちをひっくるめて、高校野球が成り立っています。脚光を浴びない競技の選手、文化部の部員、活動不参加の高校生、高校に行かないで働いたり病んだり悩んだりしている人たちだっています。

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 みんな一回きりの青春の一コマを生きているのです。頑張らなくてもいいから、一瞬でも輝いた時を過ごして欲しい、と願う私です。ボールに石灰を塗って、ボールを投げ、シュートしていた陽が落ちた薄暗いグラウンドで、隣で練習していた野球部は帰ってしまっていても、自分たちだけが練習していていました。空きっ腹で嗅いだ、近所の夕餉(ゆうげ)の秋刀魚を焼く匂いと煙が懐かしく思い出されてしまいます。

(“いらすとや”の鈴虫と焼き秋刀魚です)

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人生の節目も見つめて

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 朝起きて、熱っぽくて、フラフラするので、母に聞かれて、『具合が悪い!』と言うと、『今日は、学校は学校は休みなさい!』と言われて、三年生くらいまでは、そんな朝を、多く迎えていました。咳がひどく出ると、母は私を連れて、電車に乗って、隣町の国立病院の小児科に連れて行くのです。

 診察を終えると、粉薬と水薬を二種類処方されて、持って帰ったのです。乗り降りしたz駅の近くの店で、made in USA🇺🇸のホシブドウ、キャラメル、チュウイングガム、チョコレートなどの内、一つを買ってもらって、電車に乗って帰りました。肺炎にならないで、家でしっかり休むようにと、また病院に行ったご褒美だったのです。

 学校に行けず、起きてる時は、NHKのラジオ放送を聴いていたでしょうか。名演奏家の時間、ひるのいこい、たずね人、引揚者の消息などの放送があったのです。夜は、落語や浪曲や歌謡曲やクイズの番組もありました。お昼のニュースの後の「ひるのいこい」では各地の農林水産委員の便りが読まれ、それが何処かを母に聞いたりして、まさに〈ラジオっ子〉だったことになります。

 出掛けないで、家で布団に寝て、天井を見上げていると、木目(杢目/もくめ)の間に、「節(ふし)」があるのですが、それがだんだんと大きくなっていくのです。熱にうなされているからでしょうか。そのうちにウトウトと浅い眠りに落ちていくのです。この節目は、木の幹から出ている枝があった部分が、製材すると木板に、枝の跡の節目が残っているのです。

 ところが、竹にも節があるのですが、この節は違うのです。空洞の竹が、風に吹かれても倒れたりしないで、持ち堪える役割も担っているのです。散歩道のコースの一つに、竹林があります。それほど広くはないのですが、巴波川の土手の下にあって、春先には筍が見られることもあります。木には、幹から枝が伸びる箇所に、「節」があるように、また竹にも節がある様に、自分の人生にも「節」とか、「節目」があった様に思うのです。

 それって、意味のある出来事と言うよりは、人との「出会い」だと思えるのです。家族はもとより、素敵な意味のある、数々の出会いがあったようです。主治医の牧先生、初めて褒められた小学校の内山先生、近所の出身の宇津井先生、社会科の面白さを教えてくれた佐藤先生、叱らずに激励してくれた中学校の三年間の担任の大机先生、一緒に発掘をした考古学班(高等部の教師)の指導の夏木先生、高校の西川先生、大学の天川先生(ゼミ担当)、悪戯小僧の私に、おどろくほどの忍耐をして、諭してくれた教師方との出会いに恵まれたのです(みなさん匿名です)。

 夏木先生は、就職先を紹介してくれたのです。就職先の尾崎所長、この方が、次の就職先を紹介してくれました。なぜか面倒みの好い先生で、ご自分のお弟子さんが、短期大学にいて、教務部長をされていたのです。そのコネで、教師にさせていただいたのです。何か孫弟子のように接してくれたのです。そして、母の教会のアメリカ人宣教師が、その教会を、私の兄に任せて、この私を、開拓伝道に誘ってくれたのです。

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 パウロがテモテを助手にして、やがて教会を任せた事例に倣って、Man to manで訓練をしながら、8年間養成してくださったのです。アメリカから神学校や聖書学校の教師を、たびたび招いては、特別講座を開いてくれたのです。同級生が、3人ほどいたでしょうか。その訓練は、聖書的な伝道者の養成法だったのだと思い返します。

 在京の正規の神学校でも、講義を聴講をさせてもらいました。そう言った私塾的な訓練法を見て、ある方が、神学大学で学ぶように勧めてくれました。家内を、ご自分が責任を持つ教団の教会が経営する保育園で働きながら、私に神学校に学士入学するように勧めてくださったのです。でもお断りしてしまいました。

 伝道者は、単位を履修したから資格があるのではなく、救霊の重荷を持つ者が、聖霊に導かれて、主の弟子になり、主の羊のお世話をさせていただく務めだち学べたからです。私たちを教え、養ってくださったみなさんは、宣教の志を、主から与えられて、テキサス、ジョージア、イリノイなどからやって来られたのです。

 もう主のもとに帰られていますが、この方々の残したことは、過小評価できません。多くを教えられ、学んだ日を思い返して感謝ばかりです。あの人この人、あの時この時、あんなこんなことがあっての今です。このみなさんと、再会の時が定められていると思いますと、一体、どんな交わりがあるのだろうかと、はるかに思っている私です。

(ウイキペディアによる木目と節目、Christian clip arts のパウロです)

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到来葉月

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 8月1日の朝です。ベランダに今朝、咲いている花々です。朝顔は、三輪だけ開きはじめ、その後開きました。

 今月は「葉月(はづき)」と言われてきましたが、暦の上では「秋」で、紅葉や落葉の「葉」を言っていますから、灼熱の太陽、茹だる様な大気、煮えている様に感じる噴水、水遊びもお湯遊び、砂漠の漠々した様な暑さですが、もう秋が考えられる月になっているのも本当なのです。

 夏が来れば思い出すのは、家内、次兄、長女、次男の誕生月、誕生日なのです。このところ冷やしビーフン、米粉の皮なし餃子を作って、食べています。けっこう美味しいのです。健康第一、身体髪膚これを創造主から受けていますので、この八月も過ごさせていただこうと願っています。祝福を、みなさんの上にお祈りします。

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