華南の街で生活を始めた最初の時期は、師範大学の寮に住んでいました。そこに住みながら、留学生たちのための語学学校で、フィリピン、インドネシア、マレーシア、イギリス、そして中国系のシンガポール人の同級生たちがいて、刺激し合いながら学んでいました。このシンガポールからの留学生は、家庭では、それぞれの中国の出身地(主に福建省からの人でしたが)の方言はできるのですが、いわゆる標準中国語は話したことがなく、そのために短期で学んでいた若者だったのです。
しばらくして、その寮を出て、大学教員のために建てられた「師大新村」に住み始めたのです。お隣りは、退役の老教授の家で、息子さん家族と同居していました。幼稚園に通っているお孫さんがいて、外の庭の石の椅子で、とても難しい漢字を書く練習をしていたのです。日本の様に「ひらがな」がありませんので、そんなに早くから学ぶのです。おじいさんに教えられながら、宿題をしていました。
彼のご両親は、奥さんのことを「老婆laopo」、ご主人は「老公laogon」と呼び合っていたのです。それで教会の中で、家内が、『我的老公・・・』と、私のことを話した時に、『それは使わないほうがいいですよ!』、『我的丈夫wodezhangfu』がよいのだと教わった様です。きっと、「旦那」とか「宿六」とか砕けすぎた表現だったからでした。
「老」は、日本語では、年齢的なことで主に用いるのですが、中国語では、親しかったり、慣れているとか、長い間のといった意味で使う様です。それで、「親友」には、「老朋友laopengyou」と言っていました。
最近の日本では、40歳になりますと、「初老」なのだそうです。平均寿命でしょうか、余命でしょうか、それがご婦人では87歳にもなっている現在なのに、そんな言い方があるのだそうで、自分は驚いてしまうのです。
パリ・オリンピックのニュースが持ちきりの中で、一喜一憂しておいでの方が多そうですが、「若人の祭典」と言われるスポーツ競技大会ですが、参加するのは十代、二十代の選手がほとんどなのです。走ったり、投げたり、跳んだり泳いだりするのは歳を取ってもできますが、競技となると、そうはいきません。
ところが、馬術競技だけは、その平均年齢が高いのです。馬との相性とか、経験の長さが要求される競技で、どうしても年齢が高い様です。今回のパリ大会の馬術団体で、日本チームが銅メダルを獲得したのです。かつて馬術競技は日本得意種目でした。
1932年に、ロサンゼルスで、第10回大会が行われました。馬術の「グランプリ障害飛越競技」では、日本の西竹一中佐が、愛馬のウラヌス号に騎乗して、金メダルを獲得したのです。その時、西中佐は、30歳でした。次のベルリン大会にも、参加したのでが、そこでは入賞できずに終わっています。
1945年2月、アメリカ軍の猛攻の硫黄島で、西竹一氏は42歳で没しています。ロサンゼルス大会での優勝を知っている、多くのアメリカ人に惜しまれた戦死だった様です。私の級友の戦死されたお父さんが、この西中佐の補欠で、オリンピックに参加していたと、彼が話してくれたことがありました。
今回のパリ大会で銅メダルをとった馬術チームの平均年齢は、41.5歳で、最高齢は48歳だったのです。それででしょうか、彼らのニックネームが、「初老ジャパン」だっそうです。この「老」も、ただ年齢が高いだけではなく、経験の豊富さ、落ち着きなどを加味した意味合いで、自らそう名乗った様です。
年齢が高くなった自分も、経験は長いのですが、もう、最終盤の人生競技の段階にあるようです。こちらに来て、知り合ったご家族の一粒種のお嬢さんが、先週も遊びに来てくれました。小学校四年生になっているのです。家内の誕生日のお祝いにでした。お祝い品を持参して、お母さまと一緒でした。まだ、『遊ぼう!』気分で訪ねてくれるのです。まさに、家内と私の「小朋友xiaopengyou」なのです。でも、もう「老朋友」になるほどの間柄になっているのでしょうか。
(ウイキペディアによる西竹一中佐、バルーンで飾ってくれた写真です)
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