時間や瞬間の「間」が

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 『勤勉な人の計画は利益をもたらし、すべてあわてる者は欠損を招くだけだ。(箴言215節)』

 この絵は、下村観山(1873年に和歌山市に生まれ横山大観らと共に日本美術院を創設した人です)の描いた「鵜」という題です。本当の絵はこれよりも大きな画面で、その左下に一羽の「鵜」が描かれているだけなのです。これも日本画の「間(ま)」のある画なのです。大きく羽ばたくように描かないで、空と海の間に位置する一羽の「鵜」の存在が、「間」を生かし、「鵜」が、「間」を生かしている、ものすごい画なわけです。

 「間延び」と言う時間の制止と動きとの間に、「間」があって、それが長過ぎてしまうのを、そう言うのでしょうか。楽観的な人の生き方、動きなどに、そう言った焦らないで、待つような、やり過ごすような「間」があってよいのでしょう。

 「欠損を招くだけ」と聖書が警告しているような生き方のせっかちな私と違って、急がないでゆっくりと、考えながら行動したり、決断する家内の生き方が、今では一番よいと思えるようになってきました。愚鈍な、呑気な、様子待ちの生き方は、四人の男兄弟で育った私には、そんな生き方をしたら置いてけぼりで、おかずをみんな、兄弟たちに食べられてしまうので、食べ急ぐ間に、せっかちの度を上げてしまったのです。

 今朝も鏡に映る顔を見ると、そんな若い頃とは違って、少々間延びをしたような、容貌の作りに変わってきているのが、よく分かります。キリキリして生きていた若い頃は、せっつかれているようで、緊張度が高かったなあと思い出しています。もう、急ぐ必要もない、単調な生き方の許される〈黄昏時〉を迎えて、夕日が伸びていくように、生き方自身が、「時間」に追いかけられたりすることもなく、人に急かされたりしないので、のんびりできていいものです。

 そんな中、「間の美学〜日本的表現〜(末利光著、三省堂選書)」を、図書館から借り出して読んでいるのです。著者の末氏は、NHKのアナウンサーを長年された方で、喋りの巧手という方です。1929年の秋季の六大学野球・早慶戦中継のアナウンスで、『夕闇迫る神宮球場、ねぐらへ急ぐカラスが一羽、二羽、三羽・・・』との語りで有名を馳せたアナウンサーに、語りの「間」の重要性を学んだのだそうです。

 そう言えば、語りの名手の森繁久彌も、元アナウンサーで、旧満州の放送局に勤務されていて、歌も語りも、この人の「間」には魅力がありました。様々な社会の分野にも、この「間」があって、それが実際に効果をあげたり、ゆとりをみせたりしているのだそうです。

 「刑事」の項目で、次のように述べています。『犯罪捜査にも間やリズムがある。事件が終わってみると、それがよくわかる。やたらと焦って追いかけてみても駄目。時として、犯人を泳がせてみることも必要。(誘拐事件では、あえて警察が報道陣に申し入れをして、しばらく報道を差し控えて欲しいということがあります。この間に、犯人の動きを待って、取り押さえようとします。新聞やテレビに出ると、犯人が誘拐した人間を殺してしまわないとも限らないからです。息の詰まるような駆け引きです。「わが社では、事件発生を知っていましたが、人命尊重の立場から、あえて報道をしませんでした。」というのがそれです。』

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 「老い」とは、締めくくりであって、「間」ではなさそうですが、「間」だらけになってしまったようで、ないだ波の港に曳航されてきた老朽船のような思いがしています。市の入浴施設が、6キロほど西にあって、朝10時からでしたので、道の駅での買い物のついでで、出かけてきました。きれいなお湯に、一時間ほど浸かって、延びた「間」を過ごしたのです。

 やがて、待ち望んできた「瞬間」が来るのです。永遠への序曲が奏でられ、その世界への約束が実現間近なのでしょうか。考えもしなかったような時が巡ってきて、そんな老いを生きられて、もう怠けているように思うことも無くなったのです。

 11の講座のある市民教養大学に申し込んで受講中です。先週末は、「まちぐるみで認知症高齢者を支える」という一般公開の講座で、獨協医科大学・日光医療センターの脳神経科の渡邊由佳医師の講演がありました。「間」を、意味のある生活をしていけるようなお話でした。

 これまで、学校と教会とで、長く話す仕事をしてきましたので、上手に話すのは、経験が与えてくれることですが、話の「間」が大切だというのが学んだことかも知れません。立板に水よりも、「間」を置いて話す方が、聞き手には好いようです。祈りも説教も、ちょっとした「間」があると、聞いてくださる神さまも、ホッとされるかも知れません。

 今は、ことば、意見、思想、チャット、小声、大声などが洪水のように溢れかえっている時代です。表現の自由が、溢れて、こぼれ落ちている感がします。世の中が、早口言葉のように、speed up してしまい、止まることも、休むこともなくなっているので、かえって「間」が必要になっているのではないでしょうか。

 聖書の「詩篇」と「ハバクク書」に、「セラ」が出てきますが、私たちの母教会を訪ねてくださった聖書教師が、説教の中で、『セラは小休止の意味と思われます。』と教えてくれたことがありました。まさに、それこそ、神の定めら、私たちに求めておられる「間」なのではないでしょうか。

( 下村観山」の「鵜」、「四分休符」です)

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