明治の風を感じて

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 長野県や山梨県の様子は、よく知っていたのですが、今夏初めて、栃木県の県北の那須地方に、帰国中の長女の運転する車で、出かけてみました。家内の出た学校の恩師が開校した農業センターを見学したかったからでもあったのです。そこは緑があふれる農場に水田が広がって、自然農法の実践をされ、アジアやアフリカから研修生たちがおいででした。

 訪ねた地には、原野が変えられて、新しい世界が目の前に広がっていたのです。かつては、水利がなくて、茫茫たる扇状地で、原野であった那須野が原に、薩摩藩士だった三島通庸が注目をし、栃木県令になると、那須野が原の開墾に着手します。幹線道路の整備や農業用水や飲料水のための疏水敷設に事業を開始したのです。1885年に、那珂川からの疏水が完成すると、水利を得た原野は、見違えるほどに肥沃な原野に変えられていきました。

 その三島は、維新政府から貸し出された地に、欧米式の大農場を実験的に開拓し、三島農場を興します。それに倣って、ドイツの貴族地主の生活に憧れた、青木周蔵(長州藩出身)も、山林経営を主体とする青木農場を開設して行きます。その他にも、明治維新政府の要職にあった、明治の元勲たちは目を向けたのです。

 薩摩藩(大山巌も農場経営をし煉瓦造の別邸を設け、松方正義は千本松農場を設け、西郷従道も農場を経営してます)、長州藩(乃木希典は質素な別邸を作り、佐賀藩(佐野常民も農場経営をしています)、鍋島藩(藩主であった鍋島直大も農場開拓をしています)などの出身者たちは、欧化主義に思いを向けて、公務の傍ら、次々と大農場経営に力を注いでいったのです。

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 薩摩や長州では見られないような、おおきく広がる原野は、きっと魅力的だったのでしょう。しかも新政府のお膝元の東京には、道路整備をし、鉄道を敷設するなら距離的にも近かったこともあって、開拓に拍車がかかったようです。そして政務に追われる元勲たちの休暇を過ごす、別荘ができ上がっていき、皇室の御用邸も建設されていくのです。

 山中湖や富士市などに、欧米や北欧から宣教にやって来られた宣教師のみなさんの別荘がありました。一度だけ、兄が貸していただいた、その別荘を利用させていただいたことがありました。遠慮がちな、山小屋のような、祈りの家のようで、別荘といっても、明治の元勲たちの豪奢な別荘とは比べものになりませんでした。

 私たちの群れで開拓伝導をされた宣教師さんたちは、本国に帰ることも、極力少なくし、手紙でミッションレポートをすることもなく、淡々と宣教活動をされておいででした。借家の住宅兼礼拝所で育ったお子さんたちは、今は、それぞれに宣教の業に携わっておいでです。また私たちを導いてくださった宣教師さんは、水洗便所ではない家に住み、庭に子どもさんたちの部屋兼教室を増築して、そこで礼拝もしていました。

 娘が、那須でご馳走してくれたお昼は、格別でした。緑の木々や草花の中のレストランで、珍しく贅沢をさせてもらったのです。日常を離れ、都会を離れた那須の地に、吹き渡った明治の息吹に触れられた時でした。もう明治の遺産は、人手に渡り、公社などに替わり、ところどころに明治の建造物が残されていたのです。

 高台から眺めた那須野が原は、自然が溢れ、ちょっとヨーロッパの風景を感じさせるようで、先人の苦労を感じたのです。でも、冬季は寒いのだそうで、ここに住み始めても、長続きしないと、この地の出身の知人が言っておられました。

(「那須疏水」、那須野が原に咲く「クリスマス・ローズ」です)

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