真砂女は、生まれ育った海浜の故郷に帰って、正月を送ったのでしょう、海の香、潮の香に懐かしく触れた思いを詠んでいます。潮風が、潮騒が過ぎ去った幼き日の出来事を思い出させてくれたに違いありません。真砂女の故郷は、千葉鴨川で、大きな旅館の娘だったそうです。
私の父は横須賀、昔は漁村だったのでしょうが、明治以降は軍港となり、海に面した街の出身です。母は出雲、旧国鉄の駅からほど遠くない地方都市の街で育ちました。そして私は中部山岳の山の中、山と山がせめぎ合った奥深い、神社の参道にあった旅館の離れで生まれた、と親に故郷を知らされていました。何度かその家の前を車で通り過ぎましたが、何度目にかは、家屋は倒壊してしまっていました。
吹き下ろしてくる風に揺れる葉の音、参拝客の靴の音がし、山影ですから降り積もった雪は、溶けなかったことでしょう。沢違いの村に越して、そこで小学校入学から一学期が終わるまで過ごしました。その光景を覚えています。策動を動かすモーターの音、家の前の沢の水音と魚影、木材を運び出すトラックの砂埃、小学校の鐘の音、LALA物資の脱脂粉乳の臭い、家の裏から林を超えて山に通じる道、陽の光も風の匂いも記憶の中にあります。
そこから越して住んだのが、東京都下の八王子でした。浅川にかかった大和田橋、甲州街道の橋のたもとで、鉄製のベーゴマを磨く、すぐ上の兄の横で、真似してベーゴマを磨いていました。そこに、日本自動車の工場から、試験運転する米軍に納品するトラックがUターンして戻って行くのでした。戦争中の高射砲陣地があって、そこに連れて行ってもらったこともありました。一、二度、立川の飛行場に着陸しようとした米軍戦闘機が、家の近くに落ちて、その残骸を見に行ったり、拾ったりしたこともありました。
そこに一年いて、隣町に越しました。木製の駒やベーゴマを回したり、凧を揚げたり、そり遊びをしたり、鬼ごっこや馬跳びや馬乗りや陣取りなどに興じました。男兄弟で喧嘩をし、弟をいじめ、上の兄に殴られ、学校に行っても喧嘩をし、悪戯をしては廊下や校長室に立たされたのです。正月の空は抜けるように高くて、澄んでいました。父がいて、母がいて、兄たちや弟が、何時でもいました。
父が四角く几帳面に切った餅を七輪で焼いた餅を、母が小松菜と鶏肉で醤油味の関東風に仕立てたお雑煮を、来る正月ごとに毎年、お腹がふくれるほど食べました。暮れに母が煮て作ってくれ、重箱やお皿に盛られた「オセチ(御節)」が、美味しかったのです。伊達巻、かまぼこ、暮れに決まって母の故郷から送られてきた野焼きがありました。その他に、ごまめ、黒豆、数の子、大根と人参のなます、栗きんとん、昆布巻き、筍や蓮や里芋などの煮しめ等々、高級なハムもあったでしょうか。農家ではなかったのですが、それを食べて正月を過ごしたのです。
子どもの頃は、そんな「三ヶ日」だったのです。子育て中、家内もよく「御節」を作ってくれました。何時でしたか、暮れの弟からのメールに、『賀状を書き上げたので、これから御節を・・・・』と言っていました。義妹が亡くなって何年になるでしょうか、独り身で3人の子を育て上げ、御節まで作っていたのです。
すでに退職し、週二ぐらいで顧問として、長く働いた学校に出勤し、若い教師の指導に当たっています。さらに、もうずっと、青少年の街頭指導をしているのです。去年の暮れには、内閣府から表彰されています。75歳までやるそうです。そして、ホームスクールの教師を、もう何年も続けています。元旦には、孫たちにお年玉を上げたいと、姪と一緒に訪ねてくれ、娘たちの作ってくれた御節を、美味しそうに食べてくれ、昼食と夕食をともにしました。
(今の家の巴波川を挟んだアパートの屋根の上の白鷺です)
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