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「職人」、もう少し適格な日本語表現をすると、「匠(たくみ)」ですが、その「匠の技」を見たことがあります。日光東照宮や二条城などでの建造物ではなく、東京都下の農家の屋根裏に上がった時に、この目にした時でした。屋根裏の骨組みをなしている建築材(母屋〈もや〉)が、真っ直ぐではなく、自然の曲がりのまま使われていて、その曲がりに合わせて、屋根を支える縦の木材(小屋束〈こやづか〉)が、「枘(ほぞ)穴」に、「枘」が寸分の隙間もなく組み込まれていたのです。
建て売りの家の普請しか見たことがなかった私は、すっかり驚いてしまったのです。宮大工でもない、二百年も、いえ、もっと前の、田舎の村で名前などないに等しい大工さんが、それほど精緻に大工仕事をしていたことに、驚いたのです。そこは見られることなどない隠れた箇所であって、興味深い私の様な者でなければ、見ようとしない陰の部分でした。
小学校を過ごした街の通学路に、二軒の桶屋がありました。プラスチック製品など無い時代でした。風呂桶や手酌や寿司桶などを、何種類もの独特な鉋(かんな)や鋸(のこぎり)や鑿(のみ)などを使って、板床に座り込み、木屑にまみれて作業をしていたのです。水を張ると、一滴の水さえ漏れない様な作業をしていました。檜の木の匂いが好きで、座り込んでは、おじさんの手の動きを眺めていたのです。
出来上がった、この方の作った桶を、わが家でも風呂桶に使っていたのです。井戸水を、ポンプで汲み上げて、薪で沸かして柔らかく揉まれたお湯が気持ちよかったのです。ただの大工のオヤジ、桶屋のオヤジの磨き上がった手の技は、子どもの私にも、興味が尽きませんでした。工場で大量に作るのではない、コンピューターなんかない時代の手作業の「匠の技」には、度肝を抜かされてしまったのです。
地球の位置は、どうでしょうか。太陽の熱量の恩恵は、絶妙な距離に保たれているのです。もう少しでも近ければ、金星の様に砂漠化してしまいます。遠ければ火星の様に凍りついてしまうに違いありません。地球の重力の大きさも重要です。重力が小さ過ぎると、月のように無重力になり、不毛の地になってしまうのだそうです。また大き過ぎると、木星の様に、生命体がいたとしても、有毒ガスが発生して窒息してしまいます。
まさに絶妙なバランスに、宇宙はあるわけです。そのバランスには、知恵があり、計画があり、目的があるのです。家や桶や鉋に作り手があるなら、それらに勝る地球や太陽系や宇宙に、「造り手」がいないはずはなさそうです。桶屋のおじさんは、独特な寸法を測る道具を持っていて、驚くほどに研ぎすまされた技を持っていました。地球は、《何をかいわんや》です。
今年も、この地球の上で、時々、揺れ動く日本で、このところ想像を絶する様な量の暴雨が降り、エアコンの効かないほどの暑さに見舞われそうですが、「正宗の職人」の「匠の技」、「創造の業」の上にある安心感は、まだまだ大丈夫で、持ち堪えそうです。
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