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迎えた新しい2020年、私はどんな人と出会うのだろうか、どんな時を過ごすのか、どこに行くのか、何が起こるのか、ワクワクしたり、驚いたりするのだろうと、寝床の上で、年明けの今、考えています。
人には、先が知らされていないのが好いのだそうです。将来が誰の前にも、秘密にされて見えないわけです。もちろん願いや希望はありますが、人はそうやって生きて来たわけです。
私の誕生に関わった両親、その両親から生まれた二人の兄と、ひとりの弟のいる家族の中で育ったこと、終戦間近の暮れに、父の赴任地の山奥で生まれたことは、全部偶然ではなく、なるべくしてなった必然でした。それから年を重ね、多くの人と時と出来事と出会い、自分の意思だけではなく、何か大きな力に押されたり、引かれたりして生きて来ました。
昨年末、新しく住み始めた家、親元に、長女夫婦が帰って来ました。翌日、次女家族四人が続いてやって来ました。長男は、嫁御の実家に帰る所だと、高速道路のサーヴィスエリヤから連絡があり、正月四日にはやって来ることになっています。次男も、嫁御の実家で正月を過ごして、ここに来ると電話してくれました。彼らの親になったことも、育てたことも、不思議な出会いであり、配剤だったに違いありません。
私に最高、最善の伴侶が与えられ、次々と生まれて来た四人の子どもたちと一緒に、同じ家で過ごし、同じものを食べて、家族として、同じ空の下で過ごし、時至って、それぞれに彼らが独立して、各自の人生を生き始めて行ったのです。親子や兄弟や結婚の絆とは、不思議さ、言い知れない導きがあったと思い返してます。
私の学んだ中学の校長が、『離合集散常ならず!』とよく、全体朝礼の講話で言っていました。人、時、出来事の出会いや別れは、不可思議な力に押されたり、引かれたりしていると教えられた通り、今を迎えています。
私の愛読書に、『見よ。わたしは新しいことをする!』とあります。繰り返されることではない、《真新しいこと》、これまで経験したことのないことが起こると言うのです。《新しい人》、《新しい時》、《新しい出来事》との出会いがあるのです。
これまで、そうであった様に、喜んだり、あるいは悲しんだりするのでしょう。それら全てをひっくるめて、人の一生があるわけです。臆せず、慌てず、意気阻喪しないで、喜び、躍り上がったりもするのでしょう。あらゆる境遇に対処する秘訣を身につけ、人生の機微を楽しみ、耐えて生きたいものです。
みなさんの今年が、意味や価値のある一年であります様に。健康も病気も、出会いも別れも、それらを引き受けて、助けられ、励まされ、また叱責されたりして、何でも起こりうる人の世で、すべてのことを感謝して、「温故知新」で生きて行きたいものです。フランクルが言った、『それでも人生にイエスと言う!』、そんな一年を生きたいと、空(から)の巣に帰って来、帰って来ようとしている子たちを、家内と共に迎える正月です。
(福寿草です)
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