義兄

 もう何年前になるでしょうか、アルゼンチンで、日本の企業人を招いて、「企業研修」が行われました。私の上の兄も同業者でしたので、彼に誘われて参加をいたしました。それは実に長い飛行機の旅だったのです。東京から、カナダのトロントに行き、乗り継ぎの事情で、そこでしばらく市内見学をしました。その後に、ブラジルのサンパウロに向かったのです。サンパウロから、再び乗り換えてアルゼンチンの首都ブエノスアイレスに到着したのは、東京を発ってから35時間後だったと記憶しています。年配者もいましたから、旅の疲れは、研修どころではなく、12時間の時間差、南半球といった旅先に慣れるには、数日を要したほどでした。トロントで一泊し、それからブエノスアイレスに向かったら、これほど疲労困憊することはなかったのではないと思ったのですが、後の祭りでした。まだ若かった私でしたが、「眠気」に、あれほど襲われたのは初めてのことでした。

 実は、18の時、アルゼンチン移住を夢見ていた時期がありました。「日本アルゼンチン協会」から、パンフレットを取り寄せて、眺めていましたら、ラテンの国の情熱が伝わってきて、まだ見ぬ国、南十字星の見える南半球に、『行く!』と決めたのです。決定的だったのは、メンドサという街の紹介の中に、アルゼンチン美人が、手招きをして『おいで!』をしていたのです。18の私は、いっぺんに頭に血が登ってしまったのでしょうか、心に決意し、スペイン語を学び始めたのです。彼女に会ったら、スペイン語で求愛しようと準備したのです。これって「ハシカ(麻疹)」みたいなもので、結局、動機の不順な私は、大学受験をして、補欠合格した大学に進学してしまったのです。儚い一場の夢でした。

 その研修旅行の帰りに、一行から離れて、私は、サンパウロを訪ねたのです。そこには、高校卒業と同時に、ブラジルに農業移民した、家人の兄・義兄がいましたので訪ねたのです。サンパウロから車で1時間半ほどの街に住んでいて、車で空港に出向迎えてくれました。始めての対面でしたが、優しい義兄でした。一緒に移民してきた若者の中には、その過酷な労働と、約束と違った処遇とで自殺をした仲間が何人も出たそうです。その異国で亡くなった旧友のために、墓を掘って埋葬もしたのだそうです。日本にいたら、決して味合うことのなかった、多くの辛い経験したのです。ついに農業開拓を諦めた彼は、手先が器用でしたので、時計の修理技術を教えてくれる人がいて、彼から学んで、その街のマーケットの中で、「宝石販売と時計修理の店」を開業したのです。地道に努力した義兄は、広大な土地を手に入れ、そこに家を建て、両親を日本から招いたのです。義父は、彼に見取られて天に帰り、義母は日本に帰国しました。

 一週間ほどの滞在中に、彼がサンパウロに、仕事の道具や商品を仕入れに行くというので、連れていってもらたいました。街中で売っている昼食をご馳走になっり、私たちの「銀婚式」の指輪をイタリア系の店に注文して、それをお土産がわりにくれたりしました。義兄の友人で、和歌山から母子で移民して来た親友がいて、リンゴ栽培していました。彼が昼食にレストランに招いてくださって、ものすごい量と種類の料理で歓迎してくれました。彼の作った「サンふじ」も、一箱、親友の義弟の私に届けてくれたのです。移民仲間の家族の葬儀に出たり、カトリック教会の集いに出たりしました。家の敷地には、大きな池があって、一廻するにも大変な時間がかかるほどでした。優しい義兄で、大きな声を出すこともなく、細い太い声で、『雅仁さん・・』と呼びかけてくれた声が聞こえそうです。義姉は、池の魚を刺身にしてくれたり、大おもてなしの一週間でした。

 この義兄が、食道がんを患っていて、手術後快復し、仕事にも復帰したのですが、昨日、不帰の人となりました。一度も帰国することがなかった義兄です。これが「人の世の常」とは言いながらも、あの優しい表情と寡黙、太い声を聞くことができないのは、一抹の悲しみを覚えてしまいます。家内は、兄との沢山の思い出を、昨日から語ってくれています。心からの哀悼を捧げ、義姉と三人の甥と姪の家族の上に、心からの慰めをお祈りします。

(写真は、ブラジルのサンホッケの「収穫祭」と「花」です)