アパートの正門の右側に「幼稚園」がありまして、多くの園児が三々五々と登園してきております。外庭で遊戯や隊列を組んで行進したりしているのですが、おじいちゃんとおばあちゃんとお母さんたちが、孫子見たさに、塀の外側に黒山のようになって覗き込んでいる光景も、「一人っ子」のわが子、わが孫を、宝のように(宝贵baogui)、大切にしているからでしょう。両親と子供一人、両親が働いてる家には、どちらかのおばあちゃんが、田舎から出てきて、一緒に住んで、その子の送り迎えと世話、家族の食事の準備をしているという生活の世帯が多く見かけられます。
こういった様子を眺めていると、「公団住宅」ができたころの、高度成長期の日本の雰囲気を思い出してしまいます。私たちが過ごした東京都下には、1958年に、日本で有数の「多摩平公団住宅」が竣工し、広大な農地を造成して、あっという間に、一大近代型の街が造り上げてしまいました。入居者の多くは、都内に勤める新婚世帯で、子育て真っ最中だったのではないでしょうか。幼稚園や公立小中学校、高校、図書館、スーパーマーケット、病院、レストラン、ラーメン店、映画館などが次々に建てられて、今までになかった街作りがなされていました。機能的に造られていたのですが、いわゆる「団地サイズ」で、一間六尺が180cmであるのに、170数cmのサイズに縮尺された部屋作りでしたから、『うわー狭いなあ!』というのが、初めて訪ねたときの団地の印象でした。
あのころに建てられた団地は、住んでいた人は、すでに子育てを終え、子どもたちはそれぞれに自活してしまい、老夫婦が残り、おばあちゃんだけの世帯、世代が変わって息子たちが住む、そういった世帯が多くなっているのが最近の様子なのだそうです。それででしょうか、老朽化した団地を壊して、新たに高層の公団住宅を建て替えているようです。私の弟も、建て替えられた公団住宅の高層階に住んでいて、奥多摩の山なみを遠望できて、とてもロマンチックで、住み心地は快適のようです。
さて、一昨日でしょうか、『パッパパラリラ、ピーヒャラピヒャラ・・・』と、その幼稚園から聞こえてきたではありませんか。どこかで聞き覚えがあると思ったら、「ちびまる子」の歌、それも日本語のCDから流れてきたのです。リズミカルのメロディーは、万国共通なのですね。夜になると、いくぶん年をとられたご婦人たちが、輪になって旗を持ったり、手を打ったりしながら、音楽に合わせて、道路を挟んだ向こう側の広場で、踊り始めています。やはり春三月、夜気は、まだまだ冷たいのですが、春待望の踊りを繰り広げておいでです。そんな音楽の中に、あの「北国の春」が流れてきますから、「ちびまる子」にしろ、日本なのかと、一瞬錯覚してしまいます。
この月末、家人の母親が百一歳、私の母が九十五歳の誕生日を迎えようとしています。上の兄からの連絡によりますと、私の母の認知度も進み、食べ物を飲み込む力(嚥下えんげ)が弱くなってきているようです。もう十分に生きてきて、最後のステージにある母ですが、やはり長生きして欲しいと思いながらも、「尊厳」も考えねばならない、苦渋の選択の時に、そろそろ差し掛かっています。四人の息子の感謝と愛、そして「孝」を、それぞれに、どう母に向けていくかの「正念場」を迎えております。考え思うほどに難しい課題であります。帰国時に、義母を訪ね、義妹に会ったのですが、ちょうど、その時は、主治医の回診日でした。二人の看護師を従えておいででして、「胃瘻(いろう)」の是非を尋ねてみました。長短所をお話くださったのですが、医療者と家族では、考えのスタンディングが違うのでしょうか、賛成も反対もされませんでした。
街のおじさんを振り向かせ、視線を釘付けにしたほどの母ですが、これが人の一生なのでしょうか。こちらの幼稚園の園児のような時期が母にもあり、幼い私たちを精一杯に育ててくれた母も、いまや「老い」の只中におります。幸い、14歳で見出した「永遠のいのち」への道の上に母はおりますし、「憧れの天上の故郷」への帰還の望みを持っております。されど人生短し!
(写真は、母の故郷の近くの日本海の「日御碕・稲佐の浜〈jazzmineさんの旅行ブログ〉」です)