自分は一個の人間でありたい。
誰にも利用されない
誰にも頭をさげない
一個の人間でありたい。
他人を利用したり
他人をいびつにしたりしない
そのかわり自分もいびつにされない
一個の人間でありたい。
自分の最も深い泉から
最も新鮮な
生命の泉をくみとる
一個の人間でありたい。
誰もが見て
これでこそ人間だと思う
一個の人間でありたい。
一個の人間は
一個の人間でいいのではないか
一個の人間
独立人同志が
愛しあい、尊敬しあい、力をあわせる。
それは実に美しいことだ。
だが他人を利用して得をしようとするものは、いかに醜いか。
その醜さを本当に知るものが一個の人間。
1936年に、武者小路実篤が詠んだ「一個の人間」の詩です。1936年といえば、2月に「二二六事件勃発」、3月に「廣田弘毅内閣成立」、4月に「国名を大日本帝国に改める」、5月に「国会で斉藤隆夫の粛軍演説」、8月の「ベルリンオリンピック開催」などのあった年です。五十を過ぎたほどの年齢で作った詩ですが、人を「一人」と言わないで「一個」と表現するところに、何か作者の特別な思いがあるのでしょうか。
人には「尊厳」があります。それは生まれや年齢、職業や仕事、社会的身分や健康状態には関係のない、「人の価値」のことです。私を教えてくれた先生が、「びわこ学園」を見学して帰ってきた時の講義で、まだ三十代の顔を紅潮させながら、『重度の障碍を持った方を、お湯に入れたり、日向で日光浴をさせると、普段、何の表情も表さないのに、何ともいえないうれしそうなか顔を見せるんだ!』と話したのです。新しい発見をして帰ってきて興奮しているようでした。きっと先生の人生観とか人間観を変えてしまうような、出来事だったのかも知れません。一見して醜く見え、全く価値の無さそうに忘れ去られ、お荷物のようにしか扱われない人のうちに、「可能性」があるんだと教えてくれたのです。人は生きている限り、計り知れない「可能性」があるという人間観に、私も共感したのです。
愛読書の中に、『・・・あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛してる』と書いてあります。ダイヤモンドや瑪瑙よりも価値があって、地球よりも重いのだというのです。市長や総理や大統領のように尊いのだということです。また、愛される価値などないのに、ありのままで、『愛している』と言ってくれるのです。「一個の人」の価値と尊さと愛らしさのことです。2012年3月23日、私も「一個の人」でありたい、「一個のガラスのような人」でありたい、そう今晩思うのです。