マシュマロのような手で
『そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」 (出エジプト15章26節)』
先ごろ、救急車に乗っている家内を、女性の消防隊員が、その柔らかな手で冷たくなっていた手を握り続けてくれていました。血圧が低下している危険さを、同乗の隊長に知らせ、高速道路に入ったこと、間も無く病院であること、無事に着いたことなどを家内に、その都度話しかけてくれていたのです。仕事意識以上の心遣い、気遣いが、家内は嬉しかったようです。
生きているとは、死と背中合わせにいるのを、家内の乗った救急車に同乗して、つくづく感じたのです。『人生至る所聖山あり!』で、若さの中を生きてきたのですが、今は、『人生至る所危険あり!』のように感じてしまうのです。そんな救急車の中で、婦人隊員の《マシュマロのような温かな手》が、家内を応援してくださったのでしょう。
でも、いつも神さまの守りがあります。先日、聖書のみことばを、娘が送ってくれました。
『彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。(イザヤ63章9節)』
母におぶわれたことや、父の仕事を手伝っていた予科練帰りの屈強なシゲちゃんが、山道を泣きながらおぶってくださったことを思い返すのです。まだ十代半ばだった方です。
人生、おぶわれ、おぶい、そしてまたおぶわれていく道なのでしょうか。自分独りで生きて来たように思っていた時に、そうじゃなかったのに気づいたのです。私を、目に見えないお方がおぶってくれていました。生まれてからずっとです。あの何度も出会った危険の最中に、気づかない間におぶわれ、手を引かれ、覆われていたのです。今も、同じく背中の温もりが、心臓あたりに感じられているではありませんか。
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おかあさん
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西条八十の作詞、中山晋平の作曲の「おかあさん」は、理屈なく母親が、「おかあさん」であることを伝えています。同じく「カタタタキ」もありました。
おかあさん おかあさん
おかあさんてば おかあさん
なんにもご用はないけれど
なんだか呼びたい おかあさん
おかあさん おかあさん
おかあさんてば おかあさん
なんべんよんでもうれしいな
おへんじなくても うれしいな
「肩たき」をしたりしたことあったかな、と思い返しています。オンブはしたことがあったのです。私たちの母は、兄二人を産んだ後、女の子が欲しかったのに、また男の子の私が生まれ、その後に、また男の子を産んでいます。戦時下、三人の男の子を産んだ母は、表彰者だったでしょうか。
今や83 才、82才、78才、76才の後期高齢者の群の中に、四人ともいて、自分は父なし児、義父母に育てられ、義父は夭逝し、義母一人の手で、母は育ったのです。『兄弟姉妹が欲しかった!』と話してくれたことがありました。
幼な友だちに誘われて、カナダ人宣教師の教会に行くようになり、そこで母が信じた神さまが、「父(ギリシャ語のabba、アラム語のabba )」であることを知って、自分が父なし子ではないことが分かってから、この父親のもとで、本物の父子関係を持つことができたのです。
主イエスさまは,15回ほど、祈りの中で神を「父」と呼んでいらっしゃいます(マルコ14:36)。この祈り以外にも、神さまを「父」と100回は呼んでいるのです。親愛の情を込めて、父親を呼ぶために、日常語であったアラム語の[abba]を使われたわけです。
それは、主イエスさまは、父なる神との特別で、親密な関係をお持ちだったからです。ですから初代教会のクリスチャンたちは、神さまを「アバ」と呼ぶようしていたようです。またパウロも、その書簡の中でこの語を2度(ローマ8章15節、ガラテヤ4章6節)ほど用いてえいるのです。
ですから私たちも、主イエスさまによって、神を「アバ,父」と呼べるのです。それは、ちょうど日本語の「おとう」、「お父ちゃん」、「ちゃん」といった親愛の呼び方です。人間をアバと呼ぶだけではなく,天におられる神さまを、「アバ」と呼ぶ信仰が与えられているわけです。
「アバ」でいらっしゃる神さまに、母は必死に祈りながら、育ててくれたのです。学校に呼び出されては、息子の問題行動を、どう聞いて、どう接したのでしょうか。家に帰って来て、叱ることはなかったのです。そんなで、『よく立ち直りました!』と言う、私の担任のことばを、母はどう聞いていたのでしょうか。
学校を終えると、兄弟たちは、父母の元を離れて行きましたが、私は、結婚するまで親元にいたのです。忠実に教会生活をし始め、クリスチャンの妻をもらおうとした時、父は、「ビルマの竪琴」を書いた、竹山道雄の仏教の勧めのような本を買って来て、『読め!』と言って手渡しました。私は読まないままにしていたのですが、父の方が、兄の勧めで信仰告白をして救われたのです。
祈る母、聖書を読む母、礼拝を守る母、献金をする母、証しする母が、男五人の荒れた家庭の中にいたことの祝福こそが、私たちの幸の礎であったに違いありません。この日曜日は、「母の日」です。いろいろと母や、母の話してくれたことば、作ってくれた食べ物など、懐かしく思い出しています。
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あの経済成長期を越えての今
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戦後、平和の時代が来て、戦地に行っていたお父さんたちが復員して来て、いわゆる baby boom で、子どもたちが産まれてきたのです。1946年に生まれた方たちからでしょうか。その時の子どもたちが、中学校を卒業して、京浜、中京、阪神の工業地帯で働き始めて、戦後の未曾有の経済成長期の担い手となります。お父さんは、鉄砲を担いで出て行ったのですが、その親の子たちは、ハンマーやドライバーを手にしたり、営業車を運転し、鞄を引っ提げて、いわゆる「企業戦士」になっていきました。
1964年の秋に行われた、東京オリンピックの開催の準備のために、押し寄せてくる観光客を受け入れるためのインフラ( infrastructure /鉄道網、道路網、空港整備、ホテル建設など)の整備、増強がなされていき、われわれ世代の父や兄の世代は、その働き手でもありました。
敗戦の廃墟の中にたたずんでいたのも束の間、朝鮮戦争の戦争特需、その後のヴェトナム戦争の戦争特需の中で、懸命に働いてくれた世代でした。われわれの父の世代は、スタルヒン(父の少し後に世代人)・栃木山・初代吉右衛門(歌舞伎俳優)、私たちは、川上・千代ノ山・古橋広之進(水泳選手)、その後の子どもたちは王・大鵬・卵焼き、息子たちの世代は、掛布・SMAP、今は大谷翔平・井上尚弥・シホンケーキでしょうか、どうでしょう。世代世代のスターや選手や歌手がいたし、今でもいるのです。
その戦後のbaby boomer の世代の子どもたちが、第二次の baby boomer になったのです。教会のそばに中学校があったのですが、校舎の隅にプレハブ校舎が建てられ、一学年13〜15学級もある時期を迎えていました。今や、彼らのお父さんやお母さんが、定年を迎えて、家に帰ってきて、すでに七十代、今や朝夕は、day care の送迎用のライトバンが、路上を東奔西走して、彼らを乗せています。退院後の家内も、そのバンに乗って、週一回の行われる、AEON mall に出かけているのです。
世の中は、景気後退ですが、福祉の世界は盛況です。ただ過当競争でしょうか、思ったほどの収益のあがる事業ではなくなってきているそうです。公費の福祉費の援助で経営が成り立っているのです。この業界に、初期に参入していた人たちの右肩上がりの好機は過ぎたのでしょう。
人への福祉が、儲けの世界にすり替えられてしまってはいないでしょうか。残念なことです。福祉や社会事業に対する社会的な責任を果たしたり、基本的には人への労りではない事業者が、その意味や意義を失わせているのだと言われています。そんなおかしな時代に、ブレーキは効くのでしょうか。お金で、問題を解決していく行政に、納得できないのは、お金の価値が分かっている、一生懸命に働いて来た頑張り世代であったからかも知れません。
我慢や責任を学び取らされた世代が、その影響力をなくしてしまう時代に起こっているのでしょう。成長と衰微も一対の出来事なのかも知れません。
(テレビ、冷蔵庫、洗濯機を「三種の神器」と言われたのです)
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泥沼の先にあること
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子ども頃に、長靴を履いて、泥沼にはまってしまい、長靴を履いている意味がなくなって、泥だらけで、大変な目にあったことがありました。その難儀さは、抜け出せないところにあったのです。泥の入り込んだ長靴で、足を抜くのが大変でした。長靴を脱いで仕舞えば良いのですが、泥の中に残したら、見つける方が大変だったのです。
ウクライナ戦争のロシア侵攻、それに反対する日本も含めたヨーロッパ諸国の関係が、まるで〈泥沼状態〉になりつつあるのが懸念されます。あの日中戦戦争が、いつの間にか、暴挙を改めなかったことと、何か似ているのを感じます。結果が想定できたのに、またやめられたのに、取り返しにつかない状況に落ち込んだのと、同じ轍(わだち)にはまるのでしょうか。
ナチス・ドイツも、ファシスト・イタリヤも同じでした。世界中が傷つき、疲弊し、泥沼の中に引き摺り込まれていきました。一国の暴挙が、世界経済に与える影響の大きさにも驚かされます。電気代、ガス代に請求額が尋常ではありません。食べ物も随分と高くなっています。便乗もあるのでしょう。
子どもの頃に、近所の男の子が、池にハマって溺れそうになりました。『池に落ちたら、左足が沈む前に右足を上げれば大丈夫!』と言って実験したのです。彼は体全体が沈むのを見落としていたので、溺れたのです。
この時代は、もうその片足でさえ上げる力がなくなり、その機能が働くなってしまっているのでしょう。
『しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。(ルカ21章20節)』
これは飛躍かも知れませんが、〈エルサレムが軍隊に囲まれる事態〉がくると、イエスさまが言われました。そんな事態が起きそうな前触れでしょうか、このウクライナ戦争の行方のことです。ロシアと同盟国とが、合い図って、最終的な攻撃目標とするのが、「エルサレム」なのではないでしょうか。
イスラエルに攻撃してくる国々について、旧約聖書は、次のような国々を挙げていると、読み取れます。[ロシア、ヨルダンの一部(エドム)、トルコ(メシェクとトバル)、イラン(ペルシャ)、エチオピア、リビア、ウクライナ/ドイツ(ゴメル)、クルディスタン、トルキスタン、アルメニア(トガルマ)]などです。
そんな攻撃を受けるエルサレム、そして国家として奇跡的に再生したイスラエルについて、次のような予言のことば、祝福のことばがあります。
「主はモーセに告げて仰せられた。 『アロンとその子らに告げて言え。あなたがたはイスラエル人をこのように祝福して言いなさい。「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。 主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。 主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。」 彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。』(民数記22〜27)
『エフライムの山では見張る者たちが、『さあ、シオンに上って、私たちの神、主のもとに行こう』と呼ばわる日が来るからだ。」 諸国の民よ。主のことばを聞け。遠くの島々に告げ知らせて言え。「イスラエルを散らした者がこれを集め、牧者が群れを飼うように、これを守る」と。 主はヤコブを贖い、ヤコブより強い者の手から、これを買い戻されたからだ。 彼らは来て、シオンの丘で喜び歌い、穀物と新しいぶどう酒とオリーブ油と、羊の子、牛の子とに対する主の恵みに喜び輝く。彼らのたましいは潤った園のようになり、もう再び、しぼむことはない。 そのとき、若い女は踊って楽しみ、若い男も年寄りも共に楽しむ。「わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませる。 また祭司のたましいを髄で飽かせ、わたしの民は、わたしの恵みに満ち足りる。--主の御告げ--」(エレミヤ31章6、10~14節)』
戦火の火の粉を、私たちもかぶるかも知れません。しかし、神さまは、直接介入されて、ご自分の民と国とその都エルサレムを守られるのです。アメリカやイギリスが、経済的に軍事的に衰退して、エルサレムを守ることができなくなった時に、万軍の主、栄光の王が、ご自身の御手で、直接守られると信じます。
( “ キリスト教クリップアート” から「エルサレム」です)
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さきほど
生きよ
『初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、 --このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。--(1ヨハネ1章1~2節)』
与えれられたいのちを、自らの〈唯ぼんやりした不安〉の中で、自死の道を選んでしまった芥川龍之介の《生きようとする思い》を、追いやってしまった、35歳の自死を知って驚いたのです。明晰な頭脳を持っていたのに、太宰治の38歳の心中にしろ、川端康成の老いてからの72歳での自殺、〈言葉〉を駆使して文学活動をした人たちの自死について、これまで、私は大いに考えさせられてきました。
〈言葉〉の森の中で、生きようとする言葉、生かしてくれる言葉を見出さないで、森の迷路にはまり込んでしまったに違いありません。芥川の死の床には、聖書が置かれてあったそうです。そこには、「西方の人」と題をつけて、芥川が、昭和2年7月10日に書いた主人公、イエスさまが取り上げられているのです。彼も熟読しての〈イエス観〉が述べられていたのです。
書き足りなかったのでしょうか、「続西方の人」を、前編の2週間後の7月23日に記し、それが、「遺稿」となっています。それは芥川の死の直前の作品です。中学や高校で学んだ教科書の中に、「トロッコ」、「羅生門」、「蜘蛛の糸」、「杜子春」など、芥川の作品が取り上げられていて、興味深く学んだ記憶があります。ただ一つ疑問だったのは、自死するような人の作品を、国語教科書に載せることでした。
これからを生きて行くために学ぶ必要のある子どもたちに、生き抜かないで果てて、自己放棄し、責任放棄をした人の作品が、どんなに文学的には高い価値があったとしても、相応しくないのではないかと言う思いでした。
文才などない私は、聖書を読んで、聖書を読んできた母の生き方からかも知れませんが、そのイエスさまが、「キリスト(救い主)」であることを、紆余曲折を経て、やっと信じた、いえ信じさせていただいたのです。そして聞いてきたこと、読んできたこと、解説されてきた聖書が、自分を生かす《ことば》となったと言うべきでしょうか。
芥川は、ショペンハウエルの厭世観に強く影響されていたそうです。この神の子でいらっしゃる方の語られた《ことば》に、芥川が触れなかったことになります。文学的な関心は向けても、「わたしを求めて生きよ(アモス5章4節)」と言われた「救い主」と出会えなかった、ぼんやりとしたままで終わってしまった悲劇だったと言えるでしょうか。
人は、明確な《はっきりした平安》の中に、生きて行くことができるのです。いのちを付与された神さまは、生きとし生ける者の全てに、「生きよ」とおっしゃっています。
(“キリスト教クリップアート”からです)
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空を飛ぶ鳥の如く
『私たちの齢は七十年。 健やかであっても八十年。 そのほとんどは 労苦とわざわいです。 瞬く間に時は過ぎ 私たちは飛び去ります。(詩篇90篇10節)』
実は好きではない活動標語に「終活」があります。なぜかと言いますと、私には、《永遠のいのち》の約束を固く信じる信仰を与えられたからなのです。それで、私は、《収活》と言い換えているのです。人生を終わらせないで、《収める》ことにしたいと願うからです。
父は、61歳になったばかりの時に、くも膜下出血で入院中でしたが、その退院の日の朝、脳溢血を起こして召されました。突然に、自分の死を迎え、これからは親孝行ばかりを考えていた私には、驚きでした。父も、どう自分の人生を終えるか、その準備なしの死を迎えたのだろうと思うのです。幸いなのは、信仰告白をして召されたことです。
人の一生は、聖書によりますと、『健やかであっても八十年』と記されてありますから、まだ、心も体も、健康が保たれている今だからこそ、もう少しの間を生かされて、〈どう収めていくか〉、人生の整理を考えなければならないように感じております。
〈物の整理〉ですが、35年ほどの間に買い求めた蔵書がありましたが、私の意に反して、処分されてしまいました。前任地の建物の物置に置かせてもらったのですが、処分すると言う宣告で、了解なしで処分をされたのです。懐かしい子どの頃の学校からの成績表などの記録文書なども全部が、捨てられてしまいました。私が、導きを感じて、隣国に出かけて間もない時期の出来事でした。
残して置いた私がいけなかったのだと納得はしましたが、ずいぶん礼を失した仕打ちでした。私の移動や転身を快く思わなかった方たちの決定だったのでしょう。今では、天国に持っていけない物でしたので、その執着の思いは解決したつもりでおります。家を持たない自分の持ち物でしたから、そう認める以外にありません。
『二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。 不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。 私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。(箴言30章7~9節)』
着の身着のままで、隣国から急遽帰国し、帰国したばかりの2019年の秋に、台風による洪水で、お借りして、住ませていただいていた家が、床上浸水になりました。退院間近の家内のためには、『この家には住まないほうがいいです!」』と、ご好意で住まわせていただいた、その家の持ち主が言ってくれました。この方が、避難先を探してくださり、彼の友人が牧会する県北の教会に避難させてもらったのです。
その間に、今の住宅を探して、住み始めて五年になろうとしています。何も持っていませんでしたので、貰い物だらけのご好意で生活をし始めました。2020年に、子どもたち家族が、病中の母親を見舞いにやって来た時に、急遽用意した寝具類が、開かずの間に置かれていて、今使わせていただいてる箪笥やベッドや布団やテーブルや食器棚や食器類も、ほとんどが頂き物です。
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『空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。(マタイ6章26節)』
〈その他の持ち物の整理〉ですが、在華中の説教ノートや、学校で教えていた時の教材が残してあり、この4年間に買い求めた古書などがあるだけです。再び戻る可能性を考えていましたので、残しておきましたが、そろそろ処分すべきかと思っております。株券も宝石類も、家も土地も、何も持たない私ですが、わずかな国民年金と、隣国の兄弟姉妹たちの、その都度都度の応援で、今を恙なく過ごしております。
〈財産の整理〉ですが、何もありませんので、子どもたちへの相続も考える必要のない私たちです。〈死後の事々〉は、葬儀も埋葬も不要で、散骨をしてくれるように、家内と長男に言ってあります。〈交友関係の整理〉も、心を許せる友人は多くはありませんので不要です。〈今後したいこと〉はあります。若者の様に踊る様な願いの中に、まだ隠してあります。ただ今を感謝して、今すべきことに専心したいと思うばかりでおります。
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ただ家内や子どもたちに迷惑をかけたくありませんので、これらのことは、はっきり言っておかなければなりません。これが、私の《収活》であります。
素敵な人生を生きられたと感謝しております。こんな自分が、主の御用の一端を担うことができた特権は、驚くべきことでした。伝道と牧会の任に当たられたことは、この上もない誇りであります。迷惑をおかけした宣教師方も、すでに主の安息の中にありますので、ただ感謝ばかりです。
家内には、ただ感謝だけです。五十有余年、一緒に、主に仕えることができ、支え続けてくれたことに、ただ深謝するだけです。また父親としては、自分なりに精一杯してきたつもりですが、未熟さや足りなかったことは、子どもたちに赦してもらう以外にありません。
永生の望みの中に、罪赦されて入れていただき、神の子の身分や、義とされ、聖とされ、やがて栄光化されるお約束のゆえに感謝するばかりです。精一杯生きて八十年近くの生かされた日々を、支え守ってくださった、救い主イエスさまに感謝するばかりです。
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ソーメンと小3嬢
わが家を訪ねて来られて、玄関を入るや否や、洗面所に飛んで行って、手を洗って、必ずゴロゴロっぺをする人がいます。コロナ禍の訪問者の中の「優等生」です。幼稚園時代から、『あそぼー!』とやって来ては、家中を探検したり、物をひっくり返したり、ハサミやセロテープや空き箱で工作をしてきた、今年、小3になったお嬢さんとお母さんの来訪が、先週ありました。
昨日は、お母さんが〈電動回転ソーメン器(乾電池式)〉を持参してこられて、ソーメンを茹で、麺つゆに薬味を入れて、お昼を一緒にしたのです。このお嬢さんの好物の野菜サラダ、蒸かしサツマイモ、台湾パイナップル、クッキーも添えてでした。
小さなソーメン流し器に、流れる 、いえ回転するソーメンをすくいとっては食べたのです。今季初めての初夏の味覚でしたので、とても美味しくいただけました。それに連休中に出かけて買ってこられた、茨木産のさつまいものお菓子をいたのです。古里のお母さまから、函館産の昆布の佃煮も、言付かったと言われて、わが家に届きました。これが美味しいのです。いつも心にかけてくださり、お母さまは家内と、お父さまは私と同年生まれでいらっしゃいます。
昨日は、帰りがけの車に乗ってから、冗談を言っては困らせている私を、執り成して、『準さんをゆるしてあげてね。あたしもゆるすから!』と見送っていた家内に言ったそうです。大人びた小3なのです。工作上手で、「鬼滅の刃」の主人公の炭治郎が、いまだに大好きで、自分で着せ替えを作っては、人形に着せています。
背丈も伸びて、大人びたことを言って、大きくなっても遊びに来てくれるのです。稀少な友だちの一人です。
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