欠点のある人たち


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Jeremiah in the gate of the temple and proclaim the Lord’s message (Jeremia 7, 2). Wood engraving, published in 1886

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 『イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。 家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。 妻をめとって、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻をめとり、娘には夫を与えて、息子、娘を産ませ、そこでふえよ。減ってはならない。 わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄(英欽定訳、中国誤訳は《peace/平安》です)を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄(平安)は、あなたがたの繁栄(平安)になるのだから。」(エレミヤ2947節)』

 よく「涙の預言者」と呼ばれたエレミヤを、矢内原忠雄は、その著書「世の尊敬する人物」と言う書を記しています。その中で、矢内原は、エレミヤ、日蓮、リンカーン、新渡戸稲造の四人を、あげているのです。第一に、このエレミヤを掲げて、「悲哀の預言者」と呼んだのです。この本は、日中戦争が拡大し、太平洋戦争に突入する前年の1940年に発行されているのです。

 矢内原は、戦時下の日本の現状を憂えて、日本の軍国化を批判したのです。1937年、盧溝橋事件の直後に、日本が中国大陸に進出していく中で、中央公論九月号に、「国家の理想」と言う論文を発表し、その中で、婉曲に戦争批判をしています。その論文に、〈ケシカラン〉と言って東京大学で国家に盲従の教授陣に、反戦的な論文だと糾弾され、擁護陣もいましたが、結局は、矢内原は辞表を提出し、教授を退職したのです。これが「矢内原事件」でした。

 辞職後に著した、この書で、指導者の理想像として、この四人に共通する点を取り上げて、次のように言っています。

『而して私の尊敬する点として、この四人に共通する性格は次の四つである。
(一)真理を愛したこと。
(二)誠実であったこと。
(三)平民的であったこと。
(四)欠点ある人物であったこと。』

 ご子息の矢内原伊作は、父を語っていますが、世の評価とは違って、お父さんの欠点を息子の目から述べています。父・矢内原とこの四人の人とは、近似点があったことになり、欠点だらけの私は、しれを知って、安心させられるのです。

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 また、あの時代、はっきり物を言った矢内原の気骨には驚きつつ、敬意を覚えたのです。だからでしょうか、彼も悲哀を感じる人で、旧約の預言者であったエレミヤに共感したのでしょう。彼を評して「悲哀の人」と言われています。

 私は、34年間奉仕させていただいた地を出て、家内と一緒に隣国に、2006年の夏に出かけました。それ以前、だいぶ伝道経験を積んだ頃、私を導いた宣教師は、同労者の集まりの中で、次のように言われたことがありました。『あなた方、mature な人は、若い人に務めを委ね、新しい地に出て行きなさい!』と挑戦されたのです。そのことばが第一に、私の思いを推したのです。

 その宣教師の友人で、九州で宣教をしておられた方がいて、その働きの初期頃に、一人の女子小学で、教会学校に来ておられたそうです。その方が大学を終えて、日本語教師で隣国で、お仕事をされたのです。そこで出会ったアメリカ人の方と結婚して、アメリカにおいででした。この方が、『ぜひ、あちらの老人たちのために行ってください!』と、そこからお手紙で、出かけるつもりでいた私に促してくれたのです。

 そして、隣国行きを最終決断をしたのは、聖書のみことばでした。それが冒頭に記したものです。少なくとも「平安を祈ること」ができたらいいと願ったのですが、日本語教師の機会を得て、一つの群れに籍を置き、幾つもの群れに出かけて、忙しく奉仕ができた13年間でした。このことは、自分の願いだけではなく、主に押し出されたとの確信は揺るぎません。

 長い伝統のある公の集いで、日本語聖書研究会を、週一で持たせてくださったり、教会学校のキャンプを開いたりさせていただいたのは素晴らしい機会でした。日本の大学に留学された姉妹が、法学部の教師をされていて、その同僚たちと始めた集いが、発展的に拡大し、拡散していったのです。

 何よりも、素晴らしかったのは、《人との出会い》があったことでしょうか。六代目の信仰者がいたり、迫害にあった両親の子だったり、食べ物がなくて林に入って根をほってかじったり虫を採って食べたりした大人、貧しい人を無料で診た慈医のお父さんの娘で老人院(laorenyuan)で過ごしている方、遠い村から出て来てレストランで働いている青年、調律師の若者などなどでした。

 今、家を留守にしているのですが、届けてもらった本の中に、この矢内原の「イエス伝(岩波書店1977年刊)」があります。「マルコの福音書」から説教をした時に、参考にさせてもらった、大きな啓発を受けた一書です。学者でありながら、聖書教師で説教者だった矢内原は、内村鑑三と出会い、内村に教えられた人でした。そして、内村と共に、札幌農学校で同期生だった新渡戸稲造からの強い思想的な感化を受けています。

 この矢内原は、日本のキリスト教世界で、最も傑出した一人と言えるでしょう。権威に屈せずに、自分の信念を貫いた信仰者でした。さらに「地の塩」のように生きた人でした。エレミヤのように、時の流れの中で「見張所」に立ち、社会の動きを、信仰の指導者の一人として見張りをしたのです。

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