車軸を流す

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ハイビスカス

 先週、中国の大学入試の「統一試験」があり、『912万人が受験しました!』と、こちらのニュースが報じていました。高校卒業生で、進学しない方もいることでしょうから、同年齢の人の数が、1000万人以上いるということになります。公称13億人の人口の中で、同じ年齢の人たちが、こんなにいることに、改めて驚かされてしまいました。

 この試験が行われた二日間は、試験会場の高校周辺は、車がクラクションを鳴らすことを禁じられ、学校の附近は、車の進入も制限されるのです。国全体が、受験生の味方になって、しばらくの静寂が全土を覆うのです。今の家に越して来る前の家は、周りに高校がたくさんあって、その緊張感が、肌に伝わってくるほどでした。

 日本では、二月、三月と中学校や高校の入試が行われますが、これほどの緊張感はありません。台湾やシンガポールや韓国も、日本に似て、受験は「戦争」のような厳しさや緊張があるようです。よりよい大学に進学するために、より良い就職をするために、またよりよい結婚をするために、「好い幼稚園」、「好い中学」、「好い高校」に合格したいのでしょうか。のびのびと過ごしたり、本を読んだりしていたらいい年代なのに、そんなことで神経を擦り減らすのは、なんともはや、もったいない!

 『人生の「勝ち組」になるために!』なのでしょうか。人生って「負け組」にならないことが、一番肝要なことなのでしょうか。どう見ても「勝ち組」になっていない私の人生を省みますと、惨めそうなのですが、当の私は満足な一日一日を生きてきた自負があるのです。みなさんは、一体何に勝とうとしておられ、何に負けると思っておいでなるのでしょうか?きっと私のような者は、「蚊帳の外」とか「門外漢」とでも言われるのでしょうか。「端午節」の連休で、街の中に「のんびりムード」が漂っているのを感じます。人生の戦いがあるとするなら、それは自分との戦いなのだろうと思っています。912万の受験生の将来が、祝福されるように願っております。

 昨晩は、10時過ぎに、出先から帰宅したのですが、「車軸を流すような雨」が降っていました。その「大雨」で、我が家の近くの道路が降った雨で陥没していました。『不要なものや既成の伝統や価値観が、この雨のように押し流されてしまったらいいのに!』と思わされております。

(写真は、アパートの植え込みに咲いているのと同じ「ハイビスカス」です)

「二十年」

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テニス

 「二十年」というのは、『オギャア!』と生まれた子供が、「成人」する年月になります(ここ中国では成人の年齢は18才だそうです)。それは、「一世代」として考えることもできるでしょうか。幼稚園に入って集団生活をし始めた日、サクラの咲き誇る中、ランドセルを背負って新一年生になった日、選挙権をもらって公民となった日、結婚した日、子の親となった日など、人生に記念すべき日が多くあります。本人にとっても親にとっても、「二十歳(はたち)」は、少なくとも日本では特別な日ではないでしょうか。

 昨日、日本のサッカーチームがオーストラリアと引き分けで、「ワールドカップ」の出場権を得ました。ネットのニュースもにぎやかに、それを報道していました。野球に比べて人気は今ひとつだった、私たちの時代とは比べられないほど、サッカー人気は高くなってきているのを感じます。このちょうど20年前の1993年の秋に、翌年のアメリカで行われる「ワールドカップ」の予選の試合が、中東のカタールの首都・ドーハで行われました。日本チームの対戦相手は、イランでした。この戦いに勝つと、念願の「ワールドカップ」の初出場がかかっていたのです。2対1で勝っていたのですが、終了間際にイランに同点ゴールを決められて、引き分けになり、勝ち点によって出場権を失ったのです。これを「ドーハの悲劇」と呼びました。

 日本のスポーツ選手は、特徴的に、《カラッ》としていないのです。大きな大会の重圧に負けて、下痢になったり、体調を崩したりして、普段の力を出せない《脆弱さ》が、一般的にあるのです。この「ドーハの悲劇」のとき、「ワールドカップ」への出場の夢が潰(つい)え去った時に、ドーハのピッチの上で放心でしょうか、虚脱でしょうか、いつまでもクヨクヨとしていた写真が送信されてきました。その様子を思い出すのです。負けたら、すっくと立ち上がって、次の大会に目を向けて進んでいけばいいのです。イラクの勝利を祝福したらいいのです。それができない女々しさの方が、私にとっては残念で仕方がなかったのです。勝利は、様々な要素が入り組んでの結果なのです。そこに向かう道のりが、スポーツが持っている醍醐味なのではないでしょうか。

 今は、古代ギリシャのスポーツとは違います。そこでは負けたら処刑されることだってあったわけですが、近代スポーツは、《参加すること》や《やること》に意義があるのです。少なくとは私たちの国では、処罰されません。『ご苦労さま。次、頑張って!』の声のほうが大きいのです。その反面で、負けた原因、コーチ陣の采配の誤り、責任問題が起こるのです。『楽しかった思い出ですませばいいのに!』と、思うのですが。

 奇(く)しくも、今年は、その「ドーハの悲劇」から20年が経っているのです。4ヶ月ほど足りませんが。昨日の試合のメンバーの多くは、国外のプロチームで活躍している選手だったようです(ドーハの試合出場選手には国外チームの所属選手はだれもいませんでした)。この20年で、スポーツ選手の意識も変わってきたのでしょうか。それとも20年前と同じなのでしょうか。サッカー界だけではなく、スポーツ界全体、いえ日本人が、『変わってきているのかな?』、と思うのですが、どうなのでしょうか。

 これまでのスポーツで、勝負にこだわらない、40代になってから始めた「テニス」が一番楽しかったのです。兄の友人たちの仲間に入れてもらい、春や秋に八ヶ岳や東京郊外で、「打ち合わせ」をしました。テニスのかたわら、温泉に入ったり、美味しい物を食べたり、いろいろと話に花を咲かせ、至福の時でした。いびきがうるさくて部屋を逃げ出したこともありました。いっしょにした方の中には、もう召された方もおられますし、寄る年波で、今は「思い出話」なのです。でも、あの楽しさは格別でした。

(写真は、テニスのラケットとボールです)

「おにぎり」

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「鄭成功」

 江戸時代の元禄期に、近松門左衛門という人がいました。越前藩士で、藩主の侍医をしていた人の子でした。「竹本座(大阪の道頓堀にあったそうです)」という芝居小屋で上演される浄瑠璃や歌舞伎の出し物の作者だったのです。生涯に100作ほどの戯曲を書き上げたと言われています。日本を代表する文化として「歌舞伎」が取り上げられるのですが、歌舞伎の隆盛に大きく貢献した文化人として、著名です。

 その100もの作品の中で、一番有名なのが「国性爺合戦(こくせんやがっせん)」で、人形浄瑠璃として1715年に初演されています。その後「歌舞伎」でも上演されるようになりますが、これが大当たりとなったのだそうです。この作品の主人公の名は、「和藤内」と言われ、中国人の父と日本人の母の間に、長崎で生まれた人でした。「和藤内」は作中人物ですが、彼の中国名は、「鄭成功(ていせいこう)」で、実在の人物でした。人形浄瑠璃や歌舞伎は、史実とは違ったもので、近松の創作でした。

 この作品が人気を博したのが、鎖国をしていた当時、海を隔てた中国や台湾を舞台とした「和藤内」の活躍が、そのスケールの大きさ、国際的であったので人々の関心を買ったようです。この作品の中に、和藤内の老いた母親が出てきます。この母親が戦いの中で、中国の人質として捕らえられてしまいます。ところが鄭重に扱われて、食事なども、今でいう中華料理をもてなされたのです。アヒル、豚、羊、牛などの肉が振舞われるのですが、この老母は、『こんなものより《おむすび》が食べたい!』と、ことばをもらしています。その脂分の多い中華料理よりも、「淡白」な日本の食べ物を求めたわけです。

「鄭成功」の活躍した地域

 これは、中日の食習慣の違いが端的に現れていて、笑いを誘うくだりになっているのです。国際人になって、異国の生活に慣れるのですが、年老いてくると、生まれた祖国、とくに母の手料理の味を思い出すのは人の常のようです。和藤内のお母さんだけではなく、私たちも、《おむすび》がしきりに食べたくなってしまい、時々、《塩むすび》、梅干しが送られてきた時などは、《梅むすび》を作って食べることがあります。人の「嗜好」というのは、昔戻りするものなのでしょうか。ビーフステーキやハンバーグステーキが好きだった私が、根菜の《煮っころがし》や青物の《おひたし》が食べたくなってきてしまうのです。父が、美味しそうに食べていた光景が思い出されると、しきりに、『食べたい!』との思いに駆られるのです。

 南の方に、「泉州」という街があります。昔から貿易港として栄えてきた街で、海岸から、遥か昔の航海を行き来した舟の残骸が発掘されたりしています。この街の小高い山の上に、和名・和藤内の「鄭成功」が、馬上に凛々しくまたがった巨大な像があります。案内していただいて、その真下で見上げたのですが、何でも大きい物好みの中国のみなさんの作ったものに圧倒されてしまいました。彼は、海の彼方の台湾に目を向けているのです。彼は中国でも台湾でも、国民的な英雄とされています。日本人との間にできた人物が、清に滅ぼされようとした明を擁護し、また台湾に渡って政権を握るなどの活躍をしたわけです。

 近松門左衛門が魅入られた人物だったのでしょう。何百年も前に、国際舞台で活躍した日系人がいたことは、この国際社会の現代に、大きな励みとなって、青年たちに夢を持たせたいものです。なんだか、《おにぎり》が食べたくなってしまいました。

(写真は「鄭成功」、地図は彼が活躍した地域です)

「国語教育と教養の問題」

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「文章読本」

この文章は、私が愛読しているブログに掲載されてあった記事です。この方の経験からの提言です。

 1960年末期のことだった。新卒で入社した会社に途中入社(当時では珍しいこと)してきた2期上に相当するH大学出身の切れ者が、「日本語で満足に自分を表現する力がない者が英語など出来るようになる訳がない」と厳しく指摘した。私は至言であると思って感動した。日本語が十分に出来るようになっていない時期に、英語など教えて込んでも虻蜂取らずになるだけだと言うこと。

 1972年に初めて出かけたアメリカ大陸からの帰途、カナダのヴァンクーヴァーの空港で日系人の免税店の販売員に叱られた。何気なくSwearwordを使って驚きを表現した途端に、厳しい表情で、『何という言葉を使うのか。私は戦争中にこちらで育ったために敵性語である日本語を十分に学べず、英語もちゃんと学べなかったので両方とも中途半端になった。だが、swearwordを使ってはいけないくらいは承知している。貴方も一寸くらい英語ができるからと言って慢心するな。以後気をつけなさい!』と日本語で叱られた。

 外国語の性質を判断できない幼少期に外国語を学んでも、『どれが使っても良い言葉で、どれがいけないのか!』の判断ができない。先ず、自国語を徹底的に教えてから外国語に移行せよ」と言いたかったからである。

 しかも、我が国の教育ではこういう言葉の分類を教えている形跡がないことは、長年の経験で解る。しかし、それはそれとして措くが、『その前に学校教育で国語を十分に理解させて置くべし!』という主張である。

 これは簡単に言えば、所謂『英語屋になってはいけない、養成してはならない!』となる。「英語ペラペラ」と教養とは無関係でるとまでは言わないが、教養は自国語で十分に見つけられるし、その間かその後にでも英語を満足がいくまで勉強して、その教養を英語に転換できる能力を備えておくことだ。この辺りまで来ると「語彙の豊富さ」が必須となるが、これを単語の知識と誤解しないで欲しい。

 更に言えることは、我々日本人の何%が、外国人と教養の裏付けが必要な会話をする機会があるのかをよく考えて欲しい。確かに、中国や韓国の人たちには「高い」と聞こえる英語で話す能力がある人が増えた。しかし、それと教養とが同じではないだろう。

 言えることは、英語能力を高めることは「それが教養を高めるのに必要で有効な手段にはなるが、それは目的か」なのではないか。手段の一つでは。その次元までに英語力を高めることは、元より万人に必要なことではない。

 私は先日アメリカの大手企業のマネージャーと懇談した際にXX婦問題も語った。これには勿論、十分な英語の力も必要だが、この問題を的確に語れるだけの知識と日本人としての誇りが必要だし、重要だ。この点は英語が上手いか下手かの問題ではあるまい(前田 正晶)。

(これは、1934年に刊行された、谷崎純一郎著の「文章読本」の表紙です)

『一を聞いて十を知る』

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「給食当番」

 2012年12月に、北京市のある中学校の校長先生が、『この学校が、なぜ修学旅行先に日本を選ぶのか?』という題でブログに掲載していました。

 『日本への修学旅行は北京四中の大型課外学習考察活動の1つだ。この活動は毎回生徒たちに深い感動をもたらしている。なぜ日本へ修学旅行に行くのか?それは日本が中国と特別な関係にある国だからだ。中国の今の進歩と苦難はすべてこの国と関係がある。漢字を知らない日本人はいないし、対中貿易の恩恵に浴さない日本人もいない。日本のブランドの商品を知らない中国人はいないし、日本の技術や製品は中国各地の各家庭に行き渡っている。しかし、われわれは日本を十分に理解してはいない。率直に言って、学ぶ価値のあるものが日本にはたくさんある。技術だけではないのだ。

 2012年の訪日修学旅行のテーマ は「一を聞いて十を知る(見微知著)」。細かい考察を通して日本の社会や文化を知り、そのなかで学ぶべきものを見つけようという意味だ。これまで日本を訪 れた生徒たちは、日本の国民意識や職業意識の高さに深い感銘を受けている。笑顔であいさつする日本のサービス業に従事している人たちや、災害の後で深く反省し検討する日本人を見て、生徒たちは「日本が狭い国土の上に数々の奇跡を創造できた理由」が分かったという。

 日本人は小さな1つ1つの事柄に最善を尽くす。そしてそれを積み重ねて自己の民族精神を形成し、総合的な国力を向上させているのだ。こうした精神は学校教育と密接な関係がある。日 本の学生の礼儀正しさとサービス精神はわれわれも学ぶ価値がある。かつて礼儀の国の民族と称されていたわれわれが、今では日本民族に礼儀を学ばなければな らない。震災直後でも社会秩序が保たれた日本に、全世界は驚きと称賛の声をあげた。

 私は日本の小学生が給食を配っている写真を見たことが ある。われわれの大都市の子供たちはめったに働かない。それどころかわれわれは、学校でも家庭でも誰かが子供たちの面倒をよくみてくれることを願っている。日本人が生活上のあらゆる便利グッズを発明できるのも、子供の頃からきちんと労働を実践しているからだろう。

 労働は創造意欲を刺激し、労働なければ創造もない。これは簡単な理屈だ。日本は科学技術の発達した国だ。同時に民族の伝統もちゃんと残っている。これこそわれわれが学ぶべきことだ。
「恥を知って勇気を知る」ということわざにもあるように、自分たちに足りないところを認める民族こそ、最終的に強くなれる民族なのだ。われわれは過去輝いていたが、今では後進国だ。遅れていること、足りないことを素直に認めて、進んだ国家に学ぶことが必要なのだ。』

 かつて、日本が、大陸の中国に留学生を送って学び、また中国から渡来した人々から教えられたことは数え切れません。先ず「文字」です。これによって、中国の書物を読み学ぶことができました。さらに、後の時代に記録を残すことができました。次に、「政治制度」です。そのもっと重要なものは「律令制」でした。国として成り立つための知恵を学んだわけです。794年に首都とされた京都は、「平安京」と呼ばれて、隋や唐の時代の長安の都を模倣して作られています。京都の街は、「洛南」、「洛北」、「洛西」、「洛東」と、今でも呼ばれていて、「洛陽」の都に由来して呼ばれています。日本人が京都を訪ねると、まるで長安の街にいるかのような気分にひたれるのだそうです。

 さらに「思想」を学んできました。1500年もの間、日本人は、孔子の「論語」や「大学」、孫氏の「兵法」、李白や杜甫の「詩」などを学んで、素養を積んできました。21世紀の今でも、日本の高校では、「漢文」を学んでいます。孟浩然の「春暁」、柳宗元の「江雪」、杜甫の「春望」などを読み、唐代の詩人から、「文学の心」を学んでいます。ですから、日本の高校教育には、中華思想や文学からの影響は大きいと言えます。

(イラストは、小学校の「給食]の配膳の様子です)

口笛

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クチナシ

 昨日、「薄暮(はくぼ)」でしょうか、夕方の6時過ぎのことでした。バスに乗って、座席が空いていましたので、ゆったりと座ってました。しばらくすると、かすかに口笛(中国語では〈口哨koushao〉というようです)が聞こえてくるではありませんか。ここ中国では、これって珍しいことではありません。鼻歌を歌っているとか、声に出して歌うとか、よく耳にすることなのです。人が、『どう思うか?』なんて考えないで、ご自分の気分で自由に振る舞うことのできる雰囲気の社会なのです。

 車窓から外を眺めていると、何だか聞きなれたメロディーが聞こえてきました。何と、

   さくら さくら  やよいの空は
   見渡すかぎり  かすみか雲か
   においぞいずる  いざやいざや
   見にゆかん

と聞こえてくるではありませんか。五月で、とっくに華南の桜も咲き終わってしまっているのに、季節外れの口笛なのです。家の近くで降車するまでの間、ずっと聞こえてきたのです。だれが吹いていたのかといいますと、そう「運転手さん」で、三十代前半の男性でした。息子の世代です。何かいいことがあったのでしょうか、夕食で満腹していたのかも知れません。それとも、自分を励ましていたのか、雨続きで、ジメジメした気持ちを晴らしていたのでしょうか。つい口ずさんでしまいました。 

 まあ乗客としては、口笛よりも、安全運転に気を配って欲しいのですが、陽気な気分でハンドルを握っているのですから、まあ、『よし!』としたのです。「都バス」の運転手でも、京王でも小田急でも、日本では、こんな運転手は皆無です。運転規則とか、道交法があって禁止のようです。こちらのバスの中にも、『運転手に話しかけるなかれ!』と掲出されてありますから、本来なら、口笛だってご法度に違いありません。でも聞いていた私は、故郷の村の桜、母校の校庭の桜、みんなで花見に行った「高遠の桜」、去年、夜桜を見た「目黒川の桜」などを思い出させてもらって、何となくウキウキさせられたのです。

 そんな気分でアパートの中を歩いていましたら、植え込みに「くちなしの花」が咲き始めているではありませんか。つい、『・・・クチナシの白い花、おまえの・・・・』と、うるおぼえの歌を歌ってしまいました。このフレーズしか知らないので、後が続かないのですが、ジメジメの梅雨のような気候の中で、春、いえ気候不順の初夏を、感謝しながら過ごしております。

(写真は、八重咲きの「クチナシ(山梔子)」です)

『覚えていて・・・』

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「タチアオイ」

 湖南省の名蹟に、社員旅行で出掛けて帰ってきた教え子が、今朝、『今日も休みになりましたので!』と、お土産を下げて訪ねてくれました。総勢80名の二泊三日の旅行だったそうです。学校を卒業して、私たちの町から、そう遠くないところにある会社(日系企業)に就職して、週末に時々訪ねてきてくれる方です。日本語を使う機会は少ないのだそうですが、それでもずいぶん日本語が流暢になったのを感じました。また広州の会社に就職した卒業生から、先週、近況報告を加えたメールが届きました。文面は分かるのですが。彼もまた、日本語を使うことのない職場で仕事をしていますので、『せっかく日本語を専攻し、4年間も学んだのですから、忘れない努力をしてくださいね!』と返信のメールを出しました。

 来月、結婚をするカップルが、私たちの結婚生活が42年のキャリアがあるということで、『結婚について教えてください!』と言って、先週、家内と私を訪ねてきました。大学を卒業して、2年の専門コースを設けている学校で学び、卒業と同時に、そこで知り合った男性と結婚をするのだそうです。幸せになって欲しくて、経験を踏まえてお話をしたのです。この若い友人は、学生の頃からわが家にやってきては、台所の後片付け、家内が入院した時には、下(しも)の世話までしてくれた方で、明るくてハキハキしている女性なのです。『こういう女性と結婚する男性は、きっと幸せを噛みしめることに違いない!』と思ってきたのです。

 その折、『「健全な結婚生活」や「確りした家庭」を構築している町や国は、きっと繁栄していくに違いない!』こともお話させていただいたのです。結婚や家庭が軽視される現代、結婚や家庭に夢を持って生きて行ってほしかったからです。彼らの間に生まれてくる次の世代が、この二人をモデルに、次の世代の結婚生活が決められていくのですから、やはり大きな使命が結婚にはあるのだろうと思うのです。この二人に、昨日あったのですが、『先日はありがとうございました!』と言わないのです。実は、それが、ここ中国では普通なのです。

 私たちの国では、その日にお世話になったら、『今日は、本当にありがとうございました!』と言って辞します。そして次に会った時には、『先日は、お忙しのに、私たちのために・・・』と、再び感謝をするのです。ところが、中国では、その時に感謝をしたら、一回きりでことが終了しているのです。アメリカ人と8年ほど一緒に過ごしましたが、彼らもまた、二度目の感謝をしませんでした。それで一般的に、日本人は、『あれ、この間のことを何も言わないんだけど!?』と怪訝な思いにされることが多いのです。これも、文化や習慣の違いなのです。私たち日本人は、『またお会いしたら、感謝の言葉を忘れないようにしなくては!』と心に銘記するのです。それで、『先日は・・・・』という、これが日本の文化でして、ずいぶんと七面倒臭いのではないでしょうか。《過去にふりかえる日本人》と、《明日に目を向けて生きている中国人(アメリカ人)》の違いがあるのではないでしょうか。

 私が住んでいた街では、こんなことがありました。家族旅行をして、ちょっとしたお土産をもって隣り近所にあいさつをするのです。そうしますと、時を置かずに、何かお返しを持ってくるのです。そのタイミングが、嫌いでした。わが家は、もらったことを覚えていて、その感謝を、別の機会にするのに、即刻の返礼には戸惑ったのです。『お返しを忘れたら、何か言われないか!』といった恐れが、そういった行動を取らせるんだろうと思っていました。とても寂しい、心の通わない近所付き合いでした。こちらは、『覚えていて・・』という隣近所です。夕べは、おばあちゃんが作った、「木綿豆腐」を、幼稚園のお孫さんが、玄関を,、トントンと叩いて、持ってきてくれたのです。美味しいのです!『また何かあったら覚えていて・・・』の午后であります。

(写真は、五月の花の1つ「立葵(たちあおい)」です)

かつて(2)

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ソウル・永登浦区

ある日記に、次の様なことが記されてありました。

 『一体、日本人は朝鮮人を人間扱いしない悪い癖がある。朝鮮人に対する理解が乏しすぎる。(中略)[関東大震災について]自分はどうしても信ずることが出来ない。東京にいる朝鮮人の大多数が、窮している日本人とその家とが焼けることを望んだとは。そんなに朝鮮人が悪い者だと思い込んだ日本人も随分根性がよくな い。よくよく呪はれた人間だ。自分は彼らの前に朝鮮人の弁護をするために行きたい気が切にする。今度の帝都の惨害の大部分を、朝鮮人の放火によると歴史に残すとは忍び難く苦しいことだ。日本人にとつても朝鮮人にとつても恐ろしすぎる。事実があるなら仕方もないが、少なくも僕の知る範囲で朝鮮人はそんな馬鹿ばかりでないことだけは明かに言ひ得る。それは時が証明するであらう。(大正12年9月19日)』

 この日記を記したのは浅川巧(たくみ、1891~1931年)です。浅川は、山梨県北巨摩郡甲村五丁田(現・北杜市/高根町)に生まれ、山梨農林学校(現・山梨県立農林高校)に学び、1914年に、朝鮮総督府林業試験場に就職しています。兄の伯教とともに、朝鮮半島に伝わる陶芸である「白磁」の研究をして、蒐集した「朝鮮文化」の陶磁器や農具などによって、「朝鮮民族美術館」を設立しています。この巧もまた、日本が「日韓併合」の中で苦しむ朝鮮半島の人々のために、生涯を捧げているのです。

 当時の朝鮮半島は、日本が韓国併合をおこない、植民地統治を行なっていました。日本による「同化政策」の強制が行われ、農地・山林の収奪などによって、人々は苦境に立たされていました。とくに、朝鮮の人々に対しての「蔑視(べっし)」や「差別」が公然と行われていました。そういった様子を目にした巧は、『朝鮮に住むことに気が引けて朝鮮人に済まない気がして、何度か国に帰ることを計画しました!』と、友人に宛てた手紙に書きのこしています。彼の心の中には、何も違わない朝鮮の人々を友人として、自ら「朝鮮の衣装」を身につけ、朝鮮語を学んで、上手に使う努力を重ねていくのです。朝鮮の家屋に住み、進んで朝鮮の社会に入っていきました。そのために、よく朝鮮人と間違えられたりするほどだったようです。文化的にも精神的にも民族的にも、極めて近い朝鮮半島の人々の苦しみや痛みを知ろうとしたからです。

 また、当時の朝鮮半島は、乱伐などによって荒廃していました。そんな朝鮮の山の緑化を推進していくのです。そのために植林、肥料の研究、病害虫の駆除などの分野の研究や開発をしたのです。巧の最大の功績は、人工的には難しいとされていた「チョウセンゴヨウマツ」などの種子の発芽を可能にする開発だったと言われています。日本かの裏側で、そういった努力を、日本人技術者が、黙々と進めていたことも忘れてはいけないのではないでしょうか。そのためでしょうか、浅川巧の墓は、ソウル(京城)郊外の共同墓地にあります。かつて、こういった人物がいたのです。
 
(写真は、「ソウル・永登浦区」です)

かつて

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ピョンヤン市内の近影

 ピョンヤンは、朝鮮民主主義人民共和国の首都で、漢字表記にしますと「平壌」になります。私たちの時代には、韓国の首都を「京城(けいじょう)」、朝鮮民主主義人民共和国の首都を「へいじょう」と呼ぶように教わったのです。この平壌で、かつて『聖者』と呼ばれた日本人がいました。重松髜修(しげまつまさなお)という方で、1891年、愛媛県温泉郡粟井村(現在は松山市)に生まれ、拓殖大学の前身である専門学校で、朝鮮語を学んだ方です。専門学校在学中から、『朝鮮のために役立つ何かをしなければならない!』という使命感を落ち続けて、その機会を待ち望んでいました。24歳の時に、朝鮮半島を、日本のような豊かな国にするために渡って行きます。

 学校を終えると重松は、朝鮮総督府の官吏として務めるのです。しかし、『朝鮮の人たちと触れ合うことの出来る仕事をしたい!』との願いを捨てがたく、朝鮮金融組合に転職をします。この転職は、貧しい農村の「小作人(地主の畑を耕作してその手間賃で生きていた人々のことです)」が、高利の金貸しから苦しめられていたので、どうにか助けたいと思っていたからです。そのように朝鮮の人々を愛してやまなかったのですが、朝鮮独立運動の中で、運動員の拳銃によって右足を撃たれてしまい、その後、不自由な足で奔走するのです。この事件の後、彼は平壌にあった金融組合の事務を担当します。その仕事に飽き足りなかったようです。重松の残した手記に、『残る不具の半生を半島農民のために捧げよう。こう決心した時、私は心臓の高鳴りをさえ覚えた!』と記しています。

 平壌から40キロほどの農村に行った時、貧しい農民たちに、《副業》を勧めるのです。日本で美味しい鶏肉の一つに、《名古屋コーチン》がありますが、「養鶏」をして、現金収入を得る道を開いこうとしたのです。当時、その農村で飼われていた鶏の産む卵は小さかったので、この名古屋コーチンや白色レグホンという鶏の改良種を飼うことを奨励し、得た現金収入を《貯蓄》させようとしたのです。そのために、自ら鶏を飼い、《有精卵》の孵化を成功させ、生まれた鶏を、農家に無償配布の計画を立てます。日本人の重松の勧めはなかなか受け入れられなかったのですが、根気強く説き続けると、一軒、また一軒と養鶏をはじめる農家が出てきたのです。

 養鶏を始めてみると、そのもらった鶏の産む卵は見事だったのです。生んだ卵を重松の妻・マツヨが売り歩きますが、売れ過ぎて手が回らなくなり、「江東養鶏組合」を組織するのです。養鶏が始まってから1年ほどたった時に、一人の農家の寡婦が、『30円貯まったので、今度は牛を飼いたいのですが?』と相談にやってきたのです。また、一人の青年が貯金をおろしにやってきたので、重松が理由を聞くと、『医者にかかれない貧しい人のために医者になりたい!』と答えたのです。そういったことがあったそうです。

 戦争が終わった時、重松も逮捕され、検事の取り調べを受けました。担当検事は、厳しく取り調べをした後、書記が席を離れると、その検事は、『先生、私を覚えていませんか。先生の卵の貯金で学校に行った金東順です!』、重松は、少年の頃のことを覚えていたのです。そのおかげで、47日間の拘留の後に釈放され、京城を経て日本に帰国が果たせたのです。こういった日本人が、「日韓併合」の動きの中に、かつていたのです。

(写真は、「ピョンヤン市内の近影」です)

和服~民族衣装~

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「男の着物姿」

 和服の生地(きじ)に、「紺大島」とか「大島紬(おおしまつむぎ)」いうものがあります。父が、羽振りの良い若い時に誂えた和服が、これでした。今でも、昨年召された母の箪笥の中に残されていると思います。次女の結婚式のために、父の体に合わせて誂えてあったのを、母が私のために、ほどいて縫い直してくれたのです。それを、オレゴン州のユージンの町の教会で着て、式に臨んだのです。何十年も経っているのに、絹糸を紺色に染めぬいた生地は、全く色あせることがないほど光沢がありました。その着物に袴(はかま)をはき、羽織りをはおった時、なんとも言えない感慨がしてきました。

 帯を締めて、袴を履き、足袋に草履という出で立ちは、『俺って、やはり日本人なのだ!』と感じたのです。こういった感覚というものを、やはり受け継ぐのでしょうか。そう言えば、弟のために母が縫った「絣(かすり)」を着て卒業式に出たことがありました。自分の他にふたりほど、和服の男子がいましたが、みんなと違った格好をするというのは勇気がいり、またちょっと優越感にもひたれるのは特権なのでしょうか。遠い日の思い出の一つであります。

 最近、着物を着て、下駄を履いてみたいと、しきりに思います。戦前、日本人が下駄をはいて東シナ海を渡ってきたので、そんな格好をしていたら、侵略者の出で立ちと思われ、対日感情を悪くしてしまうことでしょうか。こちらでは決してしようとは思いませんが、体が、そういった感触を求めているように感じるのです。少しばかりの余裕があって、自由に使えるなら、「紺大島」の生地で着物と羽織を誂え、袴も作ってみたいと思うのです。それに桐の下駄か雪駄(せった)をはいてみたいのです。格好をつけたいという洒落っ気というよりは、「日本人の血」なのでしょうか。こういった思いが、好いのかどうか判断に苦しみますが、懐古趣味というのでしょうか、そんな正直な気持がしております。もしかしたら、中華料理の食べ過ぎかも知れません。

 明治のご維新で、日本人は断髪し、和服を脱ぎ捨てて、洋服を着始めました。その変わり身は、服装だけのことではなく、思想的なことも含めて、日本人の「変身」は、その特徴を表していると言われています。機能的で実際的なものに、躊躇しないで移り変われる、この「身のこなし」は、私たちの一大特徴なのです。新選組の副長の土方歳三の写真が残されています。彼が函館で撮った写真は、短髪にシャツを着、ズボンをはいた洋服姿なのです。百姓の倅(せがれ)だった彼が武士、旗本になりたくて侍の姿をしたのに、その急激な変化に驚かされるのです。平成の御代に生きる私が、和服を求めるというのは、そういった動きに逆行してしまうのでしょうか。でも、これは「民族衣装」なのです。

 新宿駅の地下道を、東口に向かって歩いていた時、高下駄を履いていました。その下駄の音が壁に、妙に高く響いていた音が、耳の奥に残っております。

(写真は、「男の着物」です)