フェイス

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英語教師をしていたフェイスが、『ボクと一緒に行ってくれますか!』と言うので、禅宗のお寺に、その住職を訪ねたことがありました。フェイスは、東洋的な神秘さを求めて、この住職と出会って、指導を受けてきたのです。ところが、座禅をしても、彼の心の隙間が埋められることがなく、悶々としていたようです。そこで彼は、この交わりを断ることを決心したのです。どう瞑想しても、一向に邪念を追い払うことができなかったのです。それで、この住職からもらったプレゼントを返したかったのです。不安だったのでしょうか、私の同行を求めたのです。

一緒に行き、応接間で、和やかに話が始まったのです。しばらくすると、何かの言葉の行き違いがあったのでしょうか、まだ若い住職が、烈火の如く怒り始めたのです。フェイスは日本語ができると言っても、宗教的な難しいことを表現することなど、まだできる水準ではなかったのです。忍耐の緒を切ったのか、断られたことや、プレゼントの返却に不興を表し、激しい言葉をフェイスにぶっつけたのです。フェイスは驚いていました。彼が怒りをぶつけたことで、フェイスは、自分の決断が間違いでなかったことを得心したようでした。

同職の方、みなさんが、彼のようだとは思いません。立派な人格者もおいでです。 この方は、フェイスと同世代、まだ若かったのです。教えと自分の現実とに、まだギャップのある年代だったのです。心の大波や小波、さらには細波(さざなみ)を鎮めることができるのは、別のことなのだと感じたのです。

このことを思い出したのは、私たちの国の首長が、「禅」を組んだと、今朝のニュースで読んだからです。国会が一段落して、何か「しずまり」が欲しかったのでしょうか。それを終えた首相は、『何か、嵐が過ぎ去ったようだ。』と感想を語ったそうです。国政を司る、大きな責任を負う人でないと、こう言った境地にはならないのかも知れません。首相の顔とフェイスの顔がダブって見えてしまったのです。

盲腸の手術の時、一晩、彼のベッドの下に寝て、世話をしたことがありました。その後の消息をつかんでいません。こちらからも連絡をしていませんから、きっと帰国していることでしょう。可愛いお嬢さんがいました。もう、彼女も、あの頃のフェイスの年齢以上になっているのでしょう。フェイスの心の隙間は、今では、しっかりと埋まっているのだろうと思う、年の暮れであります。

(写真は、アメリカ合衆国の国花の「薔薇」です)

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