水炊き

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今朝4時半の気温は8°です。『寒い!』のです。那須高原に近いからでしょうか、早く冬が来ているのかも知れません。昨日の晩ご飯は、私の父が好きで、母がよく作っていた「水炊き」でした。白菜、春菊、長葱、それに鶏肉でしたが、わが家は「豚肉」に変え、「しめじ」を加えて煮たのです。それを、友人が鹿沼から買って来てくれて残しておいた「赤大根」と生姜とを「おろし」にして、〈創味〉を醤油がわりにして、それにつけて、〈したつづみ〉と言う頂いたご当地米を炊いて、食べました。

この水炊きは、初冬の夕食には、一番のお似合いでしょうか。ちゃんとでデザートもあり、歓迎の意味で卓上において置いてくださった「柿」を剥いて食べたのです。退院当初は、『食べたいわ!』と言うから作っても、なかなか食べれなかった家内が、昨晩も『フーフー』しながら、実に美味しそうに食べてくれました。最近は食欲旺盛なのです。

昼前に、ここにやって来られたご婦人が、家内に頼まれた物を買いに行って帰って来た私に、ドライケーキを一つくださったのです。ここのボスと3人で談笑してから、それを持って二階に上がり、テーブルの上に置いたら、家内に食べられてしまいました。もちろん、『食べていい?』と言った後でした。ほとんど間食をしなかった彼女が、お腹が空くのでしょうか、甘い物には気をつけて来ているのですが、彼女には、「食欲の秋」の到来です。

深まり行く秋で、もう鳴き始めている鳥の泣く声も、秋色がしているのかも知れません。子どもたちが、私たちの《巣》を探してくれています。彼らは、東京に近い、ここから南の方にに越してくるように願っていますが、家内は、『栃木がいいの!』と言っています。それで子どもたちが折れて、獨協医科大学病院に通院しやすく、通院の間に生活しやすく静かで、鄙びた地にある家を探してくれるのでしょう。好い一日をお過ごし下さい。

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失いしもの

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今回の被災にともない、悲しいことがいくつかあります。病んだ家内の闘病生活のために、良友夫妻がお貸しくださった家が、住めなくなってしまったことが第一なのです。

中国から急遽帰って来て、ひとまず、家内が落ち着いた家でした。その翌々日の1月10日に、家内は獨協医科大学病院に入院し、4月15日に退院するまで留守をしたのですが、私と、見舞いに来てくれた娘たちが泊まり、その家族が駆けつけてくれて泊まった家でした。また、日本で生活をしている息子たち家族が、見舞いがてら訪ねて来てくれた家でした。さらに友人たちや、親族がやって来てくれたりもしました。

一喜一憂、いえ一喜多憂し、それでも天を見上げ、手を合わせながら、人の非力を覚えながら、治癒を信じ、帰って来ることを、切に願った家でした。家内を見舞い、下着を持ち帰って洗濯し、物干しにかけ、乾いた着替えや頂いた便りを持って病院通いをした基地でもありました。また友人知人からに問い合わせに応えたりした家なのです。

何よりも、病状が快方に向かって、退院して帰ることのできた家でした。見舞ってくれた家族や友人たちと談笑し、喜び合った家です。中国の華南の街からも、三組の見舞客が訪ねてくれ、中華料理を作って、家内に食べさせてくれた台所のある、床掃除をしてくれた家でした。

華南の街の家では、毎年、夏先に育てたのが朝顔でした。健気に一所懸命、次から次と咲いては喜ばせてくれる花が好きだったからです。家内が種を蒔いて、台所の流しの下の暗闇で発芽サせ、鉢に植え替えて、育てた花なのです。退院してきた家内が、最初にしたのは、この朝顔の種まきでした。もう、家内がそうすることなど、ありっこないと思ったことでしたが、朝顔が花開き、次から次へと咲き出して行きました。

先週末の19号台風の襲来で、決壊した川の水が押し寄せて来て、強風に見舞われながらも、その強風雨に耐えて、月曜日の朝、二輪の花が咲いたのです。諦めていたのに、開花してくれました。ところが、そのまま、ここ高根町に越して来てしまったのです。水遣りの世話をしないで放置してしまった〈申し訳なさ〉で、思いがいっぱいです。

落ちた朝顔の種が芽を出して、小鉢に分けて植えたものも、そのままです。人が作り出せない命を、人間の都合で断つという悲しみです。40年前に、上階の家のガス爆発で、ベランダのジュウシマツが焼死してしまいました。そして13年前に、中国に行くに際して、飼い主を見つけられず、市の保護センターに連れていかざるを得なかった、二匹の猫の保護責任、養育責任の放棄もありました。

みんな辛くて、悲しい出来事でした。でも、どうすることもできないことは、赦されると思っております。今季咲いた朝顔の種が、残した本棚の中に置いてあります。来夏、その種を、近々見つかるであろう家の庭かベランダの鉢に植えようと思っています。これで好いでしょうか。〈失いしもの〉は、確かに多いのですが、〈得しもの〉の方が、はるかに多いのは、感謝なことであります。

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秋深し

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「秋深し」でしょうか、初冬の様な、気温11°の朝です。《台風一過晴天》と言いたいのですが、空は雲が多く、日中は晴れたり曇ったり、20°には届かない、今日の予報です。雲間から陽が出てきています。

四方に窓があって、360度見渡せる、鬼怒川の近くの標高100mから200mの丘陵地帯に、この倶楽部の総二階の建物は位置しています。広い関東平野が、この辺りになると標高が高くなり始めて、山岳地帯から山岳地帯に変わって行く様です。人口3000人弱の町のサイトに、次の様な記事が載っていました。

『天皇陛下の皇位継承に伴う儀式である「大嘗祭」につきましては、5月13日に本県が悠紀地方に選定されていましたが、9月18日に、宮内庁から本県産米を供給する斎田の発表があり、高根沢町のたんぼに決定いたしました。大田主は斎田を所有する大谷の石塚毅男(いしつか たけお)氏が選ばれた。』

やはりお米が美味しいのでしょうか、見ず知らずの私たちを迎え入れてくださったみなさんが、「お米」と「柿」とを台所のテーブルの上に、ご用意し、暖かく迎え入れてくださっています。倶楽部員のどなたかの田圃で収穫したもので、昨夕の食事に炊いて戴きました。美味しかった!

この夏頃から、これまでは飲むことのなかった〈薬〉を、毎朝食後に飲む様になっていたのですが、慌ただしく被災した家を出て、高血圧症の薬を忘れて来てしまったのです。それで昨日は、近くの内科医に診察に行き、30日分を処方してもらって来ました。まだ《薬の大切さ》の自覚が足りない自分に呆れています。

病弱な子ども時代に、粉薬や水薬を、イヤと言うほどに飲んだので、その分、成人してから、この歳になるまで、〈無薬自慢〉でいい気になっていのですが、食後に家内から、『薬は?』と言われては、〈クスリ〉と笑って手を伸ばそうと思ったら、壁に用意したのを置き忘れてしまったわけです。

〈玉にキズ〉は、最寄り駅から徒歩25分もあって、〈徒歩5分〉の前の友人の家と比べて遠いのです。こんなに静かで、綺麗にされて、整っている部屋に避難できているご好意に、ちっと感謝知らずなのを詫びる思いでおります。

週末には、次男が親の安否を尋ねて、やって来ると言っています。新宿から宇都宮には一本で来れて、烏山線に乗り換えで二駅です。交通の利便が好いのだそうです。環境の変化、洪水の罹災の中、家内は守られております。この町のタウン情報、獨協医大病院の附近の貸家情報などを調べては提供してくれたり、両親を慰め励まそうとしては説教の一部を翻訳して送信してくれたり、娘たちもしてくれています。長男は〈家探し〉を一緒にしようと言ってくれています。感謝!

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引越しと親切

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昨夕から住み始めた家は、生まれてから〈24回目の家〉にあたります。こんなに引越しをして来たことに、当の本人が驚いております。人は、小学校時代を過ごした街が、一番懐かしいのだそうです。その街で、ウサギは追いませんでしたが、ザリガニやハヤは釣った覚えがある街に、小二で引っ越して来て、二十歳まで住んだ街が、《ふるさと》でしょうか。

中国に行って、最初に住んだのは、天津の天文台のある道路脇にあった外国人アパートでした。そこは、ホテルの様な作りで、ロビーを通って上階の部屋に行き来したのです。習いたての漢語を、そこで復習する宿題で、会話訓練を積みました。その後、華南に移り住んだ家は、学校のホテルでした。そこに一年ほどいて、師範大学の教員住宅に住み、友人の同僚の持ち家に引っ越しました。木の香のする素敵な家でした。

ところが檻の様な塀に囲まれ、家の窓という窓にも檻の様な柵がついていましたが、自分が囚人ではないので、すぐに慣れました。そして、その後、友人が留学をして、空いてしまう家に住んで欲しいと言われて、そこに住み始めました。そこを中国での最後に、家内の病気で、この9月に、13年に区切りをつけて、家の整理を終えて、帰国しました。

そして、帰国と同時に、家内が、下都賀郡壬生町にある、獨協医科大学病院に入院したのを契機に、友人のご好意で、栃木市の家に住み始めたのです。ところが在栃10ヶ月目に、先週末の台風19号の大雨、増水、氾濫で、お借りしていた友人宅が、床上浸水に見舞われてしまいました。闘病通院中の家内には、『衛生上の問題があるので、ここを引き払ったほうがよろしいのではないでしょうか!』との友人のご子息の助言で、この方の友人の倶楽部の空いた二階に、昨夕引っ越して来たところです。

一応、ふさわしい家が見付かるまで、と言う条件で、ご好意に甘えることができたのです。この避難所の、高根沢町は、宇都宮から宇都宮線、烏山線のと言うJRの分岐駅・宝積寺(ほうしゃくじ)駅が最寄りです。家内は落ち着いております。引越し24回目が、こんな形になったことに、とても驚いている私です。まさに旅人、寄留者の心境です。

次男が家内のお腹の中にいた初夏に、会場の家のガス爆発で、消防隊の放水する水で、家財道具がずぶ濡れになってしまい、引越しせざるを得なくなった、あの時を思い出しています。いろいろな経験をして来ましたが、自然のもたらす猛威を、身をもって体験した今回の罹災と引越しでした。

昨日、こちらに着いてから、忘れ物に気付いて、息子に栃木まで連れ戻ってもらったのです、家で忘れ物を取って、小山駅まで送ってもらいました。その駅の改札付近で、一人の高校生に行き方を聞きましたら、親切に教えてくれたのです。ところが10番線ホームで待っている私を追って来て、『宇都宮駅で8番線に乗り換えてください!』と、わざわざ追加説明をしてくれたのです。いやー、親切な女子高校生に感謝した次第です。もちろん息子にもでした。まずはご報告まで。

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罹災

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台風19号の異常な降雨量によって、家が〈床上浸水〉の被害にあってしまいました。警戒レベル4で、二階に避難して、家内も私も難なきを得ましたが、床が冠水してしまいました。朝5時過ぎから、部屋の泥だしで悪戦苦闘の1日でした。駅の向こうから流れて来た水に襲われてしまったのです。

付近の巴波川や永野川が決壊したり、増水したりだそうで、今まで、テレビニュースを見て来て、他人事だと思っていたことが、我が身にもと言った感じです。このままでは、特に闘病中の家内には、畳の部屋も水を吸っていたりで不衛生だと言うことで、友人のご子息が心配してくださっています。知人の倶楽部の二階が空いてるので、使える様に頼んでくださったているのです。

今日、その責任者の方がが来られて、当座の避難場所をお借りするかどうかを決めようと考えています。ちょっと“令和のエクソダス”と言った感じがしております。35、6年前に、住んでいたアパートの上階のガス爆発で、消防隊の放水で、持ち物が、ほとんど使えなくなって、避難した時を、今日は思い出しています。

人生、いろいろなことがあり、様々に経験して来ましたが、自然災害の罹災をするという、新体験が積まれたわけで、罹災者のお気持ちが、やっと理解できています。腰まで浸かるほどの被害を受けられた方もいますから、まだまだ軽い罹災になるでしょうか。

写真は、綺麗に掃除をした後の、外の物置と、ミーティングルームの浸水後、水が引いた時のものです。物置には、増水時の水位が記されていますから、結構、水位は高かった様です。すっかり二階の部屋で眠っていましたので、増水、浸水に気づきませんでした。今日、長男と孫二人が助けに駆けつけてくれます。ご報告まで。
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意地

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〈女の意地〉、私の母親に、この〈意地〉があったのを思い出すのです。母の生母が、綺麗な女(ひと)で、下宿していた学生と恋仲になって、母を宿したのです。まだ女学校でたての十代だったそうです。親に反対されて、慕う人と離され、それでも子を産んだのです。これも親や親戚が強引に、生まれた子は、養女に出され、養父母に育てられることになったのです。これが母の誕生の顛末です。

今も昔も、こう言った話は、小説の中だけではなく、現実に多くあるのでしょう。母は、少し色は黒かったのですが、〈今市小町〉と言われたのだそうです。親戚に聞いたそうで、実母が、奈良にいることを知って、17の時に、母親を奈良に訪ねています。会えたけど、『今の幸せを壊して欲しくないので帰って!』と言われ、帰ったのです。

どんな気持ちで帰りの汽車に乗ったのでしょうか。でも母は、14の時に、カナダ人起業家と出会って、いと高き天に自分の《本当の父》がいると聞いて、逆境の悲しさや辛さの中にいる自分を、しっかりと抱きかかえてくれる方を知るのです。それが、母の95年の生涯の生きる支え、力だったのです。きっと、その時に、良い意味で〈意地〉を内に宿したのかも知れません。

 この母の三男坊の私は、父の寵愛を受けて、私立の中学に入れてもらいました。〈大正デモクラシー〉の中で設立された学校で、私学では有名な教育者が校長でした。一学年百名ほどで、医者や都会市会の議員や社長の子たちがいました。また中央競馬界の有名な調教師や馬主の子たちもいました。

父兄会になると、そのお母さんたちが〈女〉となって、“ 着飾りショー " になるのです。〈持ち物の誇り〉です。母と言えば、そのお母さんたちには、到底叶わないわけです。生活レベルが桁違いだからです。それでも、〈女の意地〉、いえ、〈父の子としての誇り〉と言った方がいいでしょうか、『負けたくなかったわ!』、だそうです。やはり〈意地〉になっていた、三十代の母でだったのでしょう。

そんな闘志、競い合おうとする気概、生きるバネで、母は自分でも決めるべき時は決めて生きていたのでしょう。〈いじけ〉よりも〈意地〉を持つ方が、まだまだいいからです。そんな母の三男の私は、〈意地〉が弱いかも知れません。弱い理由は、私の競争相手は、〈私自身〉 だと分かったからです。それでも〈父の子としての誇り〉は満々とあるのです。誰にも、どんなことでも奪われたり、さらわれたり、盗まれることがありません。《確乎たる誇り》があるからです。
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台風19号

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歴史上、地球上最大規模の台風19号を、アメリカ軍が撮影しています。もう、水で滅ぼされることのない地球ですが、この暴風雨の塊が、今週末に、日本に被害をこうむることが最小限である様に切に願っています。

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心の満足

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〈惨めな体験〉をされたことがおありでしょうか。褒められたり、感謝されると、いい気持ちになって、有頂天になってしまうので、時々、その〈惨めさ〉を思い出すことにしています。

父に叱られて、家に入れてもらえずに、里山の雑木林の木の下で、枯れ葉や稲を集めてきて、それを引いて、その中で、夜空の星を見上げながら、小学生の私は寝たことがありました。また、機関車の車掌室や貨車の中で、夜を明かしたこともあります。家の布団の中で寝させてもらえず、浮浪児になってしまうのかと思ってしまうほど〈惨め〉でした。

中部山岳の街の駅から、家を訪ねて来た母と一緒に上京していた時のことです。いつもは鈍行しか乗らないのに、珍しくも、その時は母が出してくれて、特急列車に乗ったのです。その車両の向こうの方に、私の務めていた学校の社会科の主任の女先生が、学生を連れて乗車していたのです。目が合ったのですが、先生は、私だと気づかなかった様です。

その時は、弟からもらったズボンとジャンバーを着ていて、オシャレで古着など着たことなどなかった私なのですが、アメリカ人起業家のお手伝いをしながら学んで、細々と生活していた時期でした。弟には申し訳ないのですが、ちょっと〈みすぼらしい身なり〉で、人に会いたくないと思っていたのに、選りに選って、この前の職場の上司と出くわしたのです。私は目をそらし、背中を向けていました。“ ダンディー準 ” でしたのに、〈惨め〉でした。

こちらに来て、雨の日でした。下駄箱の中に、古びた半長靴の靴があって、それを履いて、1キロほどの店に買い物に行ったのです。足を濡らしたくなかったからです。ところが雨に濡れた靴の底の部分が取れてしまい、ビショビショに足を濡らして、底無し靴を履いてお店に入ったのです。まずサンダルを買って履き替えました。雨の中を歩く内に、接着剤が効かなくなってしまった靴を履いてトボトボ歩くのって〈惨め〉でした。

これも雨の日でした。歩いて買い物に行って、重い買い物袋を下げ、傘をさして、これもトボトボ歩いていました。その横を、同世代のご婦人が、しぶきをあげながら車で追い越して行きました。どこに行くにも車に乗っていた私なのに、車のない自分、免許証を失効してしまった自分が、雨としぶきで濡れたのが〈惨め〉でした。

貸家にしか住んだことがない私の前で、何時でしたか、三十代の男性が、持ち家自慢をしていました。今回、家内が病気になったのに、住む家がないので、空き家を持っている友人にお願いして、貸してもらいました。そんな〈不甲斐ない〉私は、家内の闘病のための家を持たせないことで、申し訳なく〈惨め〉に思ってしまうのです。

ところが家内は、どんなでも、雨露を凌げる家があることで満足し、感謝しているではありませんか。物を持つことで安心しなくても大丈夫なのです。彼女には、〈惨めさ〉などないのです。こんな素敵な大きな家に住めて、そこに友人たちや兄弟姉妹や子や孫が訪ねて来て、和気藹々として交わることができています。近い内に、『泊まってもいいですか?』と言う中国人の若い友人家族が、見舞いがてら泊まりに来ると言っています。

そのご夫妻は、華南の街にも、東京にも家を持っていて、そこに一緒に住んで闘病する様に、何度も言ってくれるのです。また何時の日にか、華南の街に戻ったら、住む様に言ってくれている家が何軒かあるのです。彼らは、家内が大好きなのです。

私の知人は、ローマの監獄の中にいても、持ち物を盗まれても、二枚目の下着も住む家もないのに、「私は、すべての物を受けて、満ちあふれ・・・満ち足りています」と言えた人でした。この人は、この地上に、富を蓄えず、地位を得ず、家族でさえも持ちませんでしたが、幸せでした。一見〈惨め〉に見えますが、《心の満足》を生きた人でした。
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甘露

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昔、よくなめた飴に、「甘露飴」がありました。今日、10月8日は、二十四節気の「甘露」です。どんな時候かと言いますと、「露が冷気によって凍りそうになるころ。雁などの冬鳥が渡ってきて、菊が咲き始め、こおろぎなどが鳴き始めるころ。『暦便覧』では、「陰寒の気に合つて露結び凝らんとすれば也」と説明している(ウイキペディア)」だそうです。

それにしても、気温が日中、しかも夕方に、30℃近くになったままの暑さには、期待が裏切られた私の体が混乱をきたしている様です。しかも、日本の西南方面の海上には、台風19号があって、日本列島を窺っています。自然要塞の様な中部山岳の盆地で、生まれ、そしてアメリカ人起業家について戻って、、長く生活してきた私には、ここ栃木も、後ろの山々が控えていて、要塞の中の気分でいます。

でも、〈菊薫る秋〉、秋の花々も、なんとなく澄まし顔をして咲くかの様です。冬にここに住み始め、春になって栃木市民になり、猛暑の夏をめいっぱい過ごし、今や秋を迎えています。ここは、まるで「甘露水」を飲む様に、水も美味しいのです。本当の甘露水は、水に砂糖などの甘味料を入れて作るのですが、〈美味しい水〉を、『まるで甘露水の様!』と言うそうです。

北海道のニセコの湧き水が、冷たく美味しくて、ある方が、そう言ったと聞いたことがあります。そう言えば、ふるさとの湧き水が美味しかったのを思い出します。また、東京に越してきて、水道が引かれる前、わが家にあった井戸水が、夏は冷たくて、冬は暖かくて、飲んで美味しかったのを思い出します。
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昨日、図書館の行き帰りに、道から奥の方に、「ポンプ井戸」がありました。家庭菜園の水遣りにでも使うのでしょうか、まだ現役然としておりました。ついぞ見かけなかった井戸が、身近にあって、汲んで飲んでみたくなってしまったのです。

華南の街の家から、菜市場に行く道に、同じ井戸がありました。ポンプも鶴瓶もなかったのですが、この水を生活用水に使い、洗濯にも使ったのでしょう。きっと〈井戸端会議〉もされていたのかな、と思ったりしていました。私がよく読んだ本の著者の「倪ni」と言う方が、若者たちを集めて講義をした校舎や宿舎跡に、その井戸がありました。覗き込んだら、そこに私の顔が写って見えました。

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読書

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秋になると、必ずの様に、「先生」を思い出すのです。教師に恵まれて生きて来たと思い返しているのです。小学校1年から2年までの担任の内○先生、5、6年の担任の○藤先生、中学の担任の小○先生、高校の教師陣の夏○・西○先生、大学のゼミの教師の天○先生と社会思想史の講師の阿○先生、私の妻の愛し方まで教えてくれたアメリカ人企業家のK氏、難しい時期になるときっと家に招いて数日過ごさせてくれたB氏、こちらに来て出会った○氏、まだまだ数え上げられます。

『一年を思う人は花を、10年を思う人は木を、百年を思う人を育てる!』のだそうですが、すぐに結果の出ないと「教育」が、人の一生にとって大切で、難しいことかが分かります。大体、人は、20年学んで、40年働き、もう20年の余生を過ごすのだそうです。この頃では「終活」が言われ始めています。どう学び、どう働いたかによって、余生が決まるのですから、退職後に自己努力することでもなさそうです。で、私を教育してくれた人を思うのです。

仕事から離れたらしたいことは、図書館から一里ほど離れた家に越して、家内に作ってもらった弁当を持って、そこから図書館に歩いて行き、日柄読書三昧に耽りたいものです。まだ学び足りていない自分だからです。ですから、歩みつつ、学びつつ、退職後を生きてみたいのです。矢内原忠雄が、「読書」について、次の様なことを書いています。

『・・・古典を読むのは真に楽しい。何千年何百年という「時」の試煉を経た書物で、しかも単に考古的好事家の玩弄物でなく、現代人に取りて一般的興味あるもの、之が古典である。古典は単なる古書ではない。少しく親しき態度で古典を読んで居ると、其の著者は歴史的服装を脱いで、活きたる者となって我々の前に現われる。現代の人が時局の下に萎縮してしまって、何も語らないか、或は奴隷の言葉を以てしか語らないか、或は偽り曲げた言葉を語る中にあって、古典は率直に、詳細に、真実を語ってくれる。しかもその語るところは現代の活きた現実に触れている。古典は我々に真理の永遠性を感ぜしめる。我々は古典を読んで、驚くほどに現代を知るのである。「時」の波を越えて活いくる永遠の真理探求者と手を握って現代を論ずる、之が私には楽しくてならないのだ。』と。

この矢内原の著した本に、「世の尊敬する人物」があります。彼があげたのは、エレミヤ・日蓮・リンカーン・新渡戸博士の四人でした。初めの二人は、《預言者型の人物》であり、後の二人は、《常識家型の人物》なのだそうです。この人たちについて、次の様に矢内原は言っています。

『而して私の尊敬する点として、この四人に共通する性格は次の四つである。
(一)真理を愛したこと。
(二)誠実であったこと。
(三)平民的であったこと。
(四)欠点ある人物であったこと。』と。

この「欠点のある人物」と言うのが好いですね。矢内原自身、東大の学長をするほどでしたが、自分の欠点の多いことを、臆面もなく告白する人でした。ご子息も、そんな父だったと書き残しています。《欠点》については、誰にも負けないほどである私は、そう言った人たちに親密さを感じて、ホッとするのです。老いたら、ホッとして生きたいではありませんか。そうそう図書館に行くときは、家内も誘う日も作りたいと思いました。

ここまで、以前の投稿文です。秋って、「読書」の季節ですね。「書」、とくに「古典」を先生にして、秋の夜長を楽しむのも好いことでしょうか。私の読みたい本の数は、ゆうに百冊をこえています。きっと図書館の蔵書の中に、見つけることができそうです。ところが今日、家内と私立図書館に行って、文化的活動をしました。蔵書の中に、何と「矢内原忠雄全集」を見つけ、有頂天の喜びでおります。図書館に、これから脚繁く通うことでしょう。

(エレミヤを描いたものです)

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