ローラーブレード

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roller skating

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 私たちが中国に住み始めて四年ほど経った、2010年の秋に、〈流行り言葉〉が、中国中で話題になり、またたく間に世界中に広まっていきました。それが、『我爸爸是李剛(俺の親父は李剛だ)』でした。

 河北省の河北大学の校内で、構内速度制限が5km/hに定められているのに、高級欧州車が猛スピードで走り抜け、校内でローラーブレードを楽しんでいた女子大生をひき逃げして、運転していた学生が校門から出ようとしました。事件を知った学生たちに、一般道に出ようとした寸前で、その学生を取り囲んだのです。その運転手が、とっさに叫んだのが、その言葉でした。

 今日日の日本を騒がせている、『俺の親父は⚫️だ!』に酷似しているのです。親の特権に胡座をかく子どもって、どこの国にもいるのです。その中国では、「富二代」とか、そのひき逃げ事件の男の様な「官二代」が、わが物顔に好き勝手をしている様が揶揄されています。お父さんが政界や官界や財界で偉かったりする子どもを、私たちは〈親の七光〉と言いました。子は偉くもないのに、威勢が良いのです。でも〈偉さ〉って何でしょうか。

 その自動車ひき逃げ事故で、被害にあった一人は重症を負いましたが、もう一人の女子大生は亡くなっていました。二人とも農村から、夢を持って出て来た新入生でした。被害者が貧しい家庭だと知ったのでしょう、加害者の親は、示談に持ち込んだのです。その親は、警察署の幹部で、総資産が日本円に換算して一億二千万円ほどwもありました。公安副局長の通常の給与ではあり得ない資産を持っていたのです。それなのにわずかな額で示談で済ませてしまいます。

 子への処罰も緩いもので済ませてしまう、社会構造は、日本も同じです。社会に大きく貢献しているのは、在野、市井の庶民なのにです。わずかな耕地を耕し、小さなポンポン船で漁をし、野菜や果物を店頭に並べて商いをする人たちです。彼らは忠実に納税をしている人たちなのです。その税から俸給を得て生きている者たちが、勘違いして特権意識で偉ぶっているのが現実の社会です。

 親戚に、先輩に、同郷に、同窓に、知名で有名で著名人がいると、全く関わりがないのに、『✖︎✖︎さんは・・・!』と言ってみたくなりますね。アメリカでは、日本ではそうはいかないのですが、『この近くにワシントン大統領の妹さんがいられそうですね!』と、出身地に押し掛けて聞くと、『そう、その辺に住んでるそうですが。』と答えただけだそうです。彼は彼、彼女は彼女で、特別視を示さない国民性だと聞きました。

 親戚にも、兄弟にも、友人にも、同窓生にも、先輩にも、誰一人、名のある人のいない私など、一度でもよいから言ってみたかったのですが、全くなしの中を生きて来ました。人生に前半は、『マン先生の弟さん!』、人生の後半では『ゴサク先生のお父様!』で生きて来て、今では、『ユリさんのご主人!』とか『ノウくんのお爺さん!』なのですが、まあ〈無名の士〉でいいかで今を生きています。
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 「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。 (箴言17章1節)」

 始めの話ですが、ご馳走を食べられる家庭で育った加害者と、貧農の子たちの被害者の悲しい出来事には矛盾がありそうですが、正しい価値観や生命観を学ばない悲劇の方が危険です。名も財もない親の子たちが沢山います。でも、《乾いたパン》で、ローラーブレードで余暇を楽しんで、感謝して生きた方が、人間としては素敵ではないでしょうか。明らかな良心で生きられるからです。

(ローラーブレードとユダヤ人のパンです)

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桜狩り計画

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 私たちに住む街には、「喫茶店」が多くあります。かつて「例幣使街道」の宿場町として栄えて、維新後は明治政府は県庁を置いた街でした。また舟運で江戸を行き来して、多くの物資の商いをした街で、「蔵の街」と言われています。この地元のみなさんは、隣の佐野市や小山市に比べて、街の住民が保守的で、主要鉄道や高速道路や新幹線、ショッピングセンターなどの誘致に遅れをとってしまったと言っておいででした。

 それで観光地のけばけばしさもなく、取り立てて大きな行事をすることもなく、落ち着いた街で、私たちは大好きなのです。素敵な文化会館も、落語家やオーケーストラを招いたりしていますが、それほど頻繁にではないのです。一昨年の台風被害の後、古い家の取り壊しが進み、街中が歯が抜けた様に空き地が多くなってしまっています。売り出されていますが、買い手がつかない様子です。

 それなのに、江戸の粋を受け継いでいるのでしょうか、「喫茶店」が、人口の割に多くある様に感じます。小さなお店に、高価なコーヒー豆の焙煎機を置いてあって、われわれ世代のコーヒー党が、日中、美味しそうにコーヒーを飲む姿が、ガラス戸越しに伺えます。
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 時三月、桜月になりました。早ければ月内に咲き誇るでしょうか。これまで最高の桜は、大奥の御年寄の江島が、藩預かりとなった高遠藩の城址公園の桜でした。満開の桜の木の下で、美味しい昼食をいただいた思い出があります。

 華南の街の公園にも、数本の染井吉野の桜の木がありましたが、毎年時期を失して見損なってしまいました。暦で予測していましたから、亜熱帯気候では開花時期が、日本よりも早かったのです。
 
 でも懐かしいのは、小学校の校庭の隅に咲いていた桜ですね。あの頃から日本人だったわけで、懐かしさで桜党の素地ができた様です。今年は、《オモイガワザクラ》に、『行くぞ!』でおります。

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手紙

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 ある年に公表された、全国から寄せられた「日本一短い手紙」の幾通かです。福井県丸岡町の「丸岡文化財団」が企画している取り組みです。今年のテーマは、「笑顔」だそうです。

『おかあさん、
雪の降る夜に私を産んで下さってありがとう。

もうすぐ雪ですね。』                             
天根利徳 (大阪府 51歳)



『お母さん、もういいよ。

病院から、お父さん連れて帰ろう。
二人とも死んだら、いや。』                        
安野栄子 (千葉県 44歳)



『あなたから もらった物は数多く

返せる物は とても少ない』                       
大和田早都美 (北海道 21歳)

『セーター、編めたので送ります。
素敵なピンクでしょ。

車椅子でも颯爽としていてね。』                      
四方允子 (京都府 62愛)

『母さん、
米ぐらい自分で買うから、

送ってこなくていいよ。後タオルも。』                   
滝坂 耀 (千葉県 21歳)

『待ってました、
宅急便。 

出てくる、でてくる、こんなのここでも売ってるよ!』          
青山順子 (北海道 31歳)

 
『親父を15越し。
貴女の年に後5つ。
妻・子供・孫と生き生き暮らし。
元気な身体を、有難う。』       
島崎喜七郎 (東京都 63歳)

『あんなに嫌いだった、
せりの佃煮や、
ふきの金平が、
食いたいです。』        
須藤幸夫 (東京都 31歳)

『母へ  
秘密家出チケット、送る。

ウサばらし、夫婦げんかにお役立てを。
-東京見物ー』       
高橋牧子 (東京都 27歳)

『母さん  
毎日笑って暮らしていますか?

世話になるのは身近な人よ 
解っている?」              
中村泰子 (東京都 59歳)

『父よりも一品多い弁当と、
「バスケがんばれ!!」の言葉と、
笑顔の迎えありがとう。』                         
甲田香里 (福井県 13歳)

『喰べてもいい 
徘徊してもいい 
私を忘れても構わない
母
さん 長生きしてね。』                        
坪田芙美江 (福井県 49歳)

『「私だと思って下のお世話をしてあげて」というお母さん

私、いい嫁やってるよ。』                         
篠原三千子 (長野県 53歳)

『バカヤロウ、
クソばばあ
元気になったあ
なたにこの憎まれ口を、
また言ってみたい。』    
永田耕三 (岐阜県 29歳)

『字、へた。料理、あかん。洋裁、できん。
子供 一人。
ひ
とつも お母ちゃんを 超せなんだ。』                
伊藤寿子 (京都府 43歳)



『お母さん。

知らないうちにかぶってたゆうべのふとんありがとう。』        
佐内理恵 (京都府 43歳)

『何度も同じ話をするお母さん、
嫁
や孫は逃げても、
私は何度でも聞きたい。』             
笹井信吾 (大阪府 41歳

『今日バス停で母さんに似ている人をみた
その重そうな荷物を持ってやったよ。』                   
高橋浩幸 (大阪府 29歳)

『母上の甘酒、呑みたいです。

シベリアは寒いが元気、
必ず生きて還ります。』            
内藤節次 (山口県 68歳)

(丸岡町の町花の「花菖蒲」です)

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敬意

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 こんな故事があります。イスラエルの王ダビデが、まだ若い時、主君の不興を買って、逃亡生活をしていました。彼を慕う部下たちを従えて、荒れ野で生活をしていましたが、部下たちを養うために、牧羊業者の家畜を、獣や盗人から守る仕事をしながら、露命をつないでいたのです。荒れ野に散在する洞穴に、身を隠しながら生活をしていたとき、その洞穴に、主君が、用足しのために入ってきたのです。

 自分の命を狙う王の命を取るに、絶好の機会でした。しかし彼は、王の着物の裾を切り取っただけでした。それほどの機会があったのに、ダビデは、主君の命を取らなかったという証拠品を残したわけです。後ほど、彼は、その行為すら、油注がれた王に対してはいけないことだった、と言って悔やむのです。自分の主君が、どのやうな理不尽なことをしたとしても、自分の上に立てられた王への敬意を忘れなかったのです。

 この出来事を思い出したのは、6年ほど前に、日本の国会周辺で、驚くほどの人を集めてデモが行われていました。そのデモに参加していた一人の学生が、ある集会で、当時の総理大臣に向かって、『お前はバカか!』と言ったからです。少なくとも、最高学府で学ぶ学生が、一国の政の責任者に向かって、<バカ呼ばわり>をしたという非常識さに驚いたのです。

 まだ中国にいましたが、中国の方たちには、信じられない暴言だと感じておられた様です。『どんなことがあっても私たちは、そんなことを決して言いません!』と言っていました。自分の主義主張と合わない人でも、自分たちの生活や将来の安寧秩序を守ってくれる指導者に向かって、公の前で発する言葉ではないからです。「礼儀正しい日本人」との高い評価を持たれている、こちらのみなさんに、実に恥ずかしい思いをしたのです。

 実は、この学生のことを調べましたら、私が学んだ学校の在校生だったのです。色々な人がいて好いのですが、こちらが恥ずかしくなって、みなさんに申し訳なく感じてしまいました。そして、もう一つ残念なのは、この彼の暴言を、まるで支持するように、マスコミが取り扱ったことです。それは、自分の思ってることを代弁してくれたように感じたからでしょうか。その暴言を吐く者は、「燃えるゲヘナ」に投げ込まれるほどの悪なのです。

 若いみなさんは、一国の命運を握って労苦する指導者に、その務めのゆえに、敬意を払っていただきたいのです.何を思っても結構です。でも決して口にしてはいけない言葉があるからです。あのダビデの態度から学び、自らの足りなさ、未熟さを知って欲しいのです。そうしないと、戦後、みなさんの祖父母やご両親が築き上げ、獲得した日本への世界からの<高い評価>と<尊敬>を失ってしまうからです。あの学生は、大学院に学んだそうですが、もう社会人です。どんな今が彼にあるのでしょうか。

( イスラエルの国花「シクラメン」です)

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 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8章28節)」

 私たちの国では、月の名を、独特な名称で呼び、記してきました。その中に、「神無月(かんなづき)」と言う月があって、「十月」を言っています。この国には、〈八百万(やおよろず)の神〉がいるそうで、その神々が、十月には、出雲国に召集されてしまうので、日本列島の他の街々村々には、神がいなくなってしまうので、そう名付けたそうです。

 出雲大社に集まった神々が、何をするのかと言いますと、国や国民の繁栄や安寧、それに縁結びや五穀豊穣などを取り決めになるのだそうです。そんな宗教都市で、神々のそんな取り決めをする社のお膝元でありながら、母は婚外子として生まれてしまったのです。とうてい養育できない十代の生母は、子のいない知人夫婦に養女として預けてしまったのです。

 一人っ子だと思っていた母は、貧しいながら幸せに生活していたのですが、お節介な親戚の人から、誕生の真実を知らされてしまいます。それは十代の母には過酷な告知でした。その頃、近所の仲良しから誘われて、カナダ人宣教師が始めた教会に行く様になっていました。そこで、神々ではなく、天地万物を創造され、それを統治される神を知るのです。その神が、「父なる神」だと知って、産みの親に捨てられた母は、本当の神と出会い、その後、九十五歳で帰天するまで、確かな信仰を持ち続けるのです。

 不幸な境遇で生まれる人は多くありますが、それを超えていく力を、母は付与され、何よりも《祈り》を知ったのです。歴史を支配される神に、イエスの御名によって、まさに父親に語る様に、自分の必要を申し上げることができたのは、救いだったのでしょう。お転婆で勝ち気でしたのですが、孤独との闘いは厳しいものだったのでしょう。ふと寂しい表情を、母が見せたこともありました。

 父と出会い、母として四人の子をなして、丈夫に育ててくれたでしょうか。服役もせず、後ろ指を指されずに社会人として、可もなく不可もなく、私たちのは生きる様子を見て、母は満足だったのです。大病を二度も患いながら、父よりも三十年以上も多く生きることができました。

 その母のお陰で、退職後の静かな時を、私たちは生かされています。今あるのは、母によるに違いありません。私たち四人の子の向こう側で、母は、祈り、賛美し、聖書を読み、礼拝を守り、知人や隣人に証をし、パートで働きながら献金に励んで生きていました。父には妻として、四人の子の私たちには母として、神の前には一人のはしためとして生きたのです。
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 こんな出来事があったそうです。十七になった母は、実母が奈良に嫁いでいると言うことを初めて聞いて、飛ぶ様にして訪ねたのです。でも幸せな家庭を築いていて、その幸せを壊して欲しくない母親は、自分を娘として受け入れてくれませんでした。その無念の思いで、そこを去った母を考えると、胸がはち切れそうで、殴ってやりたい衝動に、若い私は駆られたものです。

 その実母が亡くなった時、その死の床の枕の下に、私たち四人の子の写真(それぞれ小中高大でした)があったのです。私たち家族が住んでいた街の写真館で、父に言われて撮った写真が、隠されていたそうです。母が、出雲の親戚に送った写真が、何らかの方法で奈良に送られていたのでしょう。それを知らされた母は、自分が産み落とし、苦労して育てた子たちの写った写真を眺めていた実母を知って、どんなに慰められたことでしょう。

 人生って奇なるものです。でも、母は養育を放棄した母親を赦すことができたのです。そして自分の人生を、運命論で捉えなかったのです。逆境を順境に捉え直させてくださる神に任せたのです。子どもの頃に、母が持っていた古写真の中に、親族の集合写真の、ある顔の部分が引っ掻き消されてある写真がありました。それを見て不思議に思ったことがあったのです。そんな幼い母の辛い思いが分かったのは、私が大人になってからでした。

 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます(使徒行伝16章31節)」

 信仰の継承、五体を父母から受けただけではなく、母の信仰を、父も二人の兄も弟も、私たちの四人の子どもたち、さらには四人の孫たちもが継承できていると言うのは、「すべてのことを働かせて益としてくださる神」の哀れみと恵みの業に違いありません。

(島根県の県の魚の「あご(飛び魚)」、出雲市花の「菊」です)

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桜名所

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 去年も一昨年もできなかた「桜見物」を、今年はしてみたいと思うので、2月の内に、先取りして、行き場所を決めたのです。獨協医科大学病院に行く東武宇都宮線の国谷駅のホームの脇に、見事な桜の木があります。一昨年は、通院途中に、まだかまだかで四月になって満開の「染井吉野」を、下車したらよかったのですが、気分的にそうできず、車内から眺めただけでした。でも見事でした。

 それで、今年は三月末から四月中旬に、満開の予報が出ていますので、今年は、隣街の小山市にある、思川の堤に出かけてみたいな、と思っています。名所は、白鴎大学のキャンパスあるそうで、そこに行くことにしたのです。その桜は、「思川桜」と言うそうです。この写真の様で、染井吉野とは違うのです。突然変異で見つかったそうで、小山自慢の様です。

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不遇

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 幕末の戊辰戦争の頃からの流行歌(はやりうた)に、作詞が品川弥二郎、作曲が大村益次郎の「宮さん宮さん」がありました。

1 宮さん宮さん お馬の前
ひらひらするのは 何じゃいな
トコトンヤレ トンヤレナ
あれは朝敵 征伐せよとの
錦の御旗(みはた)じゃ 知らないか
トコトンヤレ トンヤレナ

2 一天万乗(いってんばんじょう)の 一天万乗の
帝王(みかど)に手向かい する奴を
トコトンヤレ トンヤレナ
ねらい外さず ねらい外さず
どんどん撃ち出す 薩長土(さっちょうど)
トコトンヤレ トンヤレナ

3 伏見 鳥羽 淀 伏見 鳥羽 淀
橋本 葛葉(くずは)の戦いは
トコトンヤレ トンヤレナ
薩長土肥(さっちょうどひ)の 薩長土肥の
合(お)うたる手際じゃ ないかいな
トコトンヤレ トンヤレ(以下省略)

 明治維新政府の要職には、ほとんど薩摩藩と長州藩の出身者が就きました。幕末の動乱を動かしたのは若い世代で、しかも身分の低い武士階級が、その動きの中心を占めていたのです。畑や田圃を耕し、行商をしなければ生きていけない階層でしたが、時の動きをしっかりと見て、国に在り方の変化を野心的に求めていたのでしょう、それで尊王攘夷に身を投じて行きます。

 そんな人たちの中に、島津藩の加治木島津家の分家に生まれた村橋久成がいました。上級国民の話題が多いのですが、この人は上級武士の子で、藩が、イギリスに遣わした留学生の一人でもあったのです。同行者の中に五代友厚、ロンドンにはすでに森有礼がいました。久成は、一年ほど「軍事」を学んだ後に帰朝しています。

 薩摩に戻った久成は、戊辰戦争で越後や東北に、大砲隊長として赴き、各地を転戦して行きます。さらに箱館戦争にも遣わされ、幕府軍の榎本武揚に降伏を持ちかけています。戊辰戦争後、郷里に戻りますが、東京に呼び出され、北海道開拓の屯田兵の創設を任されます。

 中央志向が強くなかったのでしょう、閑職に甘んじた人でした。明治維新政府では、はるかに下級であった黒田清隆の方が要職についています。大久保が暗殺された後は、薩摩閥の重鎮として、明治憲法が発布された折の内閣総理大臣にも就いています。

 一方、開拓使の久成は、札幌麦酒(現在のサッポロ・ビールです)を建て上げ、官営事業とします。ところが黒田らは民間への払い下げをしてしまいます。その後でしょうか、久成は黙して、表から消えてしまいます。そして、家も家族も捨て、托鉢僧となり、1892年に行旅病人として神戸で亡くなってしまったのです。

 この久成に何があったのでしょうか。家族を捨てなければならないほどの屈辱体験があったのかも知れません。男って、けっこう厄介ですね。下剋上でしょうか、維新政府を動かした、長州の伊藤博文も薩摩の黒田清隆も賢かったそうですが、醜聞や奇行が多かった様に聞きます。大国主義の中で、有望な人材が消えていったのは事実です。

 この流行歌の歌詞で、二度も繰り返して歌わせている「一天万乗」とは、〈全世界を治める位またはその人の意で、天子のこと〉なのです。実に世界制覇、野心的な歌であり、天子が担ぎ出された革命が、明治維新であったと言えそうです。作詞者の品川弥二郎も作曲者の大村益次郎も長州藩士でした。どうも祇園での遊びの中で生まれた歌の様に申し伝えられています。

 人の世は、とかく不遇をかこつ人が多くおいでです。歴史に《もし》と言うことはあり得ませんが、デンマークのような小国のままの国造りが、私たちの国でできたら、勤勉さや正直さや律儀さを生かして、別の形で立派な国が出来上がったことでしょう。そんな中で、石橋湛山の小国主義は気高く輝いています。

(札幌の市花の「鈴蘭」です)

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平和

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 「レビ人のうち、ケハテ族の人口調査を、その氏族ごとに、父祖の家ごとにせよ。それは会見の天幕で務めにつき、仕事をすることのできる三十歳以上五十歳までのすべての者である。(民数記4章2~3節)」

 イスラエル民族の宗教の中心は、「幕屋(神殿)」でした。そこで仕える氏族は「レビ人」だったのです。彼らは、神によって選ばれていました。下働きから大祭司まで、人が選んでもいませんし、自ら志願することもできず、神よって選任されていたのです。さらに幕屋の建設も設営秩序も、一切のことが、細かく、神にって定められていました。

 その奉仕者のレビ人には、「仕事をすることのできる年齢」の規定がありました。当時と現代とでは、人の寿命や余命は比べることができませんが、三十歳から五十歳までの二十年間に決められていたのです。それが適正な年齢枠だったのです。わが国では一般的に「六十歳定年」が定められていますが、最近では定年延長の動きがあります。

 創造の神が、人と会われる会見の幕屋での奉仕は、容易なことではありませんでした。加齢によっての粗相のない様に年齢が定められていたのかも知れません。現代の一般社会でも、自営業の世界は違いますが、私たちの国では、公務員も、会社員も、団体職員も、ほぼ60歳で定年退職をします。

 まあ十分に働いて来て、子育ても終わり、社会的な責任も、後進に譲るには、肉体的にも精神的にも社会的にも、よい年齢なのかも知れません。年配の国会議員が、議事堂で居眠りをしている写真が出回っていますが、長時間にわたる議事、重大な案件の決定など、もう無理なのでしょう。

 「わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄(平和)を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄(平和)は、あなたがたの繁栄(平和)になるのだから。(エレミヤ29章7節)」

 まだ余力のある間に、課せられた職を、潔く後進に譲るべきです。私も、四十代で、恩師の勧めもあって、次の奉仕への思いを抱きつつ、時節の到来をを待っていました。やっと61歳で職を辞しました。怪我をしてしまったので一年超過したのですが、後進に譲って、新しい地に出たのです。私の願いは、残された日を、父の世代の過ちの償いに当てようとしました。それは主の御心であったと信じたのです。そうしましたら、大陸中国への扉が一つ一つ開いたのです。

 戦前戦中、軍需産業の一翼を担った父は、爆撃機や特攻機の製造に関わりました。私が過ごしました華南の街には、「5000年の歴史」の中に日本軍による攻撃の記録も、大きな河川の壁に、石工の手で石板に刻まれていました。その街で出会った方が案内してくださって、あの戦争の戦時下の事実を知らされたのです。

 その隣街には、旧日本軍の航空隊があって、その飛行場から、日本軍の爆撃機が、中国各地に攻撃を仕掛け、建物を焼失し、多くの命を奪っていました。その石板には、爆撃されて亡くなられた、その街の方の数も刻まれていたのです。まさに父が関わった爆撃機の仕業だったわけです。

 教壇に立ち、講壇に立っても、過去の謝罪を私がしますと、『あなたの責任ではありません。あなたの前の世代の過ちですから、あなたは謝る責任はありません!』と言ってくださる方が多くいらっしゃいました。でも、日本軍の軍需産業の責任者として、父は俸給を軍、政府からもらっていて、それで産着や布団やミルクを、私はあてがわれていたのです。

 そんな思いで、住んだ街の「平和」を祈りながら、過ごした大陸での13年は、私の《人生双六》の上がりだったと、今思うのです。もう少しの命を、北関東の歴史ある街で、過ぎた日を思い起こしながら、これからの日をワクワクした思いで迎えたいと念じています。体は、年相応に弱くなってきていますが、心の思いはまだ強いかなと思っております。

(イスラエル共和国の国花の「アネモネ」です)

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しみじみと

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 詩人で歌人でもあった良寛さんが、「戒語九十ヶ條」を残しています。「ことば」を大切にされた方でした。自分を生み育ててくれた両親の「言葉」を、《身に包んで生きよう》とした人だったそうです。自分の寺を持たずに、「五合の米」の布施を受けて生きていたのです。

 越後出雲崎に生まれ、越後に生き、越後に没しています。僧でありながら仏法を説かず、質素な生活をし、子どもを愛し、童心を捨てず、格言を語りながら、人はどう生きるかを語ったのです。そうする良寛に、人々は、格別な信頼を寄せました。生活と言葉が一致していた、言行一致の人だったからです。

 「語」と書いて「ことば」と、良寛は読ませています。どの様に気を付けて語るか、九十の「戒(いましめ)」をまとめて「戒語」を書き残したわけです。そのうち、十七を取り上げてみます。

 「ことばの多き」  言葉数の多さは聞く人を疲れさせ、『もう少しまとめて話して欲しい!』と思う話し手がおいでです。思い出すのは、ナチス・ドイツの攻撃の中で、“ Never,never,never give up !” と、イギリス国民に語ったチャーチルの言葉です。これほど簡潔で人を得心させた言葉はありません。

 「鼻であしらう」 人を人と思わないで、小バカにした冷淡な口ぶりの人がいます。相手の置かれた状況など全く考えないで話す人です。

 「口のはやき」  聞き取れないほどに、早く話す人がおいでです。内容は良くても、思いが通じません。話し言葉には抑揚が必要ですし、間(ま)が必要です。噺家の聴きやすさは、この間があるからに違いありません。

 「とわずかたり」  相手が聞いてもいないのに、聴きたいとも思わないのに、話してくる人がいます。ご自分だけが納得している話し手ってときどきおられます。

 「さしで口」  自分の立場や役割を弁えていないのでしょう、話をしている間に侵入してきて、話し出す人です。場所や空気を読めていない人です。
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 「手がら話」  自慢話のことです。ああもした、こうもしたと手柄を話したがる人がいます。人に褒めさせるのがいいと教わりました。

 「己の素性の高きを人に語る」  自己陶酔型の人がおいでです。家系や姓名を誇るのです。私は進化論者ではなく、創造論者なので、人類は、エデンの園で罪を犯し、楽園を追放された者の子孫だと思っています。でも、罪を十字架で贖ったお方を信じて、私が受けるべき裁きと死とを処罰してくださった方を信じて生きてきました。

 「人の物言い切らぬうちに物言う」  話の途中に、言葉を挟んで、話の主人公に入れ替わってしまう方がおいでです。いつも自分を中心に物事を考えてしまう人が、そうされます。

 「よく心得ぬことを人に教うる」  自分で理解してないことを言って、ついに支離滅裂になってしまう方です。何を教えられたのか全く分からず、思いの中に何も留まらないのです。

 「物言いのきわどき」  物騒なことや、危ぶまれる様な物言いをする人がおいでです。聞き手に恐怖を与えてしまう人の話っぷりを言うのでしょうか。

 「人の話の邪魔をする」  こちらが話し終わらないうちに、口を挟んでくる人がいます。上の空で話など、相手の語ることを聞いていないで、自分の言いたいことだけを言おうとする人です。

 「親切らしく物言う」  親切さを装って話されるのですが、その思いは非難だったり中傷であったりで、その動機が正しくない言葉の人がおいでです。

 「さしたることもなきことを細々言う」  そんなに重要でないことや、話題にも上がらない様なことを、根掘り葉掘りと細々と言う方がおいでです。

 「好んで唐言葉をつかう」  江戸時代に、おもなる外国は中国でしたから、唐言葉(中国の言葉)を得意がって使う人がいた様です。現代では、カタカナ語を得意がって使う人で、最近もある留学経験のある大臣が英語らしき語を言っていましたが、私にはチンプンカンプンでした。

 「悟りくさき話」  坊主でも伝道者でもないのに、説教風な話し振りをする人です。なんでも知っていると言う態度で、ご自分の悟りの高い境地から話をされます。

 「学者くさき話」  学識が多くて、難しい表現も好きなのでしょう、聞く人が学生の様に見えて、知識を披瀝する知ったかぶりの人です。

 「すべて言葉はしみじみというべし」  人の心を揺さぶる様に、感謝が湧き上がる様に話せたらいいなと思います。心と胸とを打たれる様な説教の言葉を聞いたことが何度かあります。上手だったのではありません。心がしみじみ(沁み沁み)とされる様な語り口で、内容でした。

 「舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。(ヤコブの手紙3章6、8~10節)」

 話をする上で、どんな言葉を語り、どんな風に語るかは、実に大切なことに違いありません。人柄も、出自も、価値観も、倫理観も、なんと言っても人格が、よくても悪くても、語る言葉に表れてしまうからです。舌先三寸、天下を取った人も、命を失った人もいます。私たちが、舌を正しく制御できたら、どんな富や地位を得るよりも素敵なことに違いありません。

 これまで、多くを語らなくとも、核心を語った方と出会ったことがあります。まるで見ることができ、触れそうに語った方です。命を与えられ、将来と希望をくださった方です。この書を開くと、今でも命が溢れています。「キリストのことば」、「聖書」です。まさに沁み沁みとして参ります。

(“ 新潟永住計画 “ の冬の出雲崎の海、新宿御苑の庭です)

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種痘

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 Covid-19対策で、コロナ・ワクチンの接種が、私たちの国でも始まりました。
 「函館市文化スポーツ振興財団」のサイトに、日本で最初に種痘を行った「中川五郎治」の記事がありました。

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 明和5年(1768年)陸奥国下北郡川内村(現・青森県川内町)で、小針屋佐助の子として生まれる。若い頃から蝦夷地に渡り、松前で商家に奉公し、寛政11年松前の豪商栖原庄兵衛の世話により漁場の”稼ぎ方“としてエトロフ島に渡る。

 働き手だった五郎治はやがて番人から番人小頭になる。文化4年、ロシア人・フボストフは船2隻を将いてエトロフ島を襲撃、番屋を荒らし、物資を奪い、番人らを捕えてシベリアに連行、その中に40歳になった五郎治もいた。

 シベリアの抑留生活は5年にもおよんだ。この間、逃げ出したり、捕えられたり、仲間に死に別れたりしたが、9年、突然、松前へ送還されることになる。

 というのは、フボストフらの暴行後、警備を固くしていた幕府の役人が、千島方面を測量に来たロシアの艦長ゴローニンを捕えて、松前に抑留した事件があり、その釈放を求めて日本に行く副艦長リコルドが、漂流民を連れて行くことになり、その中に五郎治が加えられることになったからである。

 イルクーツクを出発してヤコウツクに向う途中、商人の家に一泊した。その時、書棚に飾られていた本の中に種痘書を見つけ、興味を引かれるままその本を貰いうけた。

 5年の抑留生活でロシア語が読めるようになっていた五郎治は、この本で種痘が恐ろしい天然痘を予防することを知る。
その時、幕命で松前に来ていた幕府の訳官馬場佐十郎がこの種痘書を見て驚き、早速翻訳して文政3年「遁花秘訣」(とんかひけつ)と題し、わが国最初の種痘書となった。

 30年後の嘉永3年には、利光仙庵の手で更に翻訳し「魯西亜牛痘全書」(ろしあぎゅうとうぜんしょ)と改題して出版された。

 五郎治は後に足軽となり、松前や箱館に勤務したが、文政7年天然痘が流行すると実際に種痘術を行ったのを始め、更に天保6年、12年など2度にわたって実施して多くの人々を救った。

 五郎治の実施した方法は天然痘の種苗を大野村の牛に植え、その痘苗を男子は左腕に、女子は右腕に、それぞれ一箇所ずつ植えたといわれる。松前、箱館の土民は五郎治の施術を受けて難病を免れ得たものが多かった。

 五郎治はこの方法を箱館の医師白鳥雄蔵、高木啓策、松前藩医櫻井小膳等に伝え、白鳥雄蔵は秋田にいたりこれを藩医に授けたといわれる。

 弘化5年9月27日、わが国種痘術の創始者・中川五郎治は福山において数奇な一生を終えた。享年81歳であった。

 明治18(1885)年、72歳になる田中イクという老婆が11歳の時、五郎治に種痘してもらったという。逆算すると文政7(1824)年にあたり、五郎治がシベリアから帰されてから12年後になる。

 五郎治が種痘を施した最初を文政7年としても、長崎でオランダ医師モーニックが、始めて種痘に成功した弘化6(1849)年に先だつこと実に25年も前ということになる。

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 「そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」 (出エジプト15章26節)」

 ヘブル語では、聖書の記される主なる神を、「アドナイ・ラファ」とも呼ぶそうです。風邪でも、新型コロナでも、精神疾患でも、人を癒すことのできる神がおいでです。母は癌から癒やされて95まで、義母は肺結核から癒やされて101まで生き、それぞれの寿命を全うして、天の故郷に帰って行きました。医者に見放されたのですが、主なる神は、『我はヱホバにして汝を醫す者なればなり!』と言われて、触れてくださるのです。

 この神は、医者を通しても、また数奇な人生を導かれた一介の足軽の佐七(中川五郎治の本名)を通してでも、人を癒し、疫病の攻撃を阻むことができる、命の創造者であり、付与者であり、回復者でいらっしゃいます。

(佐七の生まれた青森県川内町の町花の紫陽花です)

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