個性的に

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 『同じ様な服装をして、同じ様な髪型をして、同じ様な話題を話している!』と、欧米人は日本人を見ているのです。それは押し並べて、東アジアに共通している様です。最近の日本では、制服が敬遠されたり、廃止されたりする傾向が強いのですから、日本人も個性的な主張や生き方ができる様になったのでしょうか。

 民族的に薄っぺらい顔をしている日本人も、最近では彫りが深くなったり、鼻が高くなったり、顎の張りがなくなってきている様です。明治生まれの父の髭が濃くて、かく言う子どもだった私も、そうなりたかったのが、中学生に入ってからでした。大正生まれの担任も髭が濃くて、〈男らしさの象徴〉だと、朝礼の時に聞いたことがあったからでした。

 それで、毎晩入っていた風呂で、父の髭剃りを借用して、一生懸命、鏡に向かって、生毛(うぶげ)の鼻の下を剃っていました。母に似たのか、髭が薄いのです。濃い髭にならないまま大人になってしまいました。二度ほど髭を生やしたのですが、〈ヒケ〉程度で、全然男らしくないのです。家内や子どもたちに不評で剃り落としてしまいました。

 中学生のいつ頃だったでしょうか、住んでいた町のお菓子屋に入った時に、店のおばさんが変な顔をして私を凝視していたのです。鼻の下あたりを見てました。家に帰って鏡を見ましたら、髭願望のあった私は、母の黛(まゆずみ)で、鼻の下に髭を描いたのを、消し忘れたまま買い物に行ってしまったわけです。その店には、その後、行きずらくなってしまいました。

 もうとっくに、子どもたちの成人式は過ぎてしまったのですが、みんながする振り袖の「晴れ着」を、長女は着たかったのです。でも買うことも、借りることもさせないで、同級生のいる故郷に、東京の下宿先から帰って来て、普段の服装で参列していました。〈反ミーちゃんハーちゃん主義〉の父親のために、長女の夢は砕け散ったてしまったのです。

 その代わり、学校の卒業式には、友人のお母さんに借りたと言って、長袖の和服に袴と長靴(ちょうか)の明治の女学生姿の出立ちでした。それを見た家内と私は驚いてしまい、その学友のお母さんにお会いして、感謝をしたのでした。次女は、親元ににいませんでしたから、長袖願望があったかどうかは分かりません。

 「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。 (エペソ6章1節)」

 昭和の頑固なレトロ親爺の被害者の娘たちには、ずいぶん抗議されたのですが、過ぎた時を戻すことができませんので、今になると、もう何も言わなくなりました。彼女たちも、今や〈後期昭和のおばさん〉ですから。でもけっこう個性的な生き方や選び取りをして生きて来ていると思います。

 男の子は、男の子で、自分の道を自分で見つけ出して、それぞれに生きて来ています。みんな今は、それぞれに社会的な責任を負いながら励んで生きているのです。私たちは、あまり過干渉にならない様に、育ててきて、けっこう厳しく規律し、懲らしめもしたのですが、生きていく原則を教えてきたと思い返しています。

 それでも、夢を叶えて上げたかったなあと思うのですが、今頃になってしまっては、どうすることもできません。お隣の国では、女性の顔が同じ様だと言われています。最近、何気なくサイトを見ていた時に、特に女性有名人の〈術前術後〉の写真を見たことがありました。その違いに驚いてしまいました。化粧と整形手術で、顔でも体でも手を入れると、あんなに美しくなるのですね。親に似ていた方が、自然のママで個性的でいいのです。
 

鉄道の旅

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 1900年(明治33年)に、大和田建樹の作詞、多梅稚の作曲で、「鉄道唱歌」が発表されました。

汽笛一声(いっせい)新橋を
はや我汽車は離れたり
愛宕(あたご)の山に入りのこる
月を旅路の友として

右は高輪泉岳寺(たかなわ せんがくじ)
四十七士の墓どころ
雪は消えても消えのこる
名は千載(せんざい)の後までも

窓より近く品川の
台場も見えて波白く
海のあなたにうすがすむ
山は上総(かずさ)か房州か

梅に名をえし大森を
すぐれば早も川崎の
大師河原(だいしがわら)は程ちかし
急げや電気の道すぐに

鶴見神奈川あとにして
ゆけば横浜ステーシヨン
湊を見れば百舟(ももふね)の
煙は空をこがすまで

横須賀ゆきは乗替と
呼ばれておるる大船の
つぎは鎌倉鶴が岡
源氏の古跡(こせき)や尋ね見ん

八幡宮の石段に
立てる一木(ひとき)の大鴨脚樹(おおいちょう)
別当公曉(くぎょう)のかくれしと
歴史にあるは此蔭(このかげ)よ

ここに開きし頼朝が
幕府のあとは何かたぞ
松風さむく日は暮れて
こたへぬ石碑は苔あをし
(以下省略)

 東海道新幹線の走る今、悠長な鉄道の旅をしたことを思い返して、『もう一度!』と思うのでです。父の出身地も、この中にあります。

汽車より逗子(ずし)をながめつつ
はや横須賀に着きにけり
見よやドックに集まりし
わが軍艦の壮大を

また、母の出身地も出て来ます。
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今市町を後にして 
西に向かえば杵築町
大国主を奉りたる 
出雲大社に詣でなん
(山陰編31番/「今市町」は現在の出雲市です)

 小学校一年の時に、母のふるさとの「出雲」まで、母に連れられて、二人の兄と弟とで旅行をしたことがあります。汽車は超満員だったのを覚えています。『女は弱し、されど母は強し!』で、鈍行列車の旅は、若い母にも大変だったことでしょう。

 「 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。(出エジプト20章12節)」

 母と父とに、何か問題や事情があって、母は父を置いて、四人の子を連れての帰郷でした。東海道線から乗り継いで、山陰線での旅でした。兄たちは、空いた車掌室に潜り込んでいたそうで、弟と私を抱えた母は大変だったのでしょう。自分には苦痛の記憶はないので、その分、まだ三十代の母は大変だったはずです。

 あの列車は、まだ電化していませんでしたので、モクモクと煙をはいて、汽笛を鳴らす蒸気機関車が牽引していました。なぜか、駅弁やお茶や、それに「福知山駅」を覚えているのです。けっこう長い旅だったのを感じました。それで、わがままな私は、グズグズ言って、きっと母を困らせたのではないでしょうか。でも母に抓(つね)られた記憶はありません。

 あんな長旅ができた経験は、級友たちにはできなかったことをさせてもらって得意満面でしたが、忍耐強い母にしては、あの故郷回帰は、ずいぶん考え抜いた末の決意だったのでしょう。大人になって、家内が家出をしたことがあって、あの時の母の決心が、少しだけ分かったのです。今では笑い話で家内は済ませていますが、夫婦には人には言えない色々なことがあるわけです。
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 さて、日本の鉄道ですが、「日本鉄道の父」と呼ばれた、「井上勝」がいます。幕末の長州は萩の人で、長州藩の藩士でした。藩主の命令で、イギリスに留学をし、鉱山技術や鉄道技術を学んでいるのです。東海道線を新橋と横浜間の開業から始まって、全線開通まで担当し、国内の鉄道網の拡大に関わります。貴族院議員、鉄道庁長官などにもなり、長官を退任後は、鉄道車両の製造にも携わっています。私鉄の開業にも寄与し、当時私鉄だった今現在のJR水戸線、時々利用するJR両毛線の開業にも関わっています。

 政界ではなく、技術畑で活躍した明治期の重要な運輸事業に従事した大物だったのです。母の故郷の長旅ができたのも、その基礎を築いた、井上勝のお陰だったわけです。私の父は、鉱山学を学んだのですが、戦後は、旧国鉄時代の車両の部品製造の会社をやっていた時期がありました。日本国有鉄道は、三公社の一つでした。
 
(山陰本線の東洋一の余部鉄橋を走る汽車、出雲市駅付近、萩城址です)
 
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キュン

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 詩人の伊東静雄に「春浅き」があります。

あゝ暗(くら)と まみひそめ
をさなきものの
室に入りくる
いつ暮れし
机のほとり
ひぢつきてわれ幾刻をありけむ
ひとりして摘みけりと
ほこりがほ子が差しいだす
あはれ野の草の一握り
その花の名をいへといふなり
わが子よかの野の上は
なほひかりありしや
目とむれば
げに花ともいへぬ
花著(つ)けり
春浅き雑草の
固くいとちさき
実ににたる花の数(かず)なり
名をいへと汝(なれ)はせがめど
いかにせむ
ちちは知らざり
すべなしや
わが子よ さなりこは
しろ花 黄い花とぞいふ
そをききて点頭(うなず)ける
をさなきものの
あはれなるこころ足らひは
しろばな きいばな
こゑ高くうたになしつつ
走りさる ははのゐる厨(くりや)の方(かた)へ

 新しい年を迎えて、その一月の末か、二月のはじめに、三重県の鳥羽で、教会に仕えるみなさんが集まって、大会を続けていました。牧師や夫人、宣教師夫妻、神学生、兄弟姉妹が参加していた年初行事の様にして参加していました。毎年、素敵な出会いと、素晴らしい学びと、激励や挑戦がありました。

 そこに参加されるみなさんは、超教派の教会からでした。共通していたのは初代教会が聖霊体験をしていた様に、二十世紀の教会に、聖霊が注がれて、その傾注に預かった人たち、その経験を願う人たちが、一堂に会していました。賛美と礼拝をささげ、聖書のみことばに耳を傾け、日本の町々のために祈り、参加者の交流を楽しんだのです。

 その集いに行く時に、自分の街から、東名高速を経て、渥美半島の突端の伊良子岬の港からフェリーに乗って参加しました。渥美半島は暖かなのでしょう、海岸線の畑には、「菜の花」が満開でした。真っ黄色な春を感じて、『今年は何を語られるのだろうか?』という期待が膨らんでいたのです。真夏のひまわりの黄色よりも、一足早く訪れた黄色な春を感じて、そう思ったのです。

 伊藤静雄が謳った「黄い花」が、菜の花ではないかと思ったのです。希望の色でしょうか、春の到来を知らせている色でしょうか。その名の花畑に横たわりたい様な思いにされたのです。花は花、伊良子岬のお土産屋で食べたイカの姿焼きは、相乗効果でしょうか、潮の香を嗅ぎながら、とても美味しかったのです。

 一緒に行った子どもたちは、もう四十代、そろそろ五十に届きそうな年齢になっています。ずいぶん多くの歳月を経たものです。あのまだ「春浅き」自分の住む街から出掛けて、本物の春を感じた日々や、あの交流会が昨日の様に、懐かしく思い出されて、キュンとしてきそうです。

(渥美半島に咲く菜の花です)

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ランドセル

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 いつも老夫婦の私たちを気遣ってくださる若いお母さんの《ヒトツブダネ》のお嬢さんが、今春、小学校に入学します。優しい穏やかなお父さんは、目に入れても痛くないほどの可愛がり様なのです。もう、入学する学校に手続きも終え、新入生のお決まりの “ ランドセル"も買ってあるそうです。

 わが家では、長男も、長女も、そして次男も新調のピカピカのランドセルでしたが、次女だけは、違っていたのです。彼女が小学校に入学するときに、ほんとうは、新しいのを買って上げたかったのです。ところが従姉妹が6年間使った物が、『まだ使える!』と、私が聞いてしまいました。

 それで私は、次女を納得させて、その〈お古〉を貰い受けて、それを背負って入学し、通学することにしてしまったのです。新入生のことを、『ピカピカの一年生!』と言っていた時代でしたから、誰もが、着る服も、クツもソックスも、全てが真新しかったのです。ところが次女には、入学式に着る服も、もう一人の従姉妹の着たものの〈お下がり〉でした。

 小学校の新入生を象徴するのは、新調の「ランドセル」なのです。ところが次女だけ、中古だったので、『ちょっと、可哀想かな!』と思いましたが、文句一つ言わないで、それを背負って、家内と入学式に行くのを見送りました。

 1939年に、三苫(みとま)やすしの作詩、河村光陽の作曲で「なかよし小道」の中に「ランドセル」が出てきます。

1.なかよし小道は どこの道
いつも学校へ みよちゃんと
ランドセルしょって 元気良く
お歌をうたって 通う道



2.なかよし小道は うれしいな
いつもとなりの みよちゃんが
にこにこあそびに かけてくる
なんなんなの花 におう道



3.なかよし小道の 小川には
とんとん板橋 かけてある
なかよく並んで 腰かけて
お話するのよ 楽しいな



4.なかよし小道の 日暮れには
母さまお家で お呼びです
さよならさよなら またあした
お手手をふりふり さようなら

 この「ランドセル」はオランダ語なんだそうで、兵士が背負う背嚢(はいのう)をそう呼んで、私たちの国では、明治期に使い始めたのです。大正天皇が小学校に入学の折に、伊藤博文が贈り物としたのが、後に小学校入学者が背負う様になっている様です。

 みんなと同じなのが好きでない私は、奇抜なことがしたい性分でした。〈十把で一絡げ〉を嫌いました。それを、次女に自分の主義を強いてしまったわけです。初めての保護者会があって、家内の代わりに出掛けたのです。5年生の長男、3年生の長女についで、次女のクラスに行きました。

 どのランドセルも一様にピカピカに輝いていたのです。そんな中で、輝き一つない、くすんで傷のついた次女のランドセルだけが、『デーン!』と古い校舎や床板に、シックリと馴染んで、教室の後ろの棚に置かれてありました。少し行動のゆっくりな同級生の世話をやく次女でした。自分のしなければならないことを後回しにしてしまって、先生に叱られるのですが、ヘッチャラなのです。

 彼女は、それ以降、自分流に生きてきている様です。もう四十代、二人の高校生の息子と中学生の母親をしています。高校も、ハワイの友人のお世話で、あちらの高校で学んだのです。ホストの家が何度も変わったのですが、それぞれに適応してしまえたのです。

 ハワイでのことを、親には語りがらないのですが、たぶんつらい経験もあったのかも知れません。二つ違いの姉が、アルバイトをしては助けていたのを後になって知りました。十五歳で、人のしない経験をしたことを感謝して、多くのアジア圏からの留学生を家に迎え入れてお世話を、喜んでしてきています。三月、入学前の今、またランドセルの出来事を思い出してしまいました。

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丁寧なことば

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 「しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。 私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。(ヤコブ3章8〜9節)」

 日本の「憲法21条」に、次の様にあります。
1、集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。(2項は省略)

 また、「世界人権宣言19条」には次の様にあります。
「干渉されることなく意見を持つ権利。公の秩序・道徳の保護と表現の自由。」

 現在の私たちには、「言論の自由」や「表現の自由」が保障されています。イギリスのロンドンのハイドパークには、次の様な「スピーカーズ・コーナー」があるそうです。

『権力に対する言論の自由は、権力を監視する意味合いがあり、もし制約があれば民主主義とは言えない。しかし、個人に対する言論の自由は、濫用すると、名誉毀損罪・侮辱罪に抵触する恐れがあり、充分に注意して行使しなければならない。「スピーカーズ・コーナー」は、この制約さえもなく、イギリス政府の転覆を論じたり王室を批判することは許されていないが、主張・発言の自由が完全に保障された珍しい場所であり、また同時に「ヤジの自由」も保障されている)。(ウイキペディア)』

 だからと言って、何を話してもいいとは言えません。「ことばの暴力」が人を傷つけている事例が世界では大きな問題にされています。「軽率なことば」、「毒を含んだことば」、「悪意に満ちたことば」が横行しています。ある作家は、「雑な言葉」と言って、ご自分が被った言葉の例を上げておられました。

 最近も、新聞やテレビやネットを騒がせた発言が問題にされて、役職を辞任してしまうことになりました。「ことば」は、人を激励し、生かすことができますが、人を傷つけ死に至らせることも、犯罪を生んでしまうこともあります。

 エルサレムにあった教会の牧師であったヤコブは、舌は「じっとしてない悪」、「死に満ちた毒」、「不義の世界」だと言って、舌を制する勧めをしています。あの元会長さん だけの問題ではありません。私の問題であり、すべての人の問題でもあります。

 「聖書」に、次の様にあります。

 「私は言った。私は自分の道に気をつけよう。私が舌で罪を犯さないために。私の口に口輪をはめておこう。悪者が私の前にいる間は。(詩篇39篇1節)」

 「軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人をいやす。(箴言12章18節)」

 「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。(コロサイ4章6節)」

 思い返しますと、多くの人を、「ことば」で傷つけてきた様です。不用意なことば、罵倒したことば、皮肉、侮辱、悪態、刺す様なことば、揶揄を語ってきたのを思い出します。自分のことばを自制できたら、きっと、私は世界を制覇することができたのでしょうけど、相手を煩わせて、傷つけてきたしまったことが多いのです。本当に申し訳なく思う今です。

 だからでしょうか、聖霊は、人の舌に触れてくださる「助け主」でいらっしゃるのです。さらに、「思い」の中に浮かんでくる悪意にも気をつけなければなりません。喋っても、喋らなくとも、同じだからです。そう、『雉も鳴かずば撃たれまい!』ですから、舌に轡(くつわ)をかけて、「丁寧なことば」や「いのちの言葉」を語っていきたいと思っています。

(スピーカーズ・コーナーの様子です)

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朝露

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 宮城県に女川町があります。小学校の授業で、入江が深くなった「リアスアス式海岸」を、ノルウエーの「フィヨルド」と一緒に学んだのです。地図や写真ではなく、『一度でいいから、この目で見たいな!』と思った日がありました。そのリアスアス式海岸線の南に位置する、漁業の盛んな町が、その女川です。東日本大震災では大きな被害を被った街でした。もう10年になるのですね。

 その復興のために、街を上げて事業を展開してる最中なのです。その計画が展示されているそうです。この女川町が、何を大切にして復興に取り組んできたかが、とても特徴的なのです。その1つは、若い世代に委ね様ということです。

 その展示のメッセージには、復興の取り組みが始まった頃を振り返って、『還暦以上が口を出さず、盾となり、次の世代に町の将来を託した!』といった標語を掲げていたのです。大人は顧問役で、背後から支えていき、若い世代を中心にして復興の事業を展開させ様としています。還暦以上は口出しをしないのだそうです。

 とくに、次代を担う、《小中学生》に任せるのだそうです。これは画期的なことではないでしょうか。『俺がいなければこの街に復興はできない!』と思いがちの年寄りが引っ込んでいるのは、実に素晴らしいことです。

 入れ歯で、話し言葉もくぐもっていたり、会議には、通院の合間に出席し、薬を飲みながら、咳をしながらでは、良い立案も実行もできません。それは人口減の地方の町や村だけではなく、国政においては、尚更のことではないでしょうか。もう〈我々世代〉では、体力的にも精神的にも無理です。
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 過去を懐かしむようになったら、将来は見えなくなっているのです。将来は、若い者たちのものです。
 
 「あなたの民は、あなたの戦いの日に、聖なる飾り物を着けて、夜明け前から喜んで仕える。あなたの若者は、あなたにとっては、朝露のようだ。(詩篇110篇3節)」

 「朝露のような若者」こそが、国を、街を、組織を復興させることができます。明治維新をもたらしたのは、過去に繋がるだけの世代ではなく、将来に羽ばたこうとした若い世代でした。斬新な考えを持つ彼らを、過去の経験を豊かに持っている世代は、応援し、助言し、責任をとってあげられるだけで良いのです。

 女川町は、若い世代の流出を、そういった委任によって防ごうとしているのでしょうか。中央での出世ではなく、故郷の将来を担おうとしている若者への激励でしょうか。大人世代の決心が伺えて素晴らしいと感じています。義を愛し、謙遜な若者の輩出を願う、若者たちが羽ばたこうとしている、卒業式の時期の弥生三月です。

(現在と震災直後の女川町です)

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足元の火

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 今しきりに思い出している人がいます。兄が大学受験で、在京の文化放送の「大学受験英語講座」を受講していました。J.B.ハリスと言う方が講師で、お父さまがイギリス人でお母さまが日本人でした。その放送の前か後か、放送時間は覚えていませんが、「歌謡浪曲」と言う番組をしていました。

 当時は、まだ浪曲が流行っていて、よくラジオで放送していました。その歌謡浪曲は、三味線だけではなくて、洋楽器の演奏もあったと思うのです。早稲田に学ぶ青成瓢吉が主人公で、尾崎士郎の作、「人生劇場」でした。瓢吉の出身が、愛知県の三州吉良、あの清水次郎長の子分の吉良の仁吉の故郷でした。

 その浪曲と歌謡とが合わさった語りと唸りが、古風な中学生の私の心を揺さぶったのです。それを演じたのが村田英雄でした。両親が浪曲師と囃子手で、幼い日から舞台に立って来たのだそうです。新しい形の浪花節語り、歌手でした。それから、目を見張る様に脚光を浴び、この人は歌謡界で大活躍します。

 ところが晩年に、糖尿病を患ってしまいます。昔の旅回りの演者は、その土地土地のご馳走を振る舞われ、美酒美食の食生活だったのでしょう、合併症に苦しみます。とうとう足を切断するほどになってしまいました。

 去年の年末になって、家内に勧められ、やっと重い腰を上げた私は、市の検診を受けたのです。結果が一月になって送られて来て、〈要精密検査〉で、家内のかかっている獨協医科大学病院で診てもらいました。尿酸が多いとのことで、単なる医者の脅しではなくて、やっと足元に火がついてでしょう、目覚めた感じです。

 薬を飲まないことを、ちょっと誇っていた私は降圧剤を飲む様になり、鼻っ柱を折られてしまい、今は小さくなっています。子どもたちが《注意勧告》、食生活や運動の勧めをしてくれているところです。それで、今の生き方は、〈村田英雄〉の後半生の在り方を反面教師に、一生懸命に散歩に出掛け、甘い物と間食を断って、魚中心の毎日です。

 ちょっと遅きに失した感が強いのですが、やっと《自己管理》に目覚めたのです。もう少し生きて、孫の結婚式に出たり、孫の子を抱いてみたいからです。問題は、胃カメラを飲んだ結果、上部に問題が発見され、組織をつまみ取って検査に回したそうです。その結果が、今日の通院で出たのです。

 ガンの兆候はなく、ピロリ菌があるとの医師の診断でした。除菌をするそうで、服薬を言われて、明日からの開始です。明日は、糖尿病専門の町医者に出かけて、糖尿病予備軍とのことで、胃の検査結果と、そこでした尿と血液の検査の結果を踏まえて、生活指導を受けることになりそうです。家内も子どもたちも、ひと時の安心を得たようです。減量、運動、間食注意、魚中心の食事に努めていく思いでおります。

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世界大

 1955年ですから、ずいぶん昔になりますが、「テキサスの黄色いバラ」と言うアメリカの歌が、ラジオから流れていて、よく耳にしました。黄色いバラなど見たことはなかったので、不思議な思いで聞いたものです。

 家内は、このテキサスから日本にやって来たアメリカ人宣教師夫妻に、若い頃に、大変お世話になっています。病気をした時に、『キューカンバージュース(キュウリ汁)を飲むと好い!』と言って、毎日、そのジュースを大きな器に入て、家に届けてくれたのです。その甲斐あって、症状が好くなりました。この受けた愛は、決して忘れられない様です。善意だけではなく、家内は信仰も受け継いでいます。

 私の母も、義母も、この方にお世話になっています。それで、「テキサス」と言うと、このアメリカ人夫妻と、この歌とを思い出してしまうのです。次にような歌詞の歌でした。

There’s a yellow rose of Texas
That I am going to see
No other fellow knows her
No other, only me.
She cried so when I left her
It like to break my heart
And if I ever find her
We never more will part.
テキサスの黄色いバラ 会いに行くんだ
仲間は誰も彼女を知らない 僕だけの秘密
別れのとき 彼女は泣いた
胸が痛んだ
もう一度会えたときは
僕は二度と彼女を放さない

She’s the sweetest rose of color
A fellow ever knew
Her eyes are bright as diamonds
They sparkle like the dew.
You may talk about your dearest May
And sing of Rosa Lee
But the Yellow Rose of Texas
Beats the belles of Tennessee.
彼女は甘美なバラ 仲間も一番と認める
瞳はダイヤモンドのように輝き
朝露の如くきらめく
君の親愛なるメイとローザ・リーの歌も
テネシーの鐘も彼女には敵わない

Oh, now I’m going to find her
For my heart is full of woe
And we’ll sing the song together
That we sung long ago
We’ll play the banjo gaily
And we’ll sing the songs of yore
And the Yellow Rose of Texas
Shall be mine forevermore
彼女を探す僕の心は悲しみに満ちる
昔歌った歌を一緒に歌おう
楽しくバンジョーを鳴らして 懐かしい歌を歌おう
テキサスの黄色いバラ
彼女は永遠に僕のもの(日本語は意訳です)

 私の恩師は、ジョージア州の出身でしたが、そのテキサスの一つの街で、家内を世話してくれた宣教師夫妻と出会っています。アメリカ空軍の将校でしたが、それを辞めて、日本にやって来て、宣教を始めています。としますと、家内も私も、「テキサスのDNA」を受け継いだのでしょうか。彼らの生き方や人生観や価値観に啓発されたからです。

 でも彼らの信仰や生き方は、「テキサス気質」や「テキサスDNA」とは違います。そのテキサスの田舎町で毎年行われた集会で育まれ、挑戦された高貴な精神性や使命を持っていたのです。

 「それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。(マルコの福音書 16章15~18節)」

 そう言った「世界宣教の重荷」は、テキサスだけのものではありません。カルフォルニアのロサンゼルスからも、ドイツのシュバーベンからも、スイスのベルンからも、この世界に東の端にある私たちの国に来てくださって、違った文化圏で宣教の業に従われた方々が、多くいらっしゃったからです。

 自分が何を受け継いでいるのか、長く考え続けています。実に素晴らしいものを受け継がせてもらったと感謝しているのです。それはアメリカのテキサスだけからのものだけではありません。それは国家や民族や言語や性別や年齢を超えた、《世界大》で広範なものでありました。永遠性を持った高貴な理想であり、夢であり、幻なのだろうと思い返しています。

 私たちの子も孫も、それを受け継いでいるのです。私たちの過ごした華南の地の海岸部には、イギリス人宣教師たちが伝道をして、五代、六代の人たちが信仰を受け継ぎ、一度訪ねた漁村では、90%もの人たちが信仰を受け継いでいると言っておいででした。ちょうど農夫が種を蒔く様にして宣教の業が行われ、実を残したことになります。

 
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火災

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 先日、玄関の扉を開けて、来客のお母さんとお嬢さんを迎えたときに、煙の匂いがしたのです。近所で焚き火でもしているのかと思ったのですが、西隣にある足利市の山林火災の樹々が、強風に煽られて焼ける匂いがしてきたのです。

 ここ北関東は、新潟や福島にかけて、本州の中央部が山岳ですから、樹木が多くあり、山林火災の危険性がありそうです。先日、下の娘が住むオレゴンが森林火災で、住んでいる家の近くまでも火の勢いが及んでいたそうです。それで被災者のための奉仕を、家族でしていると言ってきました。それからしばらく経つと、火の向きが迫ってるので、避難の準備をしていると知らせてきたのです。風向きが変わり、雨があって鎮火したと知らせがあってホッとしました。去年のことでした。

 小学校の仲のよい同級生のお父さんが、消防署長をしていました。その頃の東京の都下の町も、ここ北関東の街も同じで、よく救急車や消防車が、サイレンを鳴らしながら、火災現場や病気や怪我を負った人の所に急行しています。親友が、お父さんのお仕事を継承したかどうか知りませんが、その仕事や使命に子ども心に憧れたのです。

 私たちにも、思い出すことがあります。まだ子育ての頃に、当時住んでいたアパートの上階で、爆発火災事故がありました。爆音とともに、階下の我が家の窓ガラスが爆風ででしょうか、完全に砕け落ち、玄関の戸が開いたのです。窓際に寝ていた私だけだ、ガラス片で頭部に怪我を負ったのですが、四番目の子を宿していた家内も、三人の子どもたちは、奇跡的に無事でした。

 私は、消化器を持って上の階に駆け上がったのですが、新建材のモクモクした黒煙で、玄関からは入れませんでした。どうすることもできず、住んでおられた婦人と飼い犬が亡くなったのです。しばらくすると消防署と消防団とが駆けつけてきて、放水し始めたのです。その水のおかげで、我が家も水浸しになったのです。

 そんな火災経験が、私たちにもありました。警察と消防署の検分で、階下の我が家へのガス漏れで、引火しなかったのを、とても不思議がっていました。専門職のその言葉で、重大な引火事故になりかねなかったことを知って驚いたのです。地方紙の聞き取りを受けたりもしました。70年の人生で、最も大変な経験だったと言えます。

 そんなことを思い出したのは、昨日が、「消防記念日」だったそうです。昭和23年3月7日に、「消防組織法」が施行されて、その記念の日でした。そう言えば、次男と家内の二人が、救急車のお世話になったこともありました。災害地でも、消防婦のみなさんの活躍などを聞いて、尊いお働きに感謝した昨日でした。

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うらら

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 作詞が野口雨情、作曲が草川信の「春の歌」は、小学校の唱歌でした。みよちゃんの様に、本格的な春を待ち望む気持ちが、この三月になると、思いの内に湧き上がって来ます。

1 桜の花の 咲く頃は
うらら うららと 日はうらら
ガラスの窓さえ みなうらら
学校の庭さえ みなうらら

2 河原(かわら)で雲雀(ひばり)の 鳴く頃は
うらら うららと 日はうらら
乳牛舎(ちちや)の牛さえ みなうらら
鶏舎(とりや)の鶏(とり)さえ みなうらら

3 畑に菜種(なたね)の 咲く頃は
うらら うららと 日はうらら
渚(なぎさ)の砂さえ みなうらら
どなたの顔さえ みなうらら
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 「うらら」は漢字で「麗」と書きます。「源氏物語」の中で、紫式部が、次の様な歌を読んでいます。

春の日の うららにさして 行く船は 棹のしづくも 花ぞちりける

 滝廉太郎は、隅田川を眺めながら、この和歌を引用したのでしょう。春の川が、のたりのたり、のんびりと流れていたからです。紫式部の時代も、滝廉太郎の時代も、私たちの時代も、隅田川は同じです。友人の社宅に居候していた時、江戸情緒が微かに残る、隅田川界隈を歩いたことが何度もありました。コンクリートで護岸された墨田の流れには、情緒はありませんでしたが、流れる水音は同じ、陽の光も、わずかな土手の土に咲く花も同じでした。早春の麗かさが溢れていました。

 今、巴波の流れを朝な夕に眺めて、白鷺が餌を求めて川面に立っています。今朝は、母鳥に習って、小さな生まれて間もない子白鷺が、じっと餌を狙い定めていました。たまに鴨が騒々しく鳴いています。《春遠からじ》の北関東の商都です。

(隅田川の様子です)

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