一衣帯水

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 中国新幹線が、浙江省温州で事故を起こしました。多くの犠牲者がでましたことをは、大変残念なことでした。犠牲者やご遺族にみなさんの上に、お慰めをお祈りしております。

 33年前の1978年に、時の主席・鄧小平氏の指揮の下、「改革開放政策」が始まり、それまで遅れをとっていた経済やインフラや教育など、すべての面での新たなスタートが切られました。その政策の基本原則は、「先富論(先に豊かになれる条件を整えたところから豊かになり、その影響で他が豊かになればよい)」と言う、劃期的(かっきてき)なものでした。 その勢いは、焼土とかした日本が、その壊滅状況から立ち上がって、世界有数の経済大国になった勢いに比べ、遥かに勝るものがありました。もう20年近くなりますが、私が初めて、北京・フフホト・上海・広州を旅したとき、北京でさえ、車が僅かで、信号など数カ所しかありませんでした。道路で幅を効かせていたのは歩行者と自転車でした。ホテルも高級の割には、薄暗かったでしょうか。それが、6年前、久しぶりにやってきた中国は、激変していました。それから6年した今、道路は車で溢れ返っており、高層アパートが林立し、建設中ですし、道路は高架になって、さながら都内を髣髴とさせる光景を、さらに何倍かしたような様を見せております。街は物で溢れ、外資系のスーパーマーケットもあちこちに開店営業し、大きな商業施設(モール)も、そこかしこに建設中です。

 ちょうど日本が、欧米諸国の水準に近づこう、追いつこう、追い越そうとして躍起になっていた頃の、あの高揚する雰囲気と同じものを、今、ここ福州の街にあっても感じております。日本も急ぐあまり、多くの問題を生起していましたし、その問題処理も、高度成長期の躍進の陰で、国土の保全、環境保護、人権の擁護などが求められ、それらを実現していた時代だったと思います。今の中国をみますと、1960年代の日本と同じで、後にされている問題に、大きく焦点が当てられ、関心を寄せ始めております。国際社会から指摘されている問題点を、非難としてではなく、改善点としていくべき今であります。この後手に回された問題の対処こそ、事故や失敗や不都合が改善され、国際社会の水準になっていく、ひとつの大きな動機付けに違いありません。

 ですから、『そら、見たことないじゃあないか!』と、私は非難しません。躍進途上には、やはり何かが後回しにされるのが常なのです。アメリカ然り、韓国しかり、日本然りなのです。露にされた問題を隠さないで、表に出して、一大課題として対処改善していくときに、中国は経済面での一等国となっていくに違いありません。『新幹線の大事故のダメージは実に大きい。しかし、この問題を徹底的に改善していくときに、中国の技術はフランスやドイツや日本を凌駕していくに違いない!』と、私は感じるのです。

 先日、泉州に旅行した際、「和谐号(Hexiehao=『調和された』の意、中国バージョンの新幹線)」に乗りました。50年の開業の歴史のある日本の新幹線と比べて、気づいたことが幾つかありました。横揺れの回数が多かったこと、振動があったこと、トンネルの出入りの際の風圧が大きいこと、トンネル内で耳鳴りがあること、停車時や減速時の振動の大きさなど、幾つかの違いが気になりました。これも経験と時間とによって、きっと改善されていくことと思われます。日本の新幹線の技術の多くが、『優れた戦時中の航空機製造の技術を、どうしても平和利用したい!』という切々たる思いを根底におき、始められていますから、その技術の研究の歴史は70年にも及ぶと思われます。その差は、仕方のないことだと思います。

 しかし、中国の追いつこう、追い越そうという意気込みは、実に素晴らしく凄まじいものがあります。それを脅威と感じて、日本はさらなる技術の躍進に努める必要があると思われます。韓国の「現代製」の乗用車は、日本製を真似し、改善し、今では比肩するほどの優秀な車として好評をはくしております。彼らが「改善」の努力を積み上げてきたからです。日本はアメリカを追って追い越しましたが、今や韓国や中国に追い抜かれようとしているのですから、うかうかしないで、さらなる努力を、持ち前の緻密さに磨きをかけ、技術を高めていよう邁進して欲しいものです。中国、恐るべきであります!持ち前の積極的志向で、この困難を乗り越えていって欲しいと願うのです。だって、中国と日本は、「一衣帯水」の親子のような間柄なのですから!

(写真は、泉州駅のホームに入ろうとしている厦门発の「和谐号」です)

敬慕

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 代議士の西村眞悟氏が、次のような記事を投稿されていました。その一部を引用してみましょう。『・・・そこで、店舗を各国に展開するコンビニのセブン・イレブンが各国の店舗内に設置した義援金箱に入れられた金額を公表しているので、それをご紹介したい。言うまでもなく、コンビニは子供から大人までの普通の庶民が、大金を持たずに日常の買い物をする場所である。従って、一店舗当たりの義援金額は、その国の国民の素朴な対日感情を表していると思われる。これは、我が国の友好国は何処なのかという我が国の国家戦略にも影響を与えるべき要因である。次が、各国内のセブン・イレブン店舗内の義援金箱に入れられた一店舗当りの金額である。
   第1位、インドネシア   108519円
   第2位、台湾        63892円
   第3位、シンガポール    20491円    2011.08.08 Monday name : kajikablog 』

 親日家のインドネシアのスカルの大統領が、大変好んだ日本の歌があるようです。「愛国の花(昭和13年、作詩・福田正夫、作曲・古関裕而で、渡辺はま子が歌いました)」です。彼自身もよく口ずさんだと言われています。

     1 真白き富士のけだかさを こころの強い楯として
       御国につくす女等は  輝く御代の山ざくら
       地に咲き匂う国の花

     2 老いたる若き諸共に 国難しのぐ冬の梅
       かよわい力よくあわせ 銃後に励む凛々しさは
       ゆかしく匂う国の花
                
     3 勇士の後をあとを雄々しくも 家をば子をば守りゆく
      優しい母や、また妻は  まごころ燃える 紅椿
      うれしく匂う国の花

     4 御稜威のしるし菊の花 ゆたかに香る日の本の 
       女といえど生命がけ こぞりて咲いて美しく 
      光りて匂う国の花 

 インドネシアは、16世紀頃から、特産の香辛料の権益を得ようとしていた、イギリスやポルトガル、そしてオランダなどの国が、覇権を競って植民地化を画策していましたので、そういった動きの矢面に立たされていました。しかし18世紀に入りますと、インドネシア全土がオランダ統治下におかれてしまいます。そのオランダの植民地であったインドネシアが、独立していくために、日本と日本軍の果たした役割は実に大きなものがあったのです。もちろん、日本の軍政下におかれた時期がありましたが、日本の敗戦後に、再びオランダがインドネシアを支配しようとしたときに、スカルノらによる独立運動が起こり、その運動に、残留していた日本軍が協力を惜しまなかったのです。ついに1949年12月に、独立が国際的に承認されるのです。 その残留日本人への感謝を込めて叙勲も行われております。

 白人支配下にあったアジア諸国の先駆けとなって、日本が勇敢に戦ったことを、このインドネシア国民は高く評価しているのです。とくに日本の軍政下に置かれたときの司令官が、今村均中将で、その軍政は、実に紳士的で、未だにインドネシアの学校の歴史教科書には、その軍政の模様が記されているとのことです。この今村中将の甥子が、私の大学の級友でした。彼のお父さんも軍人で、ベルリンで行われたオリンピックの「馬術」で惜しくも優勝を逸っした西中尉(ロスアンゼルス大会では優勝)の補欠として参加したほどの馬術の名手でもありました。戦後、山西省に残留し、昭和24年4月、太原攻防戦に敗れた残留部隊は、解放軍に投降しました。今村方策隊長(中国の「百度百科」でも、写真付きで来歴が紹介されていますhttp://baike.baidu.com/view/3324446.htm)は、その直後、敵将と掛け合い、部下の身の安全を確認し、青酸カリを飲んで自決したのです。戦時下で、日本軍兵士が、虐殺だけしかしなかったのではなく、インドネシアでも中国でも、現地人から尊敬を受けた兵士たちが、またいたことを覚えておきたいものです。

 父君が、武人として、部下から敬慕された上官で、中国の蒋介石軍にも解放軍にも尊敬された方だったのですが、級友も、また凛々しい男だったのを思い出します。日本の過去を否定だけするのではなく、輝いていた過去、戦時下にも、敬意を受けていた人々のいたことを知るべきかと思うのです。大震災に見舞われた日本へ、そういった過去を評価するインドネシアのみなさんの草の根の支援が、抜きん出て多額なことは、よい対日感情の表れなのであります。

(社員は、インドネシアの「一風景」です)

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 最初に手に入れた自動車は、いすず製の「ベレット」でした。私たちの事務所を建てるために、東京の本社が、土地を購入してくれたのですが、その地主さんが、『息子が乗らなくなった車が東京にありますから、使ってください!』と言われて、頂いたものです。本当に小さな車でしたが、それ以来、兄の載っていたのをもらったり、中古屋で買ったり、友人から頂いたりで、これまで15~6台乗り継いできたでしょうか、すべてが相当に古い代物(しろもの)でした。最後の車も、自動車販売店が都合してくれて、無料で2年ほど乗せていただいた、トヨタ製の「カローラ」でした。わが自慢は、《新車に乗ったことがない》ことなのです。《分相応》ということばがあります。goo辞書によりますと、『[名・形動]その人の身分や能力にふさわしいこと。また、そのさま。応分。「―な(の)生活をする」 』と出ております。《高望み(『[名](スル)身分や能力以上の高い望みをもつこと。分不相応な望み。「―しないで分相応な生活を送る」 』)》しないで、この40年来、まあつつましく車も利用してきました。

 仕事の仲間に、日系ハワイ人がおられましたが、この方も、高級志向ではなく、『車って、動けばいいんですから!』と低燃費の経済車に乗っておられましたが、今はどうされておいででしょうか。それとは逆に、『僕は、いい物好みで、高級車でないと!』と言って外車に乗ったり、『社員が、この車に乗ってくださいと、プレゼントしてくれました!』と言って「セルシオ」のような分相応の車に、颯爽と風を切って乗って、言い訳しておられる方もおいででした。

 何時でしたか、ポートランド旅行をしたことがありました。その隣にビーバートンという街があって、そこにモデルのような研究所がありましたので、そこを訪問しました。その所長さんに、「ベニハナ」という日本レストランでご馳走になったとき、同席していたのが、アメリカで有名な〈ソース〉を製造販売している、サクセスストーリーの主人公の社長さんでした。日系移民の方で、辛酸労苦の末その成功を手に入れたのだと、言っておられましたが。彼が、この所長を、こう語ってくれました。『わたしたちの業界でも、彼のような業種でも、有名になったり成功したりすると、着ている背広と乗る車が変わるんです。ところが友人のロンは、そういったことに全く頓着しないのです。背広や乗用車で、自分の成功度をアピールしないのです。そんな彼の謙遜さが好きで、長年交わりを楽しんでいます!』とです。そのような評価を聞いたとき、彼は、どこから見ても素人が手で編んだ、ちょっと寸法違いなセーターを着て座っていました。『これ、年取った母が編んでくれたものなんですよ!』と、誇らしげに着ていましたので、納得させられたのです。

 昨日のMSN外信ニュースに、《車の格、人の格》という記事が載っていました。中国駐在の日本大使の車についてのコメントでした。『経済大国の日本の駐在大使が、中型セダンに乗るには、日本の顔として相応しくない!』との意見です。〈格〉って何でしょうか。以前、車で、姫路、伊予三島、宇和島、別府、熊本、門司神戸、東京と旅行をしたことがありました。すぐ上の兄が使い古した、トヨタ・カローラでした。エンジンは抜群に良かったのですが、車体は錆びて穴が開いて、相当の年代物でした。それに乗って行きましたら、『こんな車に乗って、よく来ましたね!』と感心されたのか、呆れられたのか、そう言われてしまいました。

 年相応、立場相応の車の格や、背広、住宅、学歴などがあるのでしょうか。会社の部長や重役になったりすると、東京だと、三多摩や墨田区では駄目です。麻布、代官山、奥沢などに住まないと、格に合わないのでしょう。セルシオやベンツやBMWに乗らないとみっともないのでしょうか。私の家内が、学年の委員長をしていたときに、ある父兄から、『廣田さん、みっともなから自転車なんかに乗って、ホテルに来ないでください!』と言われたことがあったそうです。委員長に相応しい乗り物ってあるのだと、初めてその時に気づいたのです。家内は、何を言われようと飄然として、自転車で風を切ってホテルの会合に向かっていました。いいじゃあないですか、何に乗ろうと何を着ようと、どこに住もうと、犯罪を犯しているのでも、人に迷惑をかけてもいないのですから。

 人間の格付けというのは、車や背広や住宅などのよるのでしょうか。『人格」は、goo辞書によりますと、『・・・②すぐれた人間性。また、人間性がすぐれていること。「能力・―ともに… 』とあります。人間が優れているのであって、乗り物や着物などの持ち物にはよらないわけです。ヤクザや詐欺師は、超高級車に乗っていても、社会的には真っ当ではないし、心が貧しいのですから、格が高いとはいえませんね。心の中に何を宿しているかによって、その人の格や価値が決まるのではないでしょうか。よく血統書付きの高級犬を連れて得意満面で散歩している方と、この街でも出合います。この犬は、どこででも排尿や排便をしています。犬は犬であって、いい犬を飼っているからって、得意になったり優越感にしたっているのは滑稽なことです。もっと高尚なことの中に、「格」が定まっているに違いありません。きっと棺桶に入って、人は再評価されて、初めて、高・中・低と格付けされることになりそうですね。私の評価をしています。ある方は〈高〉、ある方は〈低〉、そこにねずみがやって来て、『チュー(中)』と一声・・・・・。

(写真は、1964年当時のいすゞの乗用車「ベレット」です)

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 先日、美味しい「粥」を食べました。ピータン(皮蛋)と豚肉(痩肉)と椎茸(香菇)と香菜などの入った、まるで横浜・中華街の高級飯店で食べるような、実に味の深い、体に馴染むようなお粥でした。中華料理の味の深さというのでしょうか、調理をする人の腕によるのでしょうか。このお粥を作ってくださったのは、23歳になったばかりの学生さんです。教え子のボーイフレンドで、引越しの準備のさなかの家内と私とが、暑さ負けしないようにと、夕食を作りに来てくれたのです。ついお替りをしてしまいました。デザートには、〈仙草xiancao〉という夏場に適した中国版ゼリーを出してくれたのですが、前もって家で作って持ってきてくれたのです。少々疲労気味でしたから、胃に負担の少ない夕食になりました。

 先日、旅行に誘ってくださり、いっしょに泉州の実家に泊めていただいた方で、外国人で友人の教師ということで、おもてなし頂きました。彼には世話になってばかりでおります。日本で食べてきた「粥」は、梅干をのせた病人食(それしか知りません)で、塩味だけのさっぱりしたものですが、こちらの粥は、栄養価が高く、しかも胃に負担は少なく、『食べ過ぎないほうがいいようです!』との注意もしてくれました。こちらの街で食べる中華料理は、その味付けは「味精(味の素)」が多く使われて、様々な具材を油で炒め、揚げ、煮て食卓に供される場合が多いようです。もちろん、先日の泉州旅行で、彼の家でごちそうになったお母様の料理は違っていました。家庭料理は、それぞれの特徴があるのですが、一品一品を真心込めて作ってくださいました。好きな〈シジミ〉が出てきたので、つい、『我最喜欢这个东西!』と無遠慮に声を出してしまいました。きっと北京の紫禁城や南海で称された料理は、気品料理だったのでしょうね。

 誰かから聞いてウル覚えなのですが、『ヨーロッパに家に住み、日本人の女性を妻に、中華料理を食べることが、男の理想なのです!』だそうですが、《やはり食は中華》に違いありません。長年食べてきました日本料理は、素材の味を引き出すのに注意しているのでしょうか。関東と関西とでは味つけが違います。関西圏と言っていいでしょうか島根県出雲の出身の母と、関東は神奈川県横須賀で生まれ東京で育った父とは違っていました。醤油も味噌も違うからです。母は、父の好みに味を変えていましたから、我が家は関東圏の味だったのです。日本の会席料理をみますと、一品ごとに調理をし(もちろん炊きこみご飯、ちらし寿司、鍋などは例外ですが)、皿に盛り分け、各自に一人前ずつ運ばれてきて、食卓に並べられます。高級料理店に参りますと、皿だって半端ではなく、〈何々焼き〉といった銘柄なのです。そそっかしい私は、壊さないように注意を払わなければならなので大変ですが。

 もう一つ、中日の違いは、食卓を囲んだ時の様子です。食卓は、ほとんどが円形ですから、何人増えてもちょっと椅子を寄せれば大丈夫です。1つの皿や器に盛られた料理を、箸がぶつかり合うこともあり、突っ付き合いながら食べるのです。どれだけ食べたらいいのかを暗黙のうちに考えながら食べ、相手に、『どうぞ!』と勧めていきます。食べながら何回も乾杯を交わします。時々、テーブルをコップでコツコツたたきながら杯を交わすのです。それと賑やかなことです。大声で話が混線しています。食器の音だってやかましいこともあります。話し声が、『エッ?』と聞き返さなければならないこともあります。まあ日本語で言うと〈無礼講〉といったらいいかも知れませんが、仲間意識が強くなる食卓の雰囲気がとてもいいですね。こちらでは、『吃韩饭了没有?chifanlemeiyou』というのが、あった時の挨拶言葉ですから、『飯食ったかい?』と聞き合うことによって、相手の生活に心配りをしているのでしょうか。『食っていなかったら、一緒に食って行けよ!』と招いているのでしょう。村意識、親族や仲間の意識がとても強烈なものを感じております。そういったものが無くなってしまった日本を考えて、とても懐かしくも羨ましい風俗習慣伝統であります。

 四人の子共や、来客者や同居の方々と、家族のように「すき焼鍋」や「水炊き鍋」を囲んで食べていた時代が懐かしく思い出されてきます。「ピータン粥」を食べましたら、昔、よく食べたおじや(雑炊)や水団が懐かしくなって、「赤とんぼ」を歌いたくなってしまいました。

    夕焼小焼の、赤とんぼ
    負われて見たのは、いつの日か

    山の畑の、桑(くわ)の実を
    小籠(こかご)に摘んだは、まぼろしか

    十五で姐(ねえ)やは、嫁に行き
    お里のたよりも、絶えはてた

    夕焼小焼の、赤とんぼ
    とまっているよ、竿(さお)の先 (三木露風作詞・山田耕筰作曲)

(写真は、「赤とんぼ」です)

九段

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 私が勤めていた研究所の本部が、東京の市ヶ谷にありました。仕事で、そこに一週間に何度か出掛ける機会があったのです。ある時、そこから歩いてすぐの九段に、靖国神社がありましたので、同僚を誘って行ったことがありました。歌で歌われていましたし、日本人にとって、とりわけ戦争で亡くなられた方の家族にとっては、格別な思い入れのある特別な場であることは分かっておりました。そこには大きな鳥居があって、厳かな雰囲気がこぼれ出てくるかのような佇(たたず)まいを感じたのです。

 生来、神社に参拝したことは一度もありませんでしたが、母に隠れて、育った街の神社の境内で行われていた、伝統的の笛太鼓の踊りをのぞき見にいったことが、たびたびありました。カンテラ(照明器具)に照らされた夜店を徘徊し、あのカーバイトのガスが燃える匂いをかいで、ヨウヨウや金魚を釣ったり、綿アメを食べながら溢れるような人の間を歩いていた記憶があります。また旅芸人の小屋がかかっていて、田舎芝居の時代劇を観劇したこともあります。なんとも言えない芝居小屋の様と匂いと光景は、やはり懐かしいもののひとつです。神社は、私にとって、そういった幼い日の思い出があるだけで、父も母も、神社とかお寺とかとの関係の皆無の人でした。


 ところが、二十代の前半に、その靖国神社に行きましたときに、その境内(けいだい)に厳かさとか幽玄さというのでしょうか、独特な雰囲気がたち込めていたのが、実に重く感じ取れたのです。子どもの頃に遊んだ記憶の中の神社とは、それは異質でした。明治2年に始まる、この神社が、どういった意味のものであるかは、よく知っていました。戦没軍人・軍属が祀られていて、とくに戦争に関わった〈英霊〉といわれる死者を祀っていることもです。東京裁判でA級戦犯として死刑判決を受けて、処刑された人たちも、それに含まれていることもです。

 だいぶ以前の「毎日新聞」に、A級戦犯の分祀について、同神社の前宮司の湯沢氏が、『一度神様として招いたものを簡単に人間の考えで左右するわけにはいかない。時代が変わっても永久に分祀はあり得ない!』と言われた記事が載っていました。人間である天皇を、神に祀り上げて、それを頭にして戦争を遂行したのです。民意をひとつに結集させるために作為的に行われたのではないでしょうか。人間宣言をされる以前から、ご自分が人であることを認めておられたのが、裕仁天皇だったのです。イギリス人がするように、天皇を一国の王様として、心からの敬意を私はもっております。

 しかし、国として幾度となく、被害に合われた国々に、謝罪を表明していることも事実なのです。あの侵略戦争の結果、アジアで多くの犠牲者を出してしまったことは、大変な責任と呵責があります。私の級友たちのお父さんの多くは、徴兵されて戦死しましたし、職業軍人でも、祖国の父や母や兄弟姉妹や子たちのために戦って召されたのです。そういった戦死の責任だって国は負っていることになります。私が靖国に行ったときに、ここに友人たちのお父さんや、私の叔父がいるとは思いませんでした。仏壇の中にも墓の中にもいないこともです。級友たちの記憶、思いの中に残っておれれるに違いありません。


 子どもを乳母車に乗せて散歩をしていたとき、近所の小さな祠(ほこら)のある神社を通りました。人通りが少なかったので、好奇心満々の私は、その中を『見たい!』との衝動に駆られたのです。子どもを乳母車に任せて、その祠の扉を開いて中を見ましたら、中くらいの石が置いてあるだけでした。何の変哲もない平凡な石が、ご神体だと分かって、驚いたり納得したりでした。春と秋に祭礼が行われて、そこには近所の人たちが集っていましたが、この中の何人の方が、その事実を知っているのかと思いましたら、日本人の神観や宗教観は、何と貧しいものなのかと感心させられ、父と母の生き方の意味が少し分かるようでした。
 
 「・・死んだ人々が・・御座(大きな御座)の前に立っている」のです。戦没者だけではなく、死んだ全ての人がであります。祀ること、分祀、首相の参拝よりも、人が祀った英霊と言われる神もまた、「至高者」の前に立たなければならないのです。その最後の審判こそが、最も厳粛なことなのですが。

(写真上は、「九段」の周辺図、中は、カーバイトをガス化した「灯」、下は、「乳母車」です)  

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 「公僕」、新明解辞典によりますと、『[権力を行使するのではなく]国民に奉仕する者としての公務員の称[但し実情は、理想とは程遠い]』とあります。英語ですと、”public servant”と言ったらいいのでしょうか。中国語では「公仆(gong pu)」で、日本語と同じで、下僕の心で、公の仕事をする人のことです。

 素晴らしい 組織も人も、始まりは清廉潔白です。受益者のために献身的に働き機能します。しかし、その内部は何時の間にか腐敗していきます。それは組織の持っている宿命なのかも知れません。その責任者の保身や、役得で、甘い汁を吸えるとの誘惑から、堕落が始まります。誘惑する者が手ぐすねひいて待っているのも事実です。一歩坂を転がり始まりますと、抑止力が効かなくなります。そうすると、世間に漏れることを嫌って、それを隠そうとします。問題の解決ではなく温存が、やがて腐敗をうみます。ある組織では、18人も愛人を持っているリーダーも出るほどになっているようです。それを養うには、次の甘い汁を求めて飛び回る蜜蜂のようです。転がり始めたら急加速です。蜜蜂は、私たちの滋養のあふれた蜜を提供しますが、組織で腐敗した輩は、害悪をもたらすのみで、やがて自己矛盾から破滅していくのです。

 そういった組織や責任者からの不当な取り扱いをうけ、虐待の被害をうけた人たちは、自殺をしたり社会不適応が始まります。ついには精神疾患の問題をもたらす被害者だっておいでです。そういった被害者を持つ家族の二次被害の問題、そんなことに関する意見が、今日日、マスメディアに多くみられます。幸いなことに、ある機関では、義の故にでしょうか、良心の叫びからでしょうか、苦渋の選択をなさって、〈内部告発〉をなさる方がおいでです。これって「チクリ」かも知れませんが、日和見な生き方ではなく、復讐でもなく、栄達や出世のことよりも、社会的な責任の故に、勇気をもってのことと、私は心から尊敬しているのです。看過ごされて、隠蔽されることによって問題が潜ってしまって、世の中から忘れされることを願わない勇気ある人が、被害者の立場からでしょうか、義の立場からでしょうか、義憤をこめて糾弾しているのです。


 私は、昨年の夏に帰国しまして、中国に戻る日の早朝、新横浜から新幹線に飛び乗りました。日曜日の午前中に開催されていた京都での講演を聞きたかったからです。関空からの飛行機の搭乗時間が迫っていて、時間がありませんでしたので、身分職分を名乗り、共通の知人の名前を出し、ご挨拶だけして辞したのです。この講演者は、公務員犯罪ではなく、ある組織の中に隠され、看過ごされている問題を露にし、その被害にあわれた方を助けておいでです。同業界人として、義の故に赦せないからでしょうか。その被害者の精神的、肉体的、社会的、金銭的な被害を公にし、加害者を実名で公表して、法に訴えることを進めておられるのです。彼の働きに賛同していましたが、彼の人間を確かめたくての訪問でした。講演を聞き、奥様からお話を伺い、彼の誠実さ、奥様の私への接し方などをみて、全く疑う余地がありませんでした。思ったとおりの人を彼のうちに認めて、平安な心で、京都駅から特急に乗り、関空から機上の人となることができました。

 被害者が、加害者に抵抗の術を奪われて、泣き寝入りの場合が多いのです。神奈川県のある街で、その業界で名の知れた男が、全国展開の業務を長年進めていました。その立場を利用して、一人の女性を犯してしまったのです。結局、被害者は自殺に追い込まれ、残された家族は悲痛な心で、日々を送っておられるのです。それなのに、加害者は、その団体から追放されてもなお、その加害の事実を覆い隠し、裁かれることなく、同じ街で、同じようにして、幼児教育に携わりながら生きているのです。その夫人が、夫の過ちを容認しているのが、不思議でなりません。こう言った問題が、今日、あちこちで起こっているようです。心ない者の非難や揶揄をよそに、その不義を糾弾してやまない彼の働きを、ここ華南の地から応援しておりまます。

 ここ中国では、一番大切な徳は、「義」です。長い歴史の中で「義」こそ、中国の良心の拠り所であり続けました。それは日本でも、どの国でも同じです。臆することも、怯えることも、躊躇することもなく、「義を行うこと」こそ、その業界を、街を、国を、そして家庭を健全に保つからであります。家庭が正しく保たれる必要があるのは、次の世代がここから始まるからであります。

(写真上は、「義」、下は、青島の海岸での藻の「腐敗」です)

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 犯罪が起きますと、街中に設置されてある防犯カメラの映像記録を巻き戻して、同じ時間帯の犯罪が起きた周辺の様子が点検されます。そういったことが頻繁に行われて、犯人像が浮かび上がり、逮捕に結びつき、一件落着といった事案が多いようです。街中には、防犯カメラが、数多く設置されているのを、犯罪が起きて改めて認識させられます。それが防犯に役立ち、犯人の検挙に益するなら、犯罪とは程遠く生きる一市民の私たちには、抵抗感はありません。

 この防犯カメラではなく、今日一日の私の網膜に写った光景が、VTRで巻き戻し上映されたら、どうなるでしょうか。決して他人に見られたくない光景が、幾場面もあることでしょうか。表現の自由というのでしょうか、メディアの攻勢は驚くほどで、雑誌、漫画、テレビ、DVD、ネットなど、様々な領域に溢れ返っています。もし自己規制をして制限しなければ、心を荒廃させて生きる意欲をそいでしまい、その劣悪な映像の虜とされてしまいます。『ポルノの問題は、人を犯罪に誘発するよりも、人を無気力にさせることにある!』といったことを聞いたことがあります。たしかにそうだと思います。目に焼き付いた光景はなかなか忘れられないものです。中学の運動部が、高校と一緒で、そこには様々な先輩、大学生や社会人が出入りしていました。当然、猥褻な雑誌や写真に触れる機会が多くありました。そこで見た、見せられた映像は、半世紀も経つのに、いまだ鮮明に眼に焼き付いているのです。高校の時に、お父さんが有名な映画会社の映画技師をしている同級生がいて、彼が手に入れた写真を、学校で売りさばいたことが露見して、彼は退学処分になりました。中学から一緒に上がってきたのに、高一で処分されて、その後、音沙汰なしです。仲間に誘われなかったのは幸いでした。

 古代人のヨブという人が、こんなことを言っています。『私は自分の目と契約をした。どうして乙女に眼を留めよう。』とです。目の焦点を、どこに合わせるかの問題です。何を見るかが課題なのです。これは、女性への誘惑ではなく、特に男性への強烈激烈熾烈な誘惑であります。十代の男の子だけではなく、有名大学の教授とか、警察官とか裁判官とか医者とか、社会的な立場や役割とは関係なく、激しく男性が誘惑される領域です。ヨブという人は、自分の弱さを知っていて、それを誤魔化したり、言い訳したりしないで、確りと認めていたのです。『見たいものを見る!』という生き方ではなく、『見てはいけない物は見ない!』と決心した人ではないでしょうか。古代にも誘惑はあったことになります。私が戦ってきたのは、見ることではないのです。つまり一瞥することは仕方が無いのですが、〈見続けること〉に問題があるのだと思うのです。見て、男は想像し、それをふくらませていくときに、妄想の世界に導かれ、罪を犯し、罪責感にさいなまれるのです。そういったことを、『避ける!』と決心したのが、このヨブでした。契約とは、そういった決心を言うのでしょう。眼に人格はありませんし、自分の目の所有は自分ですから、隠れたところで見ておられる至高者、そして自分の心と約束をしたことになります。それほど注意深く生きた人がヨブだったのです。


 何時でしたか、街の市場でアルバイトをしていたときに、野菜をネコという一輪車に乗せて運んでいました。ふと行く道の先に、大きなお尻をしたご婦人が同じように野菜を運んでいたのです。つい見たとき(見ただけは罪がないのですが)、少々長めに眺めていましたら、眼に野菜の葉物がぶつかってきて大変な目にあいました。医者に治療をしてもらうほどだったのです。その野菜の葉っぱは、『ノー!』のサインを送ったのです。痛い目をして学ばさせられた若い日を思い出します。それで完全に勝利したのではありません。六十を過ぎた今日でも、この目は激戦の戦闘領域です。ある知恵者は、『右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。』と進言しています。私の友人の友人が、初めて場末のストリップを観ました。真面目に彼は、それまで生きてきたのだそうですが、悪友に誘われて観てしまってから、彼は精神に異常をきたしてしまい、学業放棄をしてしまったのです。中学の頃から先輩に鍛えられて免疫のある私は、そうはなりませんでしたが、未だに戦いの最中にあります。契約をしても再契約になることのほうが多いようです。

 これは私だけの戦いではなく、男性諸氏の止むことのない戦いの領域でありますから、えぐり出してしまうよりも、眼と契約をすること、これを繰り返すことだと思っています。敵は、猛攻撃を仕掛けてくることは必死ですが、問題は、こちら側にあります。手堅く防備しつつ、良い物、爽やかな物、高尚な物に目と心を向ける努力をし続けたいものです。加油!

(写真は、ヨブの住んでいた「ウツ」、下は、「防犯カメラ」です)

美しい地球

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 『このままでは、次の世代に、この美しい地球を残してあげられない!』との危機感から、地球の環境保護と保全を目的に、1997年12月に「京都議定書」が採択されました。そして2005年2月16日に、それが発効したのです。その目的の一つは、地球温暖化防止のために、排出ガス/二酸化炭素を規制し、減らすことに努めていこうとしています。《エコ・ライフ》と言う言葉がよく使われて、住宅も電化製品も車も、『地球に優しい!』と言ったキャッチ・フレーズで売り出されるようになっています。何時ごろからだったでしょうか、冬の日に焚き火をする風情や、庭先の焼却炉が消えて無くなってしまいましたね。美味しい焼き芋をほおばったのを思い出してしまいました。

 何年か前に、久しぶりに帰って来た息子が、1本のVTRを借りてきてくれました。そのタイトルは、アメリカ映画の「デイ・アフター・トゥモロー」でした。これは、大災害と異常気象が世界各地で起こる〈天変地異〉の映画なのです。大津波や大寒波、そして竜巻とかが北半球の各地で起こります。中でも一番の見せ所は大寒波です。この寒波がどれほどかと言いますと、寒波をもたらす大気圏の中心に入ると、1秒間に-10度も気温が下がるのです。ヘリコプターのオイルや羽根までもが凍ってしまうほどの超異常気象が起こってしまいます。東京でも、とてつもなく大きな雹が降る場面が描かれていました。北半球が氷河期を迎えて、人間を含めて、すべての生き物が死に絶えていく様子を、実に警告的に描いていたのです。先年のスマトラ沖地震と津波の報道を見聞きした後でしたので、そこに映し出されている光景が、『起こらないとは言えないよね!』との感想を持ったものです。


 今回の帰国時に、息子が有料映画にアクセスしてくれ、「ポニョ」を観ました。3月11日の「東北大震災」の地震、津波、原発事故が起きた後でしたので、そのタイミングに驚いてしまいました。その体験を通して、2つの映画の意味するところが、より深く分かったのです。自然の猛威と、人間の生き方や営みとの関係が対比されているようで、今回の大震災も、「罰」ではないにしろ、繁栄の陰でもたらされる様々な不具合への「警告」なのではないか、と感じさせられた次第です。

 「終末論」の中に、「・・日と月と星には、前兆が現われ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。」と記さてあります。人の数千年の営みが、瞬く間に崩れ落ち、その担い手である私たちも滅びるのです。みな絶望し、気が転倒してしまうのです。私の母が、『月が血の色に赤くなったら、雅ちゃん、地球が終りになると聞いたことがあるわ!』と話してくれました。その後、東京都下のわが家の風呂に入りながら、窓の外を見ていましたら、大きな木の陰から〈真っ赤な月〉が昇ってきたのです。一瞬息を飲んでしまいました。『今晩でお仕舞いなのかなあ!』と思ったからで、その恐怖は昨日のことのように鮮明に覚えております。


 『世界は某年某月某日に終わる!』といった終末の予言が当たらなかったニュースが、先日報じられていました。こう言った予言は、人を恐怖に陥れるだけで、日常の義務を怠らせてしまい、市民生活を破綻させてしまうだけです。しかし、この終末の兆しは、もう一面では輝かしい希望の兆しではないかと、私は思うことにしております。『終末が来たら、次に〈新しい時代〉が現われるのではないか、希望の明日が、そこから始まるのではないか!』、そんな期待があるのですが、みなさんは如何でしょうか。母は、私を恐れさせるためではなく、どのようなことがあっても、日常を怠ることなく、義務を生きていくようにと、諭してくれたのだと信じております。今日日、長雨、大雨、地震、津浪などが頻発して、自然の暴威が世界大で起こっていますが、絶望してしまったら何も建設的に事が運びません。どんな事態になっても、明日への希望を捨てずに、互いに励まし合いながら、いたわり合いながら今を生きていきたいものです。

 きっと画期的な変換・転換の方法があるのだと信じてやまないのです。福島や宮城や岩手でも、世界中の被災地でも、そこから立ち上がって、再出発をし始めているのですから。確りと、「警世の声(警告の声)」を聞き止めめておきたいと願っております。

(写真上は、かけがいのない美しい「地球(NASA)」、中は、国際宇宙ステーションから撮影した「地球」、下は、真っ赤な「月」です)

ゴムorガラス

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 私の友、彼が私を他の人に、『彼は僕の友人!』と紹介してくれるので、『ウエインは僕の友人なんだ!』と言います。この彼が、最近、新しい本を上梓(じょうし)し、邦訳もされております。その本の中で、彼はたくさんの例話を引いているのです。その中に、1996年、ジョージア工科大学の卒業式に招かれた、コカコーラ社・元社長ブライアン・ダイソン氏の祝辞がありましたので、ご紹介いたしましょう。彼は、人生を〈ボール〉に例えて、次のように語ります。

 『人生は、5つのボールをジャグリングしているようなものです。それぞれのボールが何を表すかは、一人一人で違いますが、例えば、「仕事」、「家族」、「健康」、「友人」、「精神」としましょう。あなたは、それを空中で繰っています。「仕事」のボールは、ゴムで出来ていて、落としてもまた跳ね返ってきます。しかし、その他の4つ、「家族」、「健康」、「友人」、そして「精神」のボールはガラス製です。一度落としてしまえば傷がつき、ヒビが入り、ひどい時には割れてしまって、二度と再び元の姿には戻りません。みなさんは、これを理解した上で、バランスのとれた生き方を模索していっていただきたいと思います。』

 学窓を巣立って、これから激しい競争社会を、技術者として実業界の一線を生きて行こうとしている青年たちに、実に的確なアドバイスを語りました。彼が例として取り上げた5つは、どれも大切な人生の部分ですが、落しても弾んで返ってくる「仕事」は、やり直すことができ、替えることもできますが、人生の主要な部分ではないと思われます。かえって、後の4つの部分のほうが、根幹の部分なのではないでしょうか。落としても弾むことのない「家族」、「健康」、「友人」、「精神」を、どう大切に扱っていくかによって、一人一人が人生の成功者になるか、そうでないかが20年後、30年後に結果をみることになるのです。仕事の成功よりも大切に違いありません。


 私は、これまで日本で、3つの職場を渡り歩きました。そして今は、中国の大学で日本語教師をさせていただいていますから、4つの職場で、実に貴重な体験をさせていただていることになります。私は中国行きを決断して、家内の手をとって、2006年8月に、日本を後にしましたときに、中国でのこれからの時こそ、自分の〈人生の仕上げの場〉、〈人生の総決算の時〉であるとの覚悟をもったのです。決して余暇を楽しもうとは思いませんでした。しょうしょう大仰な決心に聞こえてしまうかも知れませんが、日本で老後を生きるよりは、意味も醍醐味もあると確信したからです。ジョージョア工科大学を出て空軍の将校だった、私の恩師が、『あなた方は新しい地に出ていくべきです!』と語ったことばに押し出されたのです。私の若い友人が、『行ってください、中国には、あなたを待っている人たちが大勢いらっしゃいますから!』と勧めてくれたことばも、私の背中を、そっと押しました。この方は長年中国の大学で日本語教師をされ、英語教師のアメリカ人青年と出会って結婚され、中国で四人のお子さんを出産された方です。今も、『また中国に帰りたいのです!』との思いを心に秘めながら、ご夫婦でアメリカにお住まいで、私たちを応援していてくれます。


 私の大きな感謝は、どこででも素晴らしい〈出会い〉があったことです。若い時には、長い経歴を持つ方々から、「家族」、「健康」、「友人」、「精神」について、有言無言の教えを受けたことは宝石だと思っています。もう大部分の方が召されておりますが、ときどき思い出しては、大きな感謝を覚えております。今は、子どもたちの世代より少し上の世代の中国のみなさんから、父や母に対するような愛を頂きながら、相談にのらせていただいたり、交わりを楽しんでおります。また若い世代のみなさんとの出会いは、心踊るような気持ちを覚えさせられています。『うーむ!』と感心させられる実に素晴らしい青年たちと出会っているのです。こういった若い世代のいる、この国の将来に、素晴らしい光を見ているかのようです。ひとたび友好関係が築き上げられた中日の関係でしたが、1993年頃から再び、困難な状況に入って、そんな時代に教育を受けられたみなさんですが、実に心の通った交わりを持たせていただいております。『自分の子ども(孫?)にしたい!』というような青年が何人かおります。もちろん親御さんは離さないでしょうけど。

 教え子たちの卒業式が6月にありました。〈贈る言葉〉の機会はなかったのですが、 落としても弾むことのない「家族」、「健康」、「友人」、「精神」を大切に、バランスのとれた人生設計をされて、今は「仕事」に精出してください。これからを素晴らしく輝いて生きていって欲しいと願っております。生きるって素晴らしいことなのですから!

(写真上は、「サッカー・ボール」、中は、ジョージア工科大学の「キャンパス」、下は、「コカコーラ」の歴代瓶です)

度量

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 1978年10月、終戦後、初の要人として日本を訪問した鄧小平氏は、23日、夫人同伴で昭和天皇を表敬訪問しました。この裕仁天皇は、中国への罪意識、償いの気持ちをとりわけ強くも持っておられたのです。鄧小平氏の顔をみるなり、『わが国は御国に対して、数々の不都合なことをして迷惑をかけ、心から遺憾に思います。ひとえに私の責任です。こうしたことは再びあってはならないが、過去のことは過去のこととして、これからの親交を続けていきましょう!』との気持ちを述べたと言われています。その瞬間、鄧氏は立ちつくし、電気にかけられたようになって、言葉が出なかったのです。しばらくして、鄧小平氏は、『お言葉のとおり、中日の親善に尽くし……』と応じられました。『鄧小平氏の衝撃は、<簡単なあいさつ程度で過去に触れない>という日中外交当局と宮内庁の事前了解と違っていたこともあるが、やはり天皇の率直な語りかけが心を打ったのだろう!』と、この会見の一部始終を見ていた入江相政侍従長が、後に語っておられます。

 これは人間宣言をされた昭和天皇の隠されたエピソードです。侵略戦争に終始反対のお気持ちを持たれていたのですが、軍部に押し出され、押し切られ、不本意な決断を苦渋の中で下さなければならなかったと歴史は伝えます。敗戦後の連合軍最高司令官だった、ダグラス・マッカーサーは、戦犯として戦争責任を問おうとしますが、蒋介石の進言によって、取りやめております。さらに占領政策を進めていく上で、天皇のおられることの意味を評価したからでもあったようです。戦後、〈天皇巡行〉が行われますが、行く先々で、歓喜の声で迎えられて、国民も、誰もが戦争責任を問おうとはしなかったのです。

 一方、鄧小平氏は、四川省に生まれ、本名を「先聖」と言いましたが、身長が高くないこともあり、謙遜さのゆえに「小平」と名乗り、中国の〈解放改革政策〉を推し進めて、世界第二の経済大国へと発展させた貢献者です。若い日には、フランスで学び、〈長征〉、〈抗日〉の戦いに参加した勇士で、1983年以降、主席として、中国の近代化を推し進めてこられました。日本との関係の中では、こんな逸話も聞いたことがあります。1977年10月7日、元陸軍軍人で自衛隊の将官も務めた、自衛隊OBらが中国を訪問しました。中日の軍人の交流の可能性を探るのが目的だったのですが、突如として鄧小平との会見が実現します。

 その時の様子を、2004年12月10日(金) 、萬晩報主宰・伴武澄氏は、『~センチメンタルな反戦主義者ではなかった鄧小平~ 日本側が「先の戦争では申し訳なかった」といった内容のことを述べると、鄧小平は発言をさえぎるようにして「われわれは日本軍をそんなに悪く思っていませんよ」というような意味の発言をしたのだから一行はあっけにとられたに違いない。 絶対に見間違ってならないのは、鄧小平はセンチメンタルな反戦主義者ではなかったということである。冷徹な努力家であり、前線で戦ってきた野戦軍人だったのである。

  中国共産党は1930年代に入っても、国民党の蒋介石軍に対して劣勢で、江西省の山岳地である井崗山(せいこうざん)で包囲されていた。共産党軍は井崗山から脱出すべく、長征の途についた。目的地の峡西省北部の延安までは、中国の辺境といわれるチベットとの境界や青海省などの峻険な山岳地帯が選ばれた。この途上、毛沢東が本格的に共産党の主導権を握ったとされる。だが、延安にたどりついたときは気息奄々、共産軍は全滅寸前だった。ところが日中戦争が始まり、西安を訪問中の蒋介石は張学良に捕らわれ、国共合作を余儀なくされ、共産党がかろうじて生き延びる道が開かれたのである・・・』と記しています。

 鄧小平氏の懐の深さ、度量の大きさには、驚くべきものがあります。この会談が人民大会堂で行われたときに出席していたのは、鄧小平、廖承志、王暁雲、孫平化、金黎、単達析の各氏でした。会談の中で、、『日中の交流は、漢の武帝の時に始まったといわれるが、それから約2000年、短くみても1500年になる。100年は喧嘩状態だったが、1400年は友好的 だったのだ。100年の喧嘩は長い間におけるエピソードにすぎないと言えよう。将来も、1500年よりももっと長く前向きの姿勢で友好的にいこう。今後の 長い展望でも当然友好であるべきである。 』と、鄧小平氏は語られたのです。


 中国と日本の友好を志向した鄧小平氏の願いをついで、これからの1500年、更なる友好が実現されていくことを願っている私たちですから、これに呼応していきたいと思っております。今年3月の大震災以降、中国が国を上げて、救助隊を派遣してくださり、物心両面で支えてくださり、応援・激励のメッセージを送ってくださった〈友誼〉には、衷心から感謝を覚えております。[ARIGATO謝謝CHINA!]

(写真上は、鄧小平氏が『白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である(不管黑猫白猫,捉到老鼠就是好猫)』と言われた「白猫黒猫」、下は、「謝謝」です)