滅ぼされた「死」、だから恐れるな!

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 人間の究極的な敵とは何でしょうか。どんなに素晴らしいダムを建設し、宇宙の果てを見極める望遠鏡を発明し、火星に足跡を記し、ガンを制圧するような医学の驚異的な進歩があったとしたとしても、私たち「人」には、「死」の問題は、厳然として残ります。

 私は、若い頃に、師弟の間で交わされた会話を、亀井勝一郎の随筆本で読んだことがありました。師は倉田百三、広島県の庄原市に生まれ、浄土真宗の宗教的な環境の中で育ったのです。後に、一燈園(争いのない平和を求めて奉仕や農事や教育を行う団体)の生活を体験したり、親鸞の教えをまとめた「嘆異抄」を熟読します。

 一高に進学し、西田幾太郎の「善の研究」に惹かれています。また日本アライアンス教団の教会にも出入りし、聖書を読み、讃美歌を歌い、ある時は、教会の講壇に立って、説教までしています。このアライアンスの群れは、A.B.シンプソンの教えた「四重の福音(イエス・キリストが救い主、聖別主、神癒主、再臨の王)」を掲げていて、その影響が、百三には強かったのです。

 27歳の百三は、6幕の戯曲、「出家と弟子」を書き上げています。それには、親鸞の教えとキリストの教えの影響を強く受けたもので、大正期には、16万部もの部数を売り上げたベストセラーであったそうです。親鸞の教えとともに、聖書の記事に強く影響されてもいたのです。

 晩年に至って、百三は、次の様なことを書き残しています。「二十三歳で一高を退き、病いを養いつつ、海から、山へ、郷里へと転地したり入院したりしつつ、私は殉情と思索との月日を送った。そして二十七歳のときあの作を書いた私の青春の悩みと憧憬と宗教的情操とがいっぱいにあの中に盛られている。うるおいと感傷との豊かな点では私はまれな作品だろうと思う。あれをセンチメンタルだと評する人もあるが、あの中には「運命に毀たれぬ確かなもの」を追求しようとする強い意志が貫いているのだ。(1936年12月7日付の「劇場」所収)」

 そんな百三が、死期の迫ったころに、弟子であった亀井勝一郎に、一つの問い掛けをします。『亀井、亀井、極楽はあるのだろうか?』とです。その時、百三は、肺結核や肋骨カリエスで病床にあって、死期が迫っていました。病床を見舞いに来ていた亀井に、そう語り掛けたのです。

 百三にとっても、この「死」の問題は、重大であったのでしょう。親鸞に傾倒し、キリストの教えに共鳴しながら、模索の生涯、51年を送ります。どうも、迫り来る死についての、言い知れない不安が溢れていたのでしょう。その「死」について、はっきりとした答えを、百三は持っていなかったのです。

 少なくとも聖書は、この問題を避けていません。知りたいと願う私たちに、答えを提供しているのが、永遠のベストセラーと言われる「聖書」なのです。何と言ってるのでしょうか。新約聖書の多くを記したパウロは、死の問題を明確に、次のように述べています。

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『私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらです。 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。(新改訳聖書 ローマ5章6-10節)』

 あの十字架の上でなされた、「キリストの死」によって、罪に落ちた人類への「神の怒り」から救われ、「和解」されるのだと言います。それは、旧約時代に預言者イザヤが語った、次の聖書箇所の成就でもあります。

『この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、 永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。 その日、人は言う。「見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。この御救いを楽しみ喜ぼう。」(イザヤ25章7-9節)』

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 「永久に死を滅ぼされる方」がいると言うのです。生きとし生きるものに命を付与された神が、罪を犯して、死ぬものとなってしまった私たち人に、「救いの道」を切り開いてくださったのです。ただ一人、人は空(むな)しく、寂しく、定められた70〜80年の生涯をたとえ終えたとしても、永遠の世界が残されているのです。 

 では、この「死」に対して、仏教ではどう言っているのでしょうか。浄土真宗を始めた親鸞は、次のように言いました。生と死は、紙の裏表のようなもので、「生死(しょうじ)の問題」、「生死の壁」と言っています。「後生(ごしょう)の一大事(いちだいじ)」のことです。まるで、人の一生は、さまざまな感情が表され、怒ったり、腹立しかったり、悲しんだり、そして喜んだりします。親鸞は、「生死出(しょうじい)づべき道」と言って、生死の問題を説きました。

 ただ、死についての解決の道は語っていません。死が滅ぼされることにも触れませんでした。ただに「極楽浄土」が西方にあるとの教えは語っています。倉田百三は、「魂の遍歴」を述べますし、浄土真宗の盛んな地で生きながら、その教えに帰依したのですが、それでも聖書を読んで、聖書の話を聞いて、聖書のが説く「隣人愛」に強く共鳴しました。そして讃美歌を歌い、教会では説教もしていた人だったのだそうです。

 でも、自分の死期が迫ったときに、「極楽浄土」があると言う確信が、百三の内で揺らいだのです。

15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。死は勝利に飲まれた。(1コリント15章54節)』 51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。 52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。パウロは、次のように語ります。 53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。 54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。 55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」 56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。(1コリント15章)』とです。

さらに、

『それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。(2テモテ1章10節)』

 イエスさまが、「死を滅ぼした!」と言います。そのキリストは、死と墓と黄泉とを打ち破って、蘇られたのです。そして、今も生きておられ、私たちにために執り成しの祈りをしていてくださり、やがて、私たちを迎えに来てくださると約束されたのです。

(ウイキペディアによる「出家と弟子」の初版本、デゥラーの描いた「パウロ」、「死海写本」です)
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誤解

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 「人間万事塞翁が馬」、飼っていた馬が死んでしまって、その代わりに駿馬を、老人が手に入れるのです。ところが、息子がこの馬に乗っていて、落馬して足を悪くしてしまう不幸に見舞われます。ところが戦争が起きてた時に、足が不自由になってしまったが故に、兵役につかずにすんだのです。この中国に伝わる諺が誕生した由来です。

 悲嘆に暮れるような不運が、いつかは幸運に変わるものなのでしょう。「カス」で素行の悪い息子だって、鷹揚な親の養育の中で、ありのままで、精一杯育て上げたら、立派な大人にもなれる、「子はカスがいい」と育てた母親は、その子から、やがて慰められるのです。

 家内がよく言っていたのですが、『どんな愚かで、悪い親でも、その親に育てられる方が、立派な赤の他人に育ててられるよりもよいのです!』とです。私は、子育ての最中に、『親は親なるが故に親として遇する!』という格言を知って、親は神さまが、その子に与えたのであるから、どんな愚かで、無教養の親でも、親であるから、親として受け入れ、感謝し、尊敬するようにと教えられて、親の欠点だけ見て非難するのではなく、親であるが故に、親として受け入れ、敬意を表すべきだと理解したのです。親の恩は、忘れてはならないのです。

 良い指導者に恵まれた人が、優秀な人材になって、自分の努力ではなく、親や指導者の忍耐で、有為の人間になり、本人も、お母さんや教師のお陰だと感謝したことでしょうか。と言うのは、いつだったか、ある家庭雑誌を読んでいました時に、ひとりのお母さんの勘違い、誤解だったのを、横道に逸れた息子の可能性を信じ、立派に立ち直らせたと言う話を読んだことがありました。

 このお母さんは、『子はカスがいい!』と聞いて、そう信じ切って、どうにも手のつけられない〈カス〉のような素行不良の子を、ありのままで受け入れて、立派に育て上げたのです。学業も素行もよくないわが子を諦めないで、捨てもしないで、育てたお母さんの〈勘違い〉を、実に微笑ましく読んだことでした。

 生意気で、不純物だらけの〈滓(かす)〉のような私を、父も母も諦めないで育て上げてくれたことを思い返して、子どもの頃を振り返ると、親の温情への感謝が想い出されて、感謝が涙と一緒に、胸の奥からあふれてきそうです。何度も学校に呼び出されて、いろいろ注意を受けても、母は悲観しなかったのでしょう。退学処分を受けず、いつの間にか、上の学校にも進学し、学校の教師にまでになり、四人の子の父親になった私は、不思議でなりません。

 「子は鎹(かすがい)」と言う言葉の誤解だったわけです。夫婦を繋ぎ止める子どもの役割について、そう言う様です。木造建築で、持ちられる「鎹」の様に、お父さんとお母さんの危機的な状態を、繋ぎ止める「鎹」の役割を、子が担っているのです。

(”フォトライブラリー“の「鎹」です)

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Giant

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 アメリカ映画が、その意味深い原作、規模、華麗さ、演出の巧みさ、個性的な俳優たちでした。ただの娯楽でも、アメリカ文化の宣伝だけでもlなく、世に問題を問い、人のあるべき生き方、明るい将来などを提供してくれたことが、ここ日本でも、高い評価を下されたのです。

 「エンターテイメント(entertainment)」や「もてなし」だけでなく、「思想」や「夢」や、「将来」が、スクリーンに溢れていたように思えたのです。とくに、立川の映画館で観た、「ジャイアンツ(Giant)」には圧倒されたのです。アメリカで、ジョージ・スティーヴンスが監督をし、莫大な額の制作費で製作され、 1956年の10月に公開されています。日本では、翌1957の暮れに公開されていたのです。

 母の所属した教会を始められた方が、テキサスの出身だったと聞いていましたので、当時、アラスカは、まだ準州でしたから、最大の州は、このテキサスだったのです。そのテキサスを舞台にした、壮大な30年間の牧場主のベネディクトとジェットとの生き様が描かれていました。

 東部から、花嫁を連れて、個人所有の列車で、私有の大牧場を横切る大パノラマでした。大邸宅の庭ででしょうか、子牛が一頭、バーベキュウされている場面は、もう羨ましくて、ヨダレを出しながら食い入るように観て、アメリカの物量の凄に圧倒されたのを昨日のように覚えています。まだ、和牛ブランドなどが出現する前のことでした。

 1952年に、エドナ・ファーバー(Edna Ferber)が、執筆した小説の映画化で、小説の題名も、「ジャイアント(Giant)」でした。使用人ジェットの所有地から、オイルが噴き出す場面にも圧倒されました。彼は、オイル王の大富豪になるのですが、多くの招待客のあった大パーティーで、白髪になっていたジェットが、酔いながら話をする場面で、そのテーブルに倒れ込む場面がありました。若干24才のJimmyの演技の素晴らしさも圧巻でした。

 こんな国に宣戦布告した日本が、勝てなかった理由が、この映画を見た中学生の私を納得させられたのです。あの戦争に負けた現実を、まざまざと思わさせられた映画でした。それ以上に、人種的な差別や偏見のあった現実も、この映画は取り上げていたのです。私たちの国でも、アイヌのみなさんや、逃散したみなさんへの偏見があったことも忘れてはなりません。

 牧場主夫妻に、子どもが与えられ、家族旅行をしているときに、レストランに入ったのです。賑わっている店に、メキシコ系の老夫婦と娘とが入って来たのです。店主は、その様子を見ている間に、三人は、席に着きます。するとエプロン姿の屈強な店主は、その席に近づいて、出ていくようの鋭く語り、テーブルの上に置いた帽子を、老人の頭に被らせ、むんずと肘を掴んで立ち上がらせます。老人は、お金を見せるのですが、有無を言わせません。

 その様子を見ていたのが、あの牧場主、初老になっていたベネディクト夫妻と娘と息子の嫁と孫でした。席から立ち上がったジョーダンは、『おい、あんた!』と、オーナーシェフに声を掛けながら近づくのです。話している間も、コック姿の店主は、席から立ち上がらせて出そうとします。それを許せなかったジョーダンは、大男に、一発のパンチをかますのです。

 この映画の主題曲が流れる中、二人の大男は殴り合いを繰り広げます。形勢は、ジョーダン不利で、シェフの大男がついに殴り倒してしまったのです。その場面を観ていて、メキシコ系やアフリカ系のアメリカ人への長い人種差別や偏見の様子を目の当たりに見せられたのです。まだ公民権運動など起こる以前のアメリカの南部で、しかも奴隷制の行なわれてきたテキサスを舞台にした、ジョーダンのメキシコ人家族を庇おうとした勇気に喝采をしたのです。

 実はジョーダンの息子の夫人は、メキシコ系の方で、孫も、その血を引いていたのです。家族への思いも重なって、ジェッとにも殴られ、また大男にも殴られているジョーダンの気持ちが素敵でした。喧嘩だけは強かった自分が、変わって、この大男を殴り倒したい気持ちが湧き上がってしまっていたのです。

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 また成り上がりの石油採掘者のジェットと大富豪のジョーダンとの若い頃からの30年にも及ぶ確執も、この映画の観どころだったでしょうか。大きなパーティー会場に舞台裏で、ジョーダンとジェットの喧嘩の場面もありました。物凄い量のワインを収めたワイセラーが倒れ込んで、割れていく様子には、度肝を抜かれたのです。

 まだ泥沼のように長引いたベトナム戦争の始まる前の映画でした。自分の育った街は、大きな米軍の空軍基地のあった街の隣にあったのです。米軍機の爆音が頭上に響き、時には河川敷にジェット機が墜落し、破片拾いに出掛けていましたし、基地の司令官の住宅も、自分の住んでいた家のすぐそばにありまました。最初に覚えた英語が、〈give me chocolate〉だった世代の自分でした。

 大男のオーナーシェフが、ジョーダンを殴り倒したときに、壁にかかっていた額(we reserve the right to refuse service tore  anyone が記されてありました。その訳は、『私たちは、すべての人のサービスを拒否する権利を保持します。』でした)を取って、横たわるジョーダンの胸の上に置きました。『俺にだって、客を断る権利があるんだぞ!』と言っていたわけです。

 アメリカ人が持つ権利と、アメリカ人の良識が衝突しているのでしょう。アメリカ映画に、娯楽以上のものがあった時代の輝きが、この映画にはあったように思えるたのです。中学生では分からないことが、今になって分かったことでもあります。65年ぶりの映画鑑賞でした。

(ウイキペディアの「Blue jeans」、「油田」です)

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起承転結

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 中学校の国語の授業で、「起承転結」を学んだのを思い出し、中国の漢詩が、そう言った構成で詠まれていると言うのです。それで、作文をする時にも、説教をする時にも、相手に理解してもらうためには、まず主題を決めてから、話の構成を練り上げていくわけです。

【起】 何を伝えたいか、先ず「主題」を決めます。その「目的」は秘しながら、最後の結論で言い表しますが、方向付けをします。

【承】 説明とか解説とか展開でしょうか。中心部分です。

【転】 話の筋道を、いったん逸らして、気分転換に、中心から離れて、結果に至るまでの横道に入ることでしょうか。〈変化〉や〈意外さ〉を与えることで、結論への興味を引き出すのです。

【結】 少し空手を修練したことがありましたが、最後に結手をしたのです。手を懐に納める仕草です。剣術家は、刀を鞘に収めます。それは武術の結論と言えるでしょうか。

 やはり話の構成が上手なのは、噺家、落語家ですが、興味と関心を引き寄せる手腕は、さすがの話術です。驚くほどの稽古をしながら、話をするのだそうです。無駄に思える様なことが、生かされているのでしょう。ぶっつけ本番で話すなんてことはないのです。それらしく見える話の展開でも、周到な準備と稽古、愚直の努力があるのだそうです。

 その落語家の中で、「名人」と言われた一人が、六代目の三遊亭円生でした。大阪で生まれたのですが、江戸弁で、『そうでげす!』と、高座で話しているのを聞きましたから、それが今でも耳に残っています。この円生は、6才の時に、20ほどの演目を覚えていて、高座に上るほどの天才だったそうです。噺を終える時に、「落ち」があります。落語では結論なのですが、聞き手を巧みに納得させて、噺を終えるのです。

 通常、「真打(しんうち)」は、30~40年の間に努力を重ねて、100席ほどの演目を身につけるのが普通なのだそうです。ところが、この円生は、300席を、いつでも、どこでも自在に演じることができたそうで、それゆえ当代きっての名噺家だと評されました。『え~一席、ばかばかしいお話を・・・』と言って話し出す落語ですが、それだけ、たゆまぬ研鑽を積まれたことになります。だから多くの後進からの敬意得られた方だったのです。

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 聖書は、時代も、場所も、書き手もバラバラなのですが、統一されている「一巻の書」だと言われています。そう無理に信じているのではないのです。勝手に、書き手が書いていたのではなく、聖霊なる神さまの導きがあって記されていると言うのは、書き手は多くいても、思想的には一貫しているのです。著者は神さまだからです。

 批評学者がいて、いろいろと意見を言ってきましたが、聖書を切り崩すことはできません。聖書の記事の中から、奇跡や非科学的なこと、人間の常識外のことを取り除く努力をする、聖書批評学と言う分野があるのです。はなっから聖書を信じられない人が、薄っぺらな本にしてしまおうと目論んだのです。

 その反面、幼子のように、聖書を、創造の神を、聖霊に導きや助けを信じた人たちがいて、聖書は守られてきたのです。神を否定する唯物論の教育を受けてきた若者が、その教育の影響力がありながらも、クリスチャンとされて、祖父母やご両親の信仰を継承している方が、私が教えた学生さんたちの中にいました。五代目、六代目の信仰者だっておいででした。

 私の母の故郷の出雲は、浄土宗と神話の地でした。そんな精神風土、宗教的風土の中で育ちながらも、14歳で、イエスさまを、「キリスト(救い主)」と信じたクリスチャンでした。伝道の難しい地で、「福音(良き知らせ)」を宣べ伝える、カナダ人宣教師の暖かな家庭への憧れもあって、その家族が愛し合っている様子に、神を見たのです。その信仰は、子や孫やひ孫に、脈々と継承されているのです。

 人生にも、この「起床転結」がありそうです。さながら自分は、今や「結」のステージにいるのかも知れません。もう若かった頃の熱情も力もなくなっていますが、心の中では、自分を造られた神、その神に赦されたこと、その神の愛への感謝が湧き上がっています。

『屠られた子羊〔こそ〕は、力と富と知恵と勢いと、誉と栄光を受けるに相応しい〔お〕方です!』と、聖書のヨハネの黙示録にあるような救い主への賛美が、今も湧き上がるのです。私の人生の「結」は、「永遠のいのち」を得て、この肉体は滅んでも、「栄光の望み」に生き続けることなのです。神の贈り物としての「永生」であります。愛する救い主とお会いすることです。

w(ウイキペディアによる「ギリシャ語聖書」の写本、Christian clip artsnのイラストです)

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舟と船に乗ってみたい気分がして

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 乗ってみたい船があります。一つは、毎日見下ろす巴波川を、江戸時代から明治にかけて、舟運で、舟荷を運んでいた都賀舟(部賀舟)です。人を乗せるよりも、日光東照宮の設営のために、必要資材を運ぶのが目的で用いられた浅い舟床の小舟です。今は、栃木の街中で、遊覧のために人を乗せるために使われているものです。

 五月五日の「子どもの日」に、ブラリとでかけてみたのですが、「蔵の街」の観光案内に誘われたのでしょうか、江戸の佇まいを感じるためにおいでの親子連れでいっぱいでした。東京から東武日光線に乗っておいでなのでしょうか、最近は目立って観光客が増えているのです。船乗り場に、列をなして、乗船待ちをしている人が、旧塚田商店の黒塀の前に並んでおいででした。

 舟賃「大人千円」、「子ども七百円」、「幼児無料」、「犬猫百円」だそうで、初めて栃木を訪ねた時には、「七百円」でした。ラジオ体操仲間のお一人が、開業時に舟頭さんをされていたそうで、懐かしそうにお話ししてくれました。時々、テレビや映画の撮影班が、来られていて、撮影の様子を眺めることができます。

 もし、江戸は深川まで、昔の様に、舟で行けるなら、乗ってみたい願いがいまだに消えません。舟運の行われていた頃は、都賀舟を、栃木の河岸で荷を載せて、渡瀬川の手前で、高瀬舟に、舟荷を載せ替えて、利根川、江戸川を登り下りしていたそうです。下り舟は二日間、上り舟は十日間ほどかけていたそうです。上り舟は、綱手道を舟を人力で曳いていたのです。

 今住んでいる住宅の、前の大家さんは、代々、舟運をされてきたそうで、その頃に着用した印半纏、帳簿などが残っていて、以前見せていただいたことがありました。たくさんの水夫(かこ)をかかえていたことでしょう。

 その都賀舟に乗った時に、水夫さんが歌ってくれた歌があります。それが「栃木河岸船頭歌」です。

1)日光街道 たかみで通る

  小山泊りは まだ陽が高い

  間々田ながして 古河泊り

  (ハーアー ヨイサーコラショ)

2)栃木河岸より 都賀舟で

  流れにまかせ 部屋まで下りゃ 

  船頭泣かせの かさ掛け場

  (ハーアー ヨイサーコラショ)

3)向こうに見えるは 春日の森よ

  宮で咲く花 栃木で散れよ 

  散れて流れる 巴波川

  (ハーアー ヨイサーコラショ)

 自動車や鉄道が出現する前は、日本全国、河川を利用した「舟運」が、おおく盛んに行われていて、特産品を、江戸や大阪に運んでいたのでしょう。ただ、江戸期の鎖国政策下、大型船の製造、使用、航行を禁止しましたので、国内輸送の主力は、舟でした。北前船の様な大型戦は例外で、国外渡航の可能な船は禁止されていました。

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 そんなことを思い出しながら、大阪と上海の間を、船を利用して、移動したことが何度もありました。丸二日の行程の機関船で、ゆったりとした船旅を楽しんだのです。華南の街から、夜行バスや、新幹線が営業開始してからは高速電車で、地下鉄ができてからは上海の紅橋駅から波止場まで行ったり、タクシーも利用して行きました。その波止場で乗船手続きをしたのです。

 帰国をする留学生や日本語教師、日本で仕事をするために出かけていく若者たち、ビジネスマンは、飛行機を利用するので、ほとんどいなかったでしょうか。良い交わりがあったり、本を読んだり、機関室のエンジン音や波の音を聞きながら、船と並走する飛魚を眺めたり、そう、お風呂まであったでしょうか。

 かつて遣唐使船や遣隋船などの航路は、七月から八月に間に大陸にむかって吹く季節風を帆に受けて大陸を目指し、秋から冬にかけて大陸からの季節風を受けて帰国したのです。一度上海からの蘇州号が、地風に余波を受けて、縦揺れをして、船員さんも酔うほどで、ほぼ全員が船酔いの中を帰国したのです。

 あんな波に遣唐使船はもまれたこともあったようです。昔も今も同じで、変わらなかったのでしょうか。海水や白い波頭しか見えない世界を行き来していたのです。季節風を帆に受けて航行する帆前船がほとんどだったのでしょう。人力で櫂(かい/オール)を漕ぐ場合は、接岸する時に漕いだ様です。風任せの船旅は、大変な日数をかけてしたわけです。

 今は、運行停止中ですが、もう一度、東シナ海を船に乗って出掛けてみたいのです。船の風呂から、波頭が見えて、なんとも言えない気分を味わえるのです。あれだけの経験で、十分ですが、人とに出会いがあって、楽しかった日々を思い出します。航空機では味わえない人との交わりがあるのです。また、ペットボトルや発泡スチロールを板につけて、簡易舟を作ったら面白そうですね。

(ウイキペディアの都賀舟、蘇州号です)

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かなわないな!

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『しかし、あなたは私をの胎から取り出した方。の乳房に拠り頼ませた方。 生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。の胎内にいた時から、あなたは私の神です。(詩篇22篇9-10節)』

 何時も、『かなわないな!』と思わせられるのは、「母の日」のお母さんたちです。次の詩は、サトウ・ハチローの「おかあさん」です。

母さんはひなたの匂い、けむりの匂い、

白菊の花の色は母さんの足袋の色、

坊やのための子守歌、

痛くしたところをさすって、ちちんぷいぷいと

唱えた母さんの声

母という字は、恰好のとれない難しい字

母さんのひざまくらがなつかしい、

目が覚めてから眠るまで、母さん、母さんと

呼び続けたと詩編が続く。

そして最後のページ、気取って書いてきた詩が

全部吹っ飛ぶ程、感情を露わに

むせび泣くように綴っている。

 昨日は、4人の子どもたちから、gift が母親のもとに届きました。毎年のことです。『子はカスがいい!』のお母さんも、ハチローのお母さんも、マルコのお母さんも、『母ちゃんに会いてえよー!』のお母さんも、ダビデが詩に詠んだお母さんも、そして育ててくれた自分の母も、みんな最高なのです。

 3日前に、私の弟からも、家内宛に胡蝶蘭が届いたのです。もう二十年も前に自分の奥さんを、病で亡くしている弟からです。もうこの何年もの間、家内を『お母さんは・・・』と、子どもたちに、近況や様子を、メールやチャットで伝えるようになってしまいました。

 「小さくなっていったお母さん」だったのを思い出しています。また会えるんです。間も無くかも知れません。『なんて言おう?』と、つい思いあぐねてしまいます。やっぱり、『ありがとう!』が一番、似合いそうです。

(“いらすとや” のカーネーションです)

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養蚕の繭、そして絹

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 栃木県下に、明治になってから、小さな村落が合併して、「桑村」とか、「絹村」、そして、この両村が合併して「桑絹村(町)」と呼ばれる村落があった様です。今では、私たちの街に隣接している小山市に含まれていて、この市の南部にあるのです。

 信州や北関東は、かつての地域区分帯の中には、養蚕、絹織りが盛んに行われてきていて、その絹糸を得るために、絹糸を吐き出す蚕(かいこ)が飼われていました。群馬県の水上に、三国街道の宿場で、須川宿があって、そこに栃木市と提携の宿泊施設に泊まったことがありました。村の農家は、二階が養蚕部屋の造りになっていたのが診られたのです。養蚕は昔から盛んだったからです。

 ここ、下野国も同じだったのでしょう。元々、養蚕は、大陸からもたらされたもので、日本でも盛んに行われてきていました。穀物や野菜の栽培以外に、養蚕が行われていたようです。昔、唐の時代には、国家を機能させるために、そのための経費を得るために、「税」の制度を定め、人々に納税の義務を負わせました。

 その納税義務には、「租庸調」があったのです。「租」は米、「庸」は労役、「調」は各地の特産品の献上でした。その税の取り立てを定めたのです。この唐の税制に倣って、日本でも、国家統一で、朝廷が誕生し、その行政のために、この税収が定められて、法律化されていました。

 その納税義務は、けっこう過酷なもので、国と民の間での揉め事が多かった様です。その「調」の中に、「絹糸」があり、その高級な糸は重宝されていたのです。そのため日本各地で、養蚕が、さかんに行われていきました。米づくりの難しい地方では、さまざまな特産品の生産が、工夫されて行われていたのです。そう小学校の社会科で学んだのです。
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 庶民は木綿の生地で服を作って着ていましたが、上級武士や宮人たちは、絹糸で織った服を着ていたので、高級生地は、現金収入になっていたのです。その名残で、通った東京郊外の多摩地区の小学校の近くに、蚕糸試験場があって、間引かれた蚕が捨てられていて、拾って帰っては、飼いましたら、繭になった覚えがあります。

 そのために桑の葉が必要で、桑畑も、けっこう広く栽培されていたのです。あの桑の木は、和製ナイフの「肥後守」で切って、皮を剥くと、チャンバラの剣になって、よく桑畑に入り、木刀を作ったりしました。それを、お百姓さんに見つかって、叱られたのです。もう宅地化が進んで、桑畑は消滅していることでしょう。


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 長く過ごした街から、車で40分ほどの農家で、このお蚕を買っていました。一斉に、桑の葉を食べる音が実に賑やかでした。あの音は、繭作りのための音であり、養蚕農家では騒音ではなく、生活を潤す音だったのです。その蚕を両手で取ると、手のひらのムズムズ感が、気持ちよかったのです。

 養蚕農家は、今どうされているのでしょうか。子どもの頃、ドドメを摘んだ桑畑も、宅地化してしまい、時の流れを感じてしまいます。4階のベランダから、その小山の街がうかがえるのですが、茨城県の結城市に隣接し、「結城紬(ゆうきつむぎ)」を生み出した地です。そんな産業史を考えながら、人の営みの変遷を、しばし思っておりました。

(ウイキペディアの「桑の実(ドドメ)」、「繭」、「機(はた)織り機」です)

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ちゃぶ台返し

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 「卓袱台」と書いて、『ちゃぶだい』と読みます。われわれ時代は、テーブルではなく、これが食卓だったり、宿題をする机代りだったり、母親が、洗濯物を畳んでは置く台だったり、時には、電球をつける足台にしてしまったりの万能家具だと言えるでしょうか。そのちゃぶ台をひっくり返すのを、【ちゃぶ台返し】と言って、昭和のお父さんは、それをやっていた様です。

 まさに、「昭和のパフォーマンス」の一つと言えるでしょうか。自分の父親も、この、ちゃぶ台返しを演じたことが、一度だけあったでしょうか。だれかの悪戯が原因だったと思います。さすが、自分は、もったいなくてしたことがありません。でも、やったら気持ちが、スカッとしそうで、けっこうよさそうですね。

 テレビやマンガの中では、そんな場面が演じられることがありますが、物不足の時代に、そんなもったいない行為は嫌われたわけです。今では、テーブル返しになっていて、ちゃぶ台なんていう代物は、お目にかかることがなくなってきていて、〈昭和の家具〉になっています。

 畳の上で食事をするという文化は、もう過去のものになってしまっていて、Pタイルの様な床の上に置かれたテーブルの周りに、椅子を置いての食事スタイルが、もう一般的になっているのでしょうか。昭和の短気なゲンコツ親父がやった行為でした。

 やった方は気持ち良くても、やられた子どもたちは、食事をなくしてしまい、不評を買わされた家族は、食べ物がなくなって、怒りが込み上げてきたのでしょう、やった父親は、溜飲を下げて、ストレス解消しますが、非生産的な行為だったわけです。

 アメリカの西部劇で、家庭内の行為ではなく、酒場のシーンで、話がもつれ、衝突で怒った悪漢同士が、拳(こぶし)を固めて殴り合いをする前に、テーブルを蹴り上げたり、押し倒したりする場面を見たような記憶があります。短気な輩は、アメリカにもヨーロッパにも、どこにでもいます。

 昔、知多半島(愛知県)の小野浦の千石船が、鳥羽から江戸に米を運んでいた時、嵐に遭遇します。遠州灘で漂流を始め、アメリカ大陸北西部のケープ・アラヴァに漂着したのです。その時、乗組員の中で、音吉、岩吉、久吉の若い三人だけがが生き残るのです。その三人の漂流を取り上げて、三浦綾子が、「海嶺」という小説を書き上げ、後に映画も制作されます。その映画を見た時のことです。
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 この三人は、マカオで、オランダ人宣教師のギュツラフが、聖書を日本語に翻訳する手助けしたのです。彼らがが、どこにいく時でしょうか、船の中で、欧米人同士が喧嘩をする場面がありました。言い争いをしていて、彼らは二人とも手を出さないのです。体をぶっつけ合うだけでした。その場面を見て、意見が衝突すると、きっと殴り合いや物の投げ合いなどが、日本では相場なのに、彼らは、拳を振るわないで、喧嘩をするのには、驚きました。

 日本でも、中国の華南の街でも、市場の入り口や道路上などで、喧嘩を見ましたが、みんな殴り合い、取っ組み合い、女性同士などでは、毛を引っ張り合うのです。そんな違いに、感心してしまいました。人の性情は、国や人種にはよらないので、ヨーロッパ人も、あのテーブル返しをするかも知れませんね。

(ウイキペディアの卓袱台、adobe Stockの千石船です)

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いい湯だなで温泉浴をした日々

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 「後遺症」、病気でなくても、次の様に、使ってよい言葉でしょうか。私の「後遺症」は、住まいの浴室で、湯船を使わないことなのです。中国に13年いましたので、入浴には、シャワーだけになってしまい、それを長く続けてきた生活習慣が、と言う意味での後遺症のことです。

 中国で出会った友人が、通勤の道路際に、風呂桶屋がある、と知らせてくれたことがありました。風呂が恋しくて、友人の車で買って持ち帰ったのです。檜(ひのき)作りではなかったのですが、木造りで、タガでまとめてありました。沸かし口がないので、スーパーの売り場に売られていた電気コイルを買って帰り、水を張った風呂桶の中に、そのコイルを入れてお湯を沸かしたのです。

 けっこう時間がかかりますが、ちょうど良い油温になって、入ることができたのです。『 ♭ いい湯だな いい湯だな ここは華南 和園の湯 ♯ 』と歌いながら日本を思い出しながら、実にいい気分で入りました。でも長続きがしないで、その桶は休眠状態になってしまい、しばらくして、その桶を知人に上げてしまい、結局シャワーだけの入浴に戻ってしまいました。

 砂埃が多かった華南の街では、沸かし湯に入るよりは、シャワーの方が合っていたのかも知れません。今住んでいる街に、温泉が数カ所あります。市内循環の「ふれあいバス」のコースに、それがあって、バスに乗ると、その二箇所に行けて、温泉に入ることができるのです。一箇所は、散歩コースにもしています。

 月に一、二度ほど行くのですが、休憩室がありますので、持って行った本を読んだりしながら、3〜4時間もい続けることがあります。日本の一番の文化なのでしょうか、やっぱり「温泉浴」はいいものです。ボーッと一日倒れていたい時には、実にいいものなのです。

 大きな手術を終えて、回復した頃に、上の兄が、湯治場を探してきてくれたことがありました。その地元では、「ラジウム温泉」と呼んで、小さな温泉宿は、鄙びた木造で、湯治客のための炊事場などもありました。そこに一週間ほど籠って、温泉三昧で過ごしたことが、術後、数回ありました。

 その一週間は、傷口の回復というよりも、日常から離れて気分的に最高に開放の時でした。家内が、それを許してくれたのは感謝でした。テレビに出ているという名物社長さんなども一緒で、みなさん、厳粛な手術をしていて、腹部や背中に手術痕を持っておいでででした。それを隠すことなく、じっと温泉に身を沈めていました。まだ四十過ぎだった私は、年配の入浴客の必死な話を聞いて、社会勉強をしていたのです。

 そこは男女混浴でしたが、同病愛憐れむで、互いに意識などしないで、和気藹々だったのが、やはり日本文化の一面だったのでしょうか。男性客との相部屋で、賄い付きと自分で炊事をする人と様々でした。一度、お昼をご婦人に誘われて、その方のお部屋で、お昼をいただいたことがありました。温泉宿で見知らぬ男女二人で、食事をとるのも後ろめたくて、一度きりにしました。危なっかしいくて、ちょっとスリリングでした。

 ある時、アコーデオンを持って、個室で過ごしている方がいて、誘われてお部屋に行き、お茶菓子でお茶をご馳走になりました。『一緒に歌いましょう!』と言って、『♭ 花積む野辺に 陽は落ちて みんなで肩を・・♯ 』など、古賀政男の作った歌を何曲も歌ったとことありました。

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 また、ドイツのバーデンバーデンという街は、温泉浴、温泉治療で有名なのだそうです。クアー・ハウスという入浴施設があって、もうローマ時代に始まっているのだそうです。傷ついた兵士や病んだ人たちに利用されてきた様です。ドイツと日本は、何か、国民性や習慣に似た点が多い両国の様です。

 この国の南部に、バート・ボルト( Bad Boll )という街があります。ドイツ福音主義の牧師であった、ヨハン&クリストフ・ブルームハルトの父子や、宣教団体のモラビア兄弟団でも有名なのです。ここにも、ブルムハルトの牧会や伝道の働きの中で、クアー・ハウスがあり、経営主体は、今では教会から団体に移行していますが、それは現在も運営されている様です。

 ちなみに聖書の創世記に一箇だけ、「温泉」が出てきていますが、私たちの国やドイツの様な、入浴や医療利用ではなさそうです。長く住んだ、中国の華南の街中にも、温浴施設があって、温泉がありましたし、日本文化の影響でしょうか、大型の温泉施設が、あちらこちらとでき始めていました。誘われたのですが、温泉の本場に生まれた自分としては、衛生上や風紀上の理由で、遠慮していました。そんなことを思い出した、過ぎた一週でした。

(今はなき温泉の湯船、ウイキペディアのバート・ボルのクアハウスです)

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昭和の伊達男

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老いていった父のこと

 六十代の初めの頃の父が、小田急線の電車の急停止で、体調を崩して、胃病院に行って診てもらいましたら、クモ膜下出血との診断が下されました。医者にかかったり寝込んでいることのなかった父が、初めての様に、入院し弱さを見せたのです。せんごすぐのころ、トラックの助手席で、車の横転事故で、大怪我を負って以来の入院でした。

 四人の男の子の子育て真っ最中には、敗戦後に残された軍需工場の索道を利用して、木材業に携わっていました。昭和26年の夏に、東京に出たのです。子どもたちの教育などを考えてだったそうです。化学工業の会社、旧国鉄の車両の制御用の部品の生産会社、書籍出版の会社など、幾つもの仕事を兼務しながら働いていました。

 東京の大田区に見つけた家の契約を、すませたとかで帰って来て、その話は詐欺で、全く騙されてしまったこともありました。戦時中には、馬蹄さんに馬を潰されて、食用にして食べられたり、けっこう騙されやすい人だったのです。

 サラリーマンと言うよりは、会社経営に携わっていました。旧海軍の軍人たちの戦後の転職に、従ったのでしょうか、父の周りには、軍人だったり宮様などの親族がいた様でした。そんな父に連れて行かれて、父よりもずっと年配のみなさんとお会いしたのを覚えています。江田島の海軍兵学校の校長をされた方の息子さんと言う方がいたり、幕末史に出てくる薩摩藩の藩士の御子息がいたりしました。

 なぜ父は、そんなみなさんのおいでになる会社に、自分を連れて行ったのでしょうか、今でも不思議なのです。父自身や祖父に、私が似ていたのでしょうか、入った中学校の制服が、海軍兵学校の制服に似ていたからでしょうか。それで連れ出したのかも知れません。

 戦後の父の生き方は、クリーニング仕上げのYシャツにネクタイ、背広、磨き上げた黒革靴で都内の会社に通勤していました。背広の内ポケットやお尻のポケットに、札びらをしまい込んでいました。参議院議員選挙になると、全国の旧国鉄に乗車できる選挙運動用パスで、各地を跳び回ったりもしていました。自分の会社の製品を納めていた旧国鉄のトップの方で、東海道新幹線を開業する頃に活躍されていました。

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 そんなダンディな父で、「昭和の伊達男」でしたが、60歳前後の頃は、醸造会社の嘱託かパートをしていて、上の兄のジャンバーや帽子を着て、ズックの靴で通勤していたのです。あんな仕事や姿は想像することができませんでした。その意外さに驚かされていたのです。輝いていた分、その輝きが消えてしまった父だったのです。愛された三男は衝撃でした。

 社会的な責任を降りた今の自分を、そんな父を鏡にして見直している今です。もう服装に気を遣わなくなってしまっている、かつてはオシャレだった自分です。娘たち、息子が、買っては送ってくれたり、持参してくれる物を着たり、履いたりしています。父に真似て、三越で買ったりしたことも何度ありましたが、主の働きへの奉仕をしてからは、全くしなくなりました。

 みすぼらしくはないと、自分では思っていますが、そう見えない様に、歳を重ねた今は、さらに注意しようと思っているのです。主の栄光を表すべきでしょうか。オシャレを構わなくなるのではなく、身だしなみをキチンとしなくてはと、自らを諌めているのです。

 孫の置いていった物を着たり、使ったりしていますが。髭を剃り、髪の毛を切り、背筋をのばして、もう少し気にして生きていかないといけないかなの今なのです。

 老いていく自分を、父の最後の時期を思い起こしながら、自分の時を考えさせられています。医者いらずだったのか、医者嫌いなのか、それでも人生の最後に、医師に自分の身を委ね、入院中の病床で、上の兄の導きで、信仰を告白し、創造者の元に帰った行った父でした。あの退院の喜びの日に、何も言い残さずに召されて波乱の多かった生涯を終えて、主の元に帰っていきました。あの日から、五十数年の年月が経ちます。

(ウイキペディアによる父が乗ったであろう南満州鉄道の「列車のダイヤ」、一緒に食べようと父が何度も言っていた浅草の「どぜう鍋」です)

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