あの味をもう一度

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 古い商業の街で、近所は老人ばかりを見掛ける街になっています。元気かと思っていたら、救急車で運ばれたり、胃癌が見つかって、『来週手術です!』と、また『検査入院しなくては!』、そんな話ばかりになってきている、ラジオ体操や散歩仲間の昨今なのです。いつの間にか、自分も、その仲間に突入してしまっていて、もう他人事ではなくなってしまい、まさに当事者になりました。

 一緒に駆け回った友人たちも、同じように老境に届きつつあって、あの溌剌たりし日々が、もう遠くに行ってしまったのを覚えてしまっているのでしょう。何キロも何キロも走り、ダッシュしては流して、またダッシュを繰り返しても、45分経つと、荒い息が収まってしまった高校時代が、昨日のように懐かしく感じられます。

 住んでいる地域のせいとか、塾に行っているのかと思いきや、日本中に、子どもの姿が見られないのではないでしょうか。遊んでいる様子もないし、喧嘩や争う声の叫びもないのです。時々、マフラーに細工したバイクが、爆音を上げながら表通りを疾走していきます。それを追いかける白バイやパトカーのサイレンが、たまに聞こえてくるのです。

 それでも、うずま公園では、お父さんと男の子の遊ぶ姿が見られることもあり、公園の遊具に繰り替え愛繰り返し乗るのを競争する姿が見られると、なんともホッとさせられるのです。それと同時に、この季節、巴波川の両岸に、千匹以上の鯉のぼりが吊るされて、風に泳ぐ姿が見られるのです。まるで、『子どもたちよ、帰っておいで!』と、呼び水を注ぐような、大人たちの精一杯の demonstration が見られます。

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やねよりたかい こいのぼり
おおきいまごいは おとうさん
ちいさいひごいは こどもたち
おもしろそうに およいでる

 男の子四人を育てた父と母は、男の子の節句だからとか、何だとかの伝来の行事に疎かったのですが、柏餅とか買ってきてくれ、干しておいた餅を、油で揚げてくれました。またカルメ焼きなどは、火鉢の上に、金属製のお玉を乗せて、ザラメの砂糖に水を加えて、割り箸でかき回し、その箸に先に重曹をつけて膨らませて作っては食べさせてくれたのです。

柱のきずは おととしの
五月五日の 背くらべ
粽(ちまき)たべたべ 兄さんが
計ってくれた 背のたけ
きのうくらべりゃ 何(なん)のこと
やっと羽織の 紐(ひも)のたけ

柱に凭(もた)れりゃ すぐ見える
遠いお山も 背くらべ
雲の上まで 顔だして
てんでに背伸(せのび) していても
雪の帽子を ぬいでさえ
一はやっぱり 富士の山

 父の家の柱に、兄が記してくれた背丈を記した跡が、残されていて、一年に10cm 以上も伸びた背丈が記録されていたのです。その柱のある家が、中央自動車道の計画路線での退去になってしまい、父から請け負って、弟たちの協力で更地にした時に、それを確保しておかなかったのを、後になって悔いたのです。

 そう言えば、母の郷里から、この時季に、笹の葉の包まれた「粽」が毎年送られてきました。《おばあちゃんの味》で、米粉を練って、笹の葉で包んで、蒸して、それを小包にして郵便で送られていいたのです。母が、砂糖醤油を作ってくれ、蒸した粽につけて食べました。素朴な田舎の味に、みんな兄弟たちは満足だったのです。

 きっと、この栃木の地でも、そう言った下野伝来の粽が伝えられてきているのでしょう。美味しい米が作られ、宇都宮藩の耕地が、西方という地にあって、有名だったそうです。それで、わざわざ買い出しに出掛けるほど、越後のコシヒカリに負けないほどの米自慢なのです。そんなことを記してきましたら、「粽」が食べたくなってしまいました。強く、そして優しく育て、子どもたち!
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写真s

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 これまで、息子や娘が撮ったり、自分で撮ったり、ダウンロードしたりした好きな写真です。中国に行ったばかりの頃、住んでいた家の付近の様子や、学校の遠足で行った時のものもあります。こちらに来て、まだ行ったことのい風景の写真もあり、これから行こうかなと思っています。一つ一つの瞬間に、夢や浪漫があります。動きのない、声のない写真から、どんな声や音や匂いを感じるかは、観る人の時、状況、現実によって違うのです。

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皆勤賞の孫たちと病欠児 のジイジ

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南に仰ぐ冨士の高嶺

北にめぐれる多摩の流れ

教えの庭の朝な夕な

鏡と見まし山と川と

 これは、私の三番目に通った小学校の校歌です。仰がないのですが、今も160kmほどの遠くに望み見ることができる富士の高嶺は、あの頃と変わらず、屹立(きつりつ)しています。

 冬場の夕陽の中に、ここ栃木市から遠望できる富士は、建物が一部邪魔をしていますが、やはり綺麗なのです。ここの小学校は、男体山を仰ぐのでしょうか、大平山を見上げるのでしょうか、それを鏡の様にして学んできたのでしょうか。ここでは第二小学校が併合されて中央小学校になっているそうで、どの様な校歌の歌詞なのか興味が尽きません。

 山奥から越して来て、不適応になることはなく学校が好きでした。ところが就学前に肺炎に罹って、入学式にも出られず、一学期もほとんど学校に行けませんでした。その後、二つの小学校に転校したのですが、たまに行く学校は、楽しくて仕方がなかったのです。再発を心配した母は、咳をしたり、熱が出ると学校を休ませて、病院通いを繰り返したのです。

 休んでばかりで、授業についていけないこともなかったのでしょうか。風邪がおさまった合間に行く学校は、遅れた分を取り返していたのでしょうか、みんなの跡をついていくことができたのです。四年生頃からは、健康が回復し、クラスの番長になったりしたのです。親分の資質がないのに、短期政権で、寝返りを打たれて、敗軍の将の様になってしまいました。お父さんが消防署に勤めているSが、たった一人の仲間でした。それでも学校が好きでした。

 そんな小学校から、みんなは町の中学に通うのに、一人、電車通学の私立学校に、父の考えで行かせてもらったのです。バスケットボール部に入って、高校生の練習の横で、一緒にクラブ活動をしていました。大学に行っていたり、もう仕事をしているOBが、入れ替わりでやって来て扱(しご)かれたのです。

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 さて、長男の子どもたち二人は、今は高校生になっていますが、二人とも小学校、中学校を無遅刻無休の皆勤賞の生徒なのです。私とは雲泥の差で、いつも『凄い!』と思っているのです。

 就学不適応児、いわゆる「不登校児」の割合が増加で、由々しき教育問題になって、教育関係者は頭を痛めているのですが、それなのになのです。給食が美味しいのかと思うのですが、そうでもなさそうです。送り出してきた両親の力や応援や激励があっての達成に違いありません。

 ゆとり教育とか競争させない教育などが行われて、その歪が出てきて、今では、もうそう言ったスローガンを叫ばなくなってきている様です。出来の良い子もそうでない子も、足の速い子も遅い子も、敏捷な子も沈思黙考の子も、貧しい家庭の子も豊かな家庭の子も、教育重視の家庭の子も性格の良さを重視する子も、いろいろと混在していて良いのです。子どもたちの間で、助け合ったり、励まし合ったり、補い合ったりするからです。

 みんなが同じレベルでなどは、現実とかけ離れているのです。貧乏をバネに、虚弱をバネに、家庭不和をバネに、子どもたちは、害されるだけではなく、好ましくない環境を、乗り越えていけるのです。大切なのは理解者や援助者の存在です。彼らが夢や理想を描けるようにです。

 同級生で雨が降ると休んでいたNは、どうしているでしょうか。時々思い出しては、一緒に廊下に立たされた仲間の今が気になります。時代のせいなんかにできません。子どもは、どっこい力強く生きられるのです。手をかけ過ぎた子の方が、かえって問題なのかも知れません。われわれの世代は、戦争孤児、戦災孤児、混血孤児が多くいたのです。それなのに戦後を、様々に牽引してきた世代でもあります。

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写真撮影の趣味人とは

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 『普段の生活の中で、日常の場からスマホをかざして、数枚の写真を撮るのです。日常から、心的に、倫理的に、時間的に、そして距離的にかなって撮った写真に意味があります!』、これが私の写真撮影の倫理規定なのです。

 廃線や廃業、仕方なく営業できなくなってしまう電車やバス路線や年を経た建物、また風景、人を惜しむ思いから、その記憶を留めておきたくて、写真撮影に出向く人がおいでです。みなさんが規則を守っているとは限らないのだそうです。

 私たちに住んでいる家の隣に、一軒の写真屋さんがあります。今は息子さんに譲って勇退しておいでの片岡惟光(よしみつ)さんは、北関東最古の写真館の四代目で、私たちのラジオ体操仲間なのです。

 代々、日光東照宮の警護をされていた武士で、明治維新前に、初代の片岡如松(じょしょう)氏が、『東照宮を撮影するために訪れた、日本商業写真の先達であった下岡蓮杖(れんじょう)の弟子・横山松三郎が日光山内の社寺建築を撮影した際、手助けをしたことから、写真技術を学び、道具一式を譲り受けた。(産経新聞)』、それで、写真術を修業されて、日光市に開業し、維新後の明治二年(1869年)、栃木県庁のあった栃木市に、明治四年に移転し、写真館を始められたそうです。

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 先日も、体操の帰りがけに、『いろいろとお聞きしたいのですが!』と、四代目にお話をしたのです。いつかコーヒーを飲みながら、お話が聞けたら嬉しいと思っております。2020年の正月、私たちの家族が、全員集結したのを機に、この写真館で家族写真を撮っていただいたのです。たっての家内の願いによってでした。

 写真撮影は、ある瞬間を捉えるのがいいのです。その瞬間との出会いが大切で、それが写真の撮影技術の難しさ、奥深さなのではないでしょうか。雲の動き、日の光、日影の動き、風の吹き様、人や動物や植物の表情を捉えられたら、素敵な写真が撮れるのでしょう。

 次男が、けっこうよいカメラを手に入れて、それを手にしながら、休みの日には、あちらこちらと撮影に出向いている様です。先日は、静岡の旅行先で撮影した写真を送ってくれました。木村伊兵衛、土門拳、ロバート・キャパなどの著名な写真家がいますが、誰に評価を得はしなくとも、一人一人が、瞬間を捉えた一様に写真には、人の生き様の一場面が映し出されるのでしょう。

 人の撮影を邪魔したり、運行のバスや電車の前面を静止を、制止を無視して横断してしまい、ゴミを捨て置木、駐車違反などの問題が取り上げられています。

 趣味が、規則を守って行われるなら、それは自他ともに素晴らしいことに違いありません。写真には、撮影者の心の動機は写らないのですが、その辺のことが考えられて、撮影が行われるなら、それこそが、本物の写真趣味人なのでしょう。
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惣社町のLupinus

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 雨の日が続いていた快晴の昨日、栃木市惣社町に咲く、ルピナスの花を観ました。街の〈郷づくり実行委員会〉のみなさんが、春先に植えつけたルピナスの花が、きれいに咲き誇っていました。” LOVEGREEN “ に次のようにあります。

 『ルピナスは秋に種をまき、翌年または翌々年の春に花を楽しむ一、二年草です。ルピナスの花色は赤、ピンク、オレンジ、黄、青、紫、白など様々。冷涼で乾燥した気候を好むので、蒸し暑い日本ではほんとんどが一年草になりますが、原産地など気候があう場所では多年草とされています。日本でも冷涼な北海道ではルピナスの群生が観光名所となっているも場所もあります。

 品種によっては1m以上に育つこともあり、空に向かって長く伸ばした花茎に鈴なりの花をつけます。ルピナスは、藤(ふじ)に似た花が上向きに咲くことから、「ノボリフジ(登り藤)」「サカサフジ(逆さ藤)」の別名もあります。また、葉の形がうちわに似ているので「ハウチワマメ(葉団扇豆)」と呼ばれることも。ルピナスはマメ科の植物なので、花の後は枝豆によく似たサヤが育ちます。同じくマメ科の植物特有の根粒菌を根に付着させているので土壌が肥沃になります。』

 この花は、地中海沿岸地方と南北アメリカ、南アフリカなどに200種以上が分布しているそうです。日本の土、下野の野に植え付けられて、開花し続けています。出逢って三年目の春のルピナスは、実に素敵です。

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愚直の努力をする

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 『外であなたの仕事を確かなものとし、あなたの畑を整え、そのあとで、あなたは家を建てよ(箴言24・27)』

 「愚直の努力」、しなければならないことを、手を抜くことなく、マニュアル通りに、基本に従って、繰り返していく職人気質を、そう言うのだと思います。頑固なおじさんは、見習い工の時に、手をとって教えられることなどありませんでしたから、先輩たちの仕事の仕方を盗み取ったのだそうです。そうして身につけた手法を、踏襲して堅持するのです。若い時に叩き込まれたことを、疑うことなく1つのことにこだわりながら、すべきことをして来たのです。

 鍋の穴をふさぐ、「鋳掛屋」のおじさんが、子どもの頃に何ヶ月かに一度、自転車で回って来ました。『邪魔だ、あっちへ行け、小僧!』なんて言われませんでした。興味津々に覗き込んでいる私に、仕事振りを見させてくれたのです。世の中で鋳掛屋の職人なんてたいしたことはないかも知れません。

 でも鍋が、どこのスーパーでも売っているような時代ではなかったので、実に貴重な存在だったのです。それにしても随分と安い仕事代だったのを覚えています。それでも、仕事に誇りを持って、精一杯仕事をしておられた姿は、われわれハナ垂れ小僧に、『仕事とは何か?』を教えてくれたのだと思うのです。

 そう言った職人さんとか、職工さんが、製造業でも加工業でも、どこにも、どの部門にもいました。私が、学校に行っていました頃、毎年夏に、ある牛乳工場でアルバイトを2ヶ月ほどさせていただきました。製造のラインでも、出来上がった製品のビンの入った箱を冷蔵庫に積むのでも、それを出荷するのでも、頑固なおじさんが、どこにも必ずいたのです。『もっと工夫すれば、楽が出来るのに!』と若くて生意気なわれわれは思ったものです。

 ところが、決められたとおりにすることを、彼らは要求するのです。言われたことに『はい!』と従う時、彼らはニコニコと微笑んで、『うん、うん!』とうなずきながら、われわれの仕事振りを眺めていました。

 一日の仕事が終わると、明日の作業ために、時間をかけて準備をするのです。掃除や後片付けをするわけです。新製品を開発する研究部門が、学歴や実績のある人たちによってなされている背後で、脚光を浴びない裏方が、どうでも良いように思われる愚直な作業を続けていたのです。

 それがあって、社会で評価される製品が流通して行くわけです。奄美大島から出て来たり、秋田弁をしゃべる若い社員の中に混じって、仕事をして、多くのことを学ばせてもらったのです。つまらないように見える仕事を、意味あるものとするプロ意識の中に見えたのが、この「愚直の努力」でした。若い人の『無駄だ。もっと省力化を図らねば!』と言った考え方に、それは警鐘を鳴らしている生き方、仕事の仕方に違いないのです。

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 『漫才の天才!』と言われた人に、横山やすしがいました。彼が、自分と同年であった事を知った時から、彼の生き方に強い関心を向けたのです。同じ時代の流れや風の中を、生きて来た者として、とても親近感が湧いて来たからです。『ほんまに稽古嫌いだった!』と、相方の西川きよしが、先日、そう話しているのを聞きました。1つの演目を演じるのに、その稽古嫌いのやすしをなだめすかして、稽古に連れ出したのは、きよしでした。なんと40回も稽古をしていたそうです。

 アドリブだとばかり思われていたのに、アドリブを入れるためには、積まれた山のような稽古があることを知らされて、一朝一夕には名人には、なれないのだと言うことを知らされたわけです。やすしの破天荒な生き方は理解できるのですが、自分の仕事に対して、いやいやながらでもし続けた、見えない裏の部分があったのだと言うことを知らされるわけです。

 冷蔵庫で牛乳の箱を積む作業の合間に、誰かが、裕次郎の「赤いハンカチ」を歌っていました。バイトが終わったら、北海道にでも行ってみたいような漂白の思いに誘われたのが、昨日のことのようです。「一事専心」、大切な教訓でした。

(「らくごはじめのぶろぐ」から修理屋さんたちです)

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Aspergillus

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 天津にいた一年の冬場には、ちょっと誇張かも知れませんが、外に出ると、埃だけではなく、あらゆる物を舞い上げた寒風が吹いていたのだと思われます。驚いたことには、女性が、ストッキングのような、網目の細かい布で顔を覆っていたことでした。道端にはゴミが散乱していて、黄砂風も砂漠地帯から吹いてき、それに中国五千年の間に堆積された埃も舞っていたように感じたのです。

 それが苦手で、華南に移ったのかも知れません。そこは、日本と同じで、65%以上の樹木の緑の割合の多い地だったのです。それでも学校の寮(旧ホテルを利用した古い建物でした)から出て、住み始めたのは、大学の教員住宅でした。アルミサッシではなく、ガタピシの木製の窓で、煉瓦の古建築なので、隙間が多く、歴代の住民の生活の埃も、ネズミのフンも多く、土間もあった家でした。

 木と草と紙で出来た日本住宅の中で育った身には、なかなか馴染めなかったのです。朝になると、家への階段の登り降りの踊り場には、朝になると何匹ものゴキブリがひっくり返っていたのです。衛生管理の徹底までの途上国での生活が長かったのを思い出しています。

 帰国して、五年目を迎え、目下の生活上の心配は、細菌、黴(かび)で、中国から帰ってきてから、とくに気を付けているのです。体調を崩した家内の「アレルギー検査」を、先週、大学病院ではなく、近くの街医者でしていただいたのです。その結果、食べ物のアレルギーは、家内が思い込んでいた小麦、乳製品、海老、蟹などは 全くhit しませんでした。

 hit  したのは、〈house dust 〉、〈ダニ〉、初めて知った〈アスペルギルス(Aspergillus、これはどこにでもあって免疫力低下時に肺の中に取り込まれるのだそうです〉の3つでした。これは、隣国への悪口ではありませんのでご承知ください。外国生活の長さによって、体の中に持ち込まれたさまざまば物質(黴やダニの影響力)によって、過敏症の家内の身体に仕舞い込まれてきたのじゃあないかなって、素人判断ですが、今思い返しているのです。

 それと共に、〈大辛のカレイ(加齢)〉によるものなのかも知れません。今日は、この四年間、今は五年目を診ていただいてる大学病院の三ヶ月ぶりの通院日です。アレルギー検査で見つかった物質って、どんな影響をもたらしてきたのでしょうか。net で調べても、やはり素人判断ですから、専門医に聞くべきなのでしょう。専門知識には長けている現代医学で、総合的な診断が必要なのでしょう。そんなことを、門外漢ながら感じております。

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喜ぶ者と共に喜び

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 『エルサレムの平和のために祈れ。「おまえを愛する人々が栄えるように。 (詩篇1226節)』

 「ブリッジ・フォ・ピース( Bridge for Peace )」からの今朝届いたメールが、次のように伝えてきました。

 『イスラエルは、国中が喪に服すメモリアルデー「ヨム・ハジカロン」です。昨晩の日没から始まり、イスラエルを守るために命を落とした兵士、テロ犠牲者を偲び国中が、亡くなったイスラエルの息子と娘たちを自分の家族のように追悼します。メモリアルデーには、追悼のサイレンが国中に鳴り響きます。人々は立ち止まり、車を停止し、車外に出て哀悼の意を表します。』

 イスラエルは、1948514日(ユダヤ暦の5078年イヤール5日)に、ダヴィド・ベングリオンによって、テルアビブで、独立が宣言されています。今夕の日没から、75回目の「イスラエル独立記念」の式典が行われます。日本からも、《Blessing Zion クワイヤー》の三十数名のみなさんが式典に参加されます。私たちの友人も参加しておいでです。式の祝福と、旅の無事をお祈りします!

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(「イスラエル独立宣言」、参加の「クワイアーのみなさん」です)

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[人]リヴィングストン

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 『それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。 信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。 信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、 蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」(マルコ161518節)』

 『遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。(ロマ1015節)』

 ロンドンに、「ウエストミンスター(Westminster)宮殿」があります。この街の象徴であり、いえ、イギリスの誇りと言ったほうがいいかも知れません。今は、イギリスの国会が行われるための国会議事堂に用いられていますが、元々はGreatBritain の国王の宮廷でした。

 この王宮に隣接して、イギリス国教会の「ウエストミンスター寺院(Westminster Abbey)」が、西側にあります。この5月6日に、チャールズ新国王の戴冠式が行われようとしています。また、ここには諸代の王や英雄や国家貢献者たちが埋葬されてもいるのです。

 その中に、デーヴィッド・リヴィングストン(David Livingstone)も葬られています。

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 「暗黒大陸」と呼ばれたアフリカに渡り、奴隷解放運動に尽力し、イギリス紙幣の10ポンド紙幣の肖像にもなっている人です。彼は、史上始めてアフリカ大陸を横断し、貿易ルートを開拓した人でした。

 『私の探検の 目的は、どん欲で利己的な 人たちに アフリカの扉を 開いて 不公平に 利用され、荒れ果てさせることでは ありません。アフリカ全土に 福音を伝えられるように、宣教師たちのための道を 開拓したいのです。私の 求めているのは、ダイヤモンドでは なく、 人間の 永遠の魂なのです!』と、リヴィングストンは語りました。

 後の10ポンド紙幣の肖像にもなった彼は、史上始めてアフリカ大陸を横断し貿易ルートを開拓しました。しかし探検中、感染症にかかりジャングルの中で亡くなりました。同行していたアフリカ人の従者のスーシとチューマは、この尊敬する主人をなんとか本国に還そうと遺体をミイラ処理にし、途中10人もの仲間を犠牲にしながらもなんとかイギリスへ届け遺体はウェストミンスターに葬られました。

 私の母は、昭和初期に、カナダからやって来られた宣教師の教会に導かれて、十代の初めに信仰を持ちました。そこは、日本中の神が、神無月には参集すると言われてきた出雲でした。宗教の強固な地での宣教は大変だったに違いありませんが、福音に力があり、人々に受け入れられていきました。95歳で帰天するまで、母は信仰を持ち続けたのです。

 義母も、戦後の混乱期に、マッカーサー司令官の派遣養成に応用して、来日した宣教師の配布した、「約翰伝」の分冊を読んで、その、伝道の中で、救われています。福岡で生まれ、東京で学び、結婚をして東京に住み始めて、そこで宣教する宣教師に導かれたのです。101歳で帰天するまで、信仰を守り通しました。

 「救い」とは、イエスを「主」、「キリスト(救い主)」と信じ、告白することによります。それは「聖霊の働き」によります。

 『ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。 1コリント123節)』

 イエスを信じて救われた人の中で、ある人は、宣教に召されるのです。神に遣わされた人たちによって、人は、イエスを主、救い主と信じるのです。リヴィングストンも、母を導いたカナダ人宣教師も、義母を導いたアメリカ人宣教師も、みな遣わされて、「福音」を宣べ伝えたのです。

 幕末から明治にかけて、そして第二次世界大戦の後に、欧米諸国から、教会の主でいらっしゃる、キリスト・イエスさまの「宣教命令」に従った、多くの宣教師が来られました。日本のキリスト教会の礎は、そのみなさんによって据えられているのです。

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LGBTを考えるために~向き合いたい三つのこと〜

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 キリスト教性教育研究会 会長をなさっている水谷潔氏が、次のようなことを書き記しておいでです。私たちが、どのように、LGBTのみなさんに接したらよいか、素晴らしい提言ですので、ここに転載してみます。

 『20年ほど前から、同性愛傾向に葛藤を覚えるクリスチャンや関係者から相談を受けてきた者として、私見を記します。今回は、同性愛を考えるときに、向き合っていただきたい三つのことを、ご提案いたします。 

信:聖書に向き合う

 まず、確認したいことがあります。聖書が言及しているのは、厳密にいえば「同性愛」ではなく「同性愛行為」、言い換えるなら「同性間の性的結合」です。ですから、「傾向」と「行為」は分けられるべきです。同性愛傾向を持つだけの方が、断罪的な言葉を受けて教会を去っていくようなことは、本来、あってはならないことでしょう。

 では、同性間の性的結合はどうでしょう。創世記1、2章によれば、神様は人を男と女に創造し、結婚関係において異性間での性的結合を定められました。神様の秩序からの逸脱という意味において、同性間の性的結合は、結婚外の性関係と同様、御心ではないと言えるでしょう。また、紙面の都合上、詳細な考察は割愛しますが、他の聖書箇所でも、一読する限りは、同性愛行為は否定的に記されています。

 一方で、同性愛行為を他の罪とは別格のものと考えるのは聖書的ではありません。聖書は多くの場合、同性愛行為を他の罪と同列で記しています。ソドムが滅んだのは、同性愛行為が原因でしょうか。創世記19章以外でソドムに言及している聖書箇所を読めば他の罪も原因だとわかります。また、レビ記2013節では、男性間の同性愛行為は死刑に値すると記されていますが、前後を見ると他の性的罪、あるいは性的でない罪も死刑相当です。さらに、ローマ人への手紙1章でパウロは「同性愛行為を行う者は滅びる」ではなく「滅びに向かう者は結果として同性愛行為に至る」という趣旨を記しています。もしかすると、原因と結果を取り違えて読んではいないでしょうか。そして、1章29節以降には、やはり同性愛行為と並列して、一般的な罪がリストアップされています。

 どうでしょう。同性愛行為を特別に邪悪な罪と考え、結婚前に性関係を持つ求道者はOKで、LGBTNGとするような思いはないでしょうか。「聖書的だと信じてきたこと」は「聖書が記していること」でしょうか。一度、思い込みをわきに置いて、聖書に向き合っていただければと願います。

知:事実に向き合う

 もし自分が通っている教会にLGBTの方はいないと決めつけるなら、それは偏見に基づいた事実誤認かもしれません。一定の確率で、教会の中にもLGBTの方はいらっしゃいます。私が相談を受けてきた当事者の多くはクリスチャンホームで育ってきた方です。どうかその「見えざる事実」「知られざる苦悩」を想像してみてください。

 典型的な事例を紹介しましょう。LGBTの傾向を自覚する中高生は、親にも指導者にも打ち明けられぬ一方「同性愛は罪」と聞きながら育ちます。本当の自分は受け入れらないと考え、自死を考えます。うつ病を発症します。教会を去り、ゲイコミュニティーに集う青年もいます。親も指導者も、この現実に気が付きません。親友だけが知っています。これが現実です。自分の家族や教会の仲間がそうだったらと考えてみることをお勧めします。

愛:当事者に向き合う

 イエス様は遊女など、性的罪人を受け入れられました。LGBTの方々が人間としての尊厳を持ち、愛すべき隣人であることを忘れてはなりません。残念なことに、キリスト教会は、長い歴史において聖書を根拠に差別をしてきました。ユダヤ人差別、黒人奴隷の正当化、ハンセン病差別、アパルトヘイトなどは、その代表例でしょう。そうした過去への真摯な悔い改めをもって、LGBTについて考えたいものです。

 今、日本の教会でも、LGBTの新来会者、教会員のカミングアウトが増えています。ヨハネの9章において、弟子たちは生まれつき目の見えない方を前に議論しましたが、イエス様はその方に語り掛け、愛を注ぎました。私たちもLGBT当事者を前に、弟子のように議論するのか、イエス様のように愛するかが問われます。

 私自身は、聖書を基準に同性愛行為を罪だと判断していますが、その判断は、差別や排除ではなく、愛と受容に向かってこそ、聖書的だと考えています。聖書的価値転換や愛の実践は、決して容易ではありませんが、LGBTは、この時代にあって、日本の教会が取り組むべき課題の一つでしょう。そのために、三つのものに向き合うことが、神様が望まれる信と知と愛を獲得する一助になればと願っています。

   LBGTとは:レズピアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーを代表とする性的少数者の総称。

 水谷潔氏 1961年生まれ。小さないのちを守る会 元代表。春日井聖書教会 協力牧師。「世の光・ジェネレーションX」ラジオパーソナリティ。

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