あの経済成長期を越えての今

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 戦後、平和の時代が来て、戦地に行っていたお父さんたちが復員して来て、いわゆる baby boom で、子どもたちが産まれてきたのです。1946年に生まれた方たちからでしょうか。その時の子どもたちが、中学校を卒業して、京浜、中京、阪神の工業地帯で働き始めて、戦後の未曾有の経済成長期の担い手となります。お父さんは、鉄砲を担いで出て行ったのですが、その親の子たちは、ハンマーやドライバーを手にしたり、営業車を運転し、鞄を引っ提げて、いわゆる「企業戦士」になっていきました。

 1964年の秋に行われた、東京オリンピックの開催の準備のために、押し寄せてくる観光客を受け入れるためのインフラ( infrastructure /鉄道網、道路網、空港整備、ホテル建設など)の整備、増強がなされていき、われわれ世代の父や兄の世代は、その働き手でもありました。

 敗戦の廃墟の中にたたずんでいたのも束の間、朝鮮戦争の戦争特需、その後のヴェトナム戦争の戦争特需の中で、懸命に働いてくれた世代でした。われわれの父の世代は、スタルヒン(父の少し後に世代人)・栃木山・初代吉右衛門(歌舞伎俳優)、私たちは、川上・千代ノ山・古橋広之進(水泳選手)、その後の子どもたちは王・大鵬・卵焼き、息子たちの世代は、掛布・SMAP、今は大谷翔平・井上尚弥・シホンケーキでしょうか、どうでしょう。世代世代のスターや選手や歌手がいたし、今でもいるのです。

 その戦後のbaby boomer の世代の子どもたちが、第二次の baby  boomer になったのです。教会のそばに中学校があったのですが、校舎の隅にプレハブ校舎が建てられ、一学年1315学級もある時期を迎えていました。今や、彼らのお父さんやお母さんが、定年を迎えて、家に帰ってきて、すでに七十代、今や朝夕は、day care の送迎用のライトバンが、路上を東奔西走して、彼らを乗せています。退院後の家内も、そのバンに乗って、週一回の行われる、AEON mall に出かけているのです。

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 世の中は、景気後退ですが、福祉の世界は盛況です。ただ過当競争でしょうか、思ったほどの収益のあがる事業ではなくなってきているそうです。公費の福祉費の援助で経営が成り立っているのです。この業界に、初期に参入していた人たちの右肩上がりの好機は過ぎたのでしょう。

 人への福祉が、儲けの世界にすり替えられてしまってはいないでしょうか。残念なことです。福祉や社会事業に対する社会的な責任を果たしたり、基本的には人への労りではない事業者が、その意味や意義を失わせているのだと言われています。そんなおかしな時代に、ブレーキは効くのでしょうか。お金で、問題を解決していく行政に、納得できないのは、お金の価値が分かっている、一生懸命に働いて来た頑張り世代であったからかも知れません。

 我慢や責任を学び取らされた世代が、その影響力をなくしてしまう時代に起こっているのでしょう。成長と衰微も一対の出来事なのかも知れません。

(テレビ、冷蔵庫、洗濯機を「三種の神器」と言われたのです)

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泥沼の先にあること

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 子ども頃に、長靴を履いて、泥沼にはまってしまい、長靴を履いている意味がなくなって、泥だらけで、大変な目にあったことがありました。その難儀さは、抜け出せないところにあったのです。泥の入り込んだ長靴で、足を抜くのが大変でした。長靴を脱いで仕舞えば良いのですが、泥の中に残したら、見つける方が大変だったのです。

 ウクライナ戦争のロシア侵攻、それに反対する日本も含めたヨーロッパ諸国の関係が、まるで〈泥沼状態〉になりつつあるのが懸念されます。あの日中戦戦争が、いつの間にか、暴挙を改めなかったことと、何か似ているのを感じます。結果が想定できたのに、またやめられたのに、取り返しにつかない状況に落ち込んだのと、同じ轍(わだち)にはまるのでしょうか。

 ナチス・ドイツも、ファシスト・イタリヤも同じでした。世界中が傷つき、疲弊し、泥沼の中に引き摺り込まれていきました。一国の暴挙が、世界経済に与える影響の大きさにも驚かされます。電気代、ガス代に請求額が尋常ではありません。食べ物も随分と高くなっています。便乗もあるのでしょう。

 子どもの頃に、近所の男の子が、池にハマって溺れそうになりました。『池に落ちたら、左足が沈む前に右足を上げれば大丈夫!』と言って実験したのです。彼は体全体が沈むのを見落としていたので、溺れたのです。

 この時代は、もうその片足でさえ上げる力がなくなり、その機能が働くなってしまっているのでしょう。

 『しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。(ルカ2120節)』

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 これは飛躍かも知れませんが、〈エルサレムが軍隊に囲まれる事態〉がくると、イエスさまが言われました。そんな事態が起きそうな前触れでしょうか、このウクライナ戦争の行方のことです。ロシアと同盟国とが、合い図って、最終的な攻撃目標とするのが、「エルサレム」なのではないでしょうか。

 イスラエルに攻撃してくる国々について、旧約聖書は、次のような国々を挙げていると、読み取れます。[ロシア、ヨルダンの一部(エドム)、トルコ(メシェクとトバル)、イラン(ペルシャ)、エチオピア、リビア、ウクライナ/ドイツ(ゴメル)、クルディスタン、トルキスタン、アルメニア(トガルマ)]などです。

 そんな攻撃を受けるエルサレム、そして国家として奇跡的に再生したイスラエルについて、次のような予言のことば、祝福のことばがあります。

 「主はモーセに告げて仰せられた。 『アロンとその子らに告げて言え。あなたがたはイスラエル人をこのように祝福して言いなさい。「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。 主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。 主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。」 彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。』(民数記2227

 『エフライムの山では見張る者たちが、『さあ、シオンに上って、私たちの神、主のもとに行こう』と呼ばわる日が来るからだ。」 諸国の民よ。主のことばを聞け。遠くの島々に告げ知らせて言え。「イスラエルを散らした者がこれを集め、牧者が群れを飼うように、これを守る」と。 主はヤコブを贖い、ヤコブより強い者の手から、これを買い戻されたからだ。 彼らは来て、シオンの丘で喜び歌い、穀物と新しいぶどう酒とオリーブ油と、羊の子、牛の子とに対する主の恵みに喜び輝く。彼らのたましいは潤った園のようになり、もう再び、しぼむことはない。 そのとき、若い女は踊って楽しみ、若い男も年寄りも共に楽しむ。「わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませる。 また祭司のたましいを髄で飽かせ、わたしの民は、わたしの恵みに満ち足りる。--主の御告げ--」(エレミヤ3161014節)』

 戦火の火の粉を、私たちもかぶるかも知れません。しかし、神さまは、直接介入されて、ご自分の民と国とその都エルサレムを守られるのです。アメリカやイギリスが、経済的に軍事的に衰退して、エルサレムを守ることができなくなった時に、万軍の主、栄光の王が、ご自身の御手で、直接守られると信じます。

( “ キリスト教クリップアート” から「エルサレム」です)

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さきほど

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揺れている

コトコトと音がし

何かがきしんでいる

なぜか柚子の匂いがしてきた

カラスが鳴いている

静かになった

そうしたら『窓と玄関の戸をあけろ!』の父の声を思い出した

もう揺れてない

微かな揺れだった

茨城かな、福島かな

いや、めずらしく千葉南部の速報

静かな川面を思い出した

早暁四時過ぎの五秒間ほどのこと

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生きよ

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 『初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、 --このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。--(1ヨハネ112節)』

 与えれられたいのちを、自らの〈唯ぼんやりした不安〉の中で、自死の道を選んでしまった芥川龍之介の《生きようとする思い》を、追いやってしまった、35歳の自死を知って驚いたのです。明晰な頭脳を持っていたのに、太宰治の38歳の心中にしろ、川端康成の老いてからの72歳での自殺、〈言葉〉を駆使して文学活動をした人たちの自死について、これまで、私は大いに考えさせられてきました。

 〈言葉〉の森の中で、生きようとする言葉、生かしてくれる言葉を見出さないで、森の迷路にはまり込んでしまったに違いありません。芥川の死の床には、聖書が置かれてあったそうです。そこには、「西方の人」と題をつけて、芥川が、昭和2710日に書いた主人公、イエスさまが取り上げられているのです。彼も熟読しての〈イエス観〉が述べられていたのです。

 書き足りなかったのでしょうか、「続西方の人」を、前編の2週間後の723日に記し、それが、「遺稿」となっています。それは芥川の死の直前の作品です。中学や高校で学んだ教科書の中に、「トロッコ」、「羅生門」、「蜘蛛の糸」、「杜子春」など、芥川の作品が取り上げられていて、興味深く学んだ記憶があります。ただ一つ疑問だったのは、自死するような人の作品を、国語教科書に載せることでした。

 これからを生きて行くために学ぶ必要のある子どもたちに、生き抜かないで果てて、自己放棄し、責任放棄をした人の作品が、どんなに文学的には高い価値があったとしても、相応しくないのではないかと言う思いでした。

 文才などない私は、聖書を読んで、聖書を読んできた母の生き方からかも知れませんが、そのイエスさまが、「キリスト(救い主)」であることを、紆余曲折を経て、やっと信じた、いえ信じさせていただいたのです。そして聞いてきたこと、読んできたこと、解説されてきた聖書が、自分を生かす《ことば》となったと言うべきでしょうか。

 芥川は、ショペンハウエルの厭世観に強く影響されていたそうです。この神の子でいらっしゃる方の語られた《ことば》に、芥川が触れなかったことになります。文学的な関心は向けても、「わたしを求めて生きよ(アモス54節)」と言われた「救い主」と出会えなかった、ぼんやりとしたままで終わってしまった悲劇だったと言えるでしょうか。

 人は、明確な《はっきりした平安》の中に、生きて行くことができるのです。いのちを付与された神さまは、生きとし生ける者の全てに、「生きよ」とおっしゃっています。

(“キリスト教クリップアート”からです)

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空を飛ぶ鳥の如く

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 『私たちの齢は七十年。 健やかであっても八十年。 そのほとんどは 労苦とわざわいです。 瞬く間に時は過ぎ 私たちは飛び去ります。(詩篇9010節)』

 実は好きではない活動標語に「終活」があります。なぜかと言いますと、私には、《永遠のいのち》の約束を固く信じる信仰を与えられたからなのです。それで、私は、《収活》と言い換えているのです。人生を終わらせないで、《収める》ことにしたいと願うからです。

 父は、61歳になったばかりの時に、くも膜下出血で入院中でしたが、その退院の日の朝、脳溢血を起こして召されました。突然に、自分の死を迎え、これからは親孝行ばかりを考えていた私には、驚きでした。父も、どう自分の人生を終えるか、その準備なしの死を迎えたのだろうと思うのです。幸いなのは、信仰告白をして召されたことです。

 人の一生は、聖書によりますと、『健やかであっても八十年』と記されてありますから、まだ、心も体も、健康が保たれている今だからこそ、もう少しの間を生かされて、〈どう収めていくか〉、人生の整理を考えなければならないように感じております。

 〈物の整理〉ですが、35年ほどの間に買い求めた蔵書がありましたが、私の意に反して、処分されてしまいました。前任地の建物の物置に置かせてもらったのですが、処分すると言う宣告で、了解なしで処分をされたのです。懐かしい子どの頃の学校からの成績表などの記録文書なども全部が、捨てられてしまいました。私が、導きを感じて、隣国に出かけて間もない時期の出来事でした。

 残して置いた私がいけなかったのだと納得はしましたが、ずいぶん礼を失した仕打ちでした。私の移動や転身を快く思わなかった方たちの決定だったのでしょう。今では、天国に持っていけない物でしたので、その執着の思いは解決したつもりでおります。家を持たない自分の持ち物でしたから、そう認める以外にありません。

 『二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。 不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。 私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。(箴言3079節)』

 着の身着のままで、隣国から急遽帰国し、帰国したばかりの2019年の秋に、台風による洪水で、お借りして、住ませていただいていた家が、床上浸水になりました。退院間近の家内のためには、『この家には住まないほうがいいです!」』と、ご好意で住まわせていただいた、その家の持ち主が言ってくれました。この方が、避難先を探してくださり、彼の友人が牧会する県北の教会に避難させてもらったのです。

 その間に、今の住宅を探して、住み始めて五年になろうとしています。何も持っていませんでしたので、貰い物だらけのご好意で生活をし始めました。2020年に、子どもたち家族が、病中の母親を見舞いにやって来た時に、急遽用意した寝具類が、開かずの間に置かれていて、今使わせていただいてる箪笥やベッドや布団やテーブルや食器棚や食器類も、ほとんどが頂き物です。

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Flock of birds in V formation as they fly high in the sky with sun in the background

 

 『空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。(マタイ626節)』

 〈その他の持ち物の整理〉ですが、在華中の説教ノートや、学校で教えていた時の教材が残してあり、この4年間に買い求めた古書などがあるだけです。再び戻る可能性を考えていましたので、残しておきましたが、そろそろ処分すべきかと思っております。株券も宝石類も、家も土地も、何も持たない私ですが、わずかな国民年金と、隣国の兄弟姉妹たちの、その都度都度の応援で、今を恙なく過ごしております。

 〈財産の整理〉ですが、何もありませんので、子どもたちへの相続も考える必要のない私たちです。〈死後の事々〉は、葬儀も埋葬も不要で、散骨をしてくれるように、家内と長男に言ってあります。〈交友関係の整理〉も、心を許せる友人は多くはありませんので不要です。〈今後したいこと〉はあります。若者の様に踊る様な願いの中に、まだ隠してあります。ただ今を感謝して、今すべきことに専心したいと思うばかりでおります。

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 ただ家内や子どもたちに迷惑をかけたくありませんので、これらのことは、はっきり言っておかなければなりません。これが、私の《収活》であります。

 素敵な人生を生きられたと感謝しております。こんな自分が、主の御用の一端を担うことができた特権は、驚くべきことでした。伝道と牧会の任に当たられたことは、この上もない誇りであります。迷惑をおかけした宣教師方も、すでに主の安息の中にありますので、ただ感謝ばかりです。

 家内には、ただ感謝だけです。五十有余年、一緒に、主に仕えることができ、支え続けてくれたことに、ただ深謝するだけです。また父親としては、自分なりに精一杯してきたつもりですが、未熟さや足りなかったことは、子どもたちに赦してもらう以外にありません。

 永生の望みの中に、罪赦されて入れていただき、神の子の身分や、義とされ、聖とされ、やがて栄光化されるお約束のゆえに感謝するばかりです。精一杯生きて八十年近くの生かされた日々を、支え守ってくださった、救い主イエスさまに感謝するばかりです。 

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ソーメンと小3嬢

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 わが家を訪ねて来られて、玄関を入るや否や、洗面所に飛んで行って、手を洗って、必ずゴロゴロっぺをする人がいます。コロナ禍の訪問者の中の「優等生」です。幼稚園時代から、『あそぼー!』とやって来ては、家中を探検したり、物をひっくり返したり、ハサミやセロテープや空き箱で工作をしてきた、今年、小3になったお嬢さんとお母さんの来訪が、先週ありました。

 昨日は、お母さんが〈電動回転ソーメン器(乾電池式)〉を持参してこられて、ソーメンを茹で、麺つゆに薬味を入れて、お昼を一緒にしたのです。このお嬢さんの好物の野菜サラダ、蒸かしサツマイモ、台湾パイナップル、クッキーも添えてでした。

 小さなソーメン流し器に、流れる 、いえ回転するソーメンをすくいとっては食べたのです。今季初めての初夏の味覚でしたので、とても美味しくいただけました。それに連休中に出かけて買ってこられた、茨木産のさつまいものお菓子をいたのです。古里のお母さまから、函館産の昆布の佃煮も、言付かったと言われて、わが家に届きました。これが美味しいのです。いつも心にかけてくださり、お母さまは家内と、お父さまは私と同年生まれでいらっしゃいます。

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 昨日は、帰りがけの車に乗ってから、冗談を言っては困らせている私を、執り成して、『準さんをゆるしてあげてね。あたしもゆるすから!』と見送っていた家内に言ったそうです。大人びた小3なのです。工作上手で、「鬼滅の刃」の主人公の炭治郎が、いまだに大好きで、自分で着せ替えを作っては、人形に着せています。

 背丈も伸びて、大人びたことを言って、大きくなっても遊びに来てくれるのです。稀少な友だちの一人です。

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[人]平岩幸吉

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 栃木市の名士、偉人の中に、平岩幸吉(1856~1910年)と言う方がおいでです。幕末、江戸は日本橋で、米問屋に生まれています。結婚したご夫人が、この栃木の出身で、ここに越して来られています。江戸期から明治にかけては、ここ栃木は舟運(しゅううん)が盛んで、商業的に盛んでしたが、鉄道が敷かれるようになって衰微していきます。

 その舟運に携わっていた人たちが老いて、仕事を失い、生活に困窮する事態が生まれてきたのです。そう言った人たちの中で、一人暮らしの老人たちが、安心して老後を暮らしていけるように、日本で三番目に開設された「養老院」を運営し、奉仕活動に専心したのが、平岩でした。

 この平岩の遺徳を記念するために、大平山麓に、「平岩幸吉氏善行旌表(せいひょう)碑」が立てられてあります。その碑に、次のように刻まれてあるのです。

「栃木婦人協会ノ事業トシテ、保育場ヲ開設シ、労働者ノ幼童ヲ教養セント事緒ニ就クニ当リ不幸ニシテ溘然(こうぜん)トシテ逝ク」

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 市内には監獄支署(今は刑務所と言いますが以前の呼称です)があって、女子が収容されていました。栃木婦人協会を設立した平岩は、この会と協力して、服役後の女子受刑者に、授産施設などもあったのでしょうか、自活の道を与えて再犯を防ごうとしたのです。そのために資財を投じ、なお廃品回収のために、牛乳配達に車を改造して、その車を轢きながら、古紙などを集め、それによって得た収益で、その施設を運営をしたのです。

 『死んだら、男体山が見えるところに葬って欲しい!』と、平岩は願ったのだそうです。日本橋に生まれながら、結婚して住んだ栃木の土地と人を愛して、人生の良い時を、社会的に弱い立場の人のために、捧げた一生だったのです。

(平岩幸吉、碑の近くに咲く紫陽花です)

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[memory]Costa さん。

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 Costa’s memory

 婚約式を、1970年の秋に、母教会で行いました。その直前に、一人のニューヨークの聖書学校で教えている教師が来られたのです。アフリカ宣教に出掛けた教え子たちを訪問し、激励する旅の途上に、羽田空港に降り立ったのです。ところが入国査証なしでしたので、出入国管理事務所に留め置かれていたのを、迎えに行った兄が、どう交渉したのか、監督責任付きで連れ出して、教会にお連れしたのです。

 特例だったのか、たまにはそんなことが許された時代だったのでしょうか。アラブ人とギリシャ人の血を引くアメリカ人で、母教会を始められた宣教師と同じ教会、conference のメンバーでした。元ボクサーだとかで、初対面で打ち解けてしまうようなタイプの人でした。この人が、Mr.Costa で、私たちの婚約式で、メッセージをしてくれたのです。

 そんな出会いがあって、彼は、どうも私を連れてアフリカに行きたかったのだとかで、私たちの宣教師は、それを許しませんでした。それを機に、何度か来日してくださったのです。コンパクトなノートに、聖書の教えのエッセンスを、小さな字で書き込んで、大切にされていたのを、覗き込んで見てから、それを真似して、小さなノートを作って、学んだこと、主から示されたこと、気づいたことなどを書き込んできたのです。

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 このCosta さん(私たちの宣教師のみなさんは、〈先生〉とか〈兄弟〉という呼称で呼ばれるのを好まないで、どの人も〈さん〉呼びをしていました)のお母さんがクリスチャンで、文字が読めないのですが、いつも聖書を持っていたそうです。バスに乗ると、隣席の人に、その聖書を渡して、『この箇所を読んでください!』と頼むのだそうです。

 聖書に通じていたお母さんの《伝道方法》だったという話を、説教の中でされていて、昨日聞いたように、よく覚えているのです。direct に、聖書を読ませてしまうのは、すごい知恵に満ちた方策だったのです。実に魅力的なおじさんで、聖書のみことばを歌う、chorus(コーラス)で賛美し、その翻訳版が、よく歌われていきました。

 一昨日の夕食は、「カジキマグロの餡かけ」を作りました。片栗粉をまぶしたカジキを、オリーブオイルでフライにしたのです。それが、Costa さんの好物だったのを思い出したのです。彼も、そして宣教師さんたちも、さらに一緒にテニスの打ち合わせを、八ヶ岳や山中湖でした牧師さんたちの多くの方々、、今や天に帰って行かれてしまいました。あの日々があって、今があるのです。感謝な人、日々、交わりでした。

(ギリシャ語の「新約聖書」です)

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