皆勤賞の孫たちと病欠児 のジイジ

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南に仰ぐ冨士の高嶺

北にめぐれる多摩の流れ

教えの庭の朝な夕な

鏡と見まし山と川と

 これは、私の三番目に通った小学校の校歌です。仰がないのですが、今も160kmほどの遠くに望み見ることができる富士の高嶺は、あの頃と変わらず、屹立(きつりつ)しています。

 冬場の夕陽の中に、ここ栃木市から遠望できる富士は、建物が一部邪魔をしていますが、やはり綺麗なのです。ここの小学校は、男体山を仰ぐのでしょうか、大平山を見上げるのでしょうか、それを鏡の様にして学んできたのでしょうか。ここでは第二小学校が併合されて中央小学校になっているそうで、どの様な校歌の歌詞なのか興味が尽きません。

 山奥から越して来て、不適応になることはなく学校が好きでした。ところが就学前に肺炎に罹って、入学式にも出られず、一学期もほとんど学校に行けませんでした。その後、二つの小学校に転校したのですが、たまに行く学校は、楽しくて仕方がなかったのです。再発を心配した母は、咳をしたり、熱が出ると学校を休ませて、病院通いを繰り返したのです。

 休んでばかりで、授業についていけないこともなかったのでしょうか。風邪がおさまった合間に行く学校は、遅れた分を取り返していたのでしょうか、みんなの跡をついていくことができたのです。四年生頃からは、健康が回復し、クラスの番長になったりしたのです。親分の資質がないのに、短期政権で、寝返りを打たれて、敗軍の将の様になってしまいました。お父さんが消防署に勤めているSが、たった一人の仲間でした。それでも学校が好きでした。

 そんな小学校から、みんなは町の中学に通うのに、一人、電車通学の私立学校に、父の考えで行かせてもらったのです。バスケットボール部に入って、高校生の練習の横で、一緒にクラブ活動をしていました。大学に行っていたり、もう仕事をしているOBが、入れ替わりでやって来て扱(しご)かれたのです。

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 さて、長男の子どもたち二人は、今は高校生になっていますが、二人とも小学校、中学校を無遅刻無休の皆勤賞の生徒なのです。私とは雲泥の差で、いつも『凄い!』と思っているのです。

 就学不適応児、いわゆる「不登校児」の割合が増加で、由々しき教育問題になって、教育関係者は頭を痛めているのですが、それなのになのです。給食が美味しいのかと思うのですが、そうでもなさそうです。送り出してきた両親の力や応援や激励があっての達成に違いありません。

 ゆとり教育とか競争させない教育などが行われて、その歪が出てきて、今では、もうそう言ったスローガンを叫ばなくなってきている様です。出来の良い子もそうでない子も、足の速い子も遅い子も、敏捷な子も沈思黙考の子も、貧しい家庭の子も豊かな家庭の子も、教育重視の家庭の子も性格の良さを重視する子も、いろいろと混在していて良いのです。子どもたちの間で、助け合ったり、励まし合ったり、補い合ったりするからです。

 みんなが同じレベルでなどは、現実とかけ離れているのです。貧乏をバネに、虚弱をバネに、家庭不和をバネに、子どもたちは、害されるだけではなく、好ましくない環境を、乗り越えていけるのです。大切なのは理解者や援助者の存在です。彼らが夢や理想を描けるようにです。

 同級生で雨が降ると休んでいたNは、どうしているでしょうか。時々思い出しては、一緒に廊下に立たされた仲間の今が気になります。時代のせいなんかにできません。子どもは、どっこい力強く生きられるのです。手をかけ過ぎた子の方が、かえって問題なのかも知れません。われわれの世代は、戦争孤児、戦災孤児、混血孤児が多くいたのです。それなのに戦後を、様々に牽引してきた世代でもあります。

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