十月十一日


 2009年12月に、中国で、「十月围城(shiyueweichang)」という映画が上映されました。この映画は、1905年10月の香港を舞台にしたもので、清朝・北京から送り込まれた500人の暗殺者たちが、東京から帰国する、革命の首謀者である孫文(孫中山)の暗殺を企てます。その謀略を知った、孫文を支持する者たちの手によって、暗殺計画が阻止され、民主革命のための重要な会議に、孫文が出席するといった、実話に基づくものです。孫文の提唱する新しい中国の建国のために、多くの青年たちが感動し、その実現のために多くの犠牲があったこと、その犠牲の上にあの「辛亥革命」が成功したことを私たちに伝えています。ちなみに日本上映の映画題名は、「孫文の義士団」でした。

 昨日は、2011年10月11日、この「辛亥革命」が成功して「百年記念」に当たりました。胡錦濤主席は、辛亥革命を「君主専制制度を終わらせ、民主共和の理念を広めた」と評価しております。1911年10月11日は、武昌(武漢市)において、「中華民国」が誕生した、中国近代化にとっては記念すべき日であります。およそ、この時から50年以前に、日本では「明治維新」が起こり、長い封建制が崩壊し、新日本が誕生しています。この辛亥革命を指導した多くの方々が、青年期に海外に留学して、西欧や日本の近代化の刺激を受け、その結果、この革命が蜂起されたものだと歴史は伝えております。

 当時日本には、2万人もの中国人留学生がいたそうです。その中心人物の孫文は、亡命中に日本にも渡り、多くの日本人の支持者たちを得ています。その中に梅屋壮吉がおります。梅屋は長崎に生まれ、貿易商でしたが、写真を学んで写真館を経営したりしていましたが、後に、香港で貿易商として成功しています。その財力を用いて、革命を計画していた孫文に、多額の経済援助をし、「君は兵を挙げよ、私は財をもって支援す」と盟約を結び、革命に寄与した人物です。香港で、この二人の交流を記念した展覧会が、今月行われています。

 私の義母は、今年100歳になりまして、この「辛亥革命」に成功しした1911年の春に生まれています。このことを思いますと、中華民国の歴史の中を、隣国で誕生し生涯を送ったのですから、中国と日本、私と中国も、さらに近いものを感じてしまったのです。この孫文の記念館が、神戸にあります。孫文を顕彰する日本で唯一のもので、1984年11月に開設されています。この建物は、もともと神戸で活躍していた中国人実業家・呉錦堂の別荘(「松海別荘」)を前身としていて、地元では長らく「舞子の六角堂」として親しまれてきています。孫文が1913年3月14日に、神戸を訪れたときに、神戸の中国人や政・財界有志が開いた歓迎の昼食会の会場 になったときに始まるそうです。その後、神戸華僑総会から寄贈をうけ、改修を行って今日にいたっている、とのことです。


 孫文は、広東省の「客家(kejia)」の出身で、医者をしていた人です。ハワイで学び、アメリカ国籍を持っており、架橋の支持だけではなく、多くの外国人の支持者がいて、今日でも多くの人々から高い評価を受けております。偉大な中国の「国父」であるのですから、当然ではないでしょうか。そのような人物に、少なからず日本人が関与し、この働きに寄与したこともまた、今後の中日友好にとって、意味あることだと信じております。彼は、

 「余の力を中国革命に費やすこと40年余、その目的は大アジア主義に基づく中国の自由と平等と平和を求むるにあった。40年余の革命活動の経験から、余にわかったことは、この革命を成功させるには、何よりもまず民衆を喚起し、また、世界中でわが民族を平等に遇してくれる諸民族と協力し、力を合わせて奮闘せねばならないということである。 そこには単に支配者の交代や権益の確保といったかつてのような功利主義的国内革命ではなく、これまでの支那史観、西洋史観、東洋史観、文明比較論などをもう一度見つめ直し、民衆相互の信頼をもとに西洋の覇道に対するアジアの王道の優越性を強く唱え続けることが肝要である。 しかしながら、なお現在、革命は、未だ成功していない──。わが同志は、余の著した『建国方略』『建国大綱』『三民主義』および第一次全国代表大会宣言によって、引き続き努力し、その目的の貫徹に向け、誠心誠意努めていかねばならない。」

との遺言を残してております。100年、それほど昔のことではないのですね。

(写真は、臨時参議院成立時の集合写真影で孫文〈前列中央〉、下は、「十月囲城」のスチール写真です)

タイ


 7月の終わりに引越しして来まして、2ヶ月が経ちました。新開発地域ですので、将来性を見越してでしょうか、今は2つの大型スーパーマーケットが出店しています。1つは「乐购Legou(日本語ですと〈楽購〉、英語名はTesco)」。もう1つは、「大润发Darunfa〈日本語で大潤発〉)」で、ここは天津に住んでいた時、学校の帰りによく買い物をした店のチェーン店ですので、家内はとても懐かしく買い物ができるようです。 アパートの前のバス通りに、早くやってくるスーパーの送迎バスで、どちらかに買い物に行っております。さらに来年の春節の開業に間に合うように、「万达广场wandagunagchang(万達広場)」が建設中です。複合の大商業施設で、住んでいますアパート群の大通りを挟んだ向こう側に位置しているのです。もともと、中国のみなさんは、小型商店がうなぎの寝床のように出店している「菜市場」で買い物をしてきたようですが、昔の日本のように、小売りの商店や菜市場は斜陽傾向にあるようです。

 先日、「国慶節」の休みに、家内と一緒に「テスコ」に買い物に行って、会員カードを申し込みました。その時、家内は、「国慶節・大売出し」でくじ引きをしました。そうしましたら、何と「50元」の〈買い物カード〉を当ててしまったのです!係の方に大喜びされ、記念写真は撮られるやら、拍手されるやで、大騒ぎされていました。上機嫌になった家内は、足しげく、食料の買出し、テスコに出かけております。

 お陰さまで、こんばんは、タイ変に美味しい晩御飯を食べました。術後のしばらくの間、家内が日本に留まっておりましたので、男やもめの私は、自分で買い物をして、料理をするという生活を余儀なくされていましました。毎食、どうも作り過ぎの食べ過ぎで、少々太ってしまったようです。最後の方は、二食にしたのですが。でも家内が戻ってからは、食べる量をセーブするようになりましたので、もとに戻りつつあるようです。今宵は、おめでタイわけではなかったのですが、日本では高級魚である「鯛」が特売品だったとかで、一匹買ってきてくれました。生簀(いけす)の中に泳いでいる、タイそう生きのいいのを、自分で選んで、手つきの笊(ざる)で取り出したようです。大騒ぎでそうしていたら、買い物客や店員さんの注目を浴びてしまったようです。タイしたもんです。タイ変驚いたのは、一匹の値段が、9元7毛だったのです。日本円に換算すると、何と120円弱です。さんま一匹の値段(日本での)で、鯛を一匹食べられましたから、今宵の夕飯は、誰の誕生日でも記念日でもなかったのですが、めでタイ気持ちで頂くことができました。

 炭火や電気グリルがあればいいのですが、トースターの中で焼いて調理いたしました。このように、三度三度、確り食べておりますので、ご心配しないでください。食後に、バス通りの露天の果物屋さんに行って、柚子(日本では長崎のザボンのことです)と葡萄を買ってきました。果物も食べています。食べるもの、着るもの、住む家、そして仕事、使命、しっかりとこなしております。ご休心のほど。となりの公園広場では、大きな音量の音楽が流れ、ご婦人たちが踊っておいでです。平和な華南の夕べであります。

サラダ

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 陽台(テラス)のペットボトルの底を切った器の中で、ベビーリーフが芽を出して、今朝の食卓のサラダの中に加えられていました。花屋さんで買った鉢植えの残った土の中に、長女にもらった種を家内が植え、それが初秋の日を受けて成長したのです。数本ですから、おいしさを感じるほど歯ごたえのある量ではないのですが、自家栽培の青野菜を生で食することができるのは、何ともいえない感慨です。

 日本にいます時、空き地を借りて家庭菜園をしたことがありました。トマト、茄子、もろこし、キャベツ、落花生、西瓜、インゲンなどを育てて食べた、あの自家栽培の安心の味が忘れられません。私の師匠が、ジャガイモを50坪ほどの畑に植えたことがありました。収穫期に帰国できなかった彼らに代わって、私と子どもたちで、その収穫をしたことがありました。あんなに嬉々として土を掘り起こして、そのジャガイモを手にして、声を上げて喜んでいた息子や娘の姿が思い出されて仕方がありません。師匠家族がなかなか帰ってきませんでしたので、ほとんど食べてしまったのは本当に申し訳なかったと、今でも詫びたい気持ちがしています。もちろんその時はお詫びをしましたが。師匠は、もう亡くなってしまいましたから、改めてお詫びのしようがないのが、少々責められます。

 家内は、プランターを手に入れて、青紫蘇、パセリ、茗荷などを植える計画を、今立てているようです。秋から冬にかけて植えられるものがあったら、すぐにでも始めるのではないでしょうか。鉢植えなどの花卉市場が、この街の中にありますので、行きたがっております。日本ですと、スーパーや農協には、季節季節の種や苗が置かれてありますが、こちらではどうなのでしょうか。田舎に行けば違うのですが、畑の一郭に「家庭菜園」と看板の出ている、2-3坪の区画地域を見かけたことがないのですが、探せば有るのでしょうか。まあ、それができなくても、我が家には、北と南の2箇所、陽台がありますので、場所の確保は問題がありません。土と種さえあれば、日当たりがいいですから、十分に生育するのではないでしょうか。

 子育てが終わって、仕事も退職して、新生活をこちら始めて、この夏から日当たりの良い家に住ませていただいていますので、恵まれた環境を十二分に活用すべきなのでしょう。遠くにいて、孫の世話ができませんので、家内は、そんな計画を想い巡らせているところです。近々、日本語を教え始めるかも知れません。その準備もしているようです。若い知人が、私たちのアパートの近くに、貸し店舗を借りて、「語学教室」を、この秋口から初めて準備中です。その教室の前の看板に、〈日語班〉と書き込まれています。また、幼児英語を長くし開講した経験が家内にはありますので、その担当も頼まれているようです。少し、これから忙しくなるでしょうか。生徒募集中です。その教室を多目的な区間として活用したいと、老板(laobanボス)が願っています。覚えてくださいますように!

(写真は、我が家のではありませんが、プランターの中で育つ「ベビーリーフ)です)

活路

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 私の義兄は、十八の春に、人生の活路をブラジルに求めて、横浜から船で発ったと家内から聞いています。昭和30年代初めの日本は、まだまだ経済的に貧しかった時代でした。誰もが大学に進学できるような80年代とは違っていたわけですから、涙を飲んで諦めて、その踵を返して南米の大地に活路を求めて出かけて行ったことになります。戦争前の多くの青年たちも、狭い日本に住み飽きたと言って、大陸の広大な沃野に、生き場所でしょうか、死に場所を求めて出て行ったと言われます。私の父もまた、多感な青年期の日々を、満州の奉天で過ごしております。満州鉄道に勤務する伯父や、関東軍の将校の親族を頼って、大陸を旅したようです。詳細は定かではありません。父は、その頃のことを何も語らなかったからです。

 当時の青年たちは、窮屈さを覚えたのでしょうか、狭い国土を見限ったのでしょうか、大陸の別天地に「王道楽土」を求めて勇躍出ていったのです。実際には、当時の日本の農村は不況下にありましたから、貧窮し疲弊している小作農民や零細農民は食うや食わずでした。また、農家の次男や三男の土地相続のできない青年たちも多くいて、大陸に雄飛し、一旗あげようとしていたのです。時恰も、日本の国は、「五族協和」が叫ばれていました。それは、漢族、満族、朝鮮族、蒙古族、大和民族が一致協力して、平和かつ強大な国を建国しようとしたのです。とくに、満州には内戦の続く疲弊した中華民国からの漢族や、新しい生活環境を求める朝鮮族が移住してきていました。その動きの中で、日本も、〈満蒙開拓移民〉を計画し、凶作の農村からの移住・入植が相次いだのです。そのような満州に憧れた青年たちが、好んで歌った歌がありました。それが、「蒙古放浪の歌(作詩 仲田三孝 /作曲 川上義彦 /時代不詳 )」です。

       1 心猛くも鬼神ならず  人と生まれて情はあれど
         母を見捨てて波越えて行く  友よ兄等よ何日あわん
       2 波の彼方の蒙古の砂漠  男多恨の身の捨て処
         胸に秘めたる大願あれど  生きて帰らん望みはもたじ
       3 砂丘に出でて砂丘に沈む  月の幾夜が我等が旅路
         明日も変われど見ゆるは何処  小を求めん蒙古の砂漠
       4 朝日夕日を馬上に受けて  続く砂漠の一筋道を
         大和男児の血潮を秘めて  行くや若人血潮の旅路
       5 負はすらくだの糧うすけれど  星の示せる向だに行けば
         砂の逆巻く嵐も何ぞ  やがては越えなん蒙古の砂漠

 鉄道や橋を敷設したり、港湾を整備したり、工場を建設したことはよいことでしたが、軍事力を用いて「満州国」を建国し、その実権を日本が握ったことは、過ちだったのです。なぜなら、宗教や教育をも強いたことは、中国のみなさんには赦しがたいことだったのではないでしょうか。ご自分の土地が奪還されたときの喜びの大きさを知るとき、やはり、それは侵犯であったことになるのではないでしょうか。もし、ブラジル移民のような、合法的なかたちでの入植がなされていたのであれば、許されたのですが、そうではなかったことに、国策の過誤を認めるべきだったと思うのです。しかし、今日の東北部(かつて満州と呼ばれていたのです)が、勤勉な土地改良によって、生産力の強い土地作りをし、驚くほどの農業生産を上げておられます。また重化学工業の進展も驚くほどであり、あの時代には信じられないほどの大変化を見せています。一国の活路は、自らの領土内で遂げるべきに違いありません。

 私は、中国の北に行きたいと思って、天津で一年を過ごしましたが、何故か南に導かれております。そして多くの友人が、こちらで与えられているのです。しかし、もし許されるなら、父が青年期を送った遼寧省の瀋陽(旧奉天)に行って住みたいと思っていますし、吉林省や黒龍江省にも行ってみたい願いは捨て切れないのです。対日感情は、どうしても良くないのですが、それを覚悟で住んだら、多くの友人たちを得ることができるでしょうか。この私の体の中には、漢族や満族や朝鮮族の血が、脈々と流れているのだと思うのです。なぜなら母国にいると同じような思いで、何一つ抵抗なしで、こちらで生活することができているからであります。これからの中国の変化を、つぶさに見続けたいと願う、日曜日の朝であります。

(地図は、17世紀初頭の中国大陸の様子です)

教育

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 今は自家用車を持ちませんので、移動するときには、公共バス、タクシー、友人の好意で彼女の車に乗せて頂く、そういった交通手段を使い分けています。もちろん徒歩が多いのですが。それから、もう一つは、マウンテン・バイクがあります。日本に留学している若い友人が置いていってくれたもので、大変便利に使っています。それでも雨や風の強い日には、『車があったらなあ!』と思ってもみますが、『健康第一、安全第一!』でふん切りをつけております。

 さて、こちらの公共バスですが、男性に混じって女性が大きなハンドルを回して運転をしているのです。男勝りだと思いますが、男性の職域だと思っている私たち日本人の考えとは違って、こちらではごく普通なことです。ところで男性のバスの運転手ですが、多くの方の運転が荒いのです。軽自動車に乗っているようなハンドルさばきをしたり、急ハンドル、急停車、割り込みなどは朝飯前なのです。家内などは急発進で、何度も座ってる乗客の膝の上にのってしまうほどです。それに、よく怒鳴っているのです。『運転席の近くにいないで、奥の方へ行け!』と、お客様であることを忘れて乗客の私たちに荒らげた言葉をかけて平然としています。走行のじゃまになる自転車やバッテリー付自転車、歩行者に、車の中でぶつぶつと文句を言っています。天津にいたとき、昼時だったので、その運転手は、彼好みのランチを売っている食堂の前で停車して、飛んでいって買うのです。待っている乗客も、文句ひとつ口に出さないで、黙って待っていました。『これって普通のこと!』と、割りきっているのでしょう。でも一番怖いのは、携帯電話をしながら、乗客を運んでいることです。それで事故を起こさないのですから、運転技術と注意力は抜群です。彼らの待遇が良くないのが、もろもろの根なのかも知れません。そんな状況ですから、〈都バス〉の運転手のような優しい運転をするバスに乗ると、ほっと一息ついてしまうのです。

 さて、私たちには二人の娘がいます。彼女たちを訪ねたときは、彼女たちの運転する車に乗せてもらうのです。その運転ですが、親の自慢のように聞こえますが、運転が、とても上手なのです。もう私を超えているかも知れません(そう自慢してます!)。ところが玉に瑕、運転しながら、二人ともうるさいのです。対向車や前を走っている車や歩行者や自転車に対して、『ああでもない、こうでもない!』と〈いちゃもん(不平や文句のことです)〉をつけています。聞いていて笑ってしまいます。この様子を見聞きしている家内は、『そっくり!』と私の顔を見て笑うのです。二十年も私の運転する車に乗り続けて、その一挙手一投足を見続けててきた彼女たちは、どうも親爺そっくりの運転をし、同じようにブツブツと言うのだということが分かりました。教育とは空恐ろしいことですね。このように、コピーが出来上がっているのですから。

 しかし、私の車の助手席に乗っていた家内は、性格は温順(実は、彼女のお父さんに似て結構激しくて短気を継承しているのです。これも教育・・・)に見えるので、その感化も受けているに違いないのですが。〈三つ子の魂百までも〉、恥じ入るばかりです。

 この春、日本に帰っていましたときに、高知に旅行をしました。飛行場でレンタカーを借りて、目的地まで高知のバイパスを走ったのです。これまで、2006年に国を出てから、車の運転時間を総計しても1時間に満たないほど、運転から遠ざかっておりました。家内に言いますと、きっと反対すると思いましたので、レンタカー予約は内緒にしておいたのです。勇躍、公道に乗り出して、ハンドルさばきの勘を戻しつつあったのですが、進路変更のタイミングがまずかったのでしょうか、大きなクラクションを鳴らされ、怒鳴られてしまいました。すんでのところで事故になったかも知れませんが、この方の運転が上手で難を逃れることができたに違いありません。土佐弁で怒鳴られるとは予想もしていませんでしたので、坂本龍馬や武市半平太を思い出してしまいました。何十年も運転して、文句を言ってきた私への返礼を、土佐の高知で見舞われたことになります。

 わが家庭教育ですが、好い感化もあったのだと思うのですが、どうでしょうか。これって〈遺伝〉ではなく、やはり〈教育〉なのです。私の親の世代は運転することがありませんでしたから、誰に自分が教育を受けたのか皆目見当がつきません。もしかしたら、性格の悪さなのでしょうか。そうだとしたら、反省して直していかなければなりません。そんなことを考えていますと、孫たちのことが心配になってきました。この悪習慣を受け継ぐのかと・・・。しかい嫁や婿の善い影響をうけるかも知れませんし、再教育という手もありますし。自分を責めないことにして、大陸の秋の宵を楽しみにしましょう。今宵は、教え子と彼女の男友達が、故郷から美味しいものをもってやってきて、夕食を作ってくれるそうです。楽しいこともあるので、がっかりしないことにしました。

(写真は、高知市内から室戸岬に行く途中の「大山岬」です)


 『黒船襲来!』のニュースは、徳川250年の統治を揺るがした大事件でした。あの「元寇(げんこう、1274年と1281年の二度)」以来の外国勢力の来襲だったからです。もちろん幕藩体制の中にも、様々な問題や矛盾があったことは事実ですが、その崩壊の引き金になったのが、この一件だったことになります。浦賀には、煙を吐く真っ黒な鋼鉄製のアメリカの軍艦が、大砲を搭載して開国を迫ったのです。時、明治維新の15年前の1853年のことでした。江戸下屋敷に勤務していた土佐藩士・坂本龍馬は、品川沖の警護の任に当たっていたとのことですから、この黒船を目撃していたものと思われます。

 この4隻の軍艦を率い、アメリカ大統領の親書を手にしてやってきたのが、ペリーでした。強硬な態度で要求を突きつけたのです。捕鯨船の寄港の要求は表向きで、東南アジアの植民地化へのの武力による威嚇だったのです。その迫りによって、幕府は、1954年に、約束したとおり再びやって来たペリーとの間で、条約を締結し、国交を開始することになります。すでにイギリスは、清国(現中国)にアヘンの販売をして、莫大な収益を不平等な貿易で得ていましたし、アフリカ大陸の南端ケープタウン、インド洋のセイロン、そして太平洋に出るマラッカ海峡とシンガポールを押さえて、中国への植民地政策のルートを確保していました。このイギリスの次なる標的は、日本だったことになります。それに負けじと、太平洋を横切った別のルートを経て中国に進出していこうとするアメリカは、まず日本をも植民地にしようとしていたことは明白でした。

 海軍の4分の1を投入しての来襲だったのですから、アメリカが、どれだけ力を入れていたかが分かります。武力を持って条約締結を迫ったのには、理由があったのです。本来なら、平和的な手段で、捕鯨のための基地の建設や寄港の許可を求めるべきでしたが、アメリカの捕鯨船が難船して、遭難した船員が日本に救助を求めた際に、日本側に虐待されたのだそうです。『土着民に所持品は没収され、動物を入れる見世物にするような籠(かご)に押し込まれ・・・踏み絵を強制され、従わなければ皆殺しにすると脅された』との話が、アメリカの新聞に掲載されます。このような紳士的でない国との交渉は、武力以外にないとして、ペリーが来襲したわけです。つまり日本は野蛮国だと判断されたわけです。

 ところが、ペリーによる交渉が成立するやいなや、今度は、『実は日本は文明的な国だ!』と言い直したのです。ペリーは軍人でしたが、事前に、日本について相当研究をしていました。その彼に情報を提供していた、アーロン・パーマーは次のような言葉を残しています。『エネルギッシュな民族で、新しいものを同化する能力はアジア的というよりも、むしろヨーロッパ的とも言える。名誉を重んじる騎士道のセンスをもっており、これは他のアジア諸国と全く異なる。アジア諸国に見られる意地汚いへつらいの傾向とは一線を画し、彼らの行動規範は男らしい名誉と信義を基本としている。支那に隷属することもなく、外国に侵略されたり植民地化されたことがない。そして日本は東洋におけるイギリスとなるであろう(「国際派日本人養成講座」の記事から引用) 』といった、高評価を下しているのです。これは、幕末や明治初年に日本を訪れた多くの外人が共通に持っていた理解であります。

 幕末の若い武士層、とくに薩摩・長州・土佐の下級藩士の間に、〈尊皇攘夷〉の思想が芽生え、それが大きなうねりとなっていくのには、ペリーの来航は大きな意味がありました。しかし、徳川十五代の統治そのものが限界点に達しており、来たるべくして来、起こるべくして起きた本来的な原因だといえます。封建制を打ち破って、近代化していく時期が、歴史的に到来していたからであります。〈大政奉還〉がなされ、明治維新政府が誕生するや、諸外国の勢力に伍していくために、日本は、〈富国強兵〉の政策をとっていき、日清戦争、日露戦争に勝利します。さらに、ヨーロッパに起こった第一次世界大戦を契機として、大陸での権益を手中に収め、軍事的に進出をしていき、世界の列強の動きに同調していきました。そして世界有数の軍事大国となった私たちの国は、市場と資源を求めて、アジア全域に軍事的に進出していくことになります。その一つが、禍根を残す〈日中戦争〉の勃発と手痛い敗戦であります。

 『剣を取る者はみな剣で滅びます 』と言われています。これは〈丸腰〉になることの勧めではないと思いますが、自分や自分の家族や友人を守るための剣は許されるに違いありません。ただ人の平安な生活を脅かす剣は、二度と再び、子や孫たちに持たせたくないと思う、平和な時代の只中の平和な家庭で迎えている今宵であります。

(写真は、黒船来航の絵です)

遊び

 

 オランダの哲学者で歴史家のヨハン・ホイジンガ(1872年12月7日 ~1945年2月1日)は、1936年に「ホモ・ルーデンス」を著しました。1963年には邦訳も刊行されています。「ホモ・ルーデンス」とは、「遊ぶ人」と訳されるでしょうか。そもそも人間が人間である一つの証詞は、「遊び」にあるというのが、ホイジンガが言おうとしていることなのです。もう少し説明を加えますと、文化的であることと、遊びの要素を持つこととは、とても近い関係があるというのが、彼の主張であります。このホイジンガが哲学者なので、「遊ぶ存在としての人間」と、少々ややっこしい表現をしていますが、それは「労働する存在としての人間」の真反対に人がいることを言いたかったからなのです。簡単に言いますと、きっと『働くだけではなく遊び心を持って生きよ!』といった人生哲学を標榜(ひょうぼう)したのではないでしょうか。

 様々なアルバイトを学生の頃にしました。そのほとんどは肉体労働だったのです。その労働は、結構きつかったのですが、『働くことが苦痛だ!』と思ったことが一度もありませんでした。例えば、芝浦や横浜の埠頭で、『お前、そっちのお前・・・』と、手配師に拾われ雇われて働く〈沖仲仕〉もやりました。体が頑強であるか、よほど食い詰めたかでなければ、耐えられなかったと思います。大変に過酷だったのです。それでも、『嫌だ!』と思ったことはありませんでした。もちろん、当時としては結構日当が高かったのは事実です。そういった人のあまり好まない、3K級の仕事をしたという経験の面白さのほうが大きかったようです。アルバイトは、学費や本代や遊興費のためで、親の負担の軽減のためにも頑張りました。一番の収穫は、お金よりも、〈働く喜び〉だったことを思い出すのです。この経験は、その後、学校を卒業して勤務した職場でも、決して失うことのないものでした。仕事を億劫に感じないですんだのは、良かったと思っています。

 現代の多くの子どもたちは、『遊んでないで勉強しなさい!』、『宿題はすんだの?』、『塾はどうしたの?』と、尻を叩かれて面白くない勉強に駆り立てられています。点数だけが、その子の能力の算定基準になっているからです。先日、3人の小学生が、自殺未遂を起こしてニュースになっておりましたが、ほんとうに嫌な時代ですね。幸い、私の親は、バットやグローブやボールは買ってくれますが、一度も、『勉強しろ!』とは言いませんでした。諦めていたのでしょうか,それとももっと大切な自主性を養おうとしたのかも知れません。しかし、放任ではありませんでしたが。本来、人間が人間らしい所以は、「遊び」にあるのではないでしょうか。どうも人は、大人になると、嬉々として生きていた子ども時代を忘れてしまうのか、あえて忘れようとするのか、子どもらしさをきっぱりと捨てて、〈遊び〉を罪悪視さえしてしまうのではないでしょうか。私は、人の目を気にしない生き方をし、〈遊び〉をしっかりさせていただいたことは感謝なことであります。その〈遊び〉が、次のものを願い求めていく推進力となったのではないかと思うのです。

 最近、プロスポーツが面白くありませんね。観衆を喜ばすプレーが少なくなってきているのと、お金が第一、人気が第二になってしまっているからです。また薬物の力を借りて、腕力や筋力を増強したり、やる気を喚起刺激したりして、記録を伸ばそうとする、競争馬なみの選手が少なくありません。地道に血と汗の結晶のようなプレーを見る機会が少ないのです。そういった面白くないプロの世界を目指すアマチュアの選手たちも、野球を楽しむ、サッカーを喜ぶといった代わりに、契約金や報酬が大きな競技の動機付けになり下がっているのではないでしょうか。プレイを楽しむのではなく、勝つことだけを求めるフアンにも問題がありそうですね。フアンに見せて、大向こうを唸らせる様なプレイがあったら、大相撲のような凋落(ちょうらく)は決してないのではないかと思うのですが。感動したり、奮起させられるスポーツであって欲しいものです。

 ホイジンガは、『立ち返って子共のようになること!』を勧めています。享楽主義は好みませんが、人は、いつも喜び、明朗で、心が解放され、自由を楽しむべきです。人を硬直させ、緊張させ、過度に熱狂させ、疲労困憊(こんぱい)させるようなものは排除されるべきでしょう。心が健康でなければ、人生を健全に過ごすことができませんから、一見して、無駄の様に見える〈遊び〉をもう一度再評価し、正しく位置づけたいものです。父とキャッチボールをしたときの懐かしい思い出は、今もなお私の記憶に鮮明です。

(写真は、子どもの頃に楽しんで乗った「竹馬」です)

家族


 『正し人間関係は、あなたの父親へのイメージの健全さからのみ来ます!』と、私に教えてくださった方がいました。それは次のように言い換えることが出来ます。『自分を生んだ父親との関係の有無や良否によって、私たちの人間関係の健全性が左右され、人間への信頼を決定する!』ということでしょうか。[社会学」という学問の分野がありますが、簡単に言いますと、「人間関係学」と言うのだそうです。これまで沢山の方と出会ってきましたが、それらの方々を二分することができるのではないかと思うのです。もちろんに、人間は様々に個性を持っていますから、どだい二分するなどということは、出来かねることかも知れませんが、あえて二分してみたいのです。1つは、一緒にいて居心地がいい人です。この方がお金を持っているからとか、社会で有名だからというのではありません。肩が凝らないで、忌憚なく何でも話ができ、別かれて後も、清々しさが残る人のことで、『ぜひとも、またお交わりをしたい!』と願ってやまない人であります。

 そういう方が静岡にいて、よく車を飛ばして出かけて行きました。アメリカ人でしたから、腹の底から言葉で話し合うといったことはできませんでしたが、片言で交わりをして、どんなに励まされて家に帰っていったことでしょうか。私より20歳位年上で、同じ月の同じ日の誕生日でした。太平洋戦争の折には、日本軍と戦ったことのある兵士でしたが、『こんなに柔和で謙遜な方に会ったことがない!』と思わせてやまない方でした。今の私の年齢には召されてしまいましたが、今でもときどき、この方を思い出します。

 もう一種類の人は、別れて、また会いたいとは決して思わない人です。毛嫌いしているわけではありませんが、お交わりをしても楽しくないし、何かこの方といるのが無駄なように感じてしまうのです。私は、そんなにはっきり人を分別しているわけではありませんが、二分せざるを得ないとするなら、どうしてもこう言った人を思い出してしますのです。こう言う方は、きっと彼のお父さんと何か問題やしこりを残しながら育ったのではないかと、思ってしまうのですが。これが、意外と当たっているのです。

 現代の家庭は子どもたちが健全に成長して行くには、考えられないほどの問題を抱え込んでいるのではないでしょうか。大人になりきっていないだ男女が恋におちて、家庭を持ちます。生まれてきた子たちを育てきれないのです。そういった方々が、やがて離婚し、家庭が崩壊してしまいます。最近、よくニュースで報じられる肉親や母親の恋人による虐待等が頻発しています。こういった社会現象は、世界中でみられています。多くの家庭が、家庭としての機能を果たしていないのです。父親のいない家庭、父親が父親としての務めを果たしていない家庭が多くあります。父親像のモデルの欠落、父親がいてもモデルにならない父親がおいでです。以前、家庭裁判所に行きましたとき、一人の相談員とお話をする機会がありました。彼は母子家庭に育ったのですが、お母さんがしっかりと自分を育ててくれたのだそうです。『母子家庭で育った子どもたちが、みなだめになってしまうのではないのです。お母さんが、その子どもの親であり続けるなら、子どもは健全に成長できます!』と自分の経験を、そう話してくれました。実に謙遜な方で、人を大事にする方でした。

 ある夏休み、海水浴のために国道を南下して静岡県下に入りました。下り坂でしたので、車はスイスイと走って制限速度をゆうに超えていました。突然、人が旗を振って道路に飛び出して来たのです。初め、『だれだろう?』と思いましたが、真昼間に、大胆に旗を振って国道に出てこれるのは、警察官以外には考えられませんから、もちろん警官でした。4人の子どもたちを乗せた車で、私は速度違反で切符を切られたのです。交通違反をしたお父さんは、もう彼らの理想のモデルのお父さんでは無くなっていました。父親失格でした。ところが、『お父さんは悪くないよね!』と、子どもたちが同情してくれました。警察官の権威でさえ怖がらずに、父親の弁護に回ってくれたのです。あれから25年ほどが経ちますが、今でも、彼らは、『お父さん!』と呼んで尊敬を示していてくれるのです。子どもたちが独立してしまって後、家内と二人で、あの地点を走っていました。その時、あの恥体験を思い出したのです。それを、悟ったのか、家内はニコニコした顔を、私に向けていたのです。

 『本当に良い父親だったのだろうか?』、今でもそんなことを考えています。初めての父親をさせていただいて、失敗は多かったのですが、人を大切にしてきたことだけは、彼らに分かっているのではないかと自負しています。《良い態度で人に接せられる人になること》、これは私が彼らに願ってきたことであります。そんなことを考えていましたら、親爺の顔やそぶりが思い出されてきてしまいました。人として生きることも、「社会学」の基礎も、どうも家族関係にあるに違いありません。それほど、家族は重要な社会関係であります。

(写真は、家族のイラストです)

玉葱とジャガイモ

 

 引越ししたのが、7月の30日ですから、もうほぼ2ヶ月が経過します。大家さんの好意で住み心地が素晴らしい家(前よりちょっと騒々しいのが玉に瑕ですが)で生活することができて、大変感謝しています。つい先日までは、ちょっと動くだけで、玉のような汗がひたたり落ちていたのに、この数日、めっきり涼しくなり、いえちょっと寒い感じもしますが、どうも短い秋の到来のようです。

 ところが、「秋が来た!」に、いつも騙されるのです。日本では、9月の声を聞きますと、秋のニオイも音も味もしてきて、すっかり秋そのものになるのですが、ここ中国の華南地方では違うのです。短い秋は、実際は、11月にならないとやってこないのです。秋になったと思うと、もう冬支度になっています。これからの時期は、日中は夏、陽が落ちると長袖を着なければならないような秋、気温の日較差の大きい日が続くのです。この変化にやっと慣れてきたところです。油断して薄着で出かけて、帰りに震えるようにしていたことがこれまでありましたから。

 引越しをする数日前に、買はなればよかったのですが、必要以上の量の玉葱とジャガイモを買い込んでしまいました。その日まで、台所に転がっていたので、急いで袋に入れてダンボールの中に放り込んだのです。ところが、越してきて、荷解きをしている時、真っ先に出さなければいけなかったのが、この玉葱とジャガイモでした。急いで、箱の中に突っ込んでしまったので、探せど出てこなかったのです。この数日の寒さで、昨晩は窓を閉めたのです。今朝、隣室に行ってみると、玉葱の悪くなりかけの臭がしてくるではありませんか。収納の中を探して探しました。なんと「孫へのプレゼント」と書かれた箱の中に、「スペイン産コーヒー豆」と印字された袋に混入しているではありませんか。コーヒーとばかり思っていて、そのままにしていたのですが、さしもの玉葱とジャガイモも2ヶ月もじっとしていられなかったのでしょう、臭って「出して!」と叫んだのです。ちなみに、こちらの玉葱は、「レッドオニオン」なのです。日本では普通の玉ねぎの倍も値がしますが、こちらでは、全く逆で、日本の普通の玉ねぎを見つけるのは大変難しいのです。面白いですね。

 このようにして、無くなっていたのが見つかった記念に、玉葱とじゃがいもで、今晩、男の定番、カレーをこしらえました。結構美味しく食べられそうです。どうも秋の気配がしてきたおかげですね。きっと芽を伸ばして、収納の隙間から出てくるだろうと思って待っていましたが、意外な結末でした。そう云えば、玉葱とかじゃがいもというのは、保存が長く出来る食材なのですね。この間は、頂いた薩摩芋が芽を出して、きれいな緑の葉を付けていたりもしました。自然界の命は、ものすごい生命力ですね。この同じ生命力を、いえその数十倍もの力を私たちはいただいているのですから、生きられる限り、決して諦めてしまわないで、一生懸命に生きていきたいものです。よかった!

泣く父

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 以前、「ビジョンの肖像」という本を読んだことがあります。トミー・バーネットという方が書かれたもので、ロスアンゼルスの下町で、慈善活動をされておいでになり、その奮闘の記録なのです。繁栄の国、アメリカにも、その繁栄から取り残された人々が沢山おられるのです。失業、貧困、心身の損傷などで、社会から取り残された、あらゆるものに恵まれない人々のことです。このような方々のために、ご子息のマシューを支えながら共に働いておられるのです。「人に夢を与えたい!」という意味からでしょうか、その施設を「ドリーム・センター」と呼んでおられます。大きな病院施設を買い取られて、再利用されておられます。彼自身は、アリゾナ州のフェニックスで、主な事業を展開されておられ、親子四代の実業家の家庭の人であります。最近ご子息が、お仕事の責任を受け継がれたようですが。

 アイオワの片田舎で働いていたとき、彼は、父君がお元気の間、毎日曜日の夜になると、必ず電話をかけたのだそうです。その時、彼のお父さんは、悲しい出来事があったときは、一緒に泣いてくれ、嬉しくて仕方はない話をすると、共に喜んでくれたのだそうです。これを読んで、自分が、父親にそれだけの敬意や委ねや感謝をしていなかったことを思い知らされたのです。もちろん父の存命中は、父に相談をしたりしたことは、あまりなかったのを悔やみますが。私が結婚を決意したときに、父は、竹山道雄の書物を買って来て、『雅、これを読め!』と渡してくれました。「ビルマの竪琴」の著作で知られた作者の作品でした。自分から離れていってしまうような恐れを感じたのでしょうか、父は自分のそばに私を引き戻そうとして一計を案じたのだと思います。父の思い通りになりませんでしたが、父のほうが、私に歩み寄ってくれて、同じ人生観、世界観、価値観に立つことが叶えられたのです。

 このトミー・バーネットが5才の時のことです。彼の誇りのお父さんがオフイスから泣きながら帰って来たのだそうです。その父をお母さんが慰めていました。それを見ていた彼は、父を泣かせるようなことをした大人たちを懲らしめようとして、お父さんのオフイスに飛んで行こうとしたのです。ずいぶんと激しい気性を持った5才の坊やではないでしょうか。ところが、お父さんは、彼の手を、しっかりとつかんで引き止めて、オフイスに行かせなかったのです。そんな子供時代の出来事が記してありました。そのような豊かで優しい感情の持ち主だったからでしょうか、大人になっても、その心を忘れなかったのです。『だれも届こうとしない人たち、ギャングや売春婦や体や心の不自由な人に、愛や親切を伝え、希望に溢れ、夢を見て生きていただきたい!』と言うのが、彼の人生哲学なのであります。

 どんなに強く見える父親にも、弱さがあるのを、子は、やがて知るのです。『世界で一番強くて、賢くて立派なんだ!』と、幼子は父親像をふくらませるのですが、やがて〈普通の父親〉に直面してしまうのです。そう、父子関係が別のステージに移っていくわけです。私は、父の涙を目撃したことがあります。『父は父なるがゆえに父として遇する』という言葉を学んでから、もう一度、やり直せたら、父に何でも話そうと思いました。そうしたら、親爺は一緒に泣きも喜びもしてくれるのだろうと思ったのです。そして親不孝の私を、きっと赦してくれるのだろうと思ったのです。でも、やり直しがきかないまま、結婚式を上げた翌月に、父は不帰の人となってしまったのです。

 でも、不思議に、「父には再会できるのだ!」という思いがあるのです。不思議な感覚です。父の腰から出て、父の年齢をはるかに超えて生きている私ですが、私よりも若い父に会えるという期待感が、心のなかに広がっているのです。一緒に泣き、共に喜んでくれる父に、孝行息子でいたかったのです。温泉にも、柳川を食べにも、万里の長城にも一緒に行ってみたかったのです。でも、更に素晴らしいい都で、きっと再会できると思うのです。これって妄想でしょうか。
 
 こんなことを書いていたら、お父さんとの確執で苦しんだ友のことを思い出してしまいました。憎んでいながらも、お父さんに会うと、お小遣いを渡していた彼も、心の中では、切々と父を追慕し求めていたのでしょうか。「エデンの東」のギャルのようです。友のお父さんも、すでに召されていますが。うーん、人生は短いですし、思ったようには展開しませんね。やり直しが効かないことが、人生の凄さ、現実なのでしょうか。また、「エデンの東」を観てみたいものです。

(写真は、アリゾナの州都「フェニックス」です)