抗議&公義

 

 帰国中、好いニュースが少なかったのです。日本中が、豪雨とか、領土問題とか、熱中症とかの話題で満ち溢れていました。そんなニュースの中で、福島原発事故の放射線漏れは、収束するのでしょうか。それとも、この問題を、ずっと引きずり続けていくのでしょうか。そんな思いにさせられているのに、大飯原発が再稼働しました。それで、週末の金曜日には、首相官邸にデモ隊が繰り出し、『再稼働反対!』と叫んでおり、その中に、私の下の息子がいるのだそうです。「義侠心」というのでしょうか、「正義感」の強い彼が、自分の甥や姪の将来のことを思いながら、次の時代を担う子供たちが、放射線被害を被ることのないようにと、寸暇を惜しみながら反対を叫んでいるのです。

 昔、「タコ部屋」というのがありました。有名なのが、北海道の開拓のために、道路整備が急務でした。「屯田兵」と言われた人たちが、その仕事にあたったのですが、その他に、監獄に収監されていた囚人たちを、その労働に使ったのです。彼らの血と汗とによって、北海道開拓が進み、道路網が広がったことになります。粗衣粗食の彼らの生活環境が、「タコ部屋」でした。甘いことを言って募集した人夫たちを、低賃金と劣悪な労働条件で働かせ、監視つきの宿舎に閉じ込めたのですが、そこも「タコ部屋」と呼んでいました。

 息子の話によりますと、事故現場の労働者たちは、山谷や釜ヶ崎の「ドヤ街」から、募集して、身入りのいい仕事につきたい人たちが送り込まれて仕事をしているのだそうです。十分な安全服を着用したりしていないのでしょうか、まさに放射線の中での労働は、危険極まりないのですし、多くの人たちが、放射線を浴びて死んでいるとのことでした。そういったニュースにならないことこそが、わたしたちの知らなければならない真実なのだと思います。

 産業界が活性化することは必要ですし、国力を元のように強力にすることも必要かも知れません。そうしたら子どもたちや若者に、日本の将来への期待がおおきくなることでしょう。。しかし、真実が伝えられていないことと、そして安全対策の盲点をくぐって、そういった労働が公然と行われていることに、私の息子は憤っているのです。反対運動をする人にも、様々な動機があるのですが、私は息子に、『「義」、とくに「公義」に立ってされない行動は、偽善や、不純な結果に人をつれていくので、同じ憤りを感じて反対するにしても、この立場を守って行動して欲しい!』と伝えたのです。

 『いつか、重大な事故が起こって、日本が壊滅するのではないか!』と思わせたのが、「日本沈没」という映画を見てからでした。近畿圏で、同じような事故が起きて、放射線が漏れるようなことが再び起こるなら、建国以来の一大危機に、日本は落ち込みます。それでなくても、地震と地震の噂を聞いているのですから。日本では、今日9月1日、関東大震災を記念した「防災の日」です。心して、惜しむことなく原発の危険帯の安全対策を怠ってはいけないと思うのです。

 もしかしたら、超ノーベル賞獲得確実な、「放射線の中和剤の発明」があるのでしょうか。そんな研究がなされているといいのですが。人類は、様々な危機を乗り越えてきたのですから、叡智を結集し、大能者にあわれみを求めるなら可能かも知れません。そんなことを願う「防災の日」であります。

(写真は、地震と津波のあと、爆発した福島原発事故の現場です)

上海

 昭和26年(1951年)に、作詞・東條寿三郎、作曲・渡久地政の「上海帰りのリル」という歌が流行りました。ビロードの声と言われた津村権が歌って、一世を風靡(ふうび)したのです。

船を見つめていた
ハマのキャバレーにいた
風の噂はリル
上海(シャンハイ)帰りのリル リル
あまい切ない 思い出だけを
胸にたぐって 探して歩く
リル リル 何処(どこ)にいるのかリル
誰かリルを 知らないか

黒いドレスを見た
泣いていたのを見た
戻れこの手にリル
上海帰りのリル リル
夢の四馬路(スマロ)の 霧降る中で
何も言わずに 別れた瞳
リル リル 一人さまようリル
誰かリルを 知らないか

海を渡ってきた
ひとりぼっちできた
のぞみ捨てるなリル
上海帰りのリル リル
暗い運命(さだめ)は 二人で分けて
共に暮そう 昔のままで
リル リル 今日も逢えないリル
誰かリルを 知らないか

 小学生の私が覚えて、こんな酒場や恋や運命などの歌詞の入った歌を口ずさんでいたのです。東洋最大の国際都市・上海は、なんとなくエキゾチックな香りがして、この歌をうたうたびに、子ども心にも、何時か行ってみたいと思っていました。しかし戦前は、列強諸国の「租界」があって、中国の治外法権の地域が、この上海にもありました。私が以前1年間住んだ天津の街にも「租界」があって、語学学校の先生が案内してくれて、見学して歩きました。中国人が入ることのできない「外国」が、自分の国にあったということは、中国のみなさんにとっては屈辱的なことだったのではないでしょうか。残念ながら、日本の租界もありましたし、日本人街もあったのです。その上、日本は軍隊を投入し「上海事変」を犯した経緯があるのです。

 以前、上海に行きましたときに、「東方明殊広播電視塔」の展望台から、『あのへんに日本人街があったのです!』と、案内してくださった朝鮮系中国人の方が教えてくれました。今回、通過した上海の街は、常住人口2000万人、アジア一の国際商業都市で、13万人もの日本人が住んで活動をしているのです。外国人としてはもっとも多いのが邦人だそうです。旅行者、私のような通過者を入れると、どれほどの日本人がいるのか見当がつきません。それほど日本と中国は緊密な関係にあるのですね。

 船の中で、上海で事業をしている数人の日本人、日本と中国を行き来している中国人ビジネスマンと話をしました。商売をしたことのない私にとって、興味をそそるような話や、大変な話をお聞きしました。そんな中で学生たちも大分いて、青山学院大学の3回生が、アジアの国々の子どもたちの実情を見聞しようと、中国を皮切りに旅行をすると言っていました。目の澄んだ好青年でした。名刺を交換して、『リポートをしてください!』とお願いし、旅の祝福を願って、港で別れました。もう一人は、アルバイトをして得た70万円を持って、『これから1年間、S大学で日本語を学ぼうと思っています!』言っていました。地理学を専攻し、これから大学院で学ぶ前の旅行なのだそうです。彼もキラキラした目を輝かせて、今時の学生にはないような、意気を感じさせてくれました。留学したり、海外で活躍しようとする若者が少なくなる傾向の中で、こういった志を持って出て行く学生がいることを知って、なんとなく嬉しくなってきてしまいました。

 上海、魯迅公園などがある街なのですが、歌に歌われ続けてきた街を、何時かぶらりと訪ねてみたいと思わされました。

(写真は、1928年の上海、「外灘(外国人居留地の租界)」です)

花金

 もう20年になるのですが、1992年5月1日に、国家公務員が週休2日制になって、企業でもこの制度を導入しました。私の勤め人時代は土曜日半ドンでしたし、受継いだ事業をし始めてからは、週末が忙しく、休むことなどなく40年近く働いたのです。サラリーマンにとって、連休前の金曜日の退社後は、「自由」や「開放」を味わうことができる至福の時を意味したのでしょうか、それで、「花金」と言われるようになったようです。バブルが弾けてしまってからは、有名無実になってしまったのかも知れませんが、それでも週休2日制というのは、働き蜂のように働き続けてきた日本人が、欧米並みに、週末に自分と向き合えるようになったということになるでしょうか。

 大阪に上陸した翌日、昼行高速バスで大阪駅から乗車して、東京駅日本橋口に着いたのが、7時半頃だったでしょうか。東京駅の地下街は、退社したサラリーマンで溢れていました。食べ物屋や居酒屋は満員で溢れかえっていました。一週間で一番「好い時」が、金曜日の夕刻であることが分かりました。顔から緊張感がなくなって、みんな楽しそうなおじさんやお兄さんやお姉さんたちでした。普段は通勤電車の中では、寡黙な人の群れなのですが、ネジが緩んで全くの開放感が溢れていました。家に帰れば夫や父親をしなければならないのですが、そこでは一人の普通の自分になれるので、本当の自分を演じることができるのでしょうか。こういった時が、日々の責務を支えているとしたら、花金の夕方のひとときというのは、どうしても必要にちがいありません。

 今回の船旅で、東シナ海から日本沿岸に近付いた時に、対馬や壱岐の島の近くを通ったのだと思います。この壱岐の出身の方が、私の上司でした。お酒が好きで、市ヶ谷で会議がはねたあとは、決まって誘われて新宿で下車して、彼のお供をしました。旧制の浦和高校から東京大学に学んだ方で、法律を専攻され、事務局次長をしておられました。優秀な方でしたが、組織の人事というものの不思議さでしょうか、局長になれないでいたのです。そういった組織の様々な矛盾を感じながら、この方の下で働けせてもらいました。その後、どこかの学校の責任者になって転出されていかれたと聞いております。会議録をまとめると、『ダメ、やり直し!』と言われてはなんども書き直させられました。でも、とても好い勉強になったと思って、今では感謝しております。あの頃、金曜日でなくても、しょっちゅう、誘われていたと思います。話を聞いてあげる、聞き役に徹して、色々なことを学んだのかも知れません。

 日比谷公園の脇を、私の乗ってきたバスが通過しましたが、そこは、大都会のオアシスで、都民、取り分け丸の内界隈で働くサラリーマンの〈憩いの場〉の1つで、美しく整然とした緑の一郭であります。どなたが設計したのでしょうか、東京の街はきれいだと感心しました。ただビルが乱立しているだけではなく、堀を埋めることもしないで、往時のままに残しているのです。父の事務所が日本橋の三越の前にあって、何度かついていったことがありました。世代から世代へと、仕事が受け継がれ、人生の最も良い時期を、日本経済のために仕えた人々が通りすぎていった街であることを思って、感じることも一入のものがありました。

 そぞろ歩く人の波に合流し、山手線に乗り込みました。日がな一日、オフイスで働き、外回りをしていたサラリーマンの帰宅に合流したのでした。『お勤めご苦労様!』と、退職者の年齢の私は一言、そっとつぶやいてしまいました。

(写真は、日比谷公園の入り口です)

しびれ

 今回の帰国前、2~3週間ほど前から、左手の小指と薬指がしびれていました。それで、ネットでそのことを調べましたら、『脳梗塞の疑いもある!』とありましたので、この機会に診察をしてもらおうと思って帰国をいたしました。前もって私の弟に、『どこの病院にかかったらいいか調べてくれる?』と、お願いしておきましたら、彼の子どもたちがかかった病院や、上の兄のかかった病院を教えてくれたのです。帰国したのが週末でしたので、『月曜日には、どこかの病院に行ってみてもらおう!』と思っていたのです。10日ほどの帰国日時で、もし何か病気が見つかったら、治療が長引くので、早めに見てもらおうと思ったわけです。

 そんな話を次男にしていましたら、『俺が頭を打って担ぎ込まれた病院に行ったらいいよ!設備も整ってるし、医者も親切だから。』と言ってくれたのです。彼の家に逗留していましたし、その病院は恵比寿の駅前からバスも出ていましたから、早速月曜日の朝、バスに乗って、「日赤医療センター」に行き、初診の手続きをしたのです。何度も頭を打ったことがあること、左手を複雑骨折したこともあるなどのことを医者に話しましたら、『まずCTを取ってみましょう!』と言うことで、この検査を受けたのです。その撮影画像を眺めていた医者は、『何処にも脳梗塞や末梢神経を冒している病因を見つけられません!』との所見でした。『脳みそも十分に詰まっています!』と言ってもらいたかったのですが、これには何も触れてくれませんでしたが。『それでは、整形外科に行って診察してみたらいかがでしょうか。』と言って、院内電話で連絡してくれて、そちらに回ったのです。そこの担当医は、『X線検査をしてみましょう!』といってくれ、頸部と左腕の撮影をしてもらいました。この映像を見た医者は、『しびれの原因となるものを何も認められませんね。首は、年相応の状態ですし、腕の骨折の治療痕は全くみられません。不思議ですね・・・』と言ってくれたのです。

 まだお酒を飲んでいた頃に、塀を越えようとして2メートルほどのところから、酔って落下し、左腕をしたたか打ったのです。この骨折を治療してくれたのが、「名倉堂」の整骨師でした。兄がよく診てもらった整骨医に行きましたら、『八王子に俺のオヤジがいるので、そこで診てもらったらいい!』というので診てもらい、副木を当ててもらって通院しながら治癒したのです。しかし、なかなか腕が伸びずに、温泉に行ったりしてみましたがダメでした。ある日、『エイッ!』とおやじ先生が腕を伸ばした時から、もとに戻ったのです。そんなことを思い出しました。

 『何でもない!』わりには、いまだに意識するとしびれを感じるのですが、次回の帰国時に、また診察してもらうことにしております。この診察の間、待合室の椅子に座っていましたら、50代の頭のはげたおじさんが受付にやって来ました。受診用のファイルを出したのが「産婦人科」の受付だったのです。『まさか?』と思った私は、思わず、椅子の上で吹き出してしまいました。このおじさんは隣の「脳神経外科」と間違えたのです。そうだろうと思いました。私の受付の係の人が、『これをもって隣の整形外科に行ってくださ!』というので、隣の課に行って診察書類を出したら、『ここは耳鼻科で、整形ではありません。整形外科はもう一つ隣ですよ!』といってくれたのです。人の間違いを笑った罰でしょうか、私も間違えてしまいました。その光景を見て、誰かが吹き出していたでしょうか。

 前回の帰国時には、「ヘルニア」の手術をし、今回は、『脳梗塞で入院かな?』、とも思いましたが、診察結果は、何でもないとのことでした。まだ『飲むように!』と医者にいわれて飲み続けてる薬もなく、疲れると関節が悼む程度の毎日ですが、健康であること、『何でもない!』と医者にいわれたこと、その「安心料」で、何だか元気が出てきてしまいました。まもなく、新学年の授業が始まろうとしている、八月の末であります。

(写真は、広尾にある「日本赤十字社医療センター」です)

大阪のサラリーマン

 大阪の地下鉄・御堂筋線に乗り合わせたサラリーマンと、2駅ほどの間話をしました。彼は、『もう百姓になる気がないから、田舎には帰らない!』といっていました。関西圏に、どこかの田舎から出てきて、学校を終え、会社に勤めているのでしょう。家を買って、子育てをし、ずっと頑張って働いてきた、そんな苦労が横顔に現れていました。

 『日本中の田舎が寂しくなってしまう!』、そう感じてしまいました。大阪や東京や名古屋は、ますます肥大化する一方、日本の食糧を支え続け、日本人を養い続けてきた農村が閑散としてきているのです。これは今の中国が過開けている問題でもあります。沿岸部の都市に農民工という、かつての日本の「出稼ぎ」が集中し、工場や工事現場で働き、中国の経済成長を支え続けてきた人たちは、内陸部の農村から出て来ているのです。ですから。『中国中の農村が寂しくなってきている!』ことになります。これは世界中の傾向なのですが。

 「三ちゃん農業」、つまり爺ちゃん、ばあちゃん、母ちゃんが田を起こして米を作り、他の農作物を作るといった農村や農業を表現した言葉です。働き盛りの男がいなく、年寄りと女性と子どもが、農村に残されている社会のことです。今まさに、中国の農村然りです。隣に座っていたおじさんは、『田舎に帰って農業をやることも考えているんだけど、都会の便利さに慣れてしまい、体力もないし、今更帰っても、田は荒れているし・・・』と思っていたのかも知れません。

 今回の帰国中に、家内の妹が年老いた母の面倒を、家内に代わってみてくれていた街を訪ねました。新宿から高速バスに乗って1時間半ほどの街でした。街中に入っていったバスの両側には、シャッターの降りた商店が多く見慣れたのです。商業活動が低迷しているのは事実ですが、店を受け継ぐ二代目が、都会に出てしまっっているといったことが、そのように街が寂れていく理由のようです。この町は、家内と私が子育てをし、仕事をさせてもらった街でもあります。『あ、あの店ももうやっていないのか!』と思うと、時の流れを感じて、ちょっと寂しくなってしまいました。交番も警察署も住んだアパートも、昔のままですが、地方都市が元気が無いのは、農村の衰微と同じなのだと気付かされたのです。

 こういった地方や農村から、出てきた人たちが、都市を支え、日本経済を支え続けてきたことになりますね。隣のおじさんは、どんな業種の仕事をし、どんな立場で職場にいるのか知りませんが、その横顔も、日々の義務に駆り立てられて働いているのでしょうか疲れて、精気がないように見受けられました。『今日も・・・』と思う一日に、もう少し元気で、意気揚々と立ち向かってくれたら、町も会社も社会も国も、もっと元気になるのではないかと思わされたのです。それよりも何よりも、家庭が元気になるのではないか、そう思ったことでした。

 まあ朝の出勤時間に、やる気満々を見せている男性などいようはずもありませんが、日本と日本人が疲れているのだけは感じてしまいました。『よい一日を!』と願うばかりです。

(写真は、大阪・御堂筋界隈の様子です)

華の東京

 歌に歌われ、小説の舞台になり、一国の政治や経済の中心地である東京は、実に美しい街ではないでしょうか。祖国の首都としてふさわしく綺麗で、香り高い街である、そう帰国早々感じております。徳川幕府の政(まつりごと)の行われた歴史的な街であり、芸術や芸能などの文化が栄え、人々を引きつけ、鼓舞し、活き活きとさせてきた街なのです。

 何もなかった所に、首都機能を設けた徳川家康の才腕には驚かされてしまいます。父が好きで、私たちの家の食卓にいつも並んでいたのが「佃煮」でした。弟が特愛したのが「あみ(海老の稚魚を醤油ベースで煮込んだもの)」でした。炊きたてのご飯の上に乗せて、湯気の立ち上る、その食べ心地は、「江戸っ子」の味だったのでしょう。父が美味しく食べるのですから、男の子たちは、それに倣って男の食べ方を父に倣ったわけです。

 この佃煮も、江戸の食料の自給のために、家康が大阪から連れてきて、江戸に住まわせた漁民の地を、彼らが住んでいた大阪の地名の「佃」と呼び、そこで加工されたので、そう呼んだわけです。この佃煮には、こはぜ、あさり、イカナゴ、鰹、昆布などがあり、江戸庶民が愛し育ててきた江戸風味なのです。父が生前、『雅、駒形に行って、柳川を一緒にくおうな!』と違って、実現出来なかった料理も、私にとっては江戸前なのです。「寿司」だって、江戸前が「寿司」であって、一般的な、ごく普通の日本人である私も、『日本に帰ったら、まずうまい寿司を食べたい!』と思っているのです。

 遠くから黒く見えた島影も、近くに見え始めた島は、木々の緑が夏の日を浴びて、実に綺麗でした。人も物静かに生活をし、大声を上げているのは活気な子どもたちだけで、大人が慎ましく生きているのを見て、『ここは日本だ!』と思わせれることしきりでした。

 福島原発事故の影響でしょうか、経済の低迷でしょうか、今回の帰国で感じた日本と日本人は、「縮こまった日本、日本人」です。工夫と改良で、世界に最たる物作りをしてきた日本人が、元気が無いのです。若者には冒険心と夢と理想が欠けているのを感じ取れるのです。電車に乗って、年寄りや女子どもや体の弱い人のために設けられた特別席に、ふんぞり返った高校生が座って、話し込んでいるのを見て、『こりゃあダメだ!』と、中国人の青年たちの潔さに負けているとがっかりしてしまいました。みんなの眼に、キラッとした輝きがないではありませんか。背中を伸ばして胸を貼って颯爽と歩く中国の青年たちに比べてみた私は、『胸をはれ!しっかりした歩幅で歩け。目を前方に向けて背を伸ばせ!』と心の中で叫んでいました。明日の日本を担っていく彼らを、心から激励したい思いでいっぱいでした。

 大人が、彼らに夢をもたせる社会、国作りをして来なかったことを反省しなければいけない。彼らを責める前に私たちが反省し、改める必要があるのだと思うのです。生意気な私たちを、遠くから近くから見て、忍耐して見守ってくれた、私の青年期の大人たちは、大きな度量を備えっていたのかも知れません。『元気だなあ!』と、おかしなことをしている私に、にこやかに語りかけてくれたおじさんがいました。そんな大人が多かったのだと思います。

 日本は綺麗で、美味しくて、静かというのが改めて感じている印象です。これから必要なのは「活気」ではないでしょうか。物がなくて貧しくても活気のあふれていた時代がありました。経済低迷で頭までも下げてしまう必要はないのです。父や母、祖父母から受け継いできた今の日本は、負け犬のようにしっぽを巻いてはいけないのです。堂々と世界の大路を闊歩しましょう。

 この東京の街、美しく着飾った街、華の都が、繁栄し、平安に満ち、義を愛する街になり、首都としてふさわしい街になり、人々が、日本の模範、世界の模範になって、喜んで感謝に満ちていくことを願わされたのです。さあ、東京よ、頭を上げ、背筋を伸ばし、世界に目を向け、強く一歩一歩を進み行け!

(写真上は、北斎の江戸城と富士、下は、佃煮を載せた湯気の立ち上るご飯です)

華の甲子園

 大阪国際港に入港したのが、朝の8時過ぎだったでしょうか。もう夏の陽がカンカンと照りつけていました。上陸の手続きを済ませて、地下鉄・中央線の「コスモスクエア駅」から電車に乗り込んだのです。『夕方まで何をしようか?』と思い巡らせていたのです。その日は、一度、カプセルホテルに泊まってみたくて、心斎橋のホテルの予約を入れておいたから、夕方まで時間がたっぷりあったからです。『どこか観光をしようか!』と考えていたら、ふと「甲子園」という思いが湧きがってきたのです。『いつか高校野球を観戦したい!』と思い続けていたのを思い出したのです。それで前の席に座っていた方に、『甲子園はどこで乗り換えたらいいのですか?』と聞き、教えていただいた乗換駅で降りたホームで、『どの電車に乗ったらいいのですか?』と、また聞いたのが、3人のおばさん連れだったのです。『私たちも、これから応援に行くところです!』というので同行させてもらったのです。

 このおばさん連れの一人が、島根県浜田市の出身で、『島根県代表の淞南(しょうなん)高校の応援に行くのです!』といったのです。母が島根県出身でしたから、タイミングの見事さに呆れながら、この方からチケットを頂き、4人並んでアルプス席に陣取ったのです。相手校は、岩手県代表の「盛岡大附属高校」でした。昨年、地震と津波で震災を受けた県の代表でしたので、一塁側への思いも向けることにしました。実に強烈な日差しで、坊主頭の頭皮が剥けてしまうほどでした(2、3日したらボロボロと落ちてきました)。『いいぞ!いいぞ!淞南!』の声に合わせて、応援をしました。私の応援の甲斐があったのでしょうか、延長12回5対4で勝つことができたのです。

 終わる直前に、おばさんたちが引き上げて行きましたので、『もう一戦観ていこう!』と思って、外野に目を向けたのです。ところが、どこにも日陰がないのです。帰国早々、熱中症にかかってはいけないと、歳相応の決断で諦めて、場外にあった「甲子園ラーメン」に入って昼食を済ませました。それから阪神電鉄で「なんば」に出て、地下鉄に乗り換えて「心斎橋」で降りたのです。アーケードの通りを通ったのですが、大都会の繁華街なのでしょうか、週日だというのに、数えきれないほどの人が行き来をしていました。さながら、銀座や新宿や渋谷といった観がしました。大阪の街を歩くなんて初めてのことでした。

 何度か道順を聞いて、カプセルホテルに投宿しました。船の中にも浴場があって、航海の間、5回ほど入ったのですが、それとは比べられない大きな浴場があり、サウナもあって、日本を楽しむことが出来たのです。『道頓堀で夕食を!』と思ったのですが、「夕食300円」につられて、外に出ずに食事を済ませ、また風呂に入ることにしたのです。これまで外泊でホテルに泊まる機会も少なくなく過ごしてきましたが、すっかり「カプセルフアン」になってしまいました。ちょっと鼾(いびき)をかいてる人もいましたが、狭い空間の中で、他に気を取られることもなく熟睡でき、都会の旅の宿としては最高でした。食べたことのなかった「豆腐ハンバーグ」というのを出してくれたのですが、これが実に美味しかったのです。300円で3つもあって、味噌汁やサラダや漬物もついていました。『日本は綺麗で、美味しくて、静か!』を、大阪のどまんなかで味合うことが出来たのです。

 翌日、大阪駅から、ネット予約をしておいたJR高速バスに乗って、東京駅日本橋に着いたのが、夕方7時半頃だったでしょうか。夏のゴールデンウイークの開始日、花の金曜日の夕方でしたから、道路も渋滞していたので、そんな時間だったのです。リュックを背負い、麦わら帽子をかぶって、山手線に乗り込み、恵比寿でおり、次男の家に着いて、旅を終えることができました。暖かく迎えてくれた次男と握手して、再会を喜んだ次第です。久しぶりの、初めての日本を楽しめた一日でした。

(写真は、高校野球の甲子園球場です)

上海からの船旅

 
 
 『台風11号が接近しているので、出航時間を午前9時に繰り上げます!』との連絡が前の晩に入ったのです。上海港を出た「蘇州号」は、大型船でしたが、波にもまれながら、前後左右に揺り動かされていました。これまで瀬戸内海を、フェリーで何度か利用して九州や四国に渡ったことがありますが、そこは内海で静かでしたので、大きく揺さぶられるようなことはなかったのです。ところが今回は、航路は外海でしたし、11号台風の接近で覚悟はしていたものの、幸い私は船酔いをせずに、しばらくの台風の影響を受けた後、静かに凪(な)いだ海の上を、快適に船旅をすることができました。その航路は、かつて遣唐使船が目指した航路を、反対に航行しながら、大阪の国際港に向かっていました。海には、三日月が写り、海また海の上を静かに走るような船旅でした。

 夜、甲板に出て、ちょっとオセンチになったのでしょうか、『海は広いな大きいな・・・』とか、覚えていた歌を静かに口ずさんでみました。実に神秘的で、海の広さに比べたら、大型の貨客船と言いながらも、藻屑のような船が、静かなエンジン音を上げながら、まっすぐに航行する様子を体感しながら、科学技術の進歩の凄さを感じざるをえませんでした。あの遣唐使船や遣隋使船は、風を頼りの帆前船でしたから、無風の時は、漕ぎ手の人力も用いたのだそうです。全長30メートル、幅8メートル、300t程だったといいますから、超自然的な加護を求めながらの船旅だったにちがいありません。その航路を、一つの舵を取りながら、大陸の蘇州を目指したのですから、勇気の要ったことだったでしょうし、大陸から学ぼうとする意欲の大きさ、決死の覚悟をみなぎらしていたことになります。

 日本の島影が見えてきた時に、やはり懐かしさがこみ上げてきました。4月に母の告別式で戻っていましたから、4ヶ月ぶりの帰国でしたが、やはり自分の祖国の名のない島が見えた時には、特別な思いが沸き上がってきたのです。「五島列島」に連なって無数に点在する島なのですが、島の緑は、優しく私の目に写りました。港が見えた時に、『こんな離島で、何百年も生活が営まれてきたのだ!』と思うと、日本人の勤勉さやたゆまない努力や工夫を感じさせてくれて、祖国の自然ばかりではなく、祖国を耕し、周りの海に糧を求めて続けてきた人々の毎日毎日があって、今日の時代を迎えていることが分かりました。玄界灘を航行しながら、北九州の港町が視界に入ってきました。看板も読めるようになると、瀬戸内海に入る辺りに、関門海峡の大橋が見えてきて、その橋をくぐった時に、トンネルを汽車や電車で走ったあたりを、海から眺めて、一入の思いも湧き上がってきました。

 丸二日、48時間を船上で過ごしたのですが、この静かに流れる時間には格別なものがありました。同船のみなさんが口々に言うのは、『飛行機では、身動きもしないで、じっと4時間ほど座って、隣席の人との交流もほとんどなかった!』と言っておられました。しかし、船の中では、日本に帰るといわれる、私の兄と同年の方、日本に働きに行く中国の農村からの若い女性のグループなどと交わることができました。また、中国人のお母さんが連れた4人の母子がいて、その中学2年生の少年とも言葉を交わしました。そこには中日の友好の「交わり」の一場面があったのだと思います。1000円もする、船内のレストランで夕ごはんを食べていない中国のお嬢さんたちに、『泣きたいようなことがあっても、頑張って働き、日本と日本人を知ってくださいね!』と言って、カップヌードルを差し入れしてあげました。とても喜んでくれたのですが、給与支給の問題などがある雇用の中で、日本不信に陥らないようにと願うばかりでした。

 ちょっと揺れたのですが、帰りの船で、どんな人たちに会えるかを期待しながら、下船した次第です。船から降りるのは、飛行機から降りるのとは、だいぶ感じが違いますね。ずっと液体の上にいるような気分でだったからでしょうか。これでは、船旅が病みつきになりそうです。

(図は、大阪の住之江から東シナ海を渡って、蘇州への遣唐使船の航路です)

台風接近

 先ほどの天気予報で、台風11号の予想進路が、温州と上海だと、知らせていました。そんな時に、メールに、『明日の午前11時の出港が、9時に繰り上げられました!』と知らせてきたのです。遣唐使船や遣隋使船は、風まかせでしたから、風のある季節に航行しなければならなかったのですから、台風に遭遇する可能性があったことになります。私の乗る船は「蘇州号」で、全長154m、客定員316人、14410屯、最大21ノットの5星客船 ですが、大型貨客船で、貨物の比重の方が大きな船のようです。空に浮く飛行機も、水に浮く船も、陸の足をつけているのと違って不安定ですが、船長に命を預けて、快適な旅を願っています。

 今夕のバスの中での食事を、今、家内が作っています。飛行機のエコノミーを考えますと、狭い座席で横になることができませんが、「長途汽車」という長距離バスは、中国国内を東奔西走、縦横に走っていて、車内はベッドになっていますので、体を横たえることができるのです。去年、広州に行った帰りに乗りましたが、結構快適でした。『無理をされないほうが・・・』と言ってくださる方がほとんどですが、ちょっと無理をしてみたいへそ曲がりなオヤジの私です。こんなことをブログに書き始めているのは、だいぶ不安があるからかも知れません。夕食を片手に、『ボンボヤージ!』

中国にいることの幸せ

 『人生の最良の時期とはいつか?』を考えると、それは青年期でしょうか。それとも充実し、円熟した時を過ごせる中年期でしょうか。それとも無邪気な子どもの時なのでしょうか。そういったことを考えますと、老年期というのは最悪の時期になってしまうのではないでしょうか。私は、人生の締めくくりの時期を迎えた今こそが、《人生の最良の時》だと思うのです。子育を終え、仕事も退職し、家庭や社会の責任から解放された今を、『どう過ごすか?』が問われて、新しい道に分け入ることができたからです。

 2006年の8月に、日本を出て、香港で1週間を過ごし、北京、天津というルートで、中国に導かれました。心機一転、中国語を学ぼうと思っていた私たちに、そのように門戸は開いたのです。学びの合間に、華南に旅をしました時に、訪ねた友人から、『こちらに来て、学びを続けませんか!』と勧められのです。迷いに迷ったのですが、彼の勧めを聞き入れて、2007年の夏に、この街にやってきたのです。そうしましたら、ここで出会った若い友人が、『大学で日本語を教えくれませんか!』と勧めてくれたのです。それを「天の声」の様に聞いた私は、喜んで教壇に立つ決断をし、今日にいたっております。

 《中国にいることの幸せ》を、今、強烈に感じております。中日の間の友好のためには、幾重もの壁があり、反日の動きも、ときどき、そよそよと感じてはおりますが、決定的な問題にはならないでおります。居心地はいいのです。教えながら、若者たちから多くのことを学び、多くの友人たちから愛や親切を受けて感謝が湧き上がり、『あなた達は私の家族です!』とか『お二人は、私の日本のお父さんとお母さんです!』と言われますと、居心地は更に良くなってしまうのです。よくつらい経験をされている日本人の方の話を聞きますが、私たちには、全くといっていいほど、そういったことはなく、この六年を過ごすことができたのです。

 来週月曜日の夕方に、街の北にあるバスターミナルから長距離バスに乗って、上海に行き、そこから大阪港行の船に乗って帰国します。48時間を要する船旅は、私の憧れなのです。子供の頃、船乗りになりたかった私にとって、海、潮騒、潮の香を体験することは夢だったのですから。もちろん、今、11号台風が沖縄に接近していますから、出航できるのか、また出航しても大波に揺さぶられるのかわかりませんが、今、踊るように心が興奮しています。今日の昼過ぎに、長女から電話があって、『無理しないでね!』と釘をさされました。『年を考えて!』と言いたかったのでしょうか。

 若かりし日の父が、こちらに来ました戦前の交通手段は船だけだったのです。その父が渡った大海原を、私も反対方向から渡ってみたいと、常々思ってきたものですから、その実現も楽しみの一つなのです。また遣唐使船や遣隋使船に乗って波濤を越えた人たちの思いを、共感してみたいこともあります。人や利器は変わっても、海は変わらないのですね。若い日に出来なかったことを、する自由があって、今が、一番好い時だと思っております。確かに家内も心配して、『長距離の夜行バスなんか乗らないで、飛行機で行けばいいのに!』と言いますし、『船でなく、飛行機のほうがいいのに!』とも言いますが、今だからできる行動を楽しませてもらおうと思っているのであります。

 そうしますと、今が人生の最良の時ですし、中国の華南に住んで、大学の教壇にも立たせていただき、若者たちの熱気に触れ、彼らの悩みを聞き、多くの友人たちと語らい、共に食事を採り、岩茶や鉄観音茶が飲める、今のこの生活に、幸せを感じるのです。私の行動を軽率だと言った人もいましたが、『そうできるあなたが羨ましいです!』と言ってくれ方もいました。ときどき、わずかな年金の中から、『これを使いなさい!』と、時々送金してくれた母は、今春召されたのですが、母に代わる友人家族に支えられ、励まされているのです。それよりも何よりも、中国のみなさんから、驚くほどの愛を受けていることが、《中国にいることの幸い》を切々と感じさせてくれるのです。さあ、こちらに戻ってきますと、在華七年目の始まりになります!

(写真上は、遣唐使船の航路図、下は、上海の《蘇州号》の出入港付近です)